第三章 椎根津彦β

第二節 謎の十市県主β

十市県主の登場β

 十市氏という氏族は一言でいえば難解な氏族である。出自がはっきりしない。書紀・古事記をはじめ氏姓録・旧事本紀などいくつもの文献を精査して、なおかつ杳として輪郭をつかめない。それだけに面白いとはいえるが苦労でもある。
 書紀・古事記によく拠るべきであろう。書紀・古事記の編者の基本的なスタンスを順守することが、その巧まざる意図を諒解できることでもある。
 はじめに十市氏の出現の時期の問題である。
 十市氏は綏靖に后妃を出している。これを鑑みるに十市氏は神武の建国からわずかにおくれて登場した。
 神武紀にはむろん十市の名はなく、その没後綏靖がその女を娶って考霊・考元を生んだ。この間神武の治世は六年、綏靖は九年とみられ、またこの間に手研の治世三年があったとしよう。前後十八年である。
 しかし綏靖が十市女を娶るのは、神武と手研耳の時代すなわち綏靖治世の前からであろう。即位後であればその後のわずかの間である。即位以前に娶っていれば、神武の時代とは一〇年を降らないことになる。すなわち一世代の違いはない。この間磯城氏の宗家葉江はいわば国を統べていた。神武から綏靖・安寧・愨徳のおよそ二〇年余の期間とみられる。
 したがって十市氏は、磯城に弟磯城黒速が威をはった同時代に、その西部一帯にいわば急速に覇権をうちたてていったものと思われる。後の十市郡がこの時に出来ていれば、その版図の巨大さは磯城のそれにも比肩する。そしてこの勢力を指導した人物もまた、葉江はもとより、神武・綏靖とも同世代なのである。黒速とも饒速日ともまた長髓彦とも同じ世代であった。
 次に十市氏の版図の問題である。
 十市県が古代の十市郡十市郷の十市御県坐神社を中心とした勢力であったことは異論がない。現在の橿原市十市町で、その十市御県坐神社も十市町の東寄に現存する。橿原市としては最東北に位置し、北部一帯は古代の城下郡とみられ、現在は磯城郡田原本町である。
 田原本町は十市町の西側で一部南に入りこむが、そこが多町である。かっては多郷も十市郡のうちであった。つまり十市町は多町と東西に隣接して並ぶ。いずれもかっての十市郡の最北西端である。ここを十市県の中心とすれば、そのひろがる範囲は極めて変則的であった。
 磯城郡とくに城上郡の範囲も三輪・纒向・柳本から初瀬・朝倉・忍坂に至っているが、その中心は磯城御県坐神社の所在する三輪町金屋付近であり、地理的にも真中にあるといっていい。
 十市郡はこれと違って複雑な範囲と形状をもつ。磯城郡田原本町と橿原市東北部から発して西南を帯状に伸び、香久山・桜井・安倍・多武峰までを含むのである。現在の磯城郡・櫻井市・橿原市の一部・宇陀郡の一部である。
 古代にあってはもっとおおまかであるから現在の地名では簡単に比定しにくい。ただ十市御県坐神社は古来そこにあって移動は記録されないから、十市の中心がそこにあったことは間違いないであろう。したがってこの変形な版図は、一に十市県主の主体的な活動の結果生み出されたものである。拠点を結んでいったとみるのが穏当であろう。
 いわば点在する商業の邑であった。
 続いて十市の名称の問題である。
 十市の名称の起こりがあるとすれば、それは「遠市」ではないかと思う。十市ははじめ「止保知(とほち)」と訓まれ、のち「とをち・とうち」となり、さらに「といち」となった。はじめから十市であるなら、たとえば「止壱知」でなければならない。和名抄が「止保知」と記録するのはこのためであろう。
