第四章 御間城入彦五十瓊殖と伊香色雄β

第一節 御間城入彦五十瓊殖β

磯城氏の衰退β

 綏靖から開化までを欠史八代という。いずれも治世記事がなく、后妃と子孫系譜ならびに宮城と山陵の場所が記載されるばかりである。しかしながらこの后妃・子孫・宮城・山陵からそれぞれの大王の去就は、これを押し測ることが不可能でない。姻族磯城氏とその後を襲った十市氏の背景がおぼろげながら映っているからである。
 神武が大和に入って磯城氏を姻族とした時、その版図は畝傍から磐余にかけての一帯に過ぎず、磯城の地おそらく後の磯城郡一帯を領していたのは磯城氏であった。神武のよって立ったところは、王権の思想と矜持であり、実質的な大地の支配ははるかに劣っていたのである。
 神武から綏靖・安寧・愨徳の四代の時代は、いわば姻族たる磯城氏全盛の時代であったと思われる。いずれの宮城・山陵も畝傍周辺にあり、后妃は磯城氏出自の女であった。
 神武の后は葉江の妹媛蹈鞴五十鈴媛(比売多多良伊須気余理比売)、綏靖の后は葉江の異母妹川俣媛であった。川俣媛が葉江からすれば傍流であったとしても、後に磯城氏の祭祀を行なった大田田根子が和泉茅淳の出自であったことからみると、河内川俣の出自は葉江宗家に近いものがあった筈である。
 安寧の后は阿久斗比売といい、阿久斗は摂津芥川に由来するとみられるから、これも葉江宗家の女という伝承を傍証する。愨徳の后は天豊津媛という一見抽象的な名であるが、この豊の名称は後の豊城入彦ならびに曙立王の顕称「倭者師木登美豊朝倉」にでてくるから、磯城の範囲の一部を指すであろう。葉江女の一人とみなせる。
 愨徳の子はその子孫系譜にかかわらず、武石彦奇友背命(多芸志比古)一人とみられる。武石と多芸志は音通で武磯城の意であろう。武の名称は武威をあらわすようであるから、大王氏第二世代の時代にあって、磯城氏の側に立った大王氏出身の実力者の伝承が残ったかも知れない。
 ひるがえって愨徳に子がなく、天豊津媛がひたすら武石彦の母ないし出自を示唆するために記録されたとみれば、筋道はこれとは逆で、武石彦はたまたま大王氏の子孫たる愨徳に仮託された、磯城氏そのものかも知れない。その場合武石彦は葉江宗家の嫡流でなければならない。

 
      愨徳
         |
         +----+----考昭(観松彦香殖稲)
         |    +----武石彦奇友背命(多芸志比古)
        |
      天豊津媛

 愨徳の後を継いだ考昭と考安の母は、それぞれ川俣媛と瀛津世襲足媛であった。その子孫系譜はほとんど意味をもたず、系譜をはじめ葛城にかかわることに、書紀の多くの作為があったことを認めれば、考安の即位はなかったかも知れない。その場合は考昭が考昭・考安の時代を通して治世したとみるべきであろう。考昭は綏靖と葉江宗家の異母の妹から生まれていて、后妃は不祥あるいは伝承にも残らなかった。磯城氏の影響は強かった筈である。
 神武から考昭・考安にいたる六代の治世については、つぎのような係年が推定された。
 延べ三五年間であった。第二章の表を参照する。  

 
  大王一〇代通紀年譜(修正)
  =====================================================
   干支 西紀   紀年         即 位・治 世 
   =====================================================
   己 酉 289                                           
   庚 戌 290    五瀬                                    
   辛 亥 291     1                                      
   壬 子 292     2                                      
   癸 丑 293     3                                      
   甲 寅 294     4                                      
   乙 卯 295     5                                      
   丙 辰 296     6                                      
   丁 巳 297     7                                     
   戊 午 298     8    神武                              
   己 未 299     9     1                                
   庚 申 300    10     2                                
   辛 酉 301    11     3                                
   壬 戌 302    12 *   4    五瀬12・神武没(鳥見山記事)  
   癸 亥 303    13     5    (手研即位)                  
   甲 子 304    14     6                               
   乙 丑 305    15     7    綏靖                        
   丙 寅 306    16 *   8     1   五瀬16・手研弑逆 綏靖即位
   丁 卯 307    17     9     2                          
   戊 辰 308    18    10     3                          
   己 巳 309    19    11     4                          
   庚 午 310    20    12     5                          
   辛 未 311    21    13     6                          
   壬 申 312    22    14     7                          
   癸 酉 313    23    15     8                         
   甲 戌 314    24    16    9 *  安寧  綏靖9・綏靖没
   乙 亥 315    25    17    10     1                    
   丙 子 316    26    18    11     2                    
   丁 丑 317    27    19    12     3                    
   戊 寅 318    28    20    13     4                    
   己 卯 319    29    21    14     5                  
   庚 辰 320    30    22    15     6   愨徳             
   辛 巳 321    31    23 *  16 *   7    1  神武23・綏靖16
   壬 午 322    32    24    17     8    2               
   癸 未 323    33   25    18     9    3              
   甲 申 324    34    26 *  19    10    4   考昭 神武26 
   乙 酉 325    35    27    20    11    5    1          
   丙 戌 326    36    28    21    12    6    2          
   丁 亥 327    37    29    22    13    7    3         
   戊 子 328    38 *  30    23 *  五瀬38・綏靖23  考安   
   己 丑 329    39    31    24    15    9    5    1     
   庚 寅 330    40    32    25    16   10    6    2     
   辛 卯 331    41    33    26    17   11    7    3     
   壬 辰 332    42    34(*) 27    18   12    8    4    
   癸 巳 333    43 *  35    28  五瀬43・辛酉神武33 5   考霊
   甲 午 334    44    36    29                    6    1
   乙 未 335    45    37    30                    7    2
   丙 申 336       38    31                    8    3 
   丁 酉 337        39    32                    9    4  
   戊 戌 338          40    33                   10    5 
   己 亥 339          41    34                   11    6 
   庚 子 340          42    35                   12    7 
   辛 丑 341          43    36                   13    8  
   壬 寅 342        考元   37 *  綏靖37考霊没   14    9  
   癸 卯 343           1                         15   10 
   甲 辰 344           2                         16   11
   乙 巳 345           3  開化  考安17・考元没    17 * 12
   丙 午 346           4    1                    18   13
   丁 未 347           5    2                    19   14
   戊 申 348           6    3                    20   15
   己 酉 349           7    4                    21   16
   庚 戌 350           8    5                    22   17
   辛 亥 351           9    6  崇神 考安23・崇神0 23 * 18
   壬 子 352          10    7     1              24   19

 神武から考安にいたる三五年間を経過して以降、磯城氏の勢威はそのまま維持することはなかったと思う。
 太(大)氏・十市氏の勢威が高まってきていたのである。
 神武以来倭国造に封じられた椎根津彦が、磐余を本拠に急速に膨張しつつ多の地から穂積長柄の地まで包括していったことは、前章に述べた。十市氏の勢威が事実上磯城氏のそれと拮抗するか、あるいは陵駕するに至ったのが、考昭・考安の次代を襲った考霊・考元の治世の時代であったと思われる。
 考霊・考元の父は綏靖、母はいずれも椎根津彦の妹たる太(大)真稚媛である。十市宗家の正嫡といっていい。考霊の宮も多の地の北方黒田の地にあった。陵墓も城下郡の西端にある。ただし考霊の后妃は蝿某姉・蝿某弟といわれる、十市氏と恐らく磯城宗家葉江の同母の妹がら生まれた女であった。
 考霊の治世の時代は、十市氏と磯城氏の勢威がまだ拮抗していた時代とみなすべきかも知れない。
 その考霊の即位は先の表にしたがって、西紀三三四年、治世は九年で西紀三四二年に没したとみられる。神武即位元年からすれば延べ四四年間である。
 考元がその後を継いだ。翌年が即位元年(西紀三四三年)。
 そして考元こそ母方の血も后妃も、ともに十市氏出自である大王の嚆矢であった。母は考霊とおなじ十市太(大)真稚媛、后妃は十市氏と穂積女また他氏族の女から生まれた欝色謎・伊香色謎である。
 考元の宮城と山陵はともに畝傍周辺に戻っているが、これはさしたる意味をもたぬであろう。大王氏の最初の姻族であった磯城氏は、十市氏に肩を並べられ、ついに追い抜かれたことになる。さらにその考元の子開化と崇神は、もはや磯城氏とは何のかかわりももたなかった。
 このいわば磯城氏の時代を通じて、今後のために想定しかつ認識しておくべきことがある。
 考霊・考元の時代に磯城葉江宗家の首長は誰であったであろうか。また十市氏宗家の首長は誰であったであろうか。
 前者についてはすでに指摘しておいた。候補があるとすれば、武石彦奇友背(多芸志比古)であろう。その後書紀・古事記とも磯城出自らしい人物の後裔を記録しないことには注意がいる。この章のテーマに関係するが、後に三輪山つまり磯城氏の祭祀を行なったのが和泉茅淳の大田田根子で、磯城県坐神社の祭祀者が磯城の女を娶った物部一族であったという伝承は、正系としての磯城葉江宗家が、どこかの時点で滅びてしまったことを示唆するである。  磯城氏の後裔らしきものとして後世に残ったのは、この二者に限るのである。
 後者の十市氏宗家の首長は全くの不祥である。
 ただこれについても論理的に推論できる余地がある。十市氏の宗家はいくつかに分かれたらしく、その祖も神八井・椎根津彦・磯城津彦などいくつかの伝承をもつ。前章に述べたようにこれらは同一人物であるから、伝承の多様さに比例して、十市氏の広範な子孫展開がすでにあったことを示唆するであろう。
 うち神八井から多(太・大)氏と河内志紀県主家が後々まで伝世し、磯城津彦からは十市首家・十市宿禰家などが伝えられ、椎根津彦からは大倭氏として倭大国魂神の祭司者祀が伝えられた。またその出自である南山城の内(宇治)氏もその一族であった。
 十市氏宗家にもっとも近いものを挙げるとすれば、やはり神八井の後裔とする多(太・大)氏であろう。ただ事実上姻族の系譜を継いだのは南山城の内氏であった。その勢威の継承からすれば、内氏すなわち後の気長氏こそ十市氏宗家嫡流の後とすべきかも知れない。
 ひるがえってその勢威が膨張したとみられる考霊・考元の時代には、椎根津彦の子たる十市氏宗家の首長は唯一人であった筈である。
 大王氏に大きな影響を与えるべきこの人物の特定には、おおまかに二つのアプローチがある。
 椎根津彦が安寧の子磯城津彦の子に仮託され、一方で神武の子で綏靖の兄という神八井に仮託されていたことが参考になるであろういずれも大王氏への仮託なのである。
 まず安寧の系譜をみてみよう。そこに椎根津彦の子たるべき人物の影がみえるであろうか。
 みえると思う。常根津彦某兄がそれである。

 
  安寧
(磯城津彦玉手看)+------息石耳 *常根津日子伊呂泥
     |           |
     |           |
      +-----------|------愨徳 
      |           |  (大日本彦耜友) 
      |         |
 淳名底仲媛      |
                 +------磯城津彦-----和知都美-----蝿某姉
                                                蝿某弟

