第一章 斯麻宿禰β

第二節 大陸と半島β

鳥瞰する視点β

  岡田英弘氏の「倭国」という本がある。これ以上はない簡潔な題名をもつこの本は、つねに書店の棚にある静かなベストセラーのひとつなのだが、古代史という分野ではまず手にとってみるべき一冊であると思う。分かりにくくともすれば恣意的になりがちな古代史論のなかで、簡にして要を得た通史である。
 印象的なのは、歴史をして小気味よく鳥瞰する視野なのだと思うが、その視野のもととなるレンズがいい。氏はその題にかかわらず、日本の古代史に先だってまず中国の歴史からはじめ、その影響の多寡を半島で計りついで日本列島への波及を計測する。  その計る距離計はたとえば人口という秤であるが、こうした定規をあててみると、歴史そのもの輪郭がよくみえてくるらしい。
 中国の人口は夏・殷・周の時代はともかく、戦国・春秋まではせいぜい数百万にとどまっていた。秦(前二二一年)次いで前漢(前二〇二年)が勃興するにおよんで急激な膨張がはじまり、わずか半世紀後の漢の武帝の時代に至って、人口は一挙に五千万を超えた。前漢の末から後漢のはじめに一時期一千万台まで減じることがあったが、さらにその後に再び五千万台に回復して後漢の末までかわらなかったという。
 延べ四〇〇年間である。「漢の平和」であった。  後漢末の一八四年、黄巾の乱が興り、四〇年後に三国時代に入る。人口も激減し、三国鼎立の時代のそれは五百万であったという。二六五年晋が統一したとき一時一千万台にもどしたが、三〇〇年には八王の乱がおこり、ついで五胡十六国時代さらに南北朝時代に突入するに及んで、これを通ずる延べ三〇〇年の間、人口は数百万台で推移して回復することがなかった。
 五八九年に隋が統一を果たし、六一八年には隋を襲った唐の建国が成ると、中国の人口は再び五千万台を擁するに至った。後漢末以来四世紀ぶりのことであった。
 唐はその後九〇七年まで王朝を続けのべ三〇〇年余の勢威を誇った。「唐の平和」である。
 その中国文明の発祥は黄河中流域のいわゆる中原の地であった。
 特筆すべきはその後一九世紀に至るおよそ四〇〇〇年の間、ひたすらアジアの文明の中心地として存在しつづけたことである。アラブ世界やヨーロッパと比べて特異なそれといっていい。
 そしてそのために中国は悠久の歴史を通じて、その外延の国家また都邑に対し強く永続的な影響力を行使しつづけた。中国自体の国家的な変動とこれにともなう人口の増減は、直ちに外延の支配・被支配の度合を決め、または国家興亡の引きがねとなった。その東北部に位置した東北(東北三省)と半島においては、つまりはこのことがとくに顕著であった。
 東北と半島に焦点をあてながらこの悠久の経緯をみてみよう。
 王朝の始まりは夏というが、その存在は確認されていない。ただ殷の遺跡の下層に竜山文化、さらに下層に仰韶文化が認められるから、それらがその痕跡であるかも知れない。
 司馬遷は史記の記述を五帝から始めて夏・殷・周へと続けている。三皇五帝というが三皇を無視しているから、史家司馬遷は五帝からが歴史だとみなしたようである。すると夏は竜山に五帝は仰韶に比定されるという説があるが、どうであろうか。
 甲骨文をもつ殷から真の歴史時代が始まるとしよう。
 殷は商ともいう。元々は商が正しく、その始祖の契が夏によって河南の商という地に封じられていたことによる。甲骨文もおしなべて商とある。自らそう名乗った。
 殷の湯王が夏の傑王を伐って王朝を始めたのは、およそ前一八世紀とみられるが、いくどか遷都をくり返した後、前一四世紀に第一九代般庚王が安陽(殷墟)に遷都して、以降都は滅亡(前一〇二七)までこの地を動かなかった。この安陽がもと殷という地であったために傍からは殷と呼ばれるようになった。史記も殷とする。
 この安陽の時代が事実上殷の興隆期であった。出土する甲骨文も般庚王以降の記録を残し、史記の記載とも整合することが分かっている。
 すでに文字をもっていたこの高文化が、外延のどの地域まで影響を及ぼしていたのかは明らかではない。実際的な勢力版図はその興隆期においても、せいぜい黄河中流域一帯に過ぎなかったが、文化の及んだ範囲は広く、南は後世の楚・南蛮、北も後世の燕の版図に迫る勢いであったらしい。
 しかしそこまでである。文明の波及するかたちは一律でないから一概にはいえないが、殷の文化が東北・半島にまで到達したとはとても思えない。おそらく殷滅亡後西周が北方に封じた燕の立国と、その首都・薊(北京)の誕生とに深くかかわるであろう。
 すなわち殷は安陽遷都(前一四世紀)の後、いくぶん版図を後退しながら悠久の三世紀を経世し、前一一世紀新興の周に攻められ滅亡(前一〇二七年)する。
 殷に代わった西周(前一〇二七〜前七七〇)は、建国にともない封建制を敷いて各地に諸侯を封じたが、北方には同姓(姫)の召公を封じた。
 これが燕である。その首長は「侯」であったが「公」さらに「王」を称した。