 十市はもともと「遠地」または「遠市」で磯城の地または磯城の大市に対してそういったのではないかと思う。大市は箸墓が大市墓とよばれることからも、纒向の中心地にあったらしいことが知られる。
 こうしてみると十市は磯城とおなじくまたは、それより巨大になった商業的な都邑国家ではなかったかと思う。磯城そのものも、広域な版図でむろん農業を擁したといえ、その本質は商業国家のそれであったとみられる。
 それなら十市という地域も、後の十市郡の広域な領域をそのまま必要としない。いくつかの市が点在しそのうちの最大のものが「遠市」であればよい。十市県の形状もこのことを示唆するようだ。
 現在の十市町を北限としてそこから城上郡を囲むように斜めの帯を南東にのばし、磐余からさらに多武峰にいたって宇陀郡と接するじつに奇妙なかたちをしたのは、それが自然のなりゆきになるのではないことを示している。
 これこそ太古の十市氏が実力で獲得した、都邑群の版図なのであろう。
 すると当然の疑念がある。十市が磯城の太市に対峙するのなら、十市氏は必ずしも十市氏ではない。磯城氏のように歴とした氏族名をもったのである。磯城氏は大市氏とはいわなかった。それが何という名であったかという問題がこの章のテーマでもある。十市県主が「太(大)真」といったことも材料の一つである。
 ともわれ神武の侵入から短期間でこの版図を築いた、十市氏の存在はなお茫漠としながら、わずかな輪郭がみえてくる。ちなみにこの十市の範囲は磐余の地を含んでいた。
 続いて十市県主宗家の出自の問題である。
 十市氏の出自を求めるにあたっては、その名称で後世にも残る氏族をみておかなければならない。ただ前提はある。後世の磯城県主家は葉江宗家とは何のかかわりもなかった。
 後世に足跡を記録された十市氏は、書紀・古事記の書かれた時代を超え、悠久の時代を経世して近世までを生き抜いた。すなわち十市県主から十市首・十市宿禰・中原宿禰と名を替え、その後は十市中原とも称しながら戦国時代に至る。祖先伝承は中原氏系図などでは、安寧第三子磯城津彦の後裔ということで一致しているが、この磯城津彦は王子でなく磯城の男という意であろうといわれている。
 分派があって中原氏と十市氏とも同祖であっても、伝承の中味はそれぞれ違う。十市氏には十市県主系図というものがある。
 偽書という十市県主系図によれば、十市県はもと春日県といい、考昭の時代に十市となったという。この意味も釈然としないが、すくなくともこの系図では十市県主の祖として春日県主大日諸を挙げている。綏靖紀の后妃の一人である。
 春日の地はのちの添上の春日すなわち現在の奈良市東部にほかならないが、そこを春日県といったことはなかった。初期の大和朝廷の制度のもとで、県の設置とともに県主をもってその産土、御県神社を祀らせたという。その御県は大和において、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布の六御県であった。その後春日・宇陀・猛田が知られるようになる。したがってさらに遡る時点で春日が現在の地を指すようには思えない。