 書紀は愨徳・磯城津彦の長兄として息石耳を記録する。一書で第一子を常根津彦某兄とも記録するから、息石耳と常根津彦某兄は同格なのであろう。古事記は常根津日子伊呂泥だけを載せる。
 世代を動かしてみれば一目瞭然だが、某兄(伊呂泥)の名称は蝿某姉(蠅伊呂泥)・蝿某弟(蠅伊呂杼)と並行する。常根津彦某兄(常根津日子伊呂泥)とあるのは、磯城津彦の子和知津美の子である蝿某姉・蝿某弟の長兄にほかならないと思う。
 表は次のように修正される。

 
                                                           
  磯城津彦------椎根津彦-----+--息石耳・常津彦某兄
(磯城彦)      *和知都美    |        (常根津日子伊呂泥)
                *神知津彦    |  
                             |
                             +--蝿某姉(蠅伊呂泥)
                             +--蝿某弟(蠅伊呂杼)
  

 椎根津彦と磯城葉江宗家の女から生まれたこの男子こそ、まぎれもなく十市氏宗家の嫡流の首長であるべきであった。
 常根津彦の常は不祥だが、根は「椎根津彦」とおなじく磯城の地以外の大地(国)をいった。山城もまた根の称号をもったらしい。山城国造は凡河内国造とおなじく天津彦根を祖とするという。山城風土記に「大穴持命の子山代日子命の坐す国」という。むろん太(大)氏・十市氏の版図で、その版図のなかに山城も含まれたのであろう。
 ちなみに安寧の后として書かれる系譜のうち、事代主神の孫にして鴨王の子たる「淳名底仲媛(淳名襲媛)」については、これを第二章で棚上げしておいた。書紀本文に記述するこの淳名底の底(襲)は、「常」の意であろう。常世ともいい「根国」を指示すると思う。したがってここに淳名城底仲媛が登場するのは、安寧の后でなく愨徳の母でもなく、ひたすら常津彦某兄の母を指示するためであると思う。
 母でなく出自の由来ということであれば、これまでの文脈からして、十市氏にして山城に本拠をもった人物の存在をここに示唆するのである。珍彦(内彦・宇豆彦)といい、神知津彦(山背彦)という椎根津彦その人がすでに太(大)氏・十市氏にして、南山城の首長であった。その子孫のスタンスも明らかであろう。
 常根津彦某兄の亦名とみられるの息石耳の名称も、改めてこれを見直したい。奥磯城の意である。
 奥磯城の地はむろん磯城の地にあるのではない。新城が添上の地にあったように、奥なる地にあった磯城氏の分かれをいうのであろう。奥磯城が奥城ともいったのであれば、奥磯城の後世的な名称は、つまるところ「瀛」に違いない。瀛は後の気長の語根である。山城の地を指すらしく思えるが、そうであろうか。
 山城の地そのものをいった可能性はあるが、かなり微妙な点もある。もともとは佐紀の地一帯をいって、その後南山城の地一帯を総称したかも知れない。南山城が佐紀と一体であったらしいことは、後の佐紀古墳群の被葬者たちが、いずれも南山城に本拠をもっていたことと機を一にする。雰囲気的に奥磯城の名を冠するのにふさわしい感じがある。
 いずれにせよ常根津彦某兄・息石耳の名だけでは、ここでの議論は尽くせない。十市宗家たるこの人物には、かならず異なる登場の仕方をする亦名があるであろう。巨大な勢威もあった筈である。
 その勢威の象徴として古墳を取り上げれば、この時代すなわち考昭から考霊・考元の治世の時代に、南山城の地に巨大なそれが出現していた。息石耳・常根津彦某兄が十市氏宗家にして南山城にかかわるなら、この古墳の出現する背景は検討を要すべきである。

十市氏の膨張β

 古墳前期にして草創期とみられる大和の古墳は、次のようであった。 

 
 
252.3------------------------------------------------------
                                          |          |
266.7-------------------------------------|  纒向1式 |石塚 
                                          |          |
280.9------------------------------------------------------
                                          |          |
295.2-------------------------------------|  纒向2式 |黒塚 
                                          |          |
309.4------------------------------------------------------
  愨徳|         |箸墓 葛本弁天塚 中山大塚 馬口山     |
323.7 | 埴輪0期 |---------------| 布留0式 |  纒向3式 |     
  考霊|         |西殿塚 桜井茶臼山 椿井大塚山        |
338.0------------------------------------------------------
  考元|         |               |         |          |
352.3 | 埴輪1期 |東殿塚 メスリ山| 布留1式 |  纒向4式 |     
  崇神|         |               |         |          |
366.7------------------------------------------------------
  垂仁|         |行灯山 櫛山 東大寺山 佐紀陵山       |
380.9 | 埴輪2期 |---------------| 布留2式 |  纒向5式 |     
  景行|         |渋谷向山 巣山 佐味田宝塚 津堂城山   |
395.2------------------------------------------------------
  仲哀|         |室宮山         |         |                
409.4 | 埴輪3期 |---------------| 布留3式 |----------------
      |         |               |         |               
423.7---須恵器---------------------------------------------

 西紀三三〇年代から三五〇年代にかけて、西殿塚・桜井茶臼山・椿井大塚山古墳、ついで東殿塚・メスリ山が出現している。絶対年代は推論の性格上細部にわたってはこれを援用できないが、おおまかには当てはめてそう誤りはない。西殿塚は欝色謎の墓であろうと指摘した。桜井茶臼山は蝿某姉、東殿塚は伊香色謎、メスリ山は蝿某弟のそれであろう。
 いずれも太(大)氏の祖椎根津彦の女であるために、その姻族の墓が穂積長柄と桜井の地にあることは象徴的であった。そこが厳密な意味で太(大)氏の本拠地であった。後世のそれからする太(大)氏の版図は、多神社の地を起点に後の十市郡を一帯をなぞって、東南に斜めに伸びて、磐余から宇陀郡にいたる版図と、さらに穂積の地から磯城の地まで擁するそれを併せたものであったと思われる。広大な「倭」の地である。とくに桜井磐余の地はその発祥地であった。
 年代的には同時期とみられる椿井大塚山古墳は、これらと地理的に離れている。
 この古墳は桜井茶臼山や西殿塚と時代的に並行し、東殿塚・メスリ山には先行するらしい。むろん大王氏の嚆矢たる前方後円墳、行灯山(崇神陵)・渋谷向山(景行陵)にはさらに先立つ。
 つまり南山城相楽の椿井大塚山古墳は四世紀前半にできた。
 考古学的な見地からする椿井大塚山古墳の被葬者は、これに続く列島の主要な古墳の被葬者に三角縁神獣鏡を配布した主人公である。配布でなく交易であろうが、その交易の範囲がそこまで広域であったことは明らかである。すなわち三角縁神獣鏡の古墳前期(四世紀前半)副葬とみられる古墳は、静岡・岐阜・京都・大阪・奈良・兵庫・岡山・香川・鳥取・福岡・大分にわたっている。このうち京都・奈良・岡山・福岡に出土数が多い。
 大和では先の桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳に三角縁神獣鏡が出土する。
 考古学的な史料と文献学的な史料は、本来並行的に並べることはできないが、この時代にこれだけの地域と交流をもった巨大な勢威の主は、書紀・古事記の記述にも現れる、然るべき人物でなければならない。
 ひるがえって椎根津彦二世たる常根津彦某兄(息石耳)が、太(大)氏・十市氏の宗家としてここにかかわるなら、文脈として大和における十市という都邑商業都市群は、すでにその役割を終え、さらなる交易の拡大をもとめて、列島の北部ならびに西部への一大交易拠点たる南山城に本拠を定めたのでなければならない。
 そしてその間に常根津彦某兄あるいは息石耳が登場することがない以上、その主体者は、全くの別名で登場していなければならない。椎根津彦が安寧第三子磯城津彦の子に仮託されるとともに、神八井に仮託されたことに倣うべきであろう。
 綏靖・安寧・愨徳・考昭・考安までについては、これ以上何か仮託されたという形跡はみられない。考霊・考元・開化以降ということになる。考霊と考元は大日本根子の謚をもった。考元の子開化は稚日本根子の謚をもった。それぞれの治世下については、書紀・古事記とも然るべき記録をもたない。
 辛うじて古事記に、考霊の子彦五十狭芹(大吉備津彦)と稚武吉備津彦の二人が「播磨の氷河の前に忌瓮を据ゑて、播磨を道の口として、吉備国を言向け和す」とある。これは書紀の崇神紀にある四道将軍の記事と連動するらしく、考霊・考元の時代ではないようである。
 ただ考霊・考元・開化の治世については、綏靖から考安までとは違う、子孫系譜の複雑多岐な表記というものがある。特に古事記においては著しい。
 書紀の記載をベースとする。古事記の表記は*印をふった。  

               
                  母:細媛
        考霊+-----根子彦国牽(考元)
            | 
            |     母:倭国香媛(蝿某姉)
            |         *意富夜痲登玖邇阿禮比売
            +-----倭迹迹日百襲姫
            |    *日子刺肩別
            |    彦五十狭芹(吉備津彦)
            |    倭迹迹稚屋姫 *倭飛羽矢若屋比売
            |    
            |     母:倭国香弟(蝿某弟)*蠅伊呂杼   
            +-----彦狭島 *日子寤間
            |    稚武彦 *若建吉備津日子
            |    
            |     母:*春日千千早眞若比売
            +-----*千千早比売

 
                  母:欝色謎   
        考元+-----大彦
            |    根子彦大日日(開化)
            |    倭迹迹姫 *少名日子建猪心
            |    
            |     母:伊香色謎   
            +-----彦太忍信
            |    
            |     母:河内青玉繋女埴安媛   
            +-----武埴安彦


                  母:伊香色謎  
        開化+-----御間城入彦五十瓊殖(崇神)*御眞木
            |    *御眞津比売
            |    
            |      母:丹波竹野媛  
            +------彦湯産隅
            |    
            |     母:和珥祖妣津妹妣津媛 *意祁都比売   
            +-----彦坐
            |    
            |      母:*葛城垂水女鷲比売
            +-----*建豊波豆羅和気        
            
  

 これらの系譜のうち、それぞれの大王の父子関係はむろん仮託で、考霊と考元は綏靖を父とする同母兄弟であった。いずれも十市氏の太(大)真稚媛から生まれた。同様に考元と欝色謎から生まれた開化と、伊香色謎から生まれたという崇神は異母兄弟であろう。父はいずれも考元であった。
 伊香色謎が考元の妃であったと記録し、なおかつ開化の后と書くためであるが、これはむろん考元の妃が正確である。開化の后とするのは、開化の後を襲った崇神を開化の子とする書紀の便法にほかならない。伊香色謎は開化とは何の関係もなく、ひたすら崇神の母后を指示するのみである。
 今一人垂仁がいる。
 すでに第一章から触れてきていたが、垂仁は考霊の子であったとみられる。垂仁紀が考霊紀からできていることがその証左であるが、それでなくとも垂仁と立太子を試される豊城入彦が、崇神の斎宮豊鋤入姫の兄であることが示唆的である。後にみる崇神紀六年条の記事がそれである。この世代交替の早い時代には、自らの王女を斎宮に立てることは年齢的にできなかった。斎宮はかならず同母の妹、あるいは異母妹など近親のそれでなければならなかった。  豊城入彦と世代をおなじくする垂仁は、開化・崇神とも同世代であるべきであろう。従兄弟ということになる。その母后については今触れられない。
 とりあえず考霊・考元・開化の系譜を修正してみておこう。

