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 2002年6月15日 juraku@omoshirosoki.com @


 γ連載更新中


始めのくり言β

列島の古代史β

 日本は極東の国といわれる。
 ファーイーストの訳と思われるが、意味からすると適訳ではない。
 島崎藤村は、「黒船」を「極東への道を拓くもの」といって、はじめてこの語を使った。「夜明け前」を書いた藤村にしてみれば、事実上日本の代名詞のつもりだったであろう。太平洋戦争後は、日本に極東軍事委員会が置かれ、極東軍事裁判もあったから、日本人はなんとなくこの「極東」の語を、日本を指す言葉のように思っている。
 原義は「遠東」であり、世界からみるファーイーストは、広く東アジアを指した。アジアを近東・中東・遠東に分けると、アフガニスタンまでが中東に入り、その東域一帯が遠東であった。日米安全保障条約の極東は、フィリピン・台湾・中国・極東ロシア・朝鮮・韓国・日本を指しているらしい。
 そのためか、日本語の「極東」は現在でも語義があいまいである。言葉がこのように一人歩きするのは、殆ど摂理といってもいいが、その後押しをしたのは、この「極東」という文字のもつ、なにかしらストーリーのある語感なのではないか。背景には輪郭のくっきりした近代史がある。
 われわれも西欧人という言葉をよくつかってきた。西洋人という言い方もある。概念は微妙に異なるが、いま西ヨーロッパ人という言い方に違和感がないのは、アジアに対比すべきヨーロッパを、あきらかに東西に分けているからにほかならない。よってたつ文化の差違のためである。
 それでもこの差は僅少であった。ヨーロッパは一つという概念はそれよりつよいものがあった。キリスト教文明という、大いなる軛のためである。この教義が排他的であるために、以外の大地と民族を異教徒と呼び、厳しく対峙することになった。
 ヨーロッパという言葉が、この種の文化的な均一性を前提とするなら、アジア世界はとても均一とはいえない。文化的にもそれぞれ独自なものをもつ。なによりヨーロッパでは根幹であった宗教文化は、アジアでは一つのまとまりももたなかった。とくに東アジア、とりわけ中国中原では、宗教はいわば枝葉の文化であった。
 古代的な視点でみると、このことが奇妙な暗号に思える。
 そもそも世界を東西に分けるという概念が存在しなかった。唯一中国中原の文明だけが世界の中心にあった。その余はすべて辺境である。