 しかも書紀においては、その春日県は綏靖紀の「春日県主大日諸女糸織媛」の表記にのみでてくる。したがって十市県主系図のいう春日から十市への名称変更は、何か別の理由があったかも知れない。すくなくとも十市氏が春日の出であることはない。
 最後になるが、十市氏が十市県主家の系譜でその全貌を掴むことができるのかという問題であるが、これは無理であると思う。
 後世の磯城の地には、三輪氏と磯城県主家が残っていたが、三輪氏は河内出自の大田田根子の後裔、磯城県主家もまた後述するように磯城の葉江宗家の後ではなく饒速日氏の後裔であった。つまり葉江宗家は滅びているのである。
 したがってもし十市宗家も磯城宗家とおなじく後のどこかで滅びていたとしたら、十市県主家は十市氏の後裔ではないことになる。そしてまた十市氏が本来の氏族名を別にもっていた可能性も大いにあった。
 十市氏の貴種性という問題も大きい。
 書紀・古事記の文脈のなかでは、十市氏は大王氏がもっとも尊重した姻族であったらしい。磯城葉江宗家に対しても勝って劣ることがなかった。十市氏の女から生まれた考霊と考元も大王氏の系譜のなかでは特別な大王であったらしい。こうした尊貴の視線は単純にその事績だけによるのだとは思えない。
 神武の侵入時には大王氏がその王権の思想をして姻族とした氏族はまぎれもなく磯城氏であった。その本居を摂津三島にもつ弟磯城黒速の家であった。それが一世代も降らずして十市氏に替わり、かつ十市氏を磯城氏を超える姻族とみなしたという展開は、よほどの理由がなければならない。
 たとえば十市氏は磯城氏のごく近親の同族で、かつ十市氏の本居もまた磯城氏の宗家のそれである摂津三島に比肩するものであったとする。つまり十市氏はもともと磯城氏と並び立つ歴とした姻族なのであって、磯城氏葉江宗家が威を張るなか、独自の意志によって磯城の西部を開拓し市を立て、画期の発展をもってして田原本町から磐余・多武峰にいたる版図をうちたてたとするのである。
 それは、わずか一〇有余年のあいだに磯城の勢力をも陵駕するという、瞠目に値する成長であった。ついには磯城氏を超える勢威ををも獲得したのである。
 これを許す条件はいくつか考えられるが、磯城葉江宗家がその勃興と発展をみながらこれを黙認するのだから、そもそも葉江に敵対する人物である筈がない。同母ないし異母の兄弟ほどの近親ではなかったかと思う。これが自然な考えかたである。
 そもそも古事記が十市県主大目と書くのを、書紀が磯城県主大目と書いていることが、これまでも十市氏の出自を磯城氏の同族とする理由であった。十市氏の出自においてはもっとも穏当な見解であろう。しかしこれはそうとも限らない。
 磯城氏がこれを許す条件については、全く別のみかたもある。
 この十市の版図が磯城の範囲と峻別される、いわば真新しい開拓地域とみられ、なお丁度磯城の範囲を西から取り巻くように囲っている。もともと都邑の点在としても、このエリアの意味するところは磯城氏との商業的競合を引き起こすものであったと思われる。
 磯城葉江宗家がこれを許すのでなく、何か別の権利をもった人物がこの占拠と膨張を始め、磯城の勢威が衰退していくのを見ながら拡大の一途を辿った。葉江はこれを制止する腕力をなぜか行使しなかった。
 もともと磯城と競合するのだから、文脈はこの方が納得しやすい。すると磯城に並ぶ姻族の貴種をもち、なお磯城の西部一帯を侵食して短期に巨大な勢威をもつに至った十市氏の出自は、つまりは磯城氏ではないのである。

