第四章 御間城入彦五十瓊殖と伊香色雄β

 第三節 物部十千根β

御間城姫の疑義β

 崇神の后妃で垂仁の母后という御間城姫をみてみよう。これが崇神を襲った垂仁の拠ってたつ由来をあきらかにする。
 事実はひたすら垂仁の母后であって、崇神にはかかわりがなかったと思う。もっともこの名は崇神の御間城入彦と連動しているとみることもできる。この場合は崇神の娶った磯城氏出自の不祥の誰かであろう。元の名は分からない。あるいはその父という大彦に仮託して崇神の出自を示唆するものであったかも知れない。御間城姫の存在は複雑である。
 先述のように愨徳から考元に至る五王は兄弟とみられた。ついで開化から垂仁の三王もまた兄弟であった。開化と崇神が姉妹を母とするために、開化と崇神の兄弟は疑いないが、垂仁は書紀・古事記ともわずかな示唆があるばかりで、その直感的なものは崇神のそれにも似る「入彦」の名であった。論理的なそれは垂仁紀が事実上考霊紀から出きていて、他の大王の例からして垂仁の父が崇神でなく考霊ではないかという蓋然性をもつからである。
 考霊の子であれば、もちろん崇神とは従兄弟の間柄となる。崇神は考元の子であり垂仁とは従兄弟でかつ同世代にあたる。すると垂仁の母后としての御間城姫については独自の見解がありえる。古事記も崇神を御真木入日子といいながらその后を御真津比売といっている。若干の異同がある。「入」の有無とともに、この若干の異同は豊城入彦と豊鋤入姫の差違に近い。
 そもそも御真津は大王の名としては唯一考昭の謚として記録される。書紀で観松彦香殖稲といい、古事記で御真津日子詞恵志泥という。これを見ると御真津比売は考昭の妹であるかのようである。
 しかしながら御間城・御真津の語源はようするに磯城の地をいう。磯城に城を真城といった。纒向の意も「真城に向く」地を称したに違いない。美称である。
 磯城の美称はもうひとつ、書紀と古事記にあって「倭」がそれであったと思う。日本(やまと)ではない、倭(やまと)である。後には倭の中に磯城の地があることになるが、真の倭の地の真中こそ磯城であった。
 ここに磯城の名とともに倭の名をもつ、一世代前の王女が注意をひくことになる。
 倭国香である。
 類似の名をもつ王子もいる。倭彦と倭姫である。
 倭彦は書紀によれば崇神と御間城姫の子で、垂仁とは同母兄弟である。しかし垂仁紀には、埴輪の起源として有名な倭彦の陵葬記事があり、このとき「大王の母弟、倭彦」とある。母弟は同母弟の意に違いない。先のように母を同じくする姉妹の子同士も、こういわれる場合があると思う。
 御間城姫のみならず、崇神と御間城姫の子という垂仁ならびにその兄弟姉妹関係の系譜全体が、相当な作為のたまものである。だから垂仁の母后という視点から御間城姫を求めれば、垂仁の出る崇神の系譜は統一的に一世代前、すなわち考元ならびにその兄王たる考霊・考安・考昭の子の系譜に該当するであろう。結果的には考霊のそれとよく比較し得る。実は類似というより模倣といっていい。
 その理由はどちらの系譜もひたすら垂仁の母后を指示すべきという現実的な処理のためであった。


                母:細媛
        考霊+-----根子彦国牽(考元)
            | 
            |   母:倭国香媛(蝿某姉)
            |     *意富夜痲登玖邇阿禮比売
            +-----倭迹迹日百襲姫
            |    *日子刺肩別
            |    彦五十狭芹(吉備津彦)
            |    倭迹迹稚屋姫 *倭飛羽矢若屋比売
            |    
            |     母:倭国香弟(蝿某弟)*蠅伊呂杼   
            +-----彦狭島 *日子寤間
            |    稚武彦 *若建吉備津日子
            |    
            |     母:*春日千千早真若比売
            +------*千千早比売


                母:御間城姫 
        崇神+-----活目入彦五十狭茅(垂仁)
            |    彦五十狭茅 *伊邪能真若
            |    国方姫
            |    千千衡倭姫
            |    倭彦
            +-----五十日鶴彦 *伊賀比売
                

 考霊の系譜にある、蝿某姉(はえいろね)と蝿某弟(はえいろど)の姉妹は、古事記でも同名同音である。蠅意呂杵(はえいろど)は「いろ(同母)・をと(弟)」の訛りに違いない。蠅は「葉江」であり、磯城県主葉江すなわち神武紀の弟磯城「黒速」である。この名称は「磯城姉・磯城弟」と言い換えることができる。磯城媛から御間城姫はわずかな転にしか過ぎない。
 蝿某姉・蝿某弟の祖父は磯城津彦というが、この二代はむろん架上で、祖父ならぬ父たる人物はむろん椎根津彦であった。蝿某姉・蝿某弟は十市氏の宗家の子にして、その母の本居を磯城にもつ姉妹であった。
 その姉の蝿某姉が倭国香と呼ばれるのもむろん理由があった。椎根津彦が大倭国造でその裁量する版図も大倭といったからである。古事記では意富夜痲登玖邇阿禮比売という。
 さて考霊の后と記される磯城県主大目女細媛は、考元の母を指示するためにのみ意味をもつ。したがって考霊の后はむろん細媛でなく、倭国香とその弟である。したがってこのときその倭国香こそ、垂仁の母たる御間城姫その人である可能性がある。
 この場合は、彦五十狭茅(垂仁)は彦五十狭芹(大吉備津彦)の同母弟か、彦五十狭芹(大吉備津彦)その人であるかも知れない。論理が飛躍するが、吉備津彦の亦名をもつ彦五十狭芹は西国に征討した。時の西国は播磨ついで吉備である。古事記には大吉備津彦と若建吉備津彦の二人が、「針間の氷河の前に忌瓷を居えて、針間を道の口として、吉備を言向け和したまひき」とある。  この間の系譜は次のように改めなければならない。  

