第一章 斯麻宿禰β

第五節 斯摩宿禰と襲津彦β

襲津彦の活動時代β

 葛城がもと斯摩であれば、葛城の始祖と目される葛城襲津彦と斯摩宿禰とのかかわりをあきらかにしなければならない。
 斯摩宿禰を葛城と結ぶものは、とりあえず地名でしかなかった。このままではいくつもの矛盾が噴出するであろう。  書紀によれば襲津彦の活躍は次のように整理される。   

 
    =================================================
     壬午(三八二)神功紀六二年 | 襲津彦(沙至比跪)
                  |   征新羅、伐加羅
    庚子(四〇〇)神功即位前期 | 神功征伐新羅
                  |   新羅王子人質
    癸卯(四〇三)応神紀一四年 | 襲津彦渡行加羅
                  |   三年不帰
    乙巳(四〇五)応神紀十六年 | 襲津彦帰還
      (四〇五)神功紀五年  | 新羅王子逃亡
                  |   襲津彦伐新羅
    *甲戌(四三四)仁徳紀四一年 | 襲津彦酒君護送
    =================================================

   先に指摘しておけば、*印の事項は実は葛城襲津彦に関係しない。
 ここには神功紀と応神紀と仁徳紀が並行して流れている。そのうち神功紀は三二一年にはじまる第一紀と三九〇年の第二紀(事実上成務紀)ならびに四〇一年にはじまる第三紀とがある。第三紀は考証の余地がある。  詳細は次編にまわして、それが四〇一年にはじまるであろう根拠が、ほかならぬその前年である神功即位前記に、新羅の王城を落としたという、画期の征討の次第が書かれているからである。
 半島において二度はなかったであろうこの新羅城陥落は、のちに述べる広開土王碑の一〇年甲子(四〇〇)条の記す「倭新羅城に満つ」という事件と機を一にすると思う。仮託ではない、事実上の神功紀である。
 さて応神紀は成務紀からなり、その元年は庚寅年(三九〇)であった。従って応神一四年は四〇三年になる。この年秦氏の祖弓月の民が百済から倭に来ようとして新羅に邪魔された。そこで大王は襲津彦を遣わしたが、襲津彦は三年の間帰らなかったという。その理由を書紀はまるで述べていない。応神一六年(四〇五)、平群と的戸田をして襲津彦を迎えに遣わした時にも、新羅が邪魔して帰れないのだろうといっている。
 神功紀はさきほどの通りその第三紀が四〇一年にはじまる。その即位前記に、新羅の王都を攻め、これを開城して王子を人質に捕って凱旋したという。そしてその五年、新羅王は毛麻利を遣して王子を逃亡させた。襲津彦はこれを追って新羅に入り、その地を蹂躙してから帰った。四〇五年である。
 従って神功紀・応神紀とも、襲津彦の帰還は一致しているのであって、その半島滞在は四〇三年から四〇五年にわたる。神功の新羅征討に従軍したとすれば、四〇〇年にもそこに渡っている。
 この間の、とくに高句麗と倭の戦いを広開土王碑によって見てみよう。広開土王碑の細かい検証については後のこととして、その倭にかかわるエッセンスだけ取り出してみる。

 
     =====================================================
   一〇年庚子(四〇〇)| 教遣歩騎五万、往救新羅。至新羅城
                 | 倭其中満     昔新羅*錦未有身来
                 | 朝** 僕勾****朝貢
   一四年甲辰(四〇四)| 倭不軌にも帯方界に侵入す。**
                     | 石城連船***平壌***相遇**
                     | 倭寇壊敗
   十七年丁未(四〇七)| 遣歩騎五万***還破沙溝城
     =====================================================

 高句麗の広開土王は四〇〇年、新羅の要請をを受けて南下した。新羅に至ると倭は新羅城のなかに満ちていた。王は倭を追って加羅に至り、これを伐った。しかしこの四〇〇年の戦いは決定的なものではなかった。  双方に満を持すものがあり、その四年後の四〇四年、平壌から帯方に至る海上で、高句麗対倭・百済連合軍が衝突したのである。一七年(三〇七)の紛争は高句麗対百済のものであるから、高句麗と倭との戦いは四〇〇年とこの四〇四年のそれである。
 四〇〇年の戦闘は神功親征であるために、筑紫にあった倭の全軍が出征したであろうから、襲津彦もいうまでもない。その後に、葛城襲津彦が四〇三年から四〇五年までの延べ三年間、半島に滞在して、所在不明なのは、丁度斯摩宿禰が神功四七年(三六七)から神功四九年(三六九年)の三年間半島にあって行動が明らかでないのと軌を一にする。つまり四〇四年の倭百済連合軍の倭軍を率いたのは襲津彦であろう。
 前後するが、これに関係するこんどは倭の記事が史記百済本紀にある。