 召は周と同じく姫姓ながら周とは別の国でもともと周の南方にあって自立していたが、周が殷を攻めるにあたってこれを取り込み同盟国としたという。殷の制圧は周召同盟の成果という評価がある。薩長同盟のようなものである。ちなみにこの殷周革命は「周は旧邦と雖も其の命は維れ新たなり」と修辞されたが、革命の語を嫌った明治政府はこれに倣って「維新」としたのでる。
 燕は西周の時代を通じさらに東周の春秋(前七七〇〜前四〇三)戦国(前四〇三〜前二二一)を経て、秦の成立(前二二一)にともなって滅亡するまで、およそ八〇〇年という長大な期間をその北方に播拠し続けた。
 史記の文脈からすると燕が侯都としたのは、薊(北京)ではなかったようである。薊に遷都した時期はよく分からないが、燕が直ちに自主性を発揮することがあれば、建国からまもなくであったかも知れない。西周の膨張・興隆とこれにともなう黄金時代と機を一にするのであれば、少なくとも前一〇世紀には遷都していた筈である。このほうが蓋然性が高い。
 ただこの点について、岡田英弘氏は、燕が封ぜられる以前に薊はすでに殷人の都市であり、東北から半島に至る交易を一手にする貿易センターであったといっている。
 薊(北京)から東北方への交通路は、欒河の渓谷から平泉県に入り山を越えて凌源県に至る。そこから大凌河を下って朝陽県を経て遼河デルタに出る。ここまでを遼西といい、ここから北に迂回して瀋陽あたりで遼河を渡り、そこから南下すると遼東の都遼陽である。
 話はすこし迂回するが、その欒河から平泉県あたりに孤竹国という国があったらしい。孤竹国というのは、周が殷を攻める時これを反逆として武王を諫めたという伯夷・叔斉の出身地である。姜族の国という。
 またその先大凌河流域一帯は咯左県(咯喇沁左翼蒙古族自治県)というが、ここから殷後期・西周前期とみられる青銅器が出土する。その銘文に「箕候」が見えまた「孤竹」と読めるものがあった。「燕侯」の銘のあるものも出る。
 箕侯は箕子の後裔であろう。その箕子は殷の滅亡を招いた紂王の血縁らしく、記録では殷の末期に登場している。孤竹国もそうである。隋書には「箕子の朝鮮は孤竹国のこと」ともあるからこれは事実でなくとも、もともと欒河流域から大凌河上流域にかけては、時の西周の勢威とは別の交易的・文化的なある勢威が発祥していたことを示唆する。
 つまり殷後期から西周前期の時代に遼西一帯にある勢威が存在するなら、当初はそれを許す程度にその地は燕と隔たっていた。たとえば燕との間に緩衝地帯があったのである。そしてその後燕と接してその管轄下におかれた。燕の膨張のためである。
 したがって燕の当初の版図は薊にまで及んでいなかった。薊に及べばそのすぐ北は遼西である。支配と干渉と影響という三つのレベルを想定すれば、隣接する地域はすでに干渉のレベルであろう。遼西の文化が一時期にしても独自性をもったのは、それがまだ影響の範囲であったためであると思う。
 したがって文脈としては、こうなる。燕が立国したとき薊はまだその支配にはいっていず、交易を旨とした殷人が築いた中継地点の一つに過ぎなかった。薊は燕がこれを摂取して後、これを主体的に遼西・遼東さらに東北・半島への交易拠点とした。改めて首都としたのはさらにその後であろう。
 その時燕は遼西に接しもって箕侯に干渉した。
 史記の文脈もこれを物語る。そもそも燕は西周の封国のうちでは中原に全き関心を払わなかった特異な国であった。史記にもその初期の王代の記録すらなく、およそ九世をを経た前九世紀後半頃からその王代名だけが顕れる。具体的な記事はさらに九世を経た壮公からで、これは斉の桓公が春秋の覇者であった前七世紀中葉である。壮公の時に侯を公に改めた。宋・衛と語らって周の恵王を伐ったこと、また北方の山戎が侵攻してきたことなどを記録する。
 同時期の前七世紀中葉に採録したとみられる記録が、「管子」に載っている。斉の宰相管仲が覇者斉の桓公に「(周王のほかに)いま陰なる王の国三つあり」と言ったというが、その意はすなわち渠展の塩をもつ斉、汝漢の黄金をもつ楚、遼東の煮(塩)をもつ燕の三国のことであった。
 実際に桓公に続いて中原の覇者となったのは、ここに出てこない晋の文公(重耳)であるから、事実は燕の勢威が斉に並び立つというほどの意味はもっていない。それでも七世紀にすでにその雄国の可能性を予測され、かつ遼東の塩を交易していたという事実はいかにも興味深い。
 遼東が支配下にあるようには受けとれないから、燕にとってそこは干渉もしくは影響のレベルでしかない。つまり七世紀の段階ではまだ遼西を完全に支配してはいなかったのであろう。
 燕の基本的な理念とエネルギーの源泉はあきらかである。
 燕はそもそもの立国の時から、もっぱら東北・半島方面との交易ならびにそこへの漸次の進出を希求したのであろう。燕の歴史は絶えざる北進のそれであり、これにともなう殷の遺族の吸収あるいは一部のさらなる東北方への追放であった。
 その先に朝鮮がある。