 
       倭国香
         +------------倭迹迹日百襲姫
         |
         +------------彦五十狭芹
         |             
       倭国香弟  
         +------------稚武彦
         |            千千早眞若比売 
     +------+        +------+
     | 考霊 |--------| 垂仁 |
     +------+        +------+ 
         |  
         |  
     +------+  
     | 考元 |
     +------+                          
         |           +------+          +-----彦坐
         +-----------| 開化 |----------+-----彦湯産隅
       欝色謎        +------+          +-----建豊波豆羅和気
         |           +------+
         +-----------| 崇神 |----------------八坂入彦
       伊香色謎      +------+                淳名城入姫
         |                                   十市瓊入姫
        埴安媛----------武埴安                大入杵
          |
        年魚眼眼妙媛----豊城入彦
                        豊鋤入姫

十市宗家二世、彦坐β

 考霊の子孫系譜は一見複雑そうだが、その子はいずれも嫡后たる蝿某姉・蝿某弟の姉妹から生まれている。彦五十狭芹と稚武彦はそろって播磨・吉備への進出が記録され、その謚も大吉備津彦ならびに稚武吉備津彦というから、間違いなく考霊の子で吉備に対する軍事的事績をもった王子であろう。その活動の時代は先のように崇神の時代まで降るかも知れない。
 彦五十狭芹の名称は垂仁の五十狭茅に似るが、これにも歴とした理由があるであろう。垂仁の出自もまたここでのテーマではないから避けておくが、五十狭の名称は「五十狭の地」を意味するらしく、彦五十狭芹および彦五十狭茅(垂仁)名も、ともに五十狭の地にかかわる事績をいうのである。
 その垂仁は、崇神と大彦の女御間城姫の子というが、大彦はむろん崇神もまた御間城姫とは関係がない。御間城姫もひたすら垂仁の母后を指示するだけである。垂仁の出自を明らかにすることは、御間城姫の出自を解くことと等価であることになる。
 春日千千早眞若比売は、「春日」の名称が彼磯城の意であれば、彼磯城は当初十市の多の地を言ったから、「真若」の名も含めて倭国香弟の別名である可能性がたかい。
 考元の子は、主たる后妃である欝色謎・伊香色謎から生まれた大彦・開化・崇神であった。以外におそらく遠津年魚眼眼妙媛から生まれた豊城入彦・豊鋤入姫があり、また河内青玉繋女埴安媛から生まれた武埴安があった。その武埴安は、武埴安の乱の時崇神が庶兄と呼んでいるから、これはかならず実在する王子であろう。
 考元の子には今一人伊香色謎から生まれた彦太忍信がいるが、彦太忍信については第一章ですでに検討した。葛城氏の祖がここに仮託されているのである。
 おおまかにはこれで考霊・考元の時代の整理がつく。その子孫系譜もたぶん不審な点はない。一部のあきらかな仮託を除いては、すべて実在する子孫であろう。
 太(大)氏・十市氏の宗家常根津彦某兄の仮託されるべき大王はいまだ見えてこない。
 最後に注目されるのは考元の子開化のそれである。
 開化自体のそれではなく、開化の子という彦坐の類をみない広範な子孫系譜が注意をひく。
 開化のそれをみてみよう。  


                  母:伊香色謎  
        開化------御間城入彦五十瓊殖(崇神)*御真木
            |    *御真津比売
            |    
            |     母:丹波竹野媛  
            |-----彦湯産隅
            |    
            |     母:和珥祖妣津妹妣津媛 *意祁都比売   
            |-----彦坐
            |    
           |     母:*葛城垂水女鷲比売
            |_____*建豊波豆羅和気        

 崇神は考元と伊香色謎の子とみられるから、ここでは伊香色謎ともども一括捨象される。丹波竹野媛の子という彦湯産隅は、その産土ないしその地に入った事績をいうであろうから、これは事績として崇神紀に記録される彦坐あるいはその子丹波道主とかかわる筈である。彦坐あるいは丹波道主の仮託伝承か、またはその兄弟の存在の暗示であろう。この辺は深く考える必要はないと思う。
 葛城垂水女鷲比売から生まれた建豊波豆羅和気は葛城氏の初出とみられるが、世代的にみれば、開化の父考元と伊香色謎との彦太忍信が影媛を娶って生んだ武内宿禰との関連がありそうである。たぶん世代も等しいから、武内宿禰の仮託ないしその兄弟であるかも知れない。
 残るのは彦坐唯一人だが、その彦坐の系譜そのものは、そもそも異常であった。
 母を和珥氏祖姥津媛(意祁都比売)といいながら、妃に意祁都比売があって、山代大筒木真若・比古意須・伊理泥を生んでいる。母と嫁の名称が同一であるという状況の導くところは、それが彦坐の出自を指示するためにだけ記録されたためであろう。
 加えて彦坐の世代的な背景は、確実に開化の子という伝承を裏切る。その子という狭穂姫は垂仁の后となっった。垂仁が娶る女の父の世代は、垂仁と父のそれと同じでなければならない。すなわち彦坐は考霊・考元と同世代でなければならない。
 すると開化の后妃は一人もおらず、その子も一人もいなかったことになる。矛盾であるが、開化が春日率川宮にいたという伝承からすれば、和珥氏の女を娶っていたのであろう。その際その名はむろん姥津媛ではない。同世代の和珥氏は崇神紀の彦国葺なのである。開化の娶った和珥氏の女は彦国葺の姉妹でなければならない。
 安寧の子孫系譜が確としてあったにかかわらず、事実としての子孫がなかったのと同様な文脈がここにみられる。  その彦坐の子孫系譜はつぎのようであった。   

 
       比古由牟須美----大筒木垂根
                       讃岐垂根
 
 
        *彦坐          母:苅幡戸辨(山代荏名津比売)   
        日子坐-------- 大俣-------曙立
                |      小俣       菟上
                |      志夫美宿禰
                |
                |     母:狭本大闇見戸売
                         (春日建国勝戸売女)
                |______狭本毘古
                       狭本毘売亦名佐波遅比売
                       袁邪本
                       室毘古
                       
                       母:息長水依比売
                          (近淡海天之御影女)
                       丹波比古多多須美知能宇斯
                       水穂真若(近淡海安直祖)
                       神大根亦名八瓜入日子
                       水穂五百依比売
                       御井津比売
                       
                       母:袁祁都比売
                       山代大筒木真若
                       比古意須
                       伊理泥
 

 このうち息長水依比売の子という丹波道主と近近江水穂真若のそれは、日子坐と同世代でなければならない。子でなく兄弟である。彦坐と丹波道主のそれぞれの子、先のように狭穂姫のみならず日葉酢媛も垂仁の后妃となっているからである。また彦坐の母と同名の意祁都比売から生まれた山代大筒木真若も、文脈からして彦坐の同母弟であろう。
 これらを修正すると次のようになる。


 
        日子坐-------- 大俣------------曙立
                |      小俣            菟上
                |      志夫美宿禰
                |
                |  
                |______狭本毘古
                       狭本毘売亦名佐波遅比売
                       袁邪本
                       室毘古
                       山代大筒木真若
                       比古意須
                       伊理泥
 
       美知能宇斯------比婆須比売
                       真砥野比売
                       弟比売
                       朝廷別
                       
        水穂真若
       近淡海安直祖----近淡海安国造祖意富多牟和気
 
        山代大筒木真若  迦邇米雷--------息長宿禰
 

 ひるがえって書紀・古事記の述べる彦坐の子孫系譜の係累は、山城から近江・丹波に及ぶ。とくに古事記によれば彦坐が婚姻によって結んだ係累は、和珥氏・春日氏・気長氏・近江安氏・丹波氏の及んだという。垂仁の后で丹波道主の女という日葉酢媛の名称も、但馬から丹波に抜ける丘陵地の地名に由来する。この広範な交流を思わせる形跡は、三角縁神獣鏡の分布との関係を髣髴とさせるてくる。
 結論をいえばこうである。
 常根津彦某兄(息石耳)という椎根津彦の嫡男は、その息すなわち瀛の名称が示唆するように、南山城に拠点をもって巨大な交易版図を運営していた人物であろう。
 彦坐その人にほかならないと思う。
 亦名の伝承ではない。その出自の名称が常根津彦某兄で、息石耳また彦坐の名称はその活動の事績によってそう謚されたのである。
 彦坐という名も特異であった。「坐」は普通「磯城御県坐神社」など神格の坐するのをいうから、この特殊な名はたとえば「山城坐山城彦」の意ではなかったかと思う。丹波道主も古事記では「丹波日子多多須美知能宇斯王」と書かれる。丹波を除けば「日子多多須」であり、これは「彦立」を意味するのではないかと思う。
 そして息石耳の「瀛」は磯城の「城・気」からの単純な転ではなく、「奥磯城」からの転であったと思う。
 崇神紀に入る前に以上の議論をまとめておこう。
 神武即位元年(西紀三九九年)から考昭・考安の没年(西紀三三三年)までの大和は、大王氏の姻族にして王者たる磯城氏の謳歌するところであった。考霊の即位(西紀三三四年)からその治世九年の間は十市氏と勢力の拮抗する時代であった。これを磯城氏の時代に含めれば、神武即位元年(西紀三九九年)から考霊没(西紀三四二年)まで、延べ四四年間が大和における磯城氏の時代であった。
 翌年が考元元年(西紀三四三年)、その考元は治世三年(西紀三四五年)で没する。開化が践祚、翌年が即位元年(西紀三四六年)。そして開化も治世六年(西紀三五一年)で没する。崇神が践祚、翌年が崇神即位元年(西紀三五二年)であった。
 考元の即位元年(西紀三四二年)から開化の治世下の六年間のどこかの時点から、磯城氏はしだいに衰退の一途を歩みはじめ、代わってすでに磯城氏を陵駕する太(大)氏・十市氏が膨張を続けていった。
 その主人公が常根津彦某兄すなわち彦坐であったのである。
 太(大)氏・十市氏の二世たる彦坐は、たぶん考霊の時代(西紀三八〇年代)から早くも南山城に本拠を移し、精力的に畿外への進出を激しくしていた。
 この間、磯城氏は磯城の地にあってなお過去半世紀、おそらく神武の侵入以前からすれば、ほぼ一世紀にわたる大和の王者たる栄光を守ろうとしていた。
 そして滅びた。
 ほかでもない、崇神がこれを滅ぼしたのである。