磯城氏の後裔と十市氏の後裔β

 確実を期すために対比上、磯城氏の後裔をきちんと捉えておこう。その一氏は三輪氏という。三輪氏が三輪の地に入った次第は次のようであった。
 崇神五年から国には疫病が流行った。崇神七年に憂えていた崇神にこういう夢懸かりがあった。

 自ら大物主と称りて曰はく、「国の治まらざるは、是吾が意ぞ。若し吾が子大田田根子を以て、吾を令祭りたまはば、立に平ぐなむ」とのたまふ。
 天皇歓びたまふ。布く天下の告ひて、大田田根子を求ぐに、即ち茅淳県の陶邑に大田田根子を得て貢る。
 大田田根子に問ひて曰はく、「汝は其れ誰の子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「父をば大物主神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。
 即ち、大田田根子を以て、大物主神を祭る主とす。

 次章の課題であるからここでは簡単に翻訳しておく。崇神紀五年から七年にかけてに記録される疫病は、崇神の磯城に対する反攻と討伐ならびにその後の磯城氏滅亡をいうのである。すなわち磯城県主家は崇神七年のときに滅び、その直後からその遺民が跳梁した。
 その後を継いだのが三輪氏というのは、事実上崇神が磯城氏の後裔三輪氏を据えてもって遺民を慰撫したことをいうであろう。すると三輪氏の出自はこれに条件があった。摂津三島出の葉江宗家に比肩しかつ近しくなければならなかった。それが和泉茅淳である。
 大田田根子は、和泉茅淳の陶津耳の女活玉依媛と三輪大物主神その実磯城津彦の後裔であった。先述のように神武紀にある七媛女の内訳は、摂津三島・河内川俣であった。これらの伝承はひょっとするともとがひとつで、磯城宗家が要するに摂津ならびに河内(あるいは河内から分かれた和泉)の双方にかかわっていたことを示唆するかも知れない。
 さて大物主神は大田田根子の三輪氏がこれを奉祭したが、先のようにその後の磯城の地には磯城県主家というものがあった。後世のものであきらかに葉江宗家のそれではない。磯城金屋の地にある磯城御県坐神社を祀って後世まで足跡を残すが、勢力は三輪氏に劣っていたらしい。
 これも磯城氏の流れにみえて実はそうではなく、後に磯城の出自の女を娶ってその家名と祭祀を受け継いだ、物部氏の系であったらしい。とはいえ女系では繋がっている。
 旧事本紀天孫本紀には、物部祖伊香色雄が磯城の女真鳥媛を娶って一子を生んだとある。それがその後を伝世した磯城県主家である。後世の磯城県主家も饒速日の後裔を標榜しているから、この辺りの文脈は正確であると思う。
 さらに河内にも志紀県主があった。志紀郡にて志貴御県坐神社を祀る。これもしかしその祖を磯城県主とするのではない。大田田根子とするのでもない。祖を多氏とおなじく神八井とする。
 多の地は十市郡の内で十市御県坐神社のある十市町に隣接する。河内の志紀郡がかなり後に出現しているものなら、多氏とのかかわりもまた問われなければならない。多氏の派生である河内の志紀氏が志紀という磯城氏の名をもつのは意味深長である。
 これは多氏でなく、磯城氏の生き残った後裔氏族か、もしくは前述のようにのちに十市氏が版図としたために、磯城氏の名をも仮冒した十市氏の後裔をいうかのどちらかであろう。磯城氏はしかし必ず滅びているとみられるから、これは後者であろう。
 つまり河内の志紀県主家は磯城氏を標榜した十市氏の後裔かも知れない。
 戻って十市県主家の伝承をみていこう。磯城県主家に似ている。十市県主家もまた磯城県主家のような推移があるかも知れない。傍流のそれであった。
 十市氏にはいくつか異なる伝承を伝えることがあるが、その一つが天神本紀に、饒速日降臨の際に「五部人を副えて従と為し、天降り供奉す。その一、十市部首等祖・富富侶」と書くことである。富富侶は多・大・飫富に似るが、十市氏の係累に後の多氏が入っていることを示唆し、河内の志紀県主ともかかわるようで面白い。これはまた饒速日氏ともかかわりがあったことをいうから、磯城県主の後裔が饒速日氏だったという伝承と二重に似る。
 十市県主系図はさらに異説なそれである。これによると十市氏の祖は大国主神の子たる事代主神であった。天孫でなく国神(地祇)の系譜である。極めて大田田根子の出自に似ている。<

        十市氏系図
        ============================================
        十市氏                                大王氏
       --------------------------------------------
       事代主命                                
         |
       鴨王命                                  神武
         |                                       |
       大日諸命(春日県主・武研貴彦友背命)    綏靖
         |                                       |
       大間宿禰(春日県主)                    安寧
         |                                       |
       春日日子(春日県主)                    愨徳
         |                                       |
       豊秋狭太彦                              考昭
         |                                       |
       五十坂彦(十市県主)考昭時春日改称十市  考安
         |                                       |
       大目彦(十市彦)                        考霊
         |                                       |
       倭G彦(十市県主)中原連祖              考元
       =============================================