*

 日本の古代史について語るとき、このことがいわば普遍的な背景条件であったといっていい。これに従えば、中国中原たる大陸を起点とする周辺地域は、それぞれ的確な呼称で呼ばれる。かって満州といった地域は「東北」であった。朝鮮は「半島」であった。日本は「列島」であった。
 これらが単に地理的概念でなく、歴史的なそれであることは、古代にあっていかなる政治的・文化的な活動も、文明の枠組から逃れようがないからである。恩沢であり楔でもある。
 大陸・東北・半島・列島という水平的な概念において、なおとくに日本の列島としての特殊性があるとすれば、一海を隔て、そのために人的・文化的な伝播ないし交流がひとつのクッションをもったということであろう。
 これは中央文化の影響の濃淡の差に過ぎないともいえるが、高文化の直接支配が起こらなかったという点だけは、留意しておいていい。現在もまた極東の名で東アジアから峻別される根拠である。生い立ちの差違といってもいい。
 日本の古代史の研究対象が、とりあえず東北・半島のそれと併せて行われはじめているという現在の状況はよろこぶべきことである。とくに一部の考古学者たちの、古代高句麗・百済・新羅の考古学的な究明と並行しつつ列島の曙をみつめていく姿勢は、古代史の維新みるようである。
 古代の列島は、従来思う以上に、半島からの影響をつよく受けたと思う。就中文化のみならず人的な流入によるそれも、国家的な影響があった。邪馬臺国もふくめる黎明の時代はもちろん、四世紀から七世紀にいたる大和の時代においては、百済人・加羅人・新羅人の大量の渡来があった。
 それらがいずれも国家の基盤と体制をつくるに力となったことは議論の余地がない。
 その上でいうのだが、日本列島の独自性もまた、従来思う以上に強固に保持されていたと思う。文化すら、これを直裁に受容するのでなく、なにかしら独特のフィルターを通して受け入れていったたらしい。オリジナリティーというものがつとに保たれつづけていたという感触はつよいものがある。
 この評価の見積りは、しかしできるだけ正確でなければならない。古代日本を列島という範疇でみれば、まずもって中国中原の動向、ならびに東北・半島の趨勢がもたらす事態と密接不可分であった。それが前提にあって、なお独自性というものが、列島の生態的な環境と、それがみずから育む様式に由来していったのであろう。
 それは古代ばかりの話ではない。連綿とした列島のアプリオリ(先見的)な性格として、衣食住から芸能・宗教にいたるまで、現在の日本人の性となっているようである。日本での純化という、いわば文明的セオリーの1つとすらみられる。
 日本の自然は、そこに生息する生き物をふくめて、世界に比べ「平均的に小型で温和」という、極めて特異な性質をもつ。樹木は適度に背高く、作物は滋味にあふれて栽培しやすく、生き物は、熊も狼も馬も、小型化して性穏やかであり、毒蛇も数少なく大型のものはいない。本来は大陸のものと同様な体躯や毒性をもっていたにちがいなく、日本という列島・島嶼に入ってから起きた変化のあらわれにほかならない。
 これも進化の形態の1つとすれば、文化もまたその例にもれない。宗教もまた日本に輸入されると、時を経て極端に単純化される。親鸞の教義は、由来する大乗仏教だけでなく、宗教ののりを超え、「Namuamidabu」の一言に純化された。キリスト教は、日本の1部で、聖書のみを価値とする「無教会信者」という究極に収斂している。唯一言で生命が満たされるシンプルな仏教と、教会をもたないピュアなキリスト信仰が、日本でだけ共存しているのである。
 政治的な面でもその様式がある。これらの文化を間断なく受け入れた列島の意識のレベルとして、少なくとも七世紀までのそれは、高文化に対する限りなき憧憬であった。百済・加羅・新羅の文化と人に対する、つねに継続的な尊重をともなっていた。
 ところが、それを睥睨しようとする、矜持の王権思想も同時に、もっていた。文化への憧憬と王権の孤高が、別のものかのように存在するのである。
 ひるがえって東アジアすなわち中国・東北・半島・列島において、互いに共通する文明の顔というものはあったであろうか。共通性は疑問があるが、おおまかな原点たるべきものは二つあった。中国中原に発生したそ巨大文明と、北アジアに拠った騎馬民族文化である。
 前者については西周・東周(春秋・戦国)の八世紀にわたる、いわゆる封建時代のそれが基本的な文化的性向を築き上げた。この衰微した王家を背景とする列国競合の時代に対して感じる自然な親近感は、日本の文化的基盤への無意識の影響を示唆するものである。それは後の帝国、漢のそれともとも違う始原的なものである
 後者については匈奴のそれが、大きな影響を及ぼしたであろう。これがとくに王権の由来にかかわる。
 いずれも、悠久にして始原のものであるために、黎明の列島に本来的な影響をおよぼし、性格の根幹をかたちづくったとみていい。
 さて、春秋・戦国の時代はいわゆる諸子百家の時代であった。孔孟老壮ばかりではない、墨家・史家の時代でもあった。
 墨家が報われることすら求めぬ、博愛と献身による救済活動に徹していたことはよく知られている。また史家が司馬遷の時代にいたっても、父子兄弟で家業を繋ぎ、真実の記録のためには死してなおこれを厭わなかったことも周知のことであった。
 崔抒という権臣が斉の荘公を殺した時、斉の大史(史家)がこれを「弑逆」と書いて殺され、後を継いだ弟たる大史もまたそう書いて殺され、さらにその弟が立って「弑逆」と書いた時、ついに崔抒はこれを生かしたという。ちなみにこれを風聞した地方の南史(史家)が、大史悉く死んだと聞いて竹簡を執って駆けつけたが、「すでに書けり」と聞いて帰っていった。
 司馬遷もまた皇帝に立てる「本紀」を、皇祖劉邦の後に立てるべき「宣帝本紀」を立てず、「呂大后本紀」を立てている。実質帝国を運営したのは宣帝でなくその母たる呂大后であったと主張しているのである。
 宗教はこれををもつことなく、理性をのみもって築き上げていったこの複合的な文明のありかたは、感嘆に値する。ギリシャがつくった文明がこれに比肩するであろう。そこにはおそらく殷が拠ってたった呪術と卜占の政治はなかった。メソポタミアやエジプトの非人間的な偶像崇拝もなかった。
 愚かな因習の残滓さえこれを除けば、われわれはそこに、現代とおなじ理性と感性をみてもいいのである。
 使命感もまた同様である。史家の使命感はすなわち個人の信念のもとにあった。その上で国家のあるべき態度に及んだ。さらに天下の理想の観念というものがあった。漢の四〇〇年にわたる時代を通じて、この西周・東周の時代の文化は至上のものであった。その思想と観念が、文化の核として東北・半島・列島をたえまなく洗っていた。