  崇神の登場β

 崇神は神武とよく似ている。
 神武が存在せず、崇神が大和朝廷の事実上の創始者で、後世その事績の一部を、架空の神武に仮託したという説に組みする訳ではない。筆者は大王の王代はこれを史実とみなしている。書紀・古事記の編者がそう信じていたことをよく知るためである。
 何が似ているかという点をいえば、まずその王子たる出自が似ている。
 神武が神吾田津姫の子であることはいうまでもないが、東征の指揮者で神武の兄たる五瀬は、海神の女豊玉姫あるいは玉依姫の子であった。系譜上神武も玉依姫の子とされたのは、すなわちこの海神の女が天孫の后妃としてはもっとも貴種なるそれであったことを示唆する。だから神武は仮託してまで海神の女の子とされた。事実は庶子であった。
 崇神もまた庶子であったと思う。これからの議論のテーマとなるから深くは述べないが、その証左の一つがその母という伊香色謎である。伊香色謎は考元の妃で開化の后というが、これはむろん仮構で、伊香色謎はひたすら考元の妃であって、開化と崇神が異母の兄弟であることを指示するばかりである。
 すなわち考元は穂積の宗家とみられる欝色謎を后として開化を生んだ。伊香色謎を妃として崇神を生んだ。伊香色謎は欝色謎の姪というが、出自は今一つ明らかではない。姪であってもとにかく正嫡ではない。理由あって穂積氏でもなくまた姪ですらないと思う。
 いま一つはその后妃と子孫である。崇神の子は、書紀・古事記では垂仁をはじめ豊城入彦・豊鋤入姫など多くあることになっているが、まず崇神の后で垂仁の母という御間城姫は間違いなく仮構であった。御間城姫たる名はひたすら垂仁の母を指示するのであって、崇神とは関係がない。
 すると崇神の后妃は、紀伊荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛と尾張大海媛が該当するが、このうち豊城入彦・豊鋤入姫の母という遠津年魚眼眼妙媛にも世代的な疑問がある。すなわち豊鋤入姫は崇神がこれを天照大神の斎宮とした。斎宮はその女子または妹が倣いであるから、崇神登場期のそれは世代からして妹であろう。
 遠津年魚眼眼妙媛も崇神のそれでなく、その父王考元の后妃の一人であると思う。  

          
        母:紀伊荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛
        豊城入彦       
        豊鍬入姫
      
      母:伊香色謎
        崇神+
            |   母:尾張大海媛   
            |-----八坂入彦----------八坂入媛
            |    淳名城入姫
            |    十市瓊入姫
            +-----*大入杵

 すると崇神の后妃は、尾張大海媛ただ一人なのである。すでに姻族ではなく、その子もむろん大王にはならなかった。ただ後にその女(孫女ではない)とみられる八坂入姫を景行が娶って、王統に繋がることになる。后妃でなく妃または嬪というべきであろう。
 崇神は成年に達して妃を立てた時点では、大王氏の係累のなかで傍流の王子に過ぎなかった。それが王位を継いだ。王子たる崇神に優位性が一つあったとすれば、正嫡の王子であった開化の王弟という立場であろう。それは機会をつかむためには有利であったが、正嫡を旨とする輿論のなかでは依然不利であった。時に崇神よりも適格な継承候補は別にあったと思う理由がある。
 だからここには偶然でないエネルギーの発露をみなければならない。崇神の野心と確固たる意志が発動されたと思うべきである。崇神は神武とおなじく自らの意志と行動によって王位を奪った。そしてこれからの話になるが、大地を切り取って広大な版図を確保した。磯城郡である。その画期の事績が、崇神をして神武に匹敵する第二の創業者としたのである。
 とりあえず崇神紀をみてみよう。崇神紀は実開化紀でできている。そのまま理解していいかどうかという判断は微妙である。いくつか困難な点がある。

 
 崇神紀年譜 
 =====================================================
 干支 西紀 紀年          記                 事
 =====================================================
 乙巳  即位前記      |  開化没(4月)
 丙午  346 元年      |  即位(1月)、立后(2月)
 丁未  347 2年      |  
 戊申  348 3年      |  磯城瑞籬宮
 己酉  349 4年      |  詔
 庚戌  350 5年      |  疫病
 辛亥  351 6年      |  天照を豊鍬入姫に祀らす
 壬子  352 7年 元年 |  大田田根子、長尾市宿禰
 癸丑  353 8年 2年 |  
 甲寅  354 9年 3年 |  墨坂神・大阪神を祀る
 乙卯  355 10年 4年 |  四道将軍派遣、武埴安の乱
 丙辰  356 11年 5年 |  四道将軍帰還
 丁巳  357 12年 6年 |  御肇国天皇の称号
 戊午  358 48年 7年 |  立太子  (長尾市宿禰)
 己未  359 68年 8年 |  没  *垂仁元年
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 崇神紀が実開化紀でできている理由は明瞭で、その六年に豊鋤入姫の斎宮記事があるためである。これは書紀の通例で斎宮践祚を意味する。したがって翌七年が崇神元年ということになる。綏靖紀が実神武紀でできていたのと同様の文脈である。開化は西紀三四六年に即位し、治世は六年であった。
 その後を襲った崇神は一月即位の後、二月に御間城姫を立后している。書紀の見解では通常二年であるべきであるから、これが元年であるのはいわゆる特殊立后である。
 斎宮践祚・立后元年という書紀の基本文法は、践祚元年をとるかと踰年元年をとるかという見解の相違でしばしば混乱を生ずることがある。だからこの一年の差はとりたてて問題にはならない。たとえば崇神には践祚元年(前王没年当王即位元年)という伝承があったかも知れない。
 実際崇神の没年はその七年であったとみられるが、記述では六八年すなわち一運をひいて八年であったと記録される。これもその一例である。伝承の差違にともない係年の記録にも異同があったらしい。事実は七年没であったとみておきたい。
 まず穏当な考え方をとろう。書紀の普遍的な方法からすれば、崇神紀はひたすら開化紀からできている。当然のことながら元年から三年までは実開化紀でなく実崇神紀とみられる。
 とりあえずこれを修正してみよう。


 実崇神紀年譜(修正1)
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 干支 西紀 紀年          記                 事
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 乙巳  即位前記       | 考元没
 丙午  346 元年       | 開化即位元年
 丁未  347  2年       |  
 戊申  348  3年       |  
 己酉  349  4年       |  
 庚戌  350  5年       | 疫病
 辛亥  351  6年       | 開化没。天照を豊鍬入姫に祀らす
 壬子  352  7年崇神元 | 大物主を大田田根子に祀らす
 癸丑  353  8年     2 | 
 甲寅  354  9年     3 | 墨坂神・大阪神を祀る。磯城瑞籬宮
 乙卯  355 10年     4 | 四道将軍派遣、武埴安の乱
 丙辰  356 11年     5 | 四道将軍帰還
 丁巳  357 12年     6 | 御肇国天皇の称号
 戊午  358 13年     7 | 立太子。(崇神没)(考霊25)市磯長尾市
 己未  359 14年     8 | 没     垂仁元年 (   26)
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 これによると崇神紀は開化五年の疫病の記事から始まる。崇神の即位をさかのぼる三年前である。
 五年条は「国内に疫病多く」と記される。
 六年条は「百姓流離へぬ。或は背叛くもの有り」、さらに同年「宮城大殿の天照大神・倭大国魂神、共に住みたまふに安からず、別々に祀る。天照大神は豊鋤入姫に祀らす」と記される。
 豊鋤の斎宮記事があるため、この年に開化没、崇神践祚とみられる。
 七年条の記事は書紀のそれまでの記事からすれば、かなり膨大である。  

 七年(元年)正月即位、二月御間城姫立后。その年の詔曰「意はざりき、今、朕の世に当たりて、数災害有らむことを。恐るらくは、朝に善政なくして、咎を神祇に取らむや」
 この祟りはいかなる神祇のためかと、崇神は二月浅茅原で占うが、このとき大物主神が倭迹迹日百襲姫に神懸かった。
 「天皇何ぞ国の治まらざるを憂ふる。若し能く我を敬ひ祭らば、必ず当に自平ぐなむ」
 崇神は教えのままにこれを祀ったが、効き目なく、さらに斎戒して教えを請うと、大物主神が夢に顕れる。
 「国の治まらざるは、これ我が意ぞ。若し我が児大田田根子を以て、我を祭りたまはば、立に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏ふなむ」
 その後の八月、倭迹迹速神浅茅原目妙姫・穂積遠祖大水口宿禰・伊勢麻績の三人に貴人が神懸かった。
   大田田根子を以て大物主神を、市磯長尾市を以て倭大国魂神を祭主とすれば、天下は太平となる」
 同八月、「物部連祖、伊香色雄をして神班物者(かみのものあかつひと)とせむと卜ふに、吉」
 同年十一月、崇神は大田田根子を大物主神の祭主とし、長尾市を倭大国魂神の祭主とした。また八十万の群神を祭り、天社・国社・神地・神部を定めた。
 同十一月、「伊香色雄に命せて、物部の八十平瓮を以祭神之物と作さしむ」
 「ここに疫病始めて息みて、国内漸に謐まりぬ。五穀既に成りて、百姓饒ひぬ」
 伊香色雄の記事は古事記にもある。「伊迦賀色許男に仰せて、天八十平瓮を作り、天神地祇の社を定め奉りたまひき」

 このまま率直にみれば、五年の疫病と六年の百姓流離の記事は開化の時代のそれということになる。
 ちなみに開化が一八歳から二二歳にある時期は、次のように算定できる。考霊の九年間の治世の後を継いだ考元の即位元年(西紀三四三年)時の考元の年齢が、たとえば三〇歳前後。その二〇歳未満の時に開化が生まれているとすれば、開化の即位時(西紀三四六年)の年齢は一八歳に届くかどうかという年齢である。
 この状況では開化は、その即位に前後して后妃を娶っていることになる。
 開化の宮城は春日率川宮であった。その后妃は和珥氏のおそらく彦国葺の妹にほかならないから、開化はその父母の出自たる太(大)氏・十市氏によって、特に太(大)氏出自たる穂積氏と、穂積氏と地理的に近い和珥氏に親交があったであろう。開化の謚「大日日」は結局太(大)氏云々をいうのである。
 すると開化五年の疫病の流行という記事は何をいうのであろうか。たとえば太(大)氏・十市氏の膨張にともな、ようやく勢威を奪われつつあった磯城氏が、開化五年ごろから示威活動を行なったかも知れない。六年の百姓流離と開化の没はその影響があったかも知れない。同じ六年の、崇神が豊鋤入姫をもって天照大神を祀らせたという記事は、書紀の斎宮記事の初出で践祚儀礼の一つであった。事実上の崇神即位前記年に相当する。
 開化が磯城氏と戦闘したという示唆はどこにもない。
 ただ大王氏と磯城氏の衝突が崇神の時を嚆矢とするのであれば、崇神紀五年条に疫病の記事が入る筈がない。これが実開化紀五年条で崇神践祚の前年にあたるのだから、疫病を流行らせた大物主神つまり磯城氏の暴虐が、たぶん開化の治世を誤らせたのである。
 その暴虐は崇神七年(実開化七年)、すなわち崇神即位元年になってさらに顕わになるが、経過について記録があるのではない。倭迹迹日百襲姫に二度、崇神に一度あわせて三度、大物主神が神懸かることでそれを説明する。
 そしてこれらの記事を受ける伊香色雄についての記事が、事実上の崇神の磯城攻略という積極行動を示唆する。  重複するが書紀にはこうあった。 