 
 
                 母:磯城葉江妹
       十市------倭国香媛(蝿某姉)<国方姫>
                弟媛(蝿某弟)
                               
 

                  <御間城姫>
                 母:倭国香媛(蝿某姉)
                     *意富夜痲登玖邇阿禮比売
        考霊+-----倭迹迹日百襲姫
            |    *日子刺肩別
            |    彦五十狭芹(吉備津彦)
            |    <彦五十狭茅・垂仁>
            |    倭迹迹稚屋姫 *倭飛羽矢若屋比売
            |    
            |     母:倭国香弟(蝿某弟)*蠅伊呂杼   
            +-----彦狭島 *日子寤間
            |     <彦五十狭茅・垂仁>
            |    稚武彦 *若建吉備津日子
            |    
            |     母:*春日千千早真若比売
            +-----*千千早比売 <千千衡倭姫>

       ---------------------------------------------------
       *参考
       

                  母:御間城姫 
        崇神+-----<活目入彦五十狭茅(垂仁)>
            |    <彦五十狭茅 *伊邪能真若>
            |    <国方姫>
            |    <千千衡倭姫>
            |    <倭彦>
            +-----五十日鶴彦 *伊賀比売


       ---------------------------------------------------

 吉備を攻め、崇神の命で武埴安の妻吾田媛を攻略した彦五十狭芹は、将軍として書かれている。注目すべき五十狭芹の名は垂仁の五十狭茅と同じく、五十狭の地を制覇した事績によるであろう。

垂仁の出自β

 垂仁が彦五十狭芹(吉備津彦)であるかもしれない蓋然性を示した。しかし実際にそうであるかといえば、そうではない可能性の方が高いと思う。書紀を通じて、大王はこれを記述するにとくにその育ちを述べることがない。事績としてこれを記述すべき必要があるときは、王子の時代の事績を、大王になってからのそれとして記述する倣いである。景行の西征がそうであった。書紀の編纂を命じた天武でさえ、その若年の時代を語らない。天武はいきなり天智の皇太弟として登場し天下を治すのである。
 彦五十狭茅は彦五十狭芹(大吉備津彦)その人でなく、その記録されない同母弟であったと仮定して進めてみたい。
 死後の殉死・殉葬で知られる倭彦は、先のように垂仁から「母弟」と呼ばれている。他の例においても書紀はこの言葉を「同母弟」の意味でつかっているから、とりあえず垂仁と倭彦は同母の兄弟であるとしよう。また垂仁の時代に倭彦とともに倭姫が登場するが、この酷似する名称は倭彦と倭姫が兄妹であることを示唆する。
 ところが書紀において倭彦は垂仁とともに崇神の子、倭姫は垂仁の子とされている。崇神の子に千千衡倭姫という人物もいる。混乱するが、垂仁が事実上の践祚のとき倭姫を天照に託したという伝承は、この時代においては世代を同じくしかつ多く近親の妹でなければならないことをいう。
 倭彦と倭姫は垂仁の同母弟妹、ゆずってもその母同士が同母姉妹でなければならない。倭彦は垂仁にとって有力な協力者であったようであるし、倭姫は垂仁が践祚するとき、天照を託すほどの身内であったのである。
 この倭姫に関連して播磨稲日がいる。
 景行の后で倭建の母という播磨稲日大郎姫は、景行でなく垂仁の后で倭建の母であったと思う。倭建は小碓といい双子の兄を大碓といった。その大碓は景行と美濃国造女の兄遠子・弟遠子を争ったというから、書紀の通例の文脈からして景行と大碓は同世代であろう。小碓も同様である。
 改めて確認の要はないが、大王氏の系譜においてもっとも重要であったのは母后の血であった。書紀・古事記の文脈のなかでは、大王氏の王女たる血すら、母后たる姻族の血に優ることがなかった。ために后妃の記述はしばしば迂遠なものになった。
 垂仁の后妃には狭穂姫と日葉酢媛そして播磨稲日があった。その他の山城の妃はとりあえず略しておく。その播磨稲日の出自は播磨の豪族なのではない。仮に播磨の豪族の出であれば、これを娶る機会をもつのは「播磨に祝甓をおいて吉備を攻めた」という彦五十狭芹(吉備津彦)とその弟稚武彦にほかならないが、文脈からすれば、たぶん同母の兄とともに播磨に播拠した、その事績を謚したものである。
 垂仁の子とみられる倭建は、その母の播磨稲日との記事をまるでもたない。それなのに熊襲征伐と東国征討の際に倭姫との親密な交渉を記録する。
 倭姫を「姨」と呼んでいる。
 姨は本来的には母の姉妹をいう。書紀・古事記の系譜からすれば、倭姫はむろん播磨稲日の姉妹ではない。父の姉妹たる「姑」でなければならない。この異同は倭建が景行と播磨稲日の子としてもかわらない。つまりこの記事は播磨稲日が早世であったことと、倭姫がその同母の妹で、そのために倭建に対して特別親密であったという事情を指示する。異母では遠い。
 整理すると考霊と倭国香(蝿某姉)の子に彦五十狭芹(大吉備津彦)があった。その弟倭国香弟(蝿某弟)の子に稚武彦があった。以外にどちらか特定できないが、垂仁・倭彦・倭姫・播磨稲日があった。垂仁はどちらかの子には違いないが、播磨稲日を娶っているために播磨稲日とはかならず同母ではない。
 一方倭建と倭姫の親密感は、倭建の母播磨稲日と倭姫が同母の姉妹である可能性を示し、倭彦と倭姫の名称もまた同母の兄妹を示唆する。すると倭彦・倭姫・播磨稲日はまったくの同母から生まれたのでなければならない。
 ひるがえって垂仁の母后とされた御間城姫の名は、弟姫らしい感じをもたない。御間城に仮託されたのが倭国香(蝿某姉)か倭国香弟(蝿某弟)かといえば姉のほうであろう。
 垂仁にとって伊勢斎宮は同母である必要がなく、また「母弟」という倭彦がまったき同母弟であるべきかどうかは疑問も残る。允恭の后忍坂大仲姫の母弟という衣通郎姫の関係が参考になるが、忍坂大仲姫の産土は都祁にあったにも関らず、衣通郎姫は近江坂田から允恭に招かれたらしい。産土が異なるのはこの姉妹が同母姉妹のそれぞれの子であることを示唆する。これを母弟(同母弟)といっているのである。
 つまり垂仁だけがこれらと母が異なる。たぶん倭彦・倭姫・播磨稲日の母の同母の姉から生まれた。
 この関係をまとめると次のようになる。垂仁が大吉備津彦ではなければ、その同母弟である。