 参考に大王氏の代々も載せた。
 この系図は偽書といわれている。偽書というのは後世の意図的な捏造をいうが、その趣旨でいうかぎりはこの系図は偽書とはいえない。ただ信頼性が低いだけである。系譜の架上は書紀でもまたそうなのであり、その点は理由があってのことであった。事実この系譜はあきらかに書紀の王代系譜に準拠している。書紀は知られるかぎりの伝承を整理した結果、本文で記述しきれない異同をいくつかの一書としてこれを併載した。この意味では古事記は本文のみであり、異伝はこれを伝えない。書紀の一書は古事記のそれと類似する内容を載せているから、古事記ないし古事記のもととなった史料もまた参考にしているのである。
 われわれに書紀と古事記の二書が一応の国家編纂史書として残っているのは幸いなのであろう。書紀の文脈のとりきれないところを古事記が補填してくれる。
 ともあれこの十市系図はとりあえず大王氏の系譜に準拠しているが、これはとりもなおさず書紀のそれにしたがって、大王代にあらわれる十市らしき人物を按分して再配備しているのである。
 書紀・古事記の編者が、矜持をもって天皇記・国記等を遵守したように、これらの編者もまた書紀・古事記の記事を遵守してこの記事を書いたのである。
 大王氏の系譜がこれまでの検証で、兄弟を父子とした結果から輻輳した以上、十市氏のそれもそうならざるをえない。ただそうした場合でもいくつかの背景はみてとれる。
 まず十市氏の祖がいわゆる国神であったという伝承である。事代主はいうまでもなく大国主の子であり、書紀によれば神武の外父にあたる。同時に事代主を古事記に照らして大物主におきかえれば、十市氏の出自もまた磯城の一族であったということになる。これは三輪氏も同様である。
 今一つ十市氏には独自の系がある。磯城津彦を祖とする系譜である。磯城津彦は安寧子のことであるが、大王氏とはかかわりなく、ただ磯城の首長をいうであろう。ここではこの不思議な系譜があとの参考になることをいっておこう。すくなくともこれが十市氏の正系の系譜であるためである。
 ここまでのところで十市氏の正嫡は磯城氏とちがって、一応後世に残っていったとみることができるが、果たしてそうであろうか。ちなみに滅びる前の磯城氏(葉江家)と三輪氏との違いは、そもそもその共通の祖たる大物主すなわち磯城津彦から分かれているのである。
 三輪氏の系譜が大田田根子にいたる事実上三代を経るあいだに、磯城氏もまた葉江からその女阿久斗比売またその兄弟の子までの三代があった筈である。その系譜は残らなかった。書紀・古事記に散見できるなかにある可能性が残るだけである。むろん後の磯城県主家は物部氏から入っているためになお残らない。
 またこういうことがある。その後の磯城県主家は三輪氏とともに三輪山山麓に居住したが、その勢力は三輪氏に及ぶものではなかった。磯城御県坐神社を奉祭するこの氏族はそのスタートの時期からすでに小氏族であったのである。
 この点十市氏の立場もまたそれに似る。後世中原氏として地方豪族的に発展するまでは、磯城県主とおなじく十市御県坐神社を奉祭する小氏族にすぎなかった。後のこの十市氏はかならずや本来の十市氏の宗家の後裔ではなかった。ただその大日諸から大目・倭Gに至る系譜は、もともと十市氏宗家の伝承にあったものを取りこんだか、もしくは書紀・古事記の記述に倣ったものなのである。
 正しくはないが、十市氏宗家の三代または四代の名称を指示するものとしていいかも知れない。
 さてまだ十市氏の本体に到達しない。この先に切口が一つある。すなわち後の十市県主家と次の節の多氏との関係が、ちょうど後の磯城氏と三輪氏との関係に類似するためである。すなわち三輪氏の本拠は磯城県主のそれとみられる磯城御県坐神社のすぐ近くに位置する。多氏のそれもまた十市御県坐神社の近隣にある。
 これを要するに磯城における磯城県主家が十市における十市県主家に該当するなら、三輪氏は多氏に該当するのである。すなわち三輪氏の奉仕する大物主神も、多氏の奉際する神に相当する。
 この場合大物主神が事実上磯城氏の祖神であれば、多氏の神も十市氏の祖神である可能性がある。さらにこの場合十市氏の本来の氏族名もこれを推測する手だてになる。
 論理的にはそうなるがどうであろうか。
 多氏の検討に入ろう。