 「物部連祖、伊香色雄をして神班物者(かみのものあかつひと)とせむと卜ふに、吉。(略)伊香色雄に命せて、物部の八十平瓮を以祭神之物と作さしむ」

 古事記にもこうあった。

 「伊迦賀色許男に仰せて、天八十平瓮を作り、天神地祇の社を定め奉りたまひき」

 ちなみにこの神班物者こそ物部の語源であろう。趣旨は忌瓮を作りこれを司る役職である。磯城の大物主の祟りはこれを調伏しなければならなかった。だから平瓮を神之物とした。しかしながら文脈からすると事実はもっと現実的であった。伊香色雄が崇神の命令を受け、戦勝を祈念するべく忌瓮を作り据えたのだと思う。むろん戦闘のためである。
 その理由を述べよう。
 平瓮というも忌瓮とおなじである。これは神武が磐余を攻めるに当たり、椎根津彦と弟猾をもって天香久山の土をとり平瓮を作って、これを祭祀して後攻撃して敵を破ったという記事と連動する。
 考霊の子彦五十狭芹と稚武吉備津彦が播磨の氷河に忌瓮を据えて、もって吉備を攻めてという記事、さらには武埴安の乱に、彦国葺が「和珥坂に忌瓮を据えて」という記事、河内の吾田媛が香久山の土をとって呪術を行なったという記事も一連のそれであろう。
 伊香色雄の八十平瓮はまぎれもなく戦闘の験であり、その目的は大物主神の振りまく疫病すなわち磯城氏の粗暴を打ち砕こうとするものであった。
 書紀・古事記の随所ににあらわれる崇神と大物主神との交渉は、これを滅ぼす前の軋轢、あるいは滅ぼした後の残存勢力との軋轢を示唆するであろう。その前後関係は測りがたいが、この収拾のために、崇神は磯城氏の傍流の後裔を河内に求め、大物主の裔である大田田根子を磯城の三輪に封じて三輪山の祭司としたというのである。
 伊香色雄の登場が七年のどの時点にあるかということが判断を左右するが、大田田根子をもってこれを収めたという記述は、磯城氏の後裔をわざわざ河内から連れてきたのだから、この時点ですでに磯城氏は滅びているのであろう。
 弟磯城葉江宗家のことである。
 すなわち崇神は即位後の元年、母の同母兄たる伯父伊香色雄をして磯城を攻め、これを撃ち破った。
 かくして崇神は、大王氏の歴史のなかでも、瞠目すべき特異な大王となった。崇神の事績の最大のものは、巨大な姻族磯城氏を攻め滅ぼして、その地を大王氏の版図としたことであると思う。崇神が御間城入彦の謚をもつ所以である。御間城は磯城の意にほかならない。
 それでも崇神がその宮城を磯城においたのは、その二年後の崇神三年であった。磯城瑞垣宮である。遷宮まで三年かかっていことが、磯城氏の後裔勢力の抵抗を示唆するであろうか。
 そうではないと思う。
 先に示唆しておいたように、ここまでが順当な解釈である。
 この解釈が正当であるかどうかと考える時、いくつか不審を感じる。不審の一つがこの磯城瑞垣宮である。
 書紀においては遷宮は基本的に元年であった。「遷宮元年」という。
 崇神の場合もこれが現実の記事とすれば考慮の必要はないが、磯城の滅亡から完全な平安を確保するのに延べ三年かかったという伝承が重要なら、崇神七年すなわち実崇神紀元年の伊香色雄による磯城制圧が史実で、大田田根子による祭祀の挿話はその三年後、すなわち実崇神紀三年の遷宮と一致する方がもっと自然である。記述はしかしそうなっていない。滅亡と怨霊と祭祀のよる収拾の前後関係が一致しないのである。
 視点をがらっと変えてみたい。
 一足飛びにそこまで行かなかったことに他意はない。書紀は時々意図的な作為を試みるが、それにも道理があった。こうした手順を踏むのは、書紀の作為する手順についての慣例に馴れるという意味をもつ。
 そもそも崇神紀は他の大王のそれとしては異質であった。崇神紀は開化紀からできているが、第二章でみたように開化紀そのものの係年が崇神紀に拠っていた。立太子没年および没年は通常先王のそれを仮託するが、開化のみは次王を仮託するのである。

    世 代 記載紀年 復元紀年   ========================================   第一世代 | 神武紀 | 実五瀬紀   | 綏靖紀 | 実神武紀   | 安寧紀 | 実五瀬紀   ----------------------------------------   第二世代 | 愨徳紀 | 実神武紀   | 考昭紀 | 実綏靖紀   | 考安紀 | 実考安紀   | 考霊紀 | 実綏靖紀   | 考元紀 | 実考安紀   ----------------------------------------   第三世代 | 開化紀 | 実崇神紀   | 崇神紀 | 実崇神紀   | 垂仁紀 | 実考霊紀   ----------------------------------------   第四世代 | 景行紀 | 実考霊紀   実崇神紀   ----------------------------------------   第五世代 | 成務紀 | 実考霊紀 ========================================  

 これは立太子没年および没年記事が、書紀の記述にあって他の記事から全く独立して、関係する後代の大王のそれを示唆するためであるが、それだけに開化のそれが崇神紀を援用するのは不審である。
 論理的には崇神紀が開化紀に仮託されてそこから始まるのではない。開化紀こそ崇神紀そのものであったのではないかと思う。
 すると崇神は即位の前から歴史に登場したことになる。景行が崇神紀を借りて王子の時代の西征を語るのと酷似する。垂仁治世下ですでに世に出た景行の事績を述べるには、そうした方法が適切であるべきであった。
 崇神は開化紀で語られ、そのために崇神三年という磯城瑞垣宮は実崇神紀三年でなく、開化三年そのものであったのだと思う。
 してみれば実崇神紀としてみるべきものは、とりあえず崇神七年の即位記事のみにほかならない。  これを改めて修正して崇神紀年譜をみてみよう。理由あって考元紀も併記する。考元が崇神の父王であるために、実開化紀たる崇神紀も考元紀ともかかわる可能性がある。     


 崇神紀年譜(修正2)
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 干支 西紀 紀年          記                 事
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  壬寅  342       考元 |                                 
  癸卯  343          1 |                                
  甲辰  344          2 |                               
 乙巳  345          3 | 考元没
 丙午  346 元年     4 | 開化即位元年
 丁未  347  2年     5 |  
 戊申  348  3年     6 | 磯城瑞籬宮
 己酉  349  4年     7 |  
 庚戌  350  5年     8 | 疫病
 辛亥  351  6年     9 | 開化没。天照を豊鍬入姫に祀らす
 壬子  352  7年崇神元 | 大物主を大田田根子に祀らす
 癸丑  353  8年     2 | 
 甲寅  354  9年     3 | 墨坂神・大阪神を祀る。
 乙卯  355 10年     4 | 四道将軍派遣、武埴安の乱
 丙辰  356 11年     5 | 四道将軍帰還
 丁巳  357 12年     6 | 御肇国天皇の称号
 戊午  358 13年     7 | 立太子。(崇神没)(考霊25)市磯長尾市
 己未  359 14年     8 | 没     垂仁元年 (   26)
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 崇神紀はもとに戻ったが、むろん異なるところがいくつかある。ひとつは崇神が即位に先立って磯城瑞垣宮に入った事実と、その翌年磯城の地に疫病が流行してくることである。この記事は関連があるであろう。
 この三年と五年の記事の間に、磯城氏との戦闘記事が入らなければならない。
 ちなみに崇神紀を通じて係年に疑問のある条は、あと七年のそれが残るだけである。七年条は先のように、大物主神の神懸かりから始まって、倭迹迹日百襲姫・大田田根子・大水口宿禰・市磯長尾市・伊勢麻績・伊香色雄の七人の人物が登場する。
 うち崇神の七年すなわち実崇神紀元年のそれとみられる人物は、倭迹迹日百襲姫と大田田根子にほかならない。以外の大水口宿禰・市磯長尾市・伊勢麻績・伊香色雄については、その係年に疑義がある。
 後に述べるが崇神紀の市磯長尾市は、垂仁紀に長尾市宿禰として現れる。後者は垂仁二五年条の記事だが、垂仁二五年は考霊二五年とみられ、西紀三五九年である。開化紀では一三年、実崇神紀ではその七年となる。
 ここにむろん書紀の編者の意図的な作為がある。作為というより整合性をもとめた結果であるかも知れない。要は崇神七年の市磯長尾市の記事は開化七年ではない、実崇神七年条で垂仁紀の長尾市宿禰と同一人物なのである。  市磯長尾市が実崇神七年条であれば、市磯長尾市が祀った倭大国魂神とかかわる大水口宿禰・伊勢麻績もまた、実開化七年でなく実崇神七年であろう。
 伊香色雄だけがさらに残る。
 これもまた崇神七年ではないと思う。磯城氏を攻めた将軍たる伊香色雄の登場時期は、論理的にも疫病や百姓流離の前でなければならない道理であろう。考元七年である。西紀三四九年、すなわち崇神が磯城瑞垣宮に入った翌年であった。
 崇神紀をまとめてみよう。
 崇神が王子の立場で磯城の地に入ったとすれば、これは娶女のためであろう。
 開化はそれに先立つ三年前の開化元年春日率川宮に入っていた。書紀の文脈からして立后はその二年、和珥氏の女であった。ひるがえって磯城氏の姻族としての勢威は、先のように考霊の時代に十市氏に並ばれ、考元の即位に至って追い越された。西紀三四二年である。
 その考元の治世が三年、西紀三四六年開化が即位し、翌西紀三四七年姥津媛の立后があったとすれば、考元から開化にいたる数年間は、磯城氏が自らの勢威の衰退を意識し、かつ確認を余儀なくされるに十分な期間であった。  開化三年すなわり考元六年、崇神が磯城瑞垣宮に入った理由は、開化の異母弟にして庶子であった崇神を、磯城氏が取り込もうとした結果であるかも知れない。ここに至って崇神の后という御間城姫にも新たな付加事項が生じてくる。御間城姫はひたすら垂仁の母后を指示するだけでなく、崇神の後に記録の残らなかった、磯城氏出自の女をも示唆するのかも知れない。
 いずれにせよその後の文脈は明らかである。王子たる崇神は磯城氏の傀儡にはならなかった。翌四年(西紀三四九年)、崇神は自らの将来を望んで立ち、伯父伊香色雄を将軍として、磯城氏を攻めかつこれを滅ぼしたのである。実考元七年で崇神七年に仮託されたこの伊香色雄の対磯城戦闘は、先のようにおそらくその平瓮の記事に象徴されるのである。
 三年磯城瑞垣宮に入った。
 四年伊香色雄に平瓮をつくらせた。
 五年疫病が流行った。
 六年百姓が流離した。
 そして七年である。
 その年、大物主神の要求で、和泉からその末裔大田田根子を擁立して、三輪山の祭司とした。もって騒乱が治まったというのは、五年から始まる磯城氏の遺族の跳梁と祟りを、磯城氏の宗家に由来をもつ和泉茅淳の後裔を立てて収拾したことをいうのであろう。
 ちなみに崇神の側にあってこの時、ともに磯城氏を攻めた氏族がいくつかあった。
 まず将軍伊香色雄は、崇神の母であった伊香色謎の同母兄である。崇神にとって伯父にあたる。欝色雄・欝色謎と同系であるならその家は穂積氏であったが、前章に述べた理由をもって、太(大)氏の入婿したものであろう。十市氏の宗家を太(大)氏・十市氏というなら、これは太(大)氏・穂積氏ということになる。
 伊香色雄・伊香色謎が欝色雄・欝色謎と同系でないなら、これは太(大)氏すなわち椎根津彦が、穂積氏とは別の氏族に穂積氏と同様な入婿をして、伊香色雄・伊香色謎を生んだのである。
 その伊香色雄の名称は、これを観るにいくつもの興味が惹かれる。「色雄・色謎」は古事記で「色許男・色許売」と書かれ、これは「醜男・醜売」の意で「威のある」者をいうであろう。「葦原醜男」といった大国主神の亦名である。穂積氏とは別の氏族としても穂積氏のような大和地在の現住族の呼び名であった。
 つまりこの両者の関係は、欝色雄・欝色雄が「内」すなわち「珍・内・宇治」なる椎根津彦ならびに椎根津彦の本拠地に関るのに対して、伊香色雄・伊香色謎は椎根津彦の本拠地にも関らない、すなわちその不祥の進出地に由来する筈のものなのである。
 穂積氏自体は、太(大)氏・十市氏の祖である椎根津彦が入婿した氏族とみれば、太(大)氏・十市氏・穂積氏は同族、また椎根津彦の出自たる山城の内氏あるいは宇治氏もまた同族とみなすべきであろう。
 従って崇神がまだ王子として主体的な行動を開始した時、崇神に荷担した筈の氏族はむろん明らかなのである。伊香色雄の一族のほか、太(大)氏・十市氏・穂積氏ならびに山城内(宇治)氏であった。これらは父王考元の出自とするところにほかならない。
 事件が開化の治世下で、かつ開化もこれに荷担したとみれば、開化の后妃であった和珥氏の一族もこれに加わったかも知れない。さらには崇神の後世に伝わる唯一の妃であった、尾張大海媛の勢力もこれに荷担したかも知れないが、これはその立妃の時期によるであろう。
 崇神が磯城を攻略した勢力は、少なくともこれだけの氏族の連合があった。巨大な磯城氏を攻めるにあたって、当概数の氏族の結束が必要であったのである。
 崇神の治世はわずか七年であった。八年という伝承もある。これは開化の没年にいわゆる践祚称元したかも知れないことを示唆するが、書紀の体系のなかでは壬子(三五二年)を元年とする治世七年であった。崇神紀を仮託する景行紀もその景行元年を壬子(三五二年)とする。
 以上が崇神紀七年(開化七年)までの記事であった。
 崇神紀八年条の記事はわずかである。
 高橋邑の活日を大三輪の酒人として、改めて大田田根子に大物主神を祀らせている。
 崇神紀九年条には「 墨坂神・大阪神を祀る」という記事がある。この記事が崇神九年あるいは考元九年である可能性は少ないが、あるとすれば考元九年であろう。
 この祭祀の現実的な意味は、墨坂神の地の攻略をもって、磯城氏の管轄下にあった伊賀・伊勢そして尾張への交易権、ならびに大阪神の地の制覇をもって、河内・和泉へのそれを確保したことをいうのである。いずれも東方と西方への要路であった。
 ただこのさらなる意味が、おそらくその双方の道を管掌して、葛城の地にあった尾張氏の攻略であれば、崇神が尾張の大海媛を妃とした理由がここにある筈である。
 ここに至って尾張氏の祖が瀛津世襲・世襲足媛であったことが、新たな意味をもってくる。この瀛もまた北方の奥磯城に対峙する西方の奥磯城であれば、尾張氏の出自もやはり磯城氏の分かれで、かつ当初は専ら西方の交易ルートに力があったに違いない。東方の交易ルートはむしろこの崇神の時代から始まったのではないかと思う。
 そして一〇年には「 四道将軍派遣」の記事がある。
 書紀によれば考元の子で開化の同母兄という大彦を北陸に派遣した。また大彦の子武淳川別を東海に、吉備津彦(彦五十狭芹)を西国に、丹波道主を丹波に派遣したという。古事記によれは丹波道主の代わりに日子坐が派遣され、西国については触れていない。つまり古事記は「三道将軍」である。
 その同年、大彦が東国に出立する際に、「和珥坂の上」あるいは「山背の平坂」で予言する童女の歌から、考元の子で崇神尾庶兄にあたる武埴安の陰謀が発覚する。
 「武埴安の乱」という。
 結論からいえば、この乱の本質は十市氏の滅亡であった。反乱の首謀者も武埴安ではなかった。崇神と十市氏宗家のいわば第三世の首長たるべき人物との戦闘であった。
 すでに反乱ですらなく、崇神の一方的な討伐であったかも知れない。
 崇神が再びこれを滅ぼしたのである。