 
       ========================================
    阿辛一一年(四〇二) | 遣使倭求大球
    阿辛一二年(四〇三) | 倭使来厚遇
    ========================================

   たんなる和親の記事である。
 しかし広開土王碑を信ずれば、これは結局事実の糊塗であろう。百済にはそうする理由があった。その意味ではこの種の糊塗は新羅にもあった。
 とりあえず復元すべき全体の文脈はつぎのようになる。
 四〇二年百済は改めて倭に援軍を求め、倭は翌四〇三年、襲津彦を遣わした。「倭使来たり、厚くこれを遇した」という済紀の記事は、この援軍を多としたものであった。斯摩宿禰の時代の記述におきたことと同じことがここに起きている。
 三国史記はこれを全体を通ずるに、信頼に値する史書である。三国ともその建国とみられる時代を除いては、特にこれを参照して間違いないと思う。しかしながら史記には書紀とは違った意味で、ある特殊な作為があるのも事実であろうと思う。  その一つが決定的な敗北はこれを記さないという消極的改竄である。
 広開土王碑を信じれば、新羅本記は四〇〇年の倭による敗北はこれを記録しなかった。百済本紀もまた三九六年の高句麗による敗北はこれを無視している。どちらも壊滅的な敗北であったことは、共に王子また王弟を人質に取られていることでも推測がつく。
 百済本紀が倭への出兵依頼を「大球を求む」と書くのは、これとは異なる意味かも知れない。倭の記録がこれを無視することと関りがあるのかも知れない。いずれにせよ新羅と百済の、倭と高句麗から被った、三九一年から四一〇年に至る二〇年間の敗退続きの時代は、かなり整合的な作為が施されているのだと思う。
 さて葛城襲津彦の以上の活動からすると、冒頭の壬午(三八二年)の沙至比跪の記事は年次がすこし離れている。百済記を引用したと述べているが、この、襲津彦でなく註して沙至比跪とする壬午年の記事は、通説と違って干支一運(六〇年)の後、すなわち四四二年の壬午であろう。
 百済記から引くというこの記事は要するに木羅斤資と沙沙奴跪すなわち沙至比跪の話である。木羅斤資の初出は神功紀四九年(三六九)で、これも先述の通り一運の後四二九年と見られる。壬午年はその一四年後にあたる。
 沙至比跪はこれを襲津彦に当ててこれまで疑問がなかったが、その一因は書紀がそう考えているのが明白だったからである。しかし書紀はこの辺に出てくる襲津彦や沙至比跪或は沙沙奴跪などの人物を、かなり整理して扱っている。木羅斤資などの活動時期を繰上げるとき、あえて一緒に繰上げている。
 沙至比跪はこれを木羅斤資と同時代に比定しなければならない。
 神功紀によれば、沙至比跪はその加羅での差配を大王に叱責され、大王に仕える妹に周旋を頼んだが、許されず岩穴に入って死んだという。その壬午年(三八二)は前述のように一運降った壬午(四四二)すなわち允恭紀五年、事実上反正没年である。
 允恭紀によればその五年、葛城の玉田宿禰が反正の殯を敬わず、允恭がこれを責めるとその使を殺し、武内宿禰の室の墓域に逃げ隠れたという。
 玉田宿禰はその後家に匿れ、允恭の手により攻め滅ぼされるが、ここに武内宿禰の墓域とあるのは、すなわち沙至比跪の岩穴であろう。沙至比跪は玉田宿禰のことであり、おそらく「幸彦」を意味するのであろう。
 玉田宿禰は葛城襲津彦の男葦田宿禰またはその兄弟の一子と見られ、蟻臣・円大臣・黒媛(履中妃)と兄弟あるいはいとこである。葛城の一族のなかでは正系の、かつ時の実力者であったと思う。
 神功紀六二年の記事は、襲津彦の新羅出兵と沙至比跪の記事とがあり、沙至比跪の記事を以上の理由で分離しかつ削除すれば、ここには襲津彦の新羅出兵だけが残る。
 残るが、これがあくまで壬午年(三二八)であればやはり活動期がかけ離れている。この検討はあえて後回しにして、とりあえず葛城襲津彦の活動を半島史料と並行しえまとめてみよう。  

 
    =================================================
    庚子(四〇〇)神功即位前期 | 神功征伐新羅
                  | 新羅王子人質
                  |
                   *碑(遣歩騎五万、往救新羅。至新羅城
                   倭其中満   昔新羅*錦未有身来
                   朝**僕勾****朝貢)
     -------------------------------------------------
    阿辛(四〇二)*済紀(遣使倭求大球)
                   