 
        考霊后妃:蝿某姉(垂仁異母)
        
              彦五十狭芹(大吉備津彦)
              彦五十狭茅(垂仁)
                
                
                :蝿某弟(垂仁同母)
                
                稚武吉備津彦
                倭彦
                倭姫
                播磨稲日----------------倭建命
                
 

 いずれにせよ垂仁が何によって立つのかが分かる。姻族十市氏を母とするこの兄弟・従兄弟は、神武・綏靖の創始した王権においていわば正嫡の立場にあった。
 書紀と古事記はよくこれを承知していた。正嫡の血統としては、事実上綏靖・考霊・垂仁そして倭建・仲哀と続く系統なのであり、文脈のなかで不断に表明される思想なのである。
 ここに一つ問題がある。垂仁は然るべくして王位についたのであろうか。  待っていてはやってこない王位を崇神は自らの意志で掴んだ。垂仁がその必要がなかったかどうかということは分からない。垂仁は崇神の後穏当に推戴されたようにみえる。しかし条件がなかった筈はない。その時の背景と推戴した勢力が問われなければならない。然るべき年齢にあった崇神と同世代の王子は限られていて、考霊の王子たる垂仁が最有力候補であったことは間違いない。  垂仁の父考霊は西紀三三四年に即位して治世九年、西紀三四二年に没している。その後を継いだ考元は翌三四三年に即位、治世三年で三四五年に没している。考霊は愨徳から始まる大王氏第三世代で、愨徳・考昭・考安の後を継いだのだから、前章で述べたようにある程度年を経てから王位についたことになる。この点は考元も同様である。
 考霊の子垂仁はしたがって、考元の子開化や崇神より年齢が上であった可能性がある。その娶女の時もまた開化のそれより早かった筈である。前章でみた考霊や考元の即位年齢をかんがみると、開化はその即位の時ようやくそれに見合う年齢であったであろう。たとえば一八歳前後である。
 垂仁はその時すでに日葉酢媛を妃としていた。その詳細は後に述べるが、垂仁と日葉酢媛の子である景行が、垂仁三〇年(実考霊紀三〇年)すなわち西紀三六三年に西征をするためには、景行の年齢は少なくとも一〇代後半でなければならない。すなわち景行は開化元年からそう降ることなく生まれていなければならない。
 垂仁紀三〇年は開化紀一八年に相当する。垂仁はたぶんその開化元年(西紀三四六年)頃に日葉酢媛を娶っている。その時垂仁が二〇歳前後とすれば、垂仁二六年(三五九)垂仁即位時の垂仁の年齢は既に三〇代半ばであった。
 ちなみに狭穂姫の立后は、伝承通り実垂仁紀二年であろう。赤子として登場する誉津別の挿話などにみる垂仁紀の文脈からすれば、これを疑う余地はない。するとそれより一〇数年以前から垂仁の妃であった日葉酢媛の立場は、これをよく咀嚼する必要がある。
 とりあえず話を進めよう。ただ垂仁を擁立した勢力が何者であったかという点が、ここに髣髴としてくるであろう。崇神の時代を崇神とともに統べていたのは、ほかならぬ伊香色雄とその後裔たちであった。就中長狭氏である。狭穂姫はその長狭氏の出身であった。  そして垂仁の治世においてまずもって重大な事件であったのは、狭穂彦の乱であった。

狭穂彦の乱β

 さて垂仁の治世係年は、景行のそれと比肩してももっとも複雑なそれである。基本的には考霊紀からできていて、微妙なところで開化や崇神のそれを援用する。整理に注意が要る。
 とりあえずこの係年をみてみよう。

 
                
 崇神紀・垂仁紀年譜 
 =====================================================
 干支 西紀 紀年          記                 事
 =====================================================
       即位前記 *垂仁  崇神没(12月)
       垂仁元年   |    即位(1月)、陵葬(10月)
          2年   |    立后(3月)纒向珠城宮(10月)
          3年   |    天日矛
          4年   |     
          5年   |    狭穂彦の乱        疫病
          6年   |                      豊鍬入姫
          7年   |    野見宿禰          大田田根子
          8年  |
          9年   |                      磯城瑞籬宮
          10年 *考霊                    武埴安の乱
          11年  23年  誉津別         四道将軍帰還   
          12年  24年                   御肇国天皇の称号
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 戊午  358 25年 *開化 倭姫斎宮                  崇神没
 己未  359 26年  14年  伊勢神宮、出雲神宝 *垂仁  即位元年
 庚申  360 27年  15年  武器祭祀の初め      2| 立后・纒向
 辛酉  361 28年   |    倭彦没、埴輪陵葬    3|  天日矛
 壬戌  362 29年  |                       4|
 癸亥  363 30年   |    景行・五十瓊敷試験  5| 狭穂彦の乱
 甲子  364 31年   |                        6|
 乙丑  365 32年   |    日葉酢媛没          7| 野見宿禰
 丙寅  366 33年   |                        8|
 丁卯  367 34年   |    綺戸邉立妃          9|        
 戊辰  368 35年   |    五十瓊敷池づくり   10|
 己巳  369 36年   |                       11|
 庚午  370 37年   |    景行立太子         12|
 辛未  371 38年   |                       13| 景行即位
 壬申  372 39年*開化87 五十瓊敷剣千口、石上 | 物部十市根
          88年   |    但馬神宝           15|
          90年   |    田道間守           16|
           99年 *孝霊  垂仁没)           17|
 =========================================================
 