  十市氏の衰退と豊城入彦β

 画期の磯城攻略は、むろん崇神の主体性によったが、その勲功は伊香色雄と十市氏宗家にあった。おそらく穂積氏と和珥氏がこれにつづくであろう。
 この時すなわち磯城滅亡の開化四年(西紀三四九年)以降、崇神はそれまでの畝傍一帯に加えて磯城の地を領有したに違いないが、これに合力した伊香色雄と十市氏宗家の動静はどうであったであろうか。伊香色雄についてはその出自が明らかになるのでなければ、ここでは検討することができない。十市宗家については、そのある程度の拡大・発展が推測できると思う。
 その宗家たる人物もこれを明らかにしておく必要があろう。
 そもそも彦坐以来、太(大)氏・十市氏の宗家は、十市・穂積および南山城を統べていた。磯城氏の滅亡とともに磯城の地もまた、崇神とともにこれを統べたと思う。その統べかたは、たとえば崇神と十市氏宗家がいわゆる共治するというようなスタイルが想定できる。
 十市氏が名目上の磯城県主の地位にあったというのも、この時期であろう。書紀・古事記が考元の后妃を、「十市県主大目」といい「磯城県主大目」ともいっているのは、これによるであろう。また十市県主家であったとみられる多氏と、祖を同じくする河内志紀県主家が「志紀」の名称をもつのも、この時期の存在を示唆する。
 磯城滅亡の開化四年(西紀三四九年)からである。
 三年後の開化六年、崇神は豊鋤入姫をもって天照大神を祀らせた。これが崇神の事実上の斎宮践祚となる。開化の没は自然のそれであろう。翌年が元年(西紀三五一年)。  この時宮城内には天照大神と倭大国魂神をともに祀っていたといい、次のような記事がある。   

 「是より先、天照大神・倭大国魂神、二神を天皇の大殿の内に並祀る。然すて其の神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鋤入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籠を立つ。亦、倭大国魂神を以ては、淳名城入姫に託けて祭らしむ。然るに淳名城入姫、髪落ち体痩みて祭ること能はず」

   倭大国魂神の奉祭者は十市氏にほかならないから、この記事は当初は崇神と十市氏がそれぞれの祖神を一ヶ所で祀るほど親しかったが、開化六年にいたってこれを分るほど疎遠になったということを示唆する。磯城氏の滅亡から三年後のことであるから、意味深長である。
 磯城の地に対する当初のスタイルが、共治らしいといった所以でもある。
 その後はそれでも開化一〇年まで、多分それに類する体制が維持される。十市氏宗家はますます膨張していったであろうが、崇神の方もたとえばの自らの勢威の拡大を図っていった。
 総ずるにその開化四年(西紀三四九年)から開化一〇年(西紀三五五年)までの七年間が、十市氏の最盛期と言うべき時期であるとともに、崇神のそれと次第に拮抗していく時期でもあった。
 崇神と初め親しく後に疎遠になった、時の十市氏宗家の主は誰であろうか。
 筋道がいくつかある。
 まず彦坐の子孫系譜から、その人物を捜してみよう。   

       比古由牟須美----大筒木垂根
                       讃岐垂根
 
 
        *彦坐          母:苅幡戸辨(山代荏名津比売)   
        日子坐-------- 大俣-------曙立
                |      小俣       菟上
                |      志夫美宿禰
                |
                |     母:狭本大闇見戸売
                         (春日建国勝戸売女)
                |______狭本毘古
                       狭本毘売亦名佐波遅比売
                       袁邪本
                       室毘古
                       
                       母:息長水依比売
                          (近淡海天之御影女)
                       丹波比古多多須美知能宇斯
                       水穂真若(近淡海安直祖)
                       神大根亦名八瓜入日子
                       水穂五百依比売
                       御井津比売
                       
                       母:袁祁都比売
                       山代大筒木真若
                       比古意須
                       伊理泥
 

 このうち世代的に息長水依比売の子という丹波と近近江のそれは、日子坐と同世代である。その孫が垂仁の后妃であるからである。大王氏とは関りのない、瀛氏すなわち南山城の豪族であろう。彦坐の母と同名の意祁都比売から生まれた山代大筒木真若もまた、彦坐の同母弟ないし同世代の土豪であろう。これを修正すると次のようになる。重複するが再載しておく。

 
        日子坐-------- 大俣------------曙立
                |      小俣            菟上
                |      志夫美宿禰
                |
                |  
                |______狭本毘古
                       狭本毘売亦名佐波遅比売
                       袁邪本
                       室毘古
                       山代大筒木真若
                       比古意須
                       伊理泥
 
       美知能宇斯------比婆須比売
                       真砥野比売
                       弟比売
                       朝廷別
                       