    癸卯(四〇三)応神紀一四年 | 襲津彦渡行加羅
                  | 三年不帰
           *済紀(倭使来厚遇)
            
     甲辰 (四〇四) *碑(倭不軌にも帯方界に侵入す。**
                       石城連船***平壌***相遇**
                       倭寇壊敗)
                        
    乙巳(四〇五)応神紀十六年 | 襲津彦帰還
                神功紀五年  | 新羅王子逃亡
                  | 襲津彦伐新羅
    -------------------------------------------------
     丁未 (四〇七)  *碑(遣歩騎五万***還破沙溝城)
    =================================================

 以上である。これをうまく咀嚼したい。  根本的な問題だが、書紀が記す葛城襲津彦の半島での活動は、もっぱら新羅にのみかかわる。四〇〇年のそれは神功の新羅征討に従軍したものである。四〇五年の出兵は新羅王子の逃亡に対処したそれであった。
 それでいて、四〇三年から四〇五年にかけての半島での活動は、これをわざと糊塗してある。広開土王碑と三国史記の文脈からすれば、これこそ百済が対高句麗戦のために要請したものであり、この三年という期間は、つまり襲津彦が百済軍を援けて高句麗と戦ったものなのである。

広開土王碑の辛卯年と神功六二年(壬午)条β

 先にこの時神功六二年はそのまま壬午(三八二年)ではなかったといった。。干支一運(六〇年)を降った壬午(四四二年)であった。
 しかし神功六二年の記事全てがその壬午(四四二年)の仮託であるのかといえば、必ずしもそうではない。あくまで神功六二年条の意図の問題である。沙至比跪を除いても新羅出兵の記事は残りうる。
 そもそも神功紀は前述のように三つの紀年が並行する。そのうち第二紀は成務(応神)元年庚寅(三九〇)を元年とする。神功の立太子没年がその四年であり、これが成務の没年と見られるためである。すなわち神功紀の全六九年は、景行・成務・仲哀・神功・応神の五人の大王の治世の、特に半島に関する記事を一身に集約しているのだと思う。  改めて次表、三王紀年譜(修正)を見てみよう。


  <神功・垂仁・景行の三王紀年譜(修正)>
      ====================================================
           西紀    神功紀          垂仁景行紀          
      ====================================================
      庚辰 380        60                  47           
      辛巳 381        61                  48           
      壬午 382        62                  49           
      癸未 383        63                  50           
      甲申 384        64                  51           
      乙酉 385        65                  52           
      丙戌 386        66                  53           
      丁亥 387        67                  54           
      戊子 388        68                  55           
      己丑 389        69 神功景行没       56     景行没
      庚寅 390                     成務応神紀          
      辛卯 391 辛卯年倭渡                  2           
      壬辰 392 新羅人質麗                  3 神功立太子
      癸巳 393             神功立后        4     成務没
      甲午 394                   3         5   仲哀元年
      乙未 395                   4         6         2 
      丙申 396 麗征討百済        5         7         3 
      丁酉 397 百済人質倭        6         8         4 
      戊戌 398                   7         9         5 
      己亥 399                   8        10         6 
      庚子 400   新羅征討    仲哀没       11         7 
      辛丑 401             神功元年       12         8 
      壬寅 402                   2        13         9 
      癸卯 403 襲津彦加羅     3        14        10 
      甲辰 404                   4        15        11 
      乙巳 405 襲津彦帰還 伐新羅 5        16        12 
      丙午 406                   6        17        13 
      丁未 407                   7        18        14 
      戊申 408                   8        19        15 
      己酉 409                   9        20        16 
      庚戌 410                  10        21        17 
      辛亥 411                  11        22        18 
      壬子 412                  12        23        19 
      癸丑 413             敦賀儀礼       24        20 
     ====================================================