 ところで前漢の前一世紀初頭、司馬遷が太史公書すなわち「史記」を著した。およそ五帝・夏・殷・周から漢の武帝の時代までを書く、中国嚆矢たる史書であって、以降これを正史の範として中国における誇るべき歴史が誕生することになった。
 その「司馬遷・史記」によれば、周が殷を滅ぼしたとき、その殷の血縁である箕子はこれを重んじて臣下とせず、もって朝鮮に封じたとある。前一一世紀である。
 箕子朝鮮の名はその後五世紀を経た西紀三世紀に至って、儒教の影響を受けつつ中国本土で成立する。魏略にあるような箕子の治世やその後裔という箕準などの物語はおそらく欺瞞であろう。半島ではさらに後代高麗ついで李朝朝鮮が改めてこれを認知して伝承を自らのものとする。それらもすでに修辞の世界である。
 この箕子が、時の大凌河上流域一帯にあったらしい「箕候」の銘文をもつ在地の氏族とかかわるなら、史記のいう文脈だけは正確であろう。箕子はおそらく殷王朝の後期にはその北辺のどこかにあって、殷の滅亡とともに遼西方面に移動したのである。立国したばかりの燕の領域がまだ薊にも届いていないとすれば、その燕の外徼こそ朝鮮といったであろう。
 すなわち熱河から遼西に至る一帯である。
 曖昧のようだがそうでもなく、朝鮮の地名の固定化は一に後の箕子朝鮮の伝説によるらしく、当初は陽の出る「東海」などを指示して半島にはかかわりがなかった。「東国與地勝覧」が「日出るの地に居る、故に朝鮮と名づく」というのがもっとも適切であろう。遼西から遼東に至る地名に朝陽・瀋陽・遼陽など特異なそれがあるのもこれを示唆する。
 燕は立国から五世紀を経た前五世紀から前四世紀に至ってようやく膨張を始めたが、四世紀末には熱河から大凌河流域へ至る版図すなわち遼西を一括獲得して、いわゆる戦国の雄国の一となった。前三世紀にいたってはさらに拡大して遼東の一帯を支配した。
 この時期すなわち前四世紀から前三世紀にかけて、中国の文献にはじめて地名としての朝鮮があらわれてくる。「山海経」「尚書大伝」「史記」「管子」「戦国策」などが数えられるが、これらはすでに鴨緑江以南の半島を示唆する。
 史記「蘇秦列伝」には「燕は東に朝鮮・遼東、北に林胡・楼煩、西に雲中・九原、南に呼沱・易水がある」とある。これは前三三四年の記事であるから、この時の燕の版図は遼西まで、すなわちその外徼は遼東、その東が朝鮮であった。
 これを燕の時代で分類すれば、燕建国の前一一世紀には遼西が朝鮮であった。薊遷都の前一〇世紀からは遼東がそう呼ばれた。前四世紀からようやく鴨緑江以東すなわち半島そのものが朝鮮と呼ばれたのである。
 ちなみにこれを遼西にあった箕候の漸次の東遷とみなす必然性はない。箕侯の族は燕が遼西に進出するに及んで取り込まれたであろう。箕侯の東遷をともなわなくとも殷の遺民の移動はあった。燕の外徼を指す地名・朝鮮そのものが、燕の膨張及び殷人の植民とともに移動していったとみなすことができる。
 燕はその後先述のように前三世紀前葉に最大の版図をもつに到り、勇躍遼東までをその版図とした。前三世紀後葉の時点において燕は秦に滅ぼされるが(前二二四年)、燕ならびにその後の統一王朝秦の記録に「その領域は、これ東は朝鮮・真番に接する」といい、「朝鮮・真番は遼東の外徼に属す」とある。
 真番の名が現れるのもこれが嚆矢である。外徼の一つ先までを記録するのは、ここにはじめて知られたためでもあろうが、外徼を説明するつねの倣いでもあったらしい。
 つまり燕はこの時支配はこれを遼東まで、干渉は朝鮮まで、影響はこれを真番まで及ぼしたのである。
 ちなみに丁度同じこの時代、前五世紀から三世紀にかけて遼東半島を中心として鴨緑江の下流域から中流・上流域に、遼寧式銅剣や支石墓・積石塚・式土器などの考古学的出土物が頻出する。これは貊族の遺跡とみる説が一般的である。殷人の一部がここに定着して影響を与えたということもあったかも知れない。
 それにしてもこの鴨緑江の遺跡は画然としたオリジナリティーがあった。すでに殷化された燕の文化を漸進的に取り込んで独自に発祥させた文化なのである。
 ちなみに鴨緑江は、地勢が歴史をつくる倣いにおいてその典型たる河川であった。歴史的起源から数千年を通じて中国と朝鮮の領土を分けたこの国境線は、明・清の時代もそして現在も厳然として生きている。海原に国境線をもつ日本人には、絶対的な体感に欠ける点である。
 真番はむろんその南をいうであろう。すでに後の漢の四郡の一であった漢江以南を指示するかどうかは定かではない。したがって仮に半島に貊族の国家らしきものの存在が比定されるとしても、その最終段階は鴨緑江流域譲っても清川江流域に土着したものである。大同江の平壌ではない。
 半島を正確に鴨緑江以南を指すものとすれば、すなわちそこは悠久から前三世紀に至るこの時代を通じて、いまだ永く黎明の時にあった。