*

 すべて文明は辺境にその古様式が残る。列島にあってはそれがとくに顕著であったと思う。


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目次

始めのくり言
列島の古代史

第一章 斯麻宿禰

第一節 書紀の紀年
  書紀の編纂方針
  古事記の没年干支
  天皇記・国記等の影響
  立太子没年・立后元年・斎宮元年という仮定
  特殊月即位と特殊年即位について

第二節 大陸と半島
  鳥瞰する視点
  衛満王国と楽浪
  夫餘・高句麗と百済

第三節 大和の進出
  斯摩宿禰の登場
  神功紀の復元
  七支刀の由来
  神功紀に仮託された景行紀

第四節 斯摩の由来
  隅田八幡社画像鏡の解読
  秋津洲と嶋大臣
  嶋の地はどこに

第五節 斯摩宿禰と襲津彦
  襲津彦の活動時代
  広開土王碑の辛卯年と神功六二年(壬午)条

第六節 斯摩宿禰の出自
  武内宿禰とは誰か
  息長宿禰王
  加羅の地の伝承

第二章 神日本磐余彦

第一節 東征の主人公
  神武辛酉元年
  東征開始甲寅年
  手研耳弑逆と綏靖践祚
  磯城津彦玉手看
  系譜の造作
  謚と父子兄弟
  大王一〇代の紀年譜
  大王氏第一世代の紀年
  特殊立后と特殊前王陵葬

第二節 欠史八代
  母后の血筋
  后妃一覧の復元
  欠史八代の背景

第三節  王権の由来
  万世一系の源流
  姻族の存在する国家
  高句麗の発祥
  神話と王権
  夫餘と高句麗の始祖神話
  檀君神話の陰影
  文化の経路
  日本神話と加羅神話
  瓊々杵への疑義
  金官加羅の王家の出自
  忍穂耳の王権

第三章 椎根津彦

第一節 大和の王者
  大和の発生
  古墳の年代
  土師器と須恵器
  
箸墓の被葬者
  富登多多良伊須岐比売
  城県主葉江
  尾張氏と姻族の継続性

第二節 謎の十市県主
  十市県主の登場
  磯城氏の後裔と十市氏の後裔
  多神社注進状

第三節 椎根津彦
  海導人
  神知津彦
  椎根津彦の背景
  長柄の地と大倭氏
  前期古墳の被葬者たち

第四章 御間城入彦五十瓊殖と伊香色雄

第一節 御間城入彦五十瓊殖
  磯城氏の衰退
  十市氏の膨張
  十市宗家二世、彦坐
  崇神の登場
  十市氏の衰退と豊城入彦
  武埴安の乱

第二節 伊香色雄
  最初の将軍
  長狭の地
  大彦、もう一人の将軍

第三節 物部十千根
  御間城姫の疑義
  垂仁の出自
  狭穂彦の乱
  誉津別の伝承
  軍事氏族の誕生
  物部十千根の登場
  大和朝廷の成立

終わりの呟き
大和のまほろば


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