   景行はその六〇年に没したが、書紀の記述はその五七年からは事実上成務の近江高穴穂宮での治世である。成務紀にはその宮を記載していないが、古事記は成務の宮が近江高穴穂にあったことを伝えている。従って景行の没年は考霊(垂仁・景行)紀の五六年であり、五七年が成務元年である。
 そこで神功六二年は、第一に景行六二年と見ることができる。
 またこれを一運省略して成務二年(応神二年)と見ることもできる。この二者は同一年(三九一)になる。
 別途に神功二年と見ることもできる。この場合は四〇二年である。
 最後にむろん壬午(三八二年)と見る余地も依然として残っている。
 書紀がややこしいのは、こういう操作について統一的な方法を推測しがたい点である。周辺の記事、神功五五年(肖古没)や同六四年(貴須没)の記事がそれぞれ三七五年、三八四年と見られる点も壬午(三八二年)と見るのが妥当に感じる。
 ただし神功三年立太子は、前述のように「立太子没年」という仮定のなかでは、その四年没と見られる。この四年は神功のものではありえない(神功没はその九年)。ましてや三二一年に始まる神功紀でもない。すなわちこれは応神紀に仮託するものであり、事実上成務の没をいうに違いない。
 ちなみに仲哀はその治世九年という。事実上七年である。これは神功が仲哀の后として仲哀即位前年すなわち成務没年に立后しているためであろう。仲哀紀は神功の立后を元年として特別の起算をしているのだと思う。周辺の大王の治世のみならず、あらゆる事象を神功の名声のなかに凝縮するというのが、この時代にたいする書紀の編者の意図であった。
 神功六二年条の葛城襲津彦の新羅征討は、結局、成務応神紀年二年すなわち西紀三九一年の出来事であったと思う。
 広開土王碑にこうある。   

     百残新羅舊是属民、由来朝貢。而倭、以って辛卯の年(三九一)来(より)、海を渡って百残**新羅を破り、以って臣民と為す。

     倭が海を渡って百済(加羅)新羅を伐ったという辛卯の年である。
 ちなみに冒頭の注しておいた、仁徳紀四一年条にある襲津彦の記事もまた葛城襲津彦ではない。 

   <仁徳四一年条>  この年百済の王族酒君が無礼あり、紀角宿禰をして責めさせ、百済王は酒君を縛り、襲津彦に附けて進上した。 

   仁徳紀はその治世六年を八七年まで増幅した。その係年は要するに仁徳紀・応神紀・神功紀・仲哀紀・倭建紀(日本武尊)などの延長紀年を利用して、その六年の中に多重に分散させたものである。
 詳細は別途として、仁徳四〇年代は仲哀紀によると見られ、三九四年を元年とするその四一年は四三四年である。仁徳の即位元年は四三三年であるから、これは仁徳二年である。
 この前年の四三三年、史記の百済本紀によれば「遣使羅講和」とあり、新羅本記にも「済講和従之」とあるから、百済は建国からはぼ一世紀を経てこの年初めて新羅と和した。互いに共同で高句麗に当るためである。その翌年の仁徳紀四一年条が「百済王族に無礼あり」というのは、このことを言うのであろう。
 書紀の「無礼」なる用語は、高句麗に敗れあるいは人質を出したことをもって特に言う。倭と敵対する新羅との講和は、これに等しい。酒君はおそらくその講和を成した百済側の当事者であった。百済王と百済の罪を問うことができず、当事者をしてこれを問責したのである。
 従って、この記事の場合も襲津彦の名は元来沙至比跪であったのだろう。書紀の編者も係年の複雑化にともないいくつかの誤解が生じた、あるいは意図的に誤ったのである。壬午年(四四二)の沙至比跪の記事はその九年の後である。
 検証はだいたいこれで終わった。
 要するに葛城襲津彦は、三九一年・四〇三年・四〇五年、そしてたぶん四〇〇年にも半島に登場する葛城の首長であった。
 斯摩宿禰が三六六年から三七二年に活動するのと比較すれば、ざっと二〇有余年の開きがある。察するに二人とも百済との共同軍事作戦をとって、主として高句麗と戦ったと思われるが、その具体的な記事は書紀にない。  葛城の地がもと斯摩の地であり、葛城の初代が葛城襲津彦といい半島に将軍であり、斯摩の名をもつ斯摩宿禰が倭の最初の半島派遣将軍であったとすれば、斯摩宿禰と葛城襲津彦の一世代、二〇有余年の違いになかにこの名称の転換があったのである。
 結論はあきらかである。
 葛城襲津彦は斯摩宿禰の男であり、その嫁った母の血筋にその姓名を由来するのである。葛城は加羅城の意、または加羅紀或は加羅木の意ともとれる。
 書紀の記述と系譜でここから先を確認できるだろうか。
 急ぎすぎてはいけないが、ここまでの経過からしてこの節の行きさきも明らかである。当然、斯摩宿禰と武内宿禰との関係を問わなければならない。武内宿禰はすなわち葛城襲津彦の父であると、書紀と古事記が述べているからである。
 その武内宿禰は景行・成務・仲哀・神功・仁徳の五代に仕え、長命の人と言われた。その後裔は書紀には記述が不備だが、古事記には次の七氏の祖にして二名の女の父とある。

 
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    武内宿禰の子女
       =================
    波田八代宿禰
    居勢小柄宿禰
    蘇賀石河宿禰
    平群都久宿禰
    木角宿禰
    久米能摩伊刀比売
    怒能伊呂比売
    葛城長江曾都毘古
    若子宿禰
       ================

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