 前二二四年秦が燕を滅ぼし、その翌前二二三年に始皇帝の中国全土の統一がなったが、わずか後の前二〇六年にその秦も滅亡、前二〇二年に至って漢の高祖劉邦が漢王朝を創始した。このとき漢は盧綰を燕に封じたが、前一九五年漢はその盧綰の燕も滅ぼし、あらためて遼東までを直轄した。盧綰は出奔して匈奴に走り匈奴の冒頓単于はこれを遇して東胡王とした。  ここに四世紀以降正しく朝鮮と呼ばれた地域すなわち半島に、最初に国家の名を刻んだ名高い朝鮮国王・衛満が登場する。正確にはその名は満とだけ知られる。

衛満王国と楽浪β

  司馬遷の「史記・朝鮮列伝」もまたこの前一九五年(頃)として、満の半島王国建国を語っている。すなわち「燕人満は千余人を連れて東方に亡命し、朝鮮・真番ならびに燕・斉から流れた族を糾合して、ついにその国に王となり、王険(平壌)に都した」とある。半島の歴史的な首都であり、そのために半島の初めての国家であるべき平壌のはじまりであった。
 ここに燕人とある満は「結髪・蛮夷服」を装って走ったというから、燕人ではなくもともと東胡なり匈奴なり北方人の出自であったのだろう。結髪・蛮夷服は北方東夷の習俗である。司馬遷があえてそう語ったことに意味があると思う。
 もともと燕の地は北方において直接、東胡ついで草原の覇者となった匈奴と接していた。それらのもとは北狄という。燕は先述のように前四世紀末に戦国の雄国の一となり、前三世紀前葉には遼東一帯に至るまでに膨張したが、これにともなって北方の遊牧民との衝突が激しくなった。燕中興の時代という前三世紀には襄平から造陽にいたる長城を築いている(前二八四年)。その後もいくども増改築をみることになる万里の長城のいわゆる燕長城というものがこれである。
 とくに匈奴の冒頓単于が東胡をを討って中国北方草原を統一した前三世紀後半から、その進入は過激化する。秦もまたこの時期に巨大な秦長城を築いてこれに対処した。その圧迫はまさに脅威であった。
 つまりこの前三世紀前葉からの燕は、不断に匈奴あるいはその配下にあった東胡の侵入を受けつづけてていた。のみならずその地に定住する北方人の存在も当然あった。そして前二〇一年には、月氏をはじめ西方一帯を征服した冒頓が画期たる南下を開始して、高祖劉邦の創始したばかりの漢帝国と激突した。
 ところでこの匈奴の文明を北狄のそれとして過小に評価することはできない。北方ユーラシア文明はスキタイに発し、地中海とも中国とも異なる独自の文明を築いた。これをいうならば、中国中原文明が最初の巨大帝国をかたちづくった時に機を一にして、匈奴の北方ユーラシア文明帝国もこれに対峙かつ佇立したのである。
 後に衛氏を名乗った満が、その出自を東胡また匈奴に負うべき理由の一端がここにある。また並立した文明の一方、すなわち北方ユーラシア文明に強く荷担した筈だという根拠もここにある。衛満朝鮮という半島における最初の国家は、結局単に中国中原の帝国誕生にともなう辺境の呼応というものだけではなかった。中原文明と北方文明の成立という、二重の大膨張のなかで不可逆的に誕生した衛星国家であった。
 この王朝は前一九五年頃から三代八〇余年続いた。そして前一〇九年漢の武帝の攻略によって滅亡する。滅亡の決定的要因は、時の衛右渠が自らを漢に劣らぬ王権として、身を高く持して徹底交戦を求めたためと伝えられる。この文脈はかって匈奴の冒頓単于が漢のまえに立ちふさがったたときと通ずる、一様の姿勢を感じる。つまりは中原の王権と対峙する独自のそれを主張しているのだと思う。この八〇余年を経世した衛満王国の興亡を、半島における一大画期の時代としたい。
 さて先述のようにこの武帝のとき漢の人口は五千万を超えた。富国強兵を標榜した武帝は、その膨張策の一つとして衛満朝鮮を攻めてこれを滅ぼした。
 殷・燕の時代はむろん、北方出自の衛満王国の時代を通じてなお中国中原からは独立していた半島は、ここに初めて中国の直接支配のもとに入る。まさに大陸の膨張といっていい。
 楽浪郡の誕生である。
 漢の武帝は翌前一〇八年、半島に楽浪郡・臨屯郡・真番郡を置き前一〇七年、玄菟郡を置いた。いわゆる四郡である。しかし前八二年に臨屯・真番は廃止、玄菟郡も前七五年に新賓に移動した。このことは後の高句麗の建国に直接かかわったと思われる。
 平壌に郡治した楽浪郡のみが、そのままその後四〇〇年(漢・公孫氏・魏・晋を含んで)を経世した。漢の人口も後漢末に至るその四〇〇年弱、その巨大な人口を維持した。
 直轄また郡制というのは、そもそも封国の制とは本質的に異なり、本来直接支配の体制をいう。しかし中原からは遠隔にあった半島の地勢的な条件は、この間の本来の中国支配のありかたを変えていった。中央からの派遣官たる支配層はよくその勢威を維持できなかったようである。土着して自ら中国系の現地人となり、あるいはもとから所在したそれと混在した。中央もしだいにこれを容認して現地人を官人に任命していった。
 これが楽浪官人という支配者である。すでに封国といっていい。そこから先は現地における実力主義であったのであろう。
 楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉の出自といわれ、前一七〇年代に斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。そもそも前一九五年の衛満の建国のとき「真番・朝鮮の蛮夷・故の燕・斉の亡命するもの」を糾合したとあるから、燕人ばかりでなく斉人もすでにそこにあった。楽浪官人の主たる出自は衛満の時代の中国人であったのである。
 楽浪が衛満朝鮮の滅びたその真上に立った事実を重くみておくべきであろう。さらに前漢と後漢では状況そのものが異なり、とくに後漢の時代には中原の半島に対する関心が薄く、さらに在地の勢力のそこに自由に統治するのを黙認した。
 つまり一時期天下を領した「新」を滅ぼして立った後漢の朝廷は、内政の確立のために軍備を縮小し、もって辺境の諸国に対しても治世の権限を許すことがあった。半島ではたまたま西紀三〇年楽浪在地の王調が反乱を起こし、後漢はこれをかなりの自治を認めることでようやく収拾したらしい。しかしそれ以降後漢は正式には遼東郡までを直轄とし、楽浪に対しては関心をうすめていったから、楽浪はほぼ完全な在地豪族による支配が進むことになったのである。楽浪官人はそのような環境のなかで成立した。
 その担った文化の質が中原のそれと異なっていたことは当然であろう。その言語も北方化した殷・燕のそれであり、文化としては燕に加えて斉人の担ったそれがあった。前漢の時代までは漢の文化と言語がこの上に重層していったであろう。その後はいわば楽浪の独自の文化が定着する。
 ここではさらには議論を進めないが、楽浪官人が担ったこの文化こそ、その後の半島そしてその背後にあった列島、すなわち倭の地に対しても、大きな影響を与えた筈なのである。
 話を続けよう。楽浪は王調の乱以降一五〇年余の楽浪文化を謳歌した。そして一八四年に起こった黄巾の乱は、中国全土の騒乱に止まらず半島を荒波で洗った。五年後の一八九年、遼東に公孫度が自立して一国を建てた。その継嗣の康が立つと間を置かず南下して楽浪を接収し、暫時楽浪の南を割いて帯方群を置いた。二〇四年である。
 このころ中国は大乱を収めて魏・呉・蜀の三国が鼎立したが、遼東以東の公孫氏を含めて一時は四国の時代をなしたといっていい。
 しかし公孫氏は永くはつづかず、二三八年三国の一、魏が攻勢になり、公孫氏を攻め落として半島すなわち楽浪・帯方の二郡をふたたび直轄する。魏はやがて晋にかわり、中国の半島の支配はさらに半世紀余続いたが、三〇〇年の八王の乱の後、それまで四〇〇年の間つづき、わずかづつ緩んできていた中原の圧倒的優位は、急速にその幕を下ろしていった。中国の人口は激減しつつやがて数百万まで落ちこみ、回復の余地のないまま数世紀を経ていったのである。
 このとき楔を解かれた東北辺境にあって、二つの国家が膨張しはじめた。
 北方から進入して燕に入った鮮卑の一部族で遼西に成長した慕容氏と、鴨緑江中流域から出て下流域まで進出し、しだいに地歩を固めた高句麗である。
 手薄になった遼東平原を互いに争奪にかかり、数年の後、勢力の伸張した慕容氏は遼東を占拠した。高句麗はやむなく遼東から手を退き、その代わりに南進を意図して行動を開始した。
 そして、五胡十六国の乱を機に、高句麗はついに大挙して楽浪を攻めた。楽浪・帯方はこれに先立つ洛陽陥落(三一一)の混乱のなか、一時張統という将軍が自立していたが、高句麗の圧力をかわしきれず、千余家を率いて遼東の慕容氏に亡命した。よって楽浪はそのかたちを消滅した。三一三年である。
 この楽浪滅亡こそ画期であった。
 半島の自立ならびにあらたな国家形成への開幕であった。東北・半島そして列島の四世紀は事実上この年から始まった。

夫餘・高句麗と百済β

 話はすこし戻るが、衛満の朝鮮王国の滅亡があった前一〇八年を前後する時期、すなわち前二世紀後半から末にかけて大興安嶺の松花江流域の吉林に夫餘国の建国があった。伝承によればその先はさらに北方の索離国(黒龍江)であり、天帝の子東明が南下して夫餘(北夫餘)を建てたという。
 夫餘は後二世紀前半から三世紀後半にかけて最盛期を迎え、とくに二世紀前半の尉仇台の時代には、穢族*(穢_当字)の盟主として後漢の玄菟郡に通じ、これを援けて鮮卑や高句麗と戦ったという。漢が「穢王之印」を与えたのもこの時期である。また公孫度が遼東に立った後は、これと姻戚関係を結んだらしく、魏志夫餘伝には「妻以宗女」とあり、これは「度が仇台の宗女を以って妻とす」とも読めるという。
 この尉仇台は後に百済の王家がそこから出たと伝え(周書)、百済が「臣と高句麗は源夫餘に出ず(百済王餘慶の上表文)」と主張する根拠のひとつとみられる。
 夫餘は二五八年に至って鮮卑の慕容氏に討たれ、以降急速に衰退していくが、三四六年に至って再び鮮卑(前燕)の檀石槐によって討たれその麾下に降って完全に滅びた。
 夫餘の王族はその直後から、夫餘氏または餘氏を名乗ったとみられるが、この後に餘姓の記録の残るのは、三七〇年の前燕の滅亡にともなって反旗を翻して前秦に組みしたという餘蔚なる人物、そして三七二年に東晋に朝貢した百済王餘句(近肖古王)なる人物であった。