多神社注進状β

 磯城の地には三輪山の大物主神を祀る三輪氏と、磯城御県坐神社を祀る磯城県主家があった。三輪氏が磯城氏の後裔としては正嫡とみられるのに対して、磯城県主家は磯城出自の女を娶った饒速日氏の後裔という。
 大三輪神社はもともと纒向の王者磯城氏の祭祀する神社であった。磯城氏が滅びた後、これを祭祀すべく磯城氏の近親から選んだのであろう。磯城県主家はそういう主旨によらない。大和朝廷の六県の一として、支配地たる磯城の地の安寧を祀ったのである。したがって磯城県主がその祖を磯城氏と女系で継いだ饒速日氏とするのは、必然的なものではない。ある程度の関連をもつ大和の豪族であれば過不足ではなかったのであろう。それは大和朝廷が都合で任命するものであった。
 この二者が奉祭する神社は、それぞれ三輪山の西麓と南麓にあり、互いに二キロと離れていない。
 多神社と十市御県坐神社の関係がすなわちこのスタンスに近い。すなわち現在の橿原市十市町と磯城郡田原本町多とは隣接し、互いの神社は二キロと離れていない。したがって三輪氏と磯城県主家との差違もここにあるかも知れない。つまり多氏が宗家あるいはその由緒ある後裔で、十市県主が大和朝廷から任ぜられた十市関連氏族であるということが起こりえる。
 さて多氏である。
 多氏は後の太氏であり、古事記を編纂した太安麻呂はこの氏族の出であった。いまも城下郡に多町が現存する。
 多・太・大・意富・飫富ともいい、一族は肥・阿蘇・大分・伊予・信濃・駿河・都祁・長狭・印南・石城等国造に分布する。そのために多氏族の意を氏族名としたという説すらある。大族であり後に常陸仲国造となり鹿島神宮を祀る。
 出自を肥前とする向きが多いのは、多氏がうたう杵島節という歌謡があり、これは肥前杵島に発し、付近に鹿島の地名もあるためである。しかしこの氏族は大和から発したと思う。
 その祖は神八井命より出で、十市郡飫富郷を拠点とする「多坐御志理都比古神社」を奉祭する。古事記は神八井命の後として、飫富臣・島田臣・雀部臣の祖という。
 ここで奇妙な一文をみよう。多神社に伝わる「多神社注進状」である。

  「大宮二座、珍子賢津日靈神尊、皇像瓊玉に坐す。天祖聖津日嬖神尊、神物圓鏡に坐す。神淳名川耳天皇の御世、二年辛巳歳、神八井命帝宮より降り、当国春日県に居り大宅を造営し国政を塩梅す。ここに皇祖天神を祭礼し、幣帛を陳し祝詞を啓す。県主遠祖大日諸を祀となし、奉仕せしむるなり。
 御間城入彦五十瓊殖天皇の御世、七年庚寅歳冬中、卜により八十萬群神を祭らしむるとき、武恵賀別の子にして神八井命五世の孫武恵賀前命に詔し、神祠を改めつくり「珍御子命皇御命、新寶天津日瓊玉矛等を奉斎し、社地を号け太郷という。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今多神社という」とある。