        水穂真若
       近淡海安直祖----近淡海安国造祖意富多牟和気
 
        山代大筒木真若  迦邇米雷--------息長宿禰
 

 これをみると十市氏の宗家を継いだ人物はここにはみえない。みえない理由はたぶんこの系譜が、太(大)氏・十市氏の版図とともにあった椎根津彦・彦坐のそれでなく、その滅びた後に南山城に残存した後裔氏族が担ったそれであったためであろう。丹波道主を祖とする瀛氏(気長氏)である。
 彦坐の正嫡の子は、したがって別途にこれを探さなければならないが、これまでの文脈からしてその手段もまた限られてくる。
 第一に姻族十市氏の宗家で、彦坐の子たる人物は、崇神とともに磯城攻略に主体的な役割を担ったものでなければならない。その報奨として十市県主家を維持しつつ、磯城県主を兼ねた筈の人物でなければならない。
 第二に姻族の宗家彦坐は安寧第三子磯城津彦の子に仮託され、また開化の子に仮託されていた。したがって彦坐の宗家の子は、再びその開化の後の大王の子に仮託されていなければならない。
 第二点からすれば、論理的に仮託されるべきは、ひたすら崇神であろう。崇神の子で姻族太(大)氏・十市氏の後裔が仮託されたかも知れない人物はいたであろうか。
 これもおそらく唯一の解しかない。
 崇神の時代に崇神とともに磯城の地に入ったとみられる人物は限られていた。あきらかに太(大)氏・十市氏とかかわるとみられる人物も限定される。さらに崇神の時代、大王氏の出自とされなおかつ崇神の子とされる人物は唯一人に絞られる。
 豊城入彦である。
 その母は紀伊荒河戸畔の女遠津年魚眼眼妙媛といった。
 これまでの検討に反してくるが、ここに至って遠津年魚眼眼妙媛は考元の妃ではなかったと思う。世代は一致する。豊城入彦と豊鋤入姫を生んだという。記録にはまったくないが、この兄妹の名がわずかに異なることに留意すれば、事実は兄妹ではなかったかも知れない。
 豊城入彦は豊磯城入彦の意であろうが、豊鋤入姫はこれを豊磯城入姫の転とみることは、かならずしも整合的ではない。兄妹の名としては豊城入彦・豊城入姫かあるいは豊鋤入彦・豊鋤入姫であるべきであろう。
 考元の子にして崇神の異母の妹は、豊鋤入姫一人であった可能性がある。あるいは豊鋤入彦なる人物が別にあったかも知れない。その場合豊城入彦の出自は、これらとはかならず峻別されるであろう。
 彦坐亦名常根津彦某兄がその母淳名底仲媛の名をもって、母方の血と姓氏に本来を仮託したように、豊城入彦もまた遠津(十市)の名に仮託したのであろう。父方をいえば、まぎれもない姻族であったのだと思う。
 そもそも豊城の豊の名は磯城の豊の地に由来する。
 古事記崇神記に、彦坐の子大俣王の子曙立王が勲功を挙げて、「倭者師木登美豊朝倉の曙立王」という尊称を贈られたとある。倭国の磯城の登美の豊の朝倉の地をいうのである。
 書紀垂仁紀には、垂仁の将軍として上毛野君の祖八綱田の伝承が記録される。八綱田は崇神の子豊城命の子であるといい、崇神条にも「豊城命を以て、東国を治めしむ。是上毛野君・下毛野君の始祖なり」とある。狭穂彦討伐の功を褒めて「倭日向武日向彦八綱田」の名を賜ったという。
 世代からすれば八綱田は豊城の子でなく弟にして豊城・崇神・垂仁と同世代であろう。東国との関係はこの章のテーマではないから、ここでは省略するが、この八綱田の子が彦狭島またその子が御諸別といい、いずれも上毛野君の祖であった。
 とくにこの御諸別の名からする豊城の一族の本来の出自も、ある面象徴的な感じがする。すなわち豊城は磯城氏の後裔と直接的な関係があった。後の磯城県主は伊香色雄が志紀の真鳥姫を娶って生んだ男子を祖とする物部系であるという。その直前の磯城県主宗家が豊城入彦であった可能性がある。
 すくなくとも時の倭に地において、磯城の地は王者の地であった。十市県主にして磯城県主を兼ねた十市氏宗家にとって、その声名はひとえに磯城県主を標榜できたことにあったのではないかと思う。
 その豊城入彦自身も三輪山すなわち御諸山にかかわりがあった。
 崇神四八年条で、垂仁と皇位継承のための夢占い試験をしているのである。

   天皇、豊城命・活目尊に勅して曰はく、「汝等二の子、慈愛共に斉し。知らず、いづれをか嗣とせむ。各夢みるべし。朕夢を以て占へむ」とのたまふ。二の皇子、是に命を被りて、浄沐して祈みて寐たり。各夢を得つ。  豊城命は「自ら御諸山に登りて東に向きて、八廻奔槍し、八廻撃刀す」とまうす。活目尊は「自ら御諸山の嶺に登りて、縄を四方に?Gへて、粟を食む雀を逐る」とまうす。  即ち天皇相夢して、「兄は一片に東に向けり。当に東国を治らむ。弟は是悉く四方に臨えり。朕が位を継げ」とのたまふ。

 豊城の一族の東国将軍ならびに上毛野氏の祖としての由来を解くものであるが、豊城が姻族十市氏の宗家であるとすれば、これは崇神の時代に垂仁に荷担した事実を示唆するのである。綏靖とともに立った神八井に仮託された椎根津彦の立場と同じものが髣髴としてくる。
 ちなみに滅びた十市宗家の後裔豊城一族八綱田が、垂仁の将軍として登場する理由は、垂仁が太(大)氏・十市氏出身の大王であったためであろう。
 崇神四八年条のこの記事は、実のところどこにも収容できない事項であった。書紀の編者にあって立太子没年と没年は、それぞれの大王紀の年譜とは独立していて、全体視点における後世の大王の没年を指示するのである。したがって四八年条が意味をもつことはないが、崇神の治世下にあってこの出来事に類することが起きたのであろう。  ひるがえって豊城入彦の名は崇神の御間城入彦の名と対になるべき名であった。崇神とともにその地に入った。その時点では太(大)氏・十市氏宗家としての豊城の勢威は巨大なものであった。
 今一度まとめれば、磯城滅亡の開化四年(西紀三四九年)から、磯城後裔の乱の収拾があった開化七年(西紀三五二年)まで、さらに武埴安の乱の起こった開化一〇年(西紀三五五年)までの七年間、椎根津彦次いで彦坐の後たる宗家の首長は、十市県主・磯城県主を兼ねて、なお穂積長柄の地および南山城をも版図とする、巨大な豪族であり続けた。
 文脈はさらにこう展開する。
 崇神一〇年、武埴安の乱とともに、母を遠津年魚眼眼妙媛に仮託する、たぶん十市氏宗家彦坐の正嫡の子豊城入彦は、崇神によって伐たれたであろう。そして彼が滅びた後、その後裔は一部のみ勢威を衰えてたとえば八綱田に継がれたが、太(大)氏の別の系統はこれを、南山城にあってなお堅実な勢威を保持していた、彦坐の異母弟丹波道主とその後裔氏族が襲った。狭穂彦・狭穂媛そして日葉酢媛の一族である。
 豊城入彦からは異母の弟妹、また従姉妹になる。
 すなわち姻族は十市氏から瀛氏・気長氏に交替した。
 椎根津彦・彦坐・豊城入彦とつづく姻族、太(大)氏・十市氏は滅んだが、磯城氏のようにではなかった。十市県主また磯城県主としての祭祀権こそもたなかったが、その栄光の残余は尊重されたのである。
 大王氏の姻族から、大王氏の軍事を担う氏族として再生したのである。それが上毛野氏である。
 後に述べるが、姻族の本宗を細くとも継いだとみられる後裔は、大王氏の左右翼を担って軍事に携わるのである。そして各地に広範な氏族の拠点をつくっていった。多氏がそれであった。阿倍氏もそうであった。そして物部氏もまたそれであった。
 武埴安の乱に入ろう。
 十市氏の滅亡である。

  武埴安の乱β

 武埴安の乱については、よく解らなかったというのがこれまでの実情である。
 きわめて唐突に感じられて、前後の関連がよく咀嚼できなかった理由は、実のところ「磯城氏の滅亡」という先程来のテーマを、よく咀嚼してこなかったためである。
 磯城の地の動乱は、書紀はこれを「疫病」と書く。その後の伊香色雄の行動はこれを「祭祀」と書く。さらに大田田根子の招聘は、これを三輪山の単なる祭主と書く。こうした文脈の拠るところは、おそらく法隆寺や太宰府天満宮を、怨霊を封じるために建造したという時の朝廷のもつ畏怖心とおなじものであった。
 史実を記述しないのではない。記述するに護符を添付して、なお呪言に従う文法を採るのである。
 武埴安の乱もまたその伝であったと思う。
 武埴安の乱は書紀の崇神一〇年条にに次のように記されている。実崇神紀四年である。
 この年の秋七月、崇神は四道将軍の派遣を企図した。

 九月丙戌朔甲午に大彦命を以って北陸に遣わす。武淳川別をもて東海に遣わす。吉備津彦をもて西道に遣わす。丹波道主命をもて丹波に遣わす。因りて詔して曰はく「若し教えを受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬を授ひて将軍とす。壬子に大彦命和珥坂の上に到る。時に少女有りて歌して曰はく  『御間城入彦はや、己が命を、弑せむと、窃まく知らに、姫遊びすも』

   是に大彦命異びて、童女に問ひて曰はく「汝が言は何辞ぞ」といふ。対へて曰はく「言はず。唯歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひて、忽に見えずになりぬ。大彦乃ち還りて具に状を以って奏す。是に天皇の姑倭迹迹日百襲姫命、聡明く叡智しくて、能く未然を識りたまへり。乃ち其の歌の怪を知りて天皇に言したまはく「是、武埴安彦が謀反けむとする表ならむ。吾聞く。武埴安彦が妻吾田媛密かに来たりて、倭の香山の土を取りて領巾の頭に裏みて祈みて曰さく『是、倭国の物実』とまうして、即ち反るぬ。事有らむと知りぬ。早に図るに非ずは、必ず後れなむ」とまうしたまふ。

 古事記はこの辺が簡略だが、倭迹迹日百襲姫は登場しない。  

 大毘古命更に還り参上りて天皇に請す時、天皇答えて詔りたまはひしく「こは為ふに山代国に在る我が庶兄建波邇安王、邪き心を起こせし表にこそあらめ。伯父、軍を興して行でますべし」とのりたまひて、すなわち丸邇臣の祖日子国夫玖命を副へて遣わしし時、すなわち丸邇坂に忌瓮を居ゑて罷り往きき。

 丸邇臣の祖日子国夫玖は書紀では和珥祖彦国葺である。この後武埴安は山背から、妻吾田媛は大坂から二手で都を襲おうとするが、大王は五十狭芹彦(大吉備津彦)を遣わして吾田媛を大坂に破り、大彦と和珥の祖彦国葺を遣わして、武埴安を山背に伐った。このときの進軍と武埴安の退却していく場所が、書紀において詳細である。
 まず「忌瓮を以って、和珥の坂の上に鎮座う」とあり、その後那羅山を越え、輪韓河(木津川)に武埴安と対峙して戦い、武埴安を伐った後、残党を追って、羽振苑(相楽郡祝園)・伽和羅(綴喜郡河原)・樟葉(河内国交野郡葛葉)・我君(相楽郡)に追い落とした。いづれも南山城で、武埴安の地盤がそこにあったことが明瞭である。
 ここにいまひとつ特徴的な記述がある。
 将軍彦国葺が武埴安と対峙したときの二人のやりとりである。書紀はこれをこう伝える。  

 武埴安彦、望みて彦国葺に問ひて曰はく「何に由りて汝は帥を興して来るや」といふ。対へて曰はく「汝、天に逆ひて無道し。王室を傾けたてまつらむとす。故、義兵を挙げて、汝が逆ふるを討たむとす。是、天皇の命なり」といふ。

 古事記はもっと簡略で互いの会話は伝えないが、文脈は意味深長である。
 そもそも武埴安の問いかけは、率直な疑問を表白するものである。理由が分からないといっている。しかもこのやりとりは、武埴安と彦国葺が従来から互いに交友があったかのようにみえる。たとえば同じ釜の飯を食した同胞にさえみえる。親近感がつよいのである。
 武埴安は考元が河内の青玉繋の女埴安媛を娶って生んだ。書紀の系譜では考元の子が開化で、その子が崇神であるから、崇神からみる武埴安は叔父である。事実は崇神も考元の子であるから、叔父ではなく異母の兄である。したがって先に載せた古事記崇神の段で、崇神が武埴安を「庶兄」と呼ぶのは的確である。
 古事記の親族を呼ぶ呼称は、手堅く伝承されたそれであったかも知れない。
 武埴安はその妻吾田媛とともに立ち、崇神の軍と戦って山城に敗れる。この挿話が不可解なのは、むろん武埴安に叛乱の動機がないか、わざと語られていないからである。その名も抽象的なそれであることは、古事記の神代記に、神々の一として波爾夜須日子・波爾夜須比売の名がみられることからも分かる。粘土すなわち陶土の神であるという。吾田の名も知名に由来しない。神武とみられる彦穂穂出見の母の名であり、理由があるとすれば、大王氏の王統の由来をここに僭称するのである。
 武埴安の妻吾田媛も河内にあったという。妻にして山城でなく河内にいて軍を率いたのであるから、吾田媛の出自もまた河内であった。武埴安の母の本拠地とおなじである。戦う前に香久山の土をとって呪言をしたという。 