 すこし複雑な表記になったが、要は垂仁元年から九年までは実垂仁紀、一〇年から一九年までは実開化紀、二〇年から後はすべて実考霊紀なのであると思う。すなわち践祚は倭媛斎宮の記事のある二五年(実考霊紀)、即位元年は二六年(実考霊紀)である。二年狭穂姫立后、おなじく二年磯城珠城宮遷宮、五年狭穂彦の乱、七年野見宿禰入朝など九年までつづく。
 一〇年からの記事を実開化紀でみれば、一五年日葉酢媛立后の記事は、文脈と異なって垂仁紀二七年(実考霊紀)、すなわち実垂仁紀二年である。しかもこれは狭穂姫の立后ならびにと磯城珠城宮遷宮の年でもあった。
 このどちらが重複するかという問題ではない。筋道からすれば垂仁の后妃はそもそも日葉酢媛で、すでに長大な期間を垂仁の妃であり続けていた。垂仁の即位にあたっては、当然日葉酢媛が立后されて然るべきであった。
 崇神の没の事情が、倭大国魂神の宣託のように不穏なものであれば、あるいは先のように崇神が太(大)氏・十市氏の祟りで病み、たとえば崇神七年に王位を降りて垂仁がこれを襲ったとすれば、垂仁は自らの主体性で立ったのではない。これまで崇神を支えてきた長狭の勢力に擁立されたのである。
 長尾市の祭祀が崇神七年と垂仁二五年にあって重複するのは、要は本来重複でなく、同年あるいは一年を隔てて崇神の祭祀と垂仁のそれがあったことを指示することになる。
 その擁立の条件が狭穂姫の立后であったと思う。
 この視点で狭穂彦の乱ならびに狭穂姫と誉津別の挿話をみると、そこに溢れてくる文脈は意外なものである。
 狭穂姫の挿話は、倭建命のそれと並んでもっとも文学的な展開をもつ。ことに古事記において著しい。古事記からその一節を抜粋しよう。

 この天皇、沙本毘売を后としたまひし時、沙本毘売命の兄沙本毘古王、その同母妹に問ひて曰ひけらく「夫と兄と執れか愛しき」といへば、「兄ぞ愛しき」と答へたまひき。ここに沙本毘古王謀りて曰ひけらく「汝寔に我を愛しと思はば、吾と汝と天の下治らさむ」といひて、すなはち八鹽折の紐小刀を作りて、その妹に授けて曰ひけらく「この小刀をもちて、天皇の寝たまふを刺し殺せ」といひき。故、天皇その謀を知らしめさずて、その后の御膝を枕きて、御寝しましき。ここにその后、紐小刀をもちて、その天皇の御頸を刺さむとして、三度挙りたまひしかど、哀しき情に忍びずて、頸を刺すこと能はずして、泣く涙御面に落ち溢れき。すなはち天皇、驚き起きたまひて、その后に問ひて曰りたまはく「吾は異しき夢見つ。沙本の方より暴雨零り来て、急かに吾が面に沾きつ。また錦色の小さき蛇、我が頸に纏繞りつ。かくの夢はこれ何の表にかあらむ」とのりたまひき。

 ここにこの后、争はえじと以為ほして、そなはち天皇に白して言ひしく「妾が兄沙本毘古王、妾に問ひて曰ひしく『夫と兄と執れか愛しき』といひき。この面問ふに勝へざりし故に、妾『兄ぞ愛しきか』と答へき。ここに妾に誂へて曰ひけらく『吾と汝と共に天の下を治らさむ。故、天皇を殺すべし』と云ひて、八鹽折の紐小刀を作りて妾に授けつ。ここをもちて御頸を刺さむと欲ひて、三度挙りしかど、哀しき情忽かに起こりて、頸を得刺さずて、泣く涙の御面に落ち沾きき。必ずこの表にあらむ」とまをしたまひき。
 ここに天皇「吾は殆に欺かれつるかも」と詔りたまひて、すなはち軍を興して沙本毘古を撃ちたまふ。