 前者はそれで記録が跡絶えた。
 後者はその後三韓の一国百済の王統の祖となったらしい。
 高句麗もまた夫餘の系統とみられる。三国史記によれば前三七年に卒本(桓仁)に建国した。玄菟郡移動の三〇余年後である。中国史書によれば、その祖は夫餘の出で朱蒙といい、天帝の孫にして日と河伯の女の子で、卵生の不祥を疎まれて捨てられたが、獣などの保護を受けて援かり母のもとに返されて人となった。成長するに弓矢をよくしたが、その英邁を夫餘人が怖れて殺そうとしたため、逃げてまた魚鼈の援助を得て一水を渡りついに卒本に至ったという。
 その後三年または二〇四年(二説ある)に丸都(集安)に遷都し、鴨緑江中流域一帯に勢力を張るに至った。
 文脈としては妥当なそれとみられるが、中国の記録によれば時代がわずかに異なる。すなわち新の王莽は即位後の西紀一二年、遼東と楽浪を分断する高句麗の勢力を嫌って兵を出した。このとき王莽の攻撃した相手は高句麗王鄒といった。これは鄒牟の意であり鄒牟はすなわち高句麗の始祖朱蒙のことである。四一四年建立とみられる著名な広開土王碑にも「始祖鄒牟王」とある。その建国は前一世紀前半ではなく、西紀前後と思われる。
 したがって高句麗は西紀前後に冬家江流域の桓仁に建国して、その後鴨緑江中流域の集安に都を移した。この集安遷都は高句麗にあって中央集権的な国家へ変貌する契機であったといわれるから、おそらく二〇四年が適切であろう。高句麗ではこのとき五部族の争いにより、二人の王が立ったが、集安に即位した山上王がその後の正当な高句麗王となった。
 満州の地にあった夫餘の南に位置し、集安遷都以降はまさに半島を指す鴨緑江流域に立った王国であり、建国から徐々にその威を広げていったが、つねに遼西と楽浪の勢力とに対峙して一進一退を繰りかえしていた。一一八年にはすでに夫餘と並び立つ東北の雄国であったが、一三二年には鴨緑江の河口に進出して数十年維持することもあった。二世紀末には公孫氏と争い三世紀には魏と戦って大敗するが、国力を消耗することなく拡大を続け、夫餘が慕容氏に討たれた二八五年以降は、ついに東北随一の強国となった。
 そして、慕容氏の前燕と衝突するなか、南に膨張していってついに三一三年楽浪・帯方を接収してこれを滅した。
 さて半島の激動の四世紀に入る前に、三一三年の楽浪滅亡以降の半島の約半世紀間の情勢をひとまず鳥瞰してみよう。  この間がいわば今日に至る半島国家の揺藍の時代である。この揺藍の時代を経て、百済が立ち、新羅が出現し、高句麗とともに半島の三国時代をつくるのである。
 先述のように、三一三年をもって楽浪一帯は高句麗の影響下におかれた。遼東から鴨緑江流域の一帯は、おなじく高句麗とすでに遼西に立った慕容氏との紛争がしばらく続く。そのまま二〇数年を過ぎて、三三七年に慕容氏が遼西と遼東によって燕王を称すると(前燕誕生)、かっての玄菟を本拠とする高句麗との衝突も激しくなった。五年後の三四二年にいたって、前燕は高句麗を急撃しこれを破り、首都丸都城(集安)を落とした。高句麗王美川はかろうじて逃れたが、打撃は大きく、その後およそ十余年の間国力を回復することが出来なかった。したがって楽浪に対する勢威も減じた。
 高句麗がふたたび楽浪に威をはることになったのは、三五五年に至り燕に取り入って楽浪公の称号を得てからである。したがって丸都落城後の十数年は、燕の勢力が楽浪にまで及んでいたことになる。
 つまり三一三年以降の楽浪は、高句麗(三一三年から三四二年)・前燕(三四二年から三五五年)・高句麗(三五五年以降)の支配が交互した。三五五年以降は高句麗がこれを恒常的に支配したのである。
 さて楽浪の先、帯方である。
 この時楽浪の南に拠っていた帯方の動静はつまびらかでない。
 帯方は公孫氏が二〇四年、楽浪南部を割いて置いた。その後魏・晋が管理し、三一三年までの百有余年を経過した。その後がはっきりしない。
 これをまず半島最古の勅撰史書「三国史記」によって見れば、史記麗記(高句麗本記)の三一三年条に「侵楽浪虜二千口」とあり、翌年の条に「南侵帯方」とあり、三一五年の条に「攻破玄菟」とある。この文脈からすると、楽浪(と、もしかしたら玄菟)は「虜・破」というからこれを支配したのは明らかである。楽浪の地の遺跡に、高句麗の使った後趙の年号(建武九年、三四五年)も残るという。
 帯方についてはただ「侵」というだけである。つまり帯方の趨勢はまだそこまでいっていない。高句麗の国力は鴨緑江から大同江までで、おそらくは漢江までを維持するほどには充実していなかったのかも知れない。しかし三〇年という歳月は二世代にわたる。楽浪にあった高句麗の派遣官が帯方にも手を伸ばすに十分な期間でもあった。
 ちなみに高句麗の派遣した楽浪相にして帯方太守たる官人は冬寿といい、もと漢人ではじめ慕容氏に仕えのち亡命して高句麗王に仕えたものである。冬寿は三四〇年に死んでいるから、彼もまたその後の帯方の動静に関りをもたない。