 吾田媛密かに来たりて、倭の香山の土を取りて領巾の頭に裏みて祈みて曰さく「是、倭国の物実」とまうして、即ち反るぬ。

 この話は先述のように、神武が磯城津彦と磐余に戦うとき、椎根津彦と弟猾に命じて香久山の土をとらせたという伝承に対応する。この献策と実行者が椎根津彦すなわち太(大)氏・十市氏の祖であったことに注意したい。「倭国の物実」を忌瓮に用いることは、すなわち戦闘の前の勝利の呪言であった。吾田媛は自らかまたはその夫武埴安を椎根津彦に仮託して、いわば十市氏としてこの呪言を懸けたのである。
 この呪言をしてはばかることがない吾田媛、また武埴安の母という埴安媛は、つまるところ十市氏の分かれなのであろう。たとえば河内に入ってそこに土着した。埴安の名称を共有するのは普遍的に兄妹または夫婦である。埴安媛の亦名が吾田媛であったかも知れない。武埴安は考元と河内青玉繋女埴安媛との子と記録するが、そうではない。埴安の名は単純に「香久山の埴土」に由来する後世からの付会であろう。
 武埴安は例えば考元と欝色謎との間の第三の王子であったと思う。  

                  母:欝色謎   
        考元------大彦
            |    根子彦大日日(開化)
            |    倭迹迹姫 *少名日子建猪心
            |     <武埴安>
            |    
            |     母:伊香色謎   
            |-----御間城入彦五十瓊殖(崇神)
                  彦太忍信
            |    
            |     母:河内青玉繋女埴安媛   
            |_____武埴安彦      
            |
            |      母:丹波竹野媛  
            |------彦湯産隅
            |    
            |     母:和珥祖妣津妹妣津媛 *意祁都比売   
            |-----彦坐
            |    
           |     母:*葛城垂水女鷲比売
            |_____*建豊波豆羅和気        
 

 さらに崇神が「庶兄」と呼んでいることからすれば、開化のさらに下にあった弟王を仮定すべきであろう。あるいは開化その人を当ててもいいが、この場合には開化の王統の系年が存在し、崇神六年に没していることが齟齬をきたす。  武埴安は開化の同母弟で、開化が添上に宮を立ててあったころから崇神が磯城を攻めるときまで、母の本居である山城の内の地に拠って、開化ついで崇神に協力した王子であったと思う。その本居にかかわる背景勢力は、まず山城内氏ついで同族の十市氏さらにそのどちらかが進出していた河内の無名の一族である。
 崇神がおそらく大彦をして十市と大倭を攻めたとき、おなじく彦国葺をして山城内の地を攻めさせた。ちなみに河内はこれを彦五十狭芹をもって攻めさせた。もし武埴安が大王氏の内氏を本居とする王弟であれば、これを攻めた彦国葺の言行も理解できそうな気がする。
 つい四年前までは、磯城を攻めた時には同盟者同士であったのである。
 その彦国葺は、書紀・古事記では天足彦国押人の後裔とされている。系譜的には天足彦国押人・姥津彦・彦国葺と吊って氏姓録でも異論がない。ただ姥津彦の妹姥津媛(意祁都比売)は開化が娶って彦坐を生み、彦坐は同名の和珥氏意祁都比売を娶って山代大筒木真若・比古意須・伊理泥を生んでいる。
 開化と彦坐の二代にわたって関連づけられた意祁都比売こそ、和珥氏の正しい祖であろう。穏当にいえばその兄彦姥津命と姥津媛の兄妹であった。姥津は「波々津(ははつ)」と注があるが、別注で「意知津(おぢつ)」ともいう。もとは古事記の「意祁都」と同等であろう。
 この兄妹の出自については以前にも示唆することがあった。姥津は瀛津世襲の「瀛津」であろう。「おけつ」「おきつ」は通音である。姥津彦・姥津媛の母は山城の「瀛氏(気長氏)」であった。その父はむろん天足彦国押人ではない。神武紀の己未年に「和珥の坂下に、居勢祝という者有り」と記述される居勢祝こそそれであろう。
 「瀛」の由来はむろん椎根津彦である。
 椎根津彦すなわち太(大)氏・十市氏・大倭氏は、その第一世代の時代に、和珥氏に女を入れた。椎根津彦の妹の一人であり、彦姥津・姥津媛の母である。居勢祝を女酋とみれば、穂積氏と同様、太(大)氏が入婿したものとみることもできる。
 どちらにしても、和珥氏はその草創期において、すでに太(大)氏・十市氏の親族なのである。
 武埴安が太(大)氏に由来する大王氏であれば、彦国葺もまた太(大)氏に由来する氏族であった。ともに太(大)氏の勢力を代表するそれであった。しかしながらさらに指摘をしておけば、和珥氏は太(大)氏の血を入れた和珥氏であって、主体性は太(大)氏にあるのではない。それでなければ太(大)氏・十市氏の討伐に参加できない。
 武埴安と彦国葺の奇妙な会話は、かって太(大)氏・十市氏たる同族意識のもとで磯城と戦い、これを撃破った者同士が、ここに今対峙することの奇妙を言っているのである。父系・母系を問わず、この二人は従兄弟であった。
 彦国葺がわざわざ「天皇の命令」をいうのは、かえってこの戦闘の目的に大義名分がなかったことを示唆するようである。
 ひるがえって武埴安の乱は、武埴安の討伐だけであったのではない。論理的にもこれを担いだ山城内氏もまた伐たれたであろう。さらには山城内氏の同族であったに違いない、太(大)氏・十市氏がその波及を受けなかった筈がない。
 十市氏の滅亡である。
 崇神紀における時系列的な因果関係を問うことで、この大枠が諒解できるであろう。
 乱の起きたのは崇神一〇年であった。
 そしてその三年後後、崇神一三年すなわち実崇神紀七年に、これに深くかかわるべき倭大国魂神と市磯長尾市の挿話が伝えられる。磯城の滅亡の四年後、大田田根子田の挿話があったのと機を一にするものである。
 意図的な連動といってもいいかも知れない。
 「崇神紀年譜(修正2)」をみながら、この辺を見直してみよう。

 崇神紀年譜(修正2)
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 干支 西紀 紀年          記                 事
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  壬寅  342       考元 |                                 
  癸卯  343          1 |                                
  甲辰  344          2 |                               
 乙巳  345          3 | 考元没
 丙午  346 元年     4 | 開化即位元年
 丁未  347  2年     5 |  
 戊申  348  3年     6 | 磯城瑞籬宮
 己酉  349  4年     7 | 伊香色雄
 庚戌  350  5年     8 | 疫病
 辛亥  351  6年     9 | 開化没。天照を豊鍬入姫に祀らす
 壬子  352  7年崇神元 | 大物主を大田田根子に祀らす
 癸丑  353  8年     2 | 
 甲寅  354  9年     3 | 墨坂神・大阪神を祀る。
 乙卯  355 10年     4 | 四道将軍派遣、武埴安の乱
 丙辰  356 11年     5 | 四道将軍帰還
 丁巳  357 12年     6 | 御肇国天皇の称号
 戊午  358 13年     7 | 立太子。(崇神没)(考霊25)市磯長尾市
 己未  359 14年     8 | 没     垂仁元年 (   26)
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 崇神紀七年条の記事は、倭大国魂神の祟りを市磯長尾市を祭司とすることで収拾したという記事である。
 崇神七年条のこの記事は大田田根子とならべて記述があり、一見崇神元年とみられるが、同様にして詳細な記事が垂仁紀二五年条に「一書」として注意書きしてあるために、そうではなく実崇神七年にほかならない。
 垂仁二五年条の一書は、本文が倭姫の伊勢斎宮を垂仁紀二五年とするのに対して、磯城ついで伊勢に祀るまで二年を要したとして、伊勢斎宮の設立を二六年におくものである。
 したがってこの一書の記述する年は一見二六年条ともみられるが、その直後につづく長尾市宿禰の挿話は思うに二六年ではない。一書は二五年条の一部として書かれていると思う。
 つまり崇神紀(実開化紀)一三年にして実崇神紀七年、西紀三五八年である。
 したがって崇神紀と垂仁紀の二ヶ所にあらわれる長尾市の挿話は時を同じくする同一事項にほかならない。崇神紀七年の大田田根子と市磯長尾市の挿話は、前者が崇神紀(実開化紀)のそれで、後者の長尾市宿禰は実崇神紀のそれであるが、事実は時期が違っていた。この二者の祟りの話はその根幹で類似した伝承であり、そのためにあえて崇神紀に併合されたのであろう。
 しかしその係年が計算上一致するのでなければ、そういした作為は単に恣意的なそれに終わる。そうでないのは書紀の編者が、意図的にそうした係年のつくりかたを試みたという痕跡をあえてここに残しているのに違いない。
 市磯長尾市の祭祀という事実の、前後関係からする崇神一〇年の武埴安の乱の本質は、したがって論理的に推測できる。崇神による太(大)氏・十市氏ならびにその同族山城の内氏の討伐、ならびにそれに関係する事件なのである。
 崇神の「御間城入彦五十瓊殖」の謚は「御間城入彦」と「五十瓊殖」に分かる。前者は磯城征服王である。後者は十市(瓊・淳名城)征服王であったと思う。
 磯城氏の滅亡を明確には述べなかった書紀と古事記の論法が、ここにも存在するであろう。太(大)氏・十市氏の滅亡もまたこれをあからさまには述べなかった。武埴安の乱に仮託し、また倭大国魂神の祟りに象徴するのである。本質たる椎根津彦の後裔の滅亡は、これを末代まで畏怖すべきものであったのである。
 ちなみに崇神の命を受けた大彦と大彦に副えたという彦国葺のうち、書紀は彦国葺の活躍のみこれを記す。副官である。将軍たるべき大彦については触れていない。だからここにも論理的に帰結すべきな結論が一つある。
 十市氏を攻略したのは、ほかならぬ大彦その人であろう。
 山城の内氏が内氏出自の王子を擁して立ったのであれば、その同族たる太(大)氏・十市氏もまた立ったのである。本筋は逆であろう。文脈からすれば崇神の側が一方的にこの討伐を開始したのであろう。
 ちなみに、大彦が山背の平坂で出会う「歌を詠う童女」は、おそらく十市氏また山城内氏の出の女で崇神の后妃の一人であった。紀伊荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙姫かも知れない。というのは、これが次代の垂仁の時、垂仁の義兄狭穂彦の謀反を后の狭穂姫が教えたという記事と並行するからである。
 狭穂彦の乱が武埴安の乱と関係があるといっているのではない。挿話というものが、類似の内容を一部でももてば、伝承されるうちにしだいに似てくるということであろう。
 もうひとつの問題が残る。
 おそらくこの討伐を主宰したであろう崇神、そしてその母后である伊香色謎・伊香色雄の一族が、太(大)氏・十市氏・山城内氏などとは直接的には距離のある姻族であったことを示唆する。
 それは丁度和珥氏がそうであったのと似ているのである。

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