 この不思議なリフレインは、その後の日本文学の特徴となった。現代文学には何故か欠けている。なによりこのリフレインはその細部で微妙に展開する。たとえば狭穂姫の垂仁に対する語り口は、狭穂彦のその妹に対するそれとわずかに異なり、そこにだけ本人のかすかな主体性がかいま見られる。「この面(まのあたりに)問ふに勝へざりし故に」というのである。また「兄ぞ愛しき、か」というのである。
 書紀の伝えるところも文学的なそれを別とすれば大同小異である。狭穂彦(沙本毘古)は稲城を作ってたてこもるが、狭穂姫は「その兄に得忍びずて」後門より出て稲城に入った。垂仁は上毛野君の遠祖八綱田を遣わして稲城を焼いたが、このとき垂仁は狭穂姫と王子誉津別を奪いかえそうとして、誉津別のみとり返した。そして狭穂姫は死ぬにあたって、垂仁の次の后妃に丹波道主王の五人(古事記では二人)の女を推薦した。
 ここに類をみない特徴的な記述が二つある。
 誉津別は書紀では既に生まれていて、狭穂姫とともに稲城に入ったが、古事記では稲城の中で生まれたことになっている。古事記には書紀にはない記事がいまひとつある。狭穂姫を捉えようとしたとき、狭穂姫が手に纏く「玉の緒」を握ると、すなわち絶えて能くこれを捉えられなかった。そのために玉作を憎んで、その地(玉作の地)を皆奪ったという。
 狭穂姫は書紀も古事記もこれを開化の子彦坐と春日建国勝戸売女の大闇見戸売との間の子としている。記録上は王族であるが事実は姻族であった。国勝の名は書紀の瓊々杵の降臨した添の地の国主、事勝国勝長狭に由来する。先のように長狭は長髓彦と同類である。その国勝戸売は春日の名を冠するが、これは彼磯城の転で春日氏の源流とみられ後に和珥氏を仮冒したのであろう。  崇神の時代、磯城氏ついで十市氏・山城内氏を滅ぼした時、崇神に荷担したのは、伊香色雄の出自である添下の長狭氏と添上の和珥氏、彦国葺であった。
 思うにその戦後、前者の勢力は大和盆地の西南部一帯を、後者は東北部一帯をそれぞれ管掌した。そして前者長狭氏は添下から、後者和珥氏は添上から、それぞれ山城から近江へと影響を及ぼした。その山城にはなお山城内氏の勢力があった。後の気長氏である。
 結果的には山城の気長氏の版図に影響を与えた長狭氏と和珥氏のうち、和珥氏の方がこの地に持続的で大きな勢威をもった。漸次北進して気長氏と混在しつつ、さらにはこれを追って北山城・近江・若狭に進出した。後の気長氏が追われて近江坂田を本拠とするに至ったのはこの間断ない和珥氏の膨張のためであろう。
 今一つ特徴的な狭穂姫の日葉酢媛推薦という記事である。
 狭穂姫の立后が日葉酢媛を差し置いてする政略的なものであれば、この文脈は後世の気長氏の立場から書かれた。垂仁一五年(実開化一五年)、事実上垂仁二年条たるべき日葉酢媛の立后記事、ならびにこれにともなうその妹の、垂仁が疎んじてこれを帰国させたという記事は、狭穂姫立后にともなう騒動の一つに違いない。
 垂仁にとっては王位を得る条件であったが、垂仁自身がこれを政略とみなしていたかという点は別の問題である。文脈からすれば姻族の宗家から生まれた垂仁は、狭穂姫をその姻族の嫡流とみていたかも知れない。その子誉津別に対する庇護の挿話もまたこれを示唆する。
 ただし正統の観念からすれば、垂仁には今一人王家から出た女を娶った。播磨稲日である。その子倭建の年齢から推定するその立妃は、狭穂姫立后と同時期であったと思われる。誉津別と倭建が同年齢らしいことの証左でもある。
 狭穂姫の正嫡性についてはこうなる。彦坐が常津彦某兄であれば、その子である狭穂彦・狭穂媛の兄妹はむろん王統に繋がらず、姻族の系につながる。その出自は父系では彦坐、すなわち山城内氏(瀛氏)の本拠地であったが、母系では春日建国勝戸売の女「大闇見戸売」から出た。
 これは名称が違いすぎるから間違いなく姉妹でなく母子であろう。大闇見戸売に類する名称は古事記の神代記にある。大山津見の子天之闇戸である。

 この大山津見神、野椎神の二柱神、山野によりて持ち別け、生める神の名は、天之狭土神、次に国之狭土神、次に天之狭霧神、次に国之狭霧神、次に天之闇戸神、次に国之闇戸神、次に大戸惑子神、次に大戸惑女神。

 闇と狭との間に言葉の連動があり、この後世からの名称が饒速日の伝承と関りがあることを示唆する。少なくとも狭(長狭)の地には関係があった。彦坐は長狭氏の女を娶ってこの兄妹を生んだ。饒速日氏ではない。神武以来の長狭(長髓)氏である。先立つ伊香色雄・伊香色謎は、その母の出自が長狭・五十狭氏であった。十市氏が長狭氏の女を娶って生んだ兄妹であるが、その長狭の女については語られていない。
 ここに考えるべき問題がある。相互の世代である。
 彦坐は椎根津彦の子であると思うが、そうでなくてもその子の世代である。すると大王氏の第二世代である考霊・考元とも同世代である。その后妃蝿某姉・蝿某弟、欝色謎・伊香色謎とも同世代である。したがって彦坐が娶った春日建国勝戸売女大闇見戸売は、伊香色雄・伊香色謎とも同世代である。春日建国勝戸売その人は神武や葉江また椎根津彦と同世代である。
 春日建国勝戸売の名が、饒速日こと瓊々杵の降臨伝承にある国主、国勝事勝長狭に類似することは注意を要する。長狭氏とみられるこの人物が、三炊屋媛や長髓彦また饒速日とも同世代なら、長狭の宗主は先のように三炊屋媛でなく長髓彦でもなく、この春日建国勝戸売であった。
 春日建国勝戸売が三炊屋媛その人である可能性も指摘したが、文脈がいかにも離れ過ぎる。三炊屋媛が長狭の宗家ではなかったとみるのが穏当であろう。長髓彦も同様である。饒速日と三炊屋媛の子である可美真手は生駒にあって饒速日の王統を続け、添下たる長狭の地の宗主はこれを長狭の女系で継いだとする見方が近いのだと思う。すると三炊屋媛と長髓彦の一族は長狭でなく、むしろ生駒に播拠していたかも知れない。
 大王氏の姻族たる巨大な勢威をもった椎根津彦が入婿した長狭の相手は、ほかならぬ春日建国勝戸売であった。
 すると椎根津彦の子伊香色雄・伊香色謎は、その春日建国勝戸売から、あるいはその係累の一つから生まれたのでなければならない。その子という大闇見戸売も伊香色雄・伊香色謎の同父同母または同父異母の姉妹でなければならない。そして椎根津彦の子である彦坐が、再びこの大闇見戸売を娶って狭穂彦・狭穂姫を生んだ。
 彦坐が姻族太(大)氏・十市氏の正嫡であれば、時に最大の勢力であった長狭氏との婚姻で生まれた狭穂彦・狭穂姫がまた、正嫡の子である所以である。本来の宗家であるかも知れない豊城の家系は、崇神の時代すでに一度滅びているのである。
 垂仁の謚である「彦五十狭茅」は長狭つまり五十狭征服王、「活目入彦」は生駒征服王の意であろう。生駒は時に辛うじて饒速日氏の後裔が残存している地であった。
 姻族の一、長狭氏の本拠である長狭(添下)一帯を討伐し、同時に既にその一族であった生駒の饒速日氏の後裔氏族を討伐したということを意味する。その際垂仁の力となったのが、十市氏たる豊城の後裔、そして後の気長氏すなわち日葉酢媛の一族であったに違いない。
 丹波道主の一族はむろん丹波出自なのではない、母方から丹波を一部背景にもつ南山城の豪族にして「気(瀛)」の名をもつ姻族であった。椎根津彦すなわち十市氏の後裔にして長狭氏とは直接かかず、従兄弟たる豊城や狭穂彦の後を襲った正系の姻族であった。
 ちなみに「玉作の地を奪う」という記事はもとより狭穂姫の挿話と関りがない。この一連の戦闘のなかで、玉作を業とする氏族を滅ぼしたことをいうであろう。それが誰かということになれば、時に瓊とも呼ばれた十市氏の地のかつ滅びた後裔氏族を想定すべきであると思う。伊香色雄すなわち大彦の後裔の誰かであろう。
 伊香色雄の亦名である大彦からすれば、大彦の子という阿倍氏の祖武淳川別である。十市郡の中でとくに玉作の地というのはことによると磐余であったかも知れない。武淳川別は武埴安の乱後、十市氏の広大な旧領を管掌し、この狭穂彦の乱に至って同時に攻略され、十市氏発祥の磐余の地にまで追い込まれたのだと思う。
 二つの記事がこの後の事情を物語る。すなわち狭穂姫の子である誉津別の登場、そして物部の祖とみられる物部十千根の登場である。その登場と活躍の時期が、狭穂彦の乱からどれだけ後であるかが垂仁の治世の背景を明らかにするであろう。
 それは磯城氏の滅亡における大田田根子、十市氏の滅亡における市磯長尾市の祭祀に類する、長狭氏の滅亡後の収拾をともなっていた筈なのである。

誉津別の伝承β

 書紀の文脈からすると、狭穂彦の滅亡は先述のように長狭氏と饒速日氏の降伏であった。関連して伊香色雄の後裔もこの影響を受けたであろう。垂仁紀五年条のこの出来事は、活目入彦五十狭茅という謚をもつ垂仁の、後世から称えるべき事績であった。
 その事件は垂仁の治世の始まる前ではない。崇神の時とおなじように、この五年が崇神五年の出来事であった可能性はないことはない。垂仁紀は実考霊紀と実垂仁紀でできている。一部実開化紀も援用する。実崇神紀の利用も考慮するとすれば、狭穂彦の乱が崇神五年、すなわち崇神紀(実開化紀)一一年であった可能性があり得る。四道将軍帰還の年であり、「異人の多々帰順した」と記録する年でもある。
 これは無理であった。崇神の治世下で垂仁がその武力背景であった長狭の一族を討伐することはできない。論理的でない。狭穂彦の乱は、やはり実垂仁紀五年(西紀三六三)であると思う。
 ちなみにこの年こそ、五十瓊敷と景行の兄弟試験のあった年であり、景行が西征に向かった年でもあった。
 さて垂仁と狭穂姫の子である誉津別は、狭穂彦の乱の垂仁五年条と、今一つ垂仁二三年条に出てくる。前者はまだ乳飲み子である。二三年条の記事は、書紀においては簡略だが古事記においては相当な文量を費やす。
 趣旨は三つある。誉津別が唖であり、鵠(白鳥)を見て初めて口を利いた。大王はこの鳥を追わせ、出雲また但馬でこれを捕らえ、誉津別はこれを弄んでついに物を言うようになった。捕らえた者を鳥取部としたという。
 古事記はこれに加えて、「物いわぬは出雲の神の祟り、出雲の宮を立て替えすればよし」、と占いに出て、誉津別に曙立王と菟上王を副えて、出雲に詣でさせる。これを拝むと物いうようになり一夜肥長比売と婚するが、この比売は蛇であった。誉津別は逃げて大和に帰還し、大王はよろこび、また菟上王を遣わして出雲の宮を修復したという。
 垂仁二三年条の誉津別の挿話は、その年代がおよそ三つの可能性がある。

 
       考霊二三年(三五六)    崇神の四道将軍帰還の年
       開化二三年(三六八)    景行大和帰還の二年前
       垂仁二三年(三八一)    景行九年、倭建帰還二年後
       

 この意味はまったく違う。日葉酢媛の立妃が狭穂姫のそれより早いとすれば、この時青年たる誉津別が垂仁と狭穂姫の子であるためには、事実上の垂仁二三年(三八一)しかない。伝承通りであればこの年誉津別は十八歳。開化二三年を援用すれば五歳。考霊二三年をとれば、誉津別は垂仁でなく考霊の子であろう。
 この判別は一連の伝承のうち出雲と鵠すなわち白鳥にある。後者の点に関しては倭建の精が白鳥であることが意味深い。この二人の王子は書紀・古事記とも記述上不可分な関係にあったらしい。その理由はほぼ同年齢であったことと、ともに物部氏と強い関りがあったためだと思う。
 誉津別については長狭氏を奉じた物部氏にとって唯一自家の血をひく王子であった。倭建はおそらくその手下にあって東西の征伐に奔走した武将が、たぶん物部一族であったのだと思う。
 出雲については、別途に記事として集中する時期がある。開化二五・二六年(三七〇・三七一)である。
 今一つ出雲と関りある記事が、野見宿禰の挿話である。野見宿禰は出雲からやってきたというからである。
 野見宿禰の記事は、垂仁七年(相撲起源)と三二年(日葉酢媛陵葬)であり、日葉酢媛のとき野見宿禰の進言で初めて埴輪をもって殉死にかえたとある。これは垂仁七年と考霊三二年であり、ともに同一年の記事で、西紀三六五年のことであろう。倭彦の陵葬に殉死が問題になったという挿話は、考霊二八年(三六一)であり、その四年前である。垂仁紀年譜を参照されたい。
 誉津別とは時代が違うから、これは大和における出雲前史である。しかしながら垂仁七年(三六五)は狭穂彦の乱および景行西征のあった垂仁五年(三六三)の三年後なのである。出雲との交渉の嚆矢たるこの記事は、この景行西征とかならず関るであろう。
 出雲の挿話は書紀にはそれだけしかないが、古事記には倭建のものとして関連記事がいくつか出てくる。熊襲を討った帰途、「すなわち出雲国に入り、その出雲建をうち殺したまいき」とあるのがそれである。詳細は後にしたいが、もともと倭建の伝承については書紀と古事記では大幅な異同がある。熊襲討伐の挿話も、古事記の伝承の一部が書紀の景行紀に取り紛れているようにみえる。出雲討伐もその伝である。
 垂仁二三年条の誉津別の挿話は一に垂仁紀二三年(三八一)であろうと思う。実景行紀一一年である。
 その三年前に熊襲討伐、二年前に倭建の出雲討伐があれば、この誉津別の出雲祭祀は、丁度崇神が磯城を滅ぼし懐柔のために大田田根子をして祭祀させたのと同様の文脈になる。誉津別がこれを拝して後その社を改修したのである。
 あらためて言うが誉津別は出雲と白鳥の二点で倭建に関る。そして倭建は書紀において大王に準ずるポジションをもった。しかしながら大王ではないために、適切な没年あるいは即位に類する係年を明らかにできない。誉津別がとくにここに記述されるのは、その特異な挿話のためだけでなく、倭建のそれを指示するためでもあったかも知れない。
 誉津別記事と倭建記事を並べると、次のようになる。