 三一三年の楽浪滅亡以来、高句麗の影響のもとにあった帯方は、動静がはっきりしないまま、いわゆる馬韓の諸国のゆるやかな胎動があった筈である。
 三四二年燕が高句麗を討伐し、このため楽浪における高句麗の影響はあっというまに後退する。帯方もまたいうまでもない。その後十年を経て、高句麗はようやく国力を充実し、先述のように前燕から楽浪公の称号を得る。三五五年である。
 この時高句麗は支配の事実をもって、正当に帯方の領有を主張する権利はなかった。ただし、帯方はもともと楽浪の一部であって、前一八九年に公孫氏がその南を裂いて置いたのである。三五五年をもって高句麗王にして楽浪公となった高句麗故国原王にとっては、帯方はもともと楽浪の付帯した領土の一部として、辛うじてこれを主張できた。しかし、その主張の重みはたぶん低かった。
 したがってまとめるとこうなる。帯方の地は、楽浪と違って、三一三年の滅亡の後一時期高句麗の侵略を受けたものの、その影響は継続せず、すなわち三十年間(前期)というあいだ、いわゆる馬韓の小国の胎動をつづけた。三四二年以降ふたたび前燕の侵略を受けたが、前燕もまたこの地をもちきれず、三五五年にいたって高句麗王を楽浪公に任じて楽浪からも撤退したのである。この間十数年間(後期)である。いずれも決定的な支配はこれを受けなかった。
 結果として楽浪を異なる二つの勢力が支配したこの期間が、帯方以南の都邑国家をしてしだいにこれらの勢力から自立していき、ひいては領域国家に変貌させていく契機になった。
 まず馬韓すなわち後の百済のことである。
 百済の登場までいろいろ迂回したのは、この半島の国家が倭国にとって外国との交流の嚆矢であったにもかかわらず、その出現と経緯が不分明なためである。その拠って立つ由来は倭の王権の思想にもかかわり得る。あるいは文化の根幹にかかわる。つまり百済は列島の国家たる倭国の海外の世界を拓いた国なのである。
 百済の建国は、丸都落城の三四二年から三四五年の間にあったと思われる。三四五年は、前燕の記録に捕虜として「高句麗・百済・宇文・段部」という文字が見られ、中国の記録にはじめて現れた百済の茫洋とした姿が垣間見られる。
 百済はもと魏の三世紀中葉、馬韓五五国の一であった伯済国であった。帯方の故地の南、漢江下流域の慰礼城に都し、急速に新興国家としてのしあがった。中国史料から見て、建国の王と見られるのは三四六年即位と伝えられる近肖古王である。ただしこの王の父王たる比流王は「推されて立った」と伝承され、近肖古の系統がもともとの伯済の王家とは違っていた可能性が示唆されている。すなわち百済の王家は、馬韓に拠っていた地在の伯済を襲って、ここに立国したのであろう。
 百済が先述のように当初から王統の源を「高句麗と同じく源、夫余に出ず」といっているにも関らず、その後には「高句麗の始祖朱蒙の子沸流・温祚あるいはその妃を娶った北夫餘の優台などといって混乱するのは、七世紀以降滅亡に瀕した百済が高句麗に歩み寄ることと関連するであろうという。
 「続日本紀」桓武紀によれば、滅亡後日本に亡命した百済武寧王の後裔はその遠祖を「都慕王」と伝えていたという。桓武の母である和新笠はその百済王家後裔の出であった。ちなみに書紀の天智紀では、高句麗の建国神は「仲牟王」と伝えると記録している。
 百済の始祖伝承はつまるところ馬韓出自・夫餘出自・高句麗出自の三つのそれがあるが、馬韓出自というのは、夫餘によるその伯済の王家の纂奪であった。高句麗は後世の政治的仮託であるから、要するに夫餘出自だけがオリジナルであろう。
 その祭祀も祖を仇台(尉仇台)といい永く仇台廟を祀ったのである。これが夫餘中興の王であるために、そこから出た百済王家の意識的な崇拝対象となったのであろう。
 これらとは別に、百済にはその建国にあたって「遼西建国説」というものがある。これは宋書・梁書・南史などにこの時期「百済は遼西地方に進出」したという記事に由来する。
 これは全くの誤謬とされているが、筆者は考えるところがある。
 この記事の本質は、四世紀後半の遼西に百済領が存在したことをいうのだが、これは先述の夫餘の王族の後裔で三七〇年の前燕の滅亡時に活動したという餘蔚にかかわるであろう。夫餘国はそれに先立つ三四六年に滅んでいた。
 すなわち夫餘滅亡にともないおそらくその後裔の一部が残って前燕の手下に入り、一部が逃亡南下してその先馬韓の地に入ったのである。前者の後が餘蔚でありその一族郎党とともに、前燕の版図(遼西)のなかで行動をともにし、さらに遺民を糾合していったであろう。ちなみにその活動は前秦に荷担したものであったが、前秦の遼西の地はその後三二年を経て北燕にとってかわる。この間に餘蔚の一族が遼西に勢威をもった可能性は高い。
 後者は史記に三四六年即位という餘句すなわち近肖古王にほかならない。史記の語る近肖古は、その父比流王をはじめ父祖とともにその地の豪族から出たと記録するが、この系譜は在地の馬韓の王のそれを繋いだものであろう。