 二座は夫婦また兄妹を祀る習いであるから、ここでは主神の一座のみ取り上げよう。注進状の表記は「珍子賢津日靈神尊」とあり、また「珍御子命皇御命」ともある。同一神であろう。
 概要は以下のようである。
 綏靖の二年神八井がここ春日の地に住み朝政をみた。また皇祖を祀るに県主遠祖春日大日諸に司どらせた。崇神の七年神祠を改めて立て神霊を祀って、社地を太郷と名づけた。そのため昔春日宮、今多神社という。
 非常に分かりにくい。
 大体この坐神の名「珍子賢津日靈神尊」「珍御子命皇御命」は要するに「珍彦尊」であろう。すると社の名称である「多坐御志理都比古神社」とどうかかわるのであろうか。ほとんど関連がない。
 論理的にはこれがすなわち多氏の祖神であろう。三輪氏の例からしてそうなる。珍彦尊と御志理都比古は本来同一人物でなければならない。
 そこはもと春日宮といったという。皇祖高皇産霊を祀るに、その神八井が県主大日諸を神官としてこれにあてたのだという。書紀にも綏靖の后妃の父としてこの春日県主大日諸が登場する。春日県主大日諸は十市大目と同一人物であろうから、これは考霊・考元の母后たる十市県主太(大)真稚その人である。そしてその後多神社となった。
 十市氏系図もこれに註して、十市県はもと春日県といったが考昭の時代に変更になったといっている。期せずして一致するがどうであろうか。
 この種の記録をまじめにとることが意味あることかどうかは、いまは問わないでほしい。そうかも知れないしそうでないかも知れない。要は絡まった糸の先端をみつけられる可能性があるうちは、これを進めてみたいのである。
 するとここで神八井が祖神高皇産霊を祀るにあたって、祭祀を十市県主太(大)真稚にさせたという伝承は、一体どういう意図をもつであろう。その祭祀の対象も「珍彦尊」と「多坐御志理都比古」という二つ名をもつ祖神であった。
 文脈からすれば、後に多氏と呼ばれた氏族こそ、この時期のこ地に入って祖神を祀り、勢力を拡大していった主人公であった。その地から十市御県坐神社がわずかな距離でしかないことが当初からの問題であった。つまるところ多氏が、太氏・大氏・意富氏・飫富氏であることが唯一の鍵であろう。
 神八井が春日宮(多神社)の神官にあてたという十市県主太(大)真稚彦こそ多氏の祖なのである。
 そして神八井が多氏の祖と伝承されるからには、綏靖の兄たる神八井に仮託して、綏靖とともに手研耳弑逆に協力した氏族もまた多氏なのである。
 すると多氏こそ全き十市県主宗家の後裔にみえるが、これも三輪氏が磯城葉江宗家の後裔ではなかったことからすれば、そうではなかろう。そこまでみる可能性は少ないと思う。
 多氏は太氏・大氏・意富氏・飫富氏ともいった。この際十市県主の宗家たる太(大)氏に倣って、太(大)氏とりわけ太氏に表記を統一しておこう。太安萬侶の太氏である。
 それでもまだその祖神の名称が問えない。神八井ではないのである。「珍彦尊」あるは「志理都比古」なのである。
 話をすこし迂回して、とりあえずおなじ神八井を祖とする河内の志紀県主家をみてみよう。
河内の志紀県主家は、雄略のときに初めて挿話に記録される。
 雄略が日下の直越えのとき山上に河内の国を望んだとき「堅魚を上げた舎屋をつくれる家」あって、これは大王のつくる家だとして焼こうとした。家の主を問うと志紀の大県主の家という。この話は大県主が謝して幣物を奉って許されるというものだが、その勢威を誇った挿話のように思える。
 いずれにせよこの志紀県主家は、のち首・宿禰・朝臣となり後世まで栄えるが、その同族とともに神八井の子孫と称する。
 もしこの家がその名の由来たる大和の磯城からでたものであれば、大和の磯城県主とのかかわりが問題になろう。葉江宗家とはもとより関らない。葉江の家は滅びている。
 大和の磯城県主家は前述のように饒速日氏後裔であった。磯城氏の名跡は女系で磯城県主にひきつがれたのであり、河内の志紀県主家がこの同族であれば、おなじくその祖を饒速日氏ないし物部氏としなければならない。そうではない。河内の志紀県主家はその祖を太(多)氏とおなじ神八井というのである。
 したがって論理的なそれは、志紀県主家が一時磯城氏ともなった巨大な勢威を張った時代の十市氏から出たとみることである。十市氏がときにその版図からして磯城氏と称したあとに、すなわち十市氏が滅びてのち、その傍流から発したとすべきであろう。
 ちなみに多神社注進状には、崇神のとき多の宗家は武恵賀別といったとある。武恵賀前という人物も出てくる。この語根はむろん「恵賀」であろうが、恵賀はそもそも買う地志紀の地名であった。恵賀川の地名もある。
 もとに戻ると、問題は依然としてその多氏の祖神として祀る多神社の神が「御志理都比古」ということである。祭神が「珍彦尊」ということである。
 これから先には進めない。別の関連を求めなければならないが、ひとつだけありそうである。十市氏の版図ととくに磐余周辺で一部交錯していたのではないかと思われる大倭氏である。倭氏ともいうが大倭氏が本然である。
 その開祖は椎根津彦であった。亦名を珍彦ともいいその出自は山城の内または宇治とみられた。
 大倭氏をみてみよう。

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