        倭建関連記事<西紀三七八・七九年>      仮託の係年
       --------------------------------------------------
       倭建熊襲派遣                            景行二七年
       倭建帰還                                    二八年

 
 
       誉津別関連記事<西紀三八一年>          仮託の係年
       --------------------------------------------------
       誉津別出雲(景行九年、倭建帰還二年後)  垂仁二三年
 
 
 
       倭建関連記事<西紀三八二〜八五年>      仮託の係年
       --------------------------------------------------
       倭建東国派遣    大伴武日従軍            考元四〇年
       倭建没                                    〜四三年

 ちなみに誉津別が狭穂彦の乱(西紀三六三年)前後に生まれていれば、西紀三八〇年頃には一七、八歳である。先述のように垂仁はその即位後に狭穂姫と播磨稲日を后妃としたとみられるから、播磨稲日の子である倭建の年齢も誉津別のそれと近似な年齢である道理である。
 倭建が熊襲を征伐した景行二七年(実崇神紀二七年)は西紀三七八年、誉津別と前後して生まれていれば、その年倭建もおよそ一五、六歳の筈である。
 これに関係して書紀は、熊襲征伐の時倭建が、「吾は是、大足彦天皇の子なり。名は日本童男(やまとをぐな)と曰ふ」と名乗ったと書く。古事記は「吾は纒向の日代宮に坐しまして、大八島国知らしめす、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王ぞ」といったと書く。
 童男・男具那はむろん稚い王子をいうが、倭建以外では安康紀・安康記で、安康が眉輪王に弑逆された時立ち上がった雄略を称して、「時に大泊瀬皇子(雄略)、童男なりけり」と書いている。童男(男具那)は一八歳未満、おそらく一五、六歳をいうであろう。即位をよくする一八歳に満たないで世に出た王子を、とくに童男といったのである。
 この点では垂仁三十年に西征を開始した景行の年齢も、時に十八歳未満であったとみられる。やはり童男であった。熊襲征伐に関った倭建の英雄伝承の一部は、もともと景行のそれと重複することがあることを指摘しておいたが、これもその証左の一つである。
 戻って誉津別については、もうひとつ原理的な解釈がある。誉津別が長狭一族の腹から出たこの時代唯一の王子であったために、その伝承のうち、いくつかは饒速日氏を吸収した長狭氏、すなわち後の物部氏の担った伝承が入っているのだと思う。
 誉津別の燃える稲城での誕生という伝承が、瓊々杵の子を生む神吾田津媛の炎のなかの分娩に相似しているという見解があった。この相似はしかし時代が離れすぎている。出雲の肥長比売の挿話とともに、これを担った氏族の伝承がここに挿入されたと見るべきであろう。
 物部氏の最初の人とみられる物部十千根の登場はその誉津別と倭建の時代を一〇年はさかのぼっている。景行の践祚元年に前後する時なのである。十千根が十市根と訓めることからすれば、長狭氏の栄光とその伝承を担ったのは必ずやその物部十千根であろう。
 ちなみに誉津別同様、いまひとつ長狭氏が担ったかも知れない伝承がある。神代紀・記にある猴田彦(猿田毘古)の記事である。古事記は本文、書紀にはその一書第一にあるが、一見して同一の伝承である。これを古事記でみてみよう。

 ここに日子番能邇邇藝命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天原を光らし、下は葦原中国を光す神、ここにあり。天照大御神、高木神の命をもちて、天宇受売神に詔りたまひしく、「汝は手弱女人にはあれども、い対ふ神と面勝つ神なり。故、専ら汝往きて問はむは、『吾が御子の天降り為る道を、誰ぞかくて居る』と問え」とのりたまひき。
 故、問ひたまふ時に、答へ白ししく、「僕は国つ神、名は猿田毘古神ぞ。出で居る所以は、天つ神の御子天降りますと聞きつる故に、御前に仕へ奉らむとして、参向へ侍ふぞ」とまをしき。
 (天孫降臨/略)

 故ここに天宇受売命に詔りたまひしく、「この御前に立ちて仕へ奉りし猿田毘古大神は、専ら顕はし申せし汝送り奉れ。またその神の御名は、汝負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。ここをもちて猿女君等、その猿田毘古の名を負ひて、女を猿女君と呼ぶことこれなり。

 この猿田毘古と天宇受売がどこに至ったかについては、書紀が記録する。前段は古事記と同然であるから省く。

 時に天細女、復問ひて曰く、「汝は何処に到りまさむぞや。皇孫何処に到りましまさむぞや」といふ。対へて曰はく、「天神の子は、当に筑紫の日向の高千穂の奇触峯に到りますべし。吾は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に至るべし」といふ。  天細女還詣りて報状す。
   (天孫降臨/略)

 皇孫をば筑紫の日向の高千穂の奇触峯に到します。其の猴田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到る。即ち天細女命、猴田彦神の所乞の随に、遂に侍送る。時に皇孫、天細女命に勅すらく、「汝、顕しつる神の名を以て、姓氏とせむ」とのたまふ。因りて猴女君の号を賜ふ。

 この古事記と書紀一書第一の一連の伝承が、書紀本文や他の一書と異なるのは、これに限っては、猿女君の伝承になったことを示唆する。猿女君はすなわち、古事記の編纂にあたって、太安萬侶がその暗誦を採録したという稗田阿礼の出自である。
 そして一方で猿女君は春日氏あるいは和珥氏の出であるともいう。そうではなくむしろ長狭氏であろう。そもそも春日氏自体が長狭氏の一族の後裔から生まれたとみたい。その背景をつくったのが、ほかならぬ彦国葺であった可能性がある。彦国葺の名も春日建国勝戸売のそれと関連がありそうである。
 彦国葺が崇神の将軍として武埴安を伐った後、和珥氏の動静は伝えられないが、垂仁の時代に和珥氏が垂仁と対立したという記述はない。狭穂彦の乱は生駒・添下・添上を巻き込んだ大王氏と長狭(饒速日)氏との戦闘であったが、ここにも和珥氏は直接的には登場してこない。
 離散した長狭氏が彦国葺を取りこんだかも知れない。和珥氏の彦国葺が長狭の栄光を標榜したかも知れない。どちらも結果は同様であろう。春日氏や猿女君は長狭氏に源流をもつと思う。

軍事氏族の誕生β

 垂仁の将軍は書紀の記事からは上毛野君の祖八綱田であった。垂仁が狭穂彦を伐つときに派遣したが、古事記には将軍の名は記録されない。八綱田は崇神の子豊城命の子であるといい、崇神条にも「豊城命を以て、東国を治めしむ。是上毛野君・下毛野君の始祖なり」とある。また討伐の功を褒めて「倭日向武日向彦八綱田」の名を賜ったという。
 豊城は豊城入彦といい母は紀伊の荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛であるというが、この紀伊は山城の紀伊(紀伊郡)であり遠津は十市の意であった。先のように十市氏宗家の後裔すなわち彦坐の正嫡の子とみられる。
 八綱田もまた豊城の子でなく弟にして豊城・崇神・垂仁と同世代であろう。東国との関係はこの章のテーマではないから、ここでは省略するが、この八綱田の子が彦狭島またその子が御諸別といい、いずれも上毛野君の祖であった。
 世代は父子でなく主として兄弟関係であろうが、この御諸別の名から感じる豊城の一族の本質は象徴的である。すなわち豊城は十市氏の後裔としても、磯城の地に入ってその磯城氏の後裔とも直接的な関係をもったと思う。物部氏以前の磯城県主宗家とみたい。
 後に述べるが、姻族の本宗を細くとも継いだとみられる後裔は、大王氏の左右翼を担って軍事に携わるのである。そして各地に広範な氏族の拠点をつくっていった。豊城すなわち上毛野の一族はたとえば多氏のそれと比肩するであろう。
 日葉酢媛を中心に、垂仁紀をおさらいする。

                
垂仁紀年譜 
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干支 西紀 紀年          記                 事
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庚戌  350 17年   5年               疫病
辛亥  351 18年   6年                    豊鍬入姫
壬子  352 19年   7年              大田田根子
癸丑  353 20年  8年
甲寅  354 21年   9年                   磯城瑞籬宮
乙卯  355 22年  10年                    武埴安の乱
丙辰  356 23年  11年              四道将軍帰還   
丁巳  357 24年  12年                   御肇国天皇の称号
戊午  358 25年  13年 倭姫斎宮                  崇神没
己未  359 26年  14年  伊勢神宮、     *垂仁  即位元年
庚申  360 27年  15年               2| 立后・纒向
辛酉  361 28年   |    倭彦没、埴輪陵葬    3|  天日矛
壬戌  362 29年  |                       4|
癸亥  363 30年   |    景行・五十瓊敷試験  5| 狭穂彦の乱
甲子  364 31年   |                        6|
乙丑  365 32年   |    日葉酢媛没          7| 野見宿禰
丙寅  366 33年   |                        8|
丁卯  367 34年   |    綺戸邉立妃          9|        
戊辰  368 35年   |    五十瓊敷池づくり   10|
己巳  369 36年   |                       11|
庚午  370 37年  25年  景行立太子         12|
辛未  371 38年   |                       13| 景行即位
壬申  372 39年*開化87 五十瓊敷剣千口、石上 | 物部十市根
        88年   |    但馬神宝           15|
        90年   |    田道間守           16|
       (99年 *孝霊  垂仁没)           17|
==========================================================
 

 倭彦の没と殉死があったという垂仁二八年条の挿話は、したがって実垂仁紀三年(西紀三六一)、同三二年の后日葉酢媛の没は実垂仁紀七年である。すなわちこのとき野見宿禰が出雲から来た。先のようにその三年前の景行の西征開始と関るであろう。野見宿禰の来朝と日葉酢媛陵の埴輪の記事は、かくして同年の事項であった。
 古事記の記述も「大后比婆須比売命の時に石祝作を定め、また土師部を定めたまひき」とあって大きく異ならないが、日葉酢媛の扱いかたは違う。「天皇すでに崩りましき。多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分けて大后に献り、縵四縵・矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置く」と書く。文脈からして「大后」は日葉酢媛にほかならず、これによれば日葉酢媛は垂仁より長生きしたことになる。
 精査の方法がないが、古事記は応神記にも「この御世に、百済国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき」と書く。書紀によれば阿直支と馬は該当するが、肖古王と七枝刀と七子鏡は神功紀に出、事実上景行治世のことであった。日葉酢媛の挿話は書紀が正しいであろう。
 日葉酢媛