 これらを総じるに、中国の史書は三四六年の前後をもって夫餘なる国家の名称を捨てたかも知れない。
 そしてこの二派に分かれた夫餘族の後裔を、後にその後継者を標榜したらしい百済の首長に拠って、ともに百済と称したのではないかと思う。百済が広開土王碑に「百残」と書かれることが関係するかも知れない。三四六年に滅んで各地に四散した夫餘の残党をいうのである。
 そうとすれば、遼西に一時期にも領土をもった百済(百残)とは、むろん餘蔚の族の仮託にほかならず、また先の慕容氏の秘書官が三四五年の日付で出した意見書に「高句麗・百済・宇文・段部の人」と記されている百済もまたその伝であろう。宇文・段部はいずれも鮮卑の一部族である。それらの捕虜が時の前燕の都(遼寧省朝陽県)に一〇万人も溢れていたという。
 さて百済の話を続けよう。
 百済は半島の国家のなかではもっとも中国を崇拝した国家でもあった。建国以来、意識的に正統とみられた南朝の晋・宋・斉・梁・陳に朝貢して、北朝にはまれにしかこれをしなかった。
 百済は建国から三〇〇年余、半島の中央西部一帯を領して王統をつづけ、六六〇年に唐・新羅連合軍に滅ぼされる。その王都は最初の二〇〇年間は漢山(漢江流域)にあり、高句麗の南下によって漢江を追われたその後の一〇〇年間は、熊津以南に後退した。
 三〇〇年の百済の歴史を鳥瞰すると、一に高句麗との絶え間ない戦いであったといえる。
 百済が優勢であったのは、建国のしばらく後の一期間のみであった。その後は次第に圧迫され、高句麗が中国の前燕・前秦・後燕と交戦をつづけた後、ついに大同江の平壌に遷都して(四二七年)半島に根を張ることとした後は、圧倒的な高句麗の抑圧を受けつづけていって、国力を疲弊していった。
 この国の歴史は尋常ではない。出発点から特殊であった。
 すなわち建国二〇余年後とみられる三六九年、百済は高句麗の最初の意図的な南下を迎え、これをうち破った。ついで二年後の三七一年、兵を送って平壌を襲い、高句麗の故国原王を敗死させた。帯方に胚芽した勢力が楽浪の支配者を伐ったのである。栄光の勝利であった。
 しかしこの高句麗に対する画期の勝利は、小国の百済にとって最初にして最後のものであった。画期の自負心をその後も連綿ともちつづけたことが、百済のその後の歴史の不幸を決めかにみえる。
 さてこの事件の因果が、倭の国際舞台への登場と深くかかわる。
 そもそもこの事件は史記において唐突で前後の脈絡がない。三五五年高句麗が楽浪公として楽浪に復活したとき、百済は建国一〇余年を経ていたと思われるが、高句麗との衝突の記録はない。それに、百済と楽浪の間には穢や貊という部族があった。国境を接しない緩衝地帯である。同じく高句麗と後の新羅とのあいだにもそれがあって、高句麗はほぼ四世紀末に至るまで新羅との戦闘的交渉はない。すくなくとも史記においてはそうであった。
 するとこの唐突な戦闘は、どちらかになにか主体的な動機があったのであろうか。画期の行動のエネルギーには、これを発揮すべき強い原動力がなければならない。
 百済の方ではその出自たる滅びた夫餘の栄光の再興と、これにともなってたぶん同族であった前燕麾下の餘蔚一族との連携を考えたという文脈があり得るであろう。高句麗との最初の衝突三六九年は、前燕の滅亡と餘蔚の自立の前年であった。
 一方高句麗においてもこの時期、遼東と帯方の故地の二方面が膨張すべき対象であった。前者については滅亡目前にあった前燕の足元を狙っていたのであり、後者については本来楽浪公としての権益を有する帯方の故地に胎動した百済は、早々に除いておきたいと思った。十分な理由である。
 遼西にあった余蔚との関連が強ければ、この戦闘は百済の側に仕掛ける動機がよりさらに大きかったとみるべきかも知れない。そしてこの場合兵威の比較からすれば百済は圧倒的に不利であり、いわば徹底抗戦を要したであろう。
 どちらにしろ百済は結局その激突を始めから承知しており、そのための準備の期間があった。
 最初の戦闘(三六九年)に先立つ五年前の甲子(三六四年)に、百済が加羅諸国に使いしたという史実にはこうした背景があったと思う。この甲子年の記録は重要である。
 帯方の地はかくしてゆるやかに推移し、ゆるやかに国家の成立を育んだ。そして中国の永い支配の後、東アジアの諸民族のうちでは、四四五年以降、はじめて百済がこの地を本貫とし領有した国家であった。
 時に、四世紀後半。この時新羅はまだ国家としては存在しない。辰韓一二国の一、斯廬国という都邑に過ぎなかった。そして倭もまた、邪馬台国の台与の晋への朝貢(二六六年)以降ほぼ一世紀を経て、いまだ東アジアの世界に登場していない。
 しかしそれは、中国史料及び朝鮮史料においてそうなのであり、書紀によれば、神功紀四六年条(四六六年)に、大和の出自とみられる一人の人物が、忽然と半島に姿をあらわす。
 斯摩宿禰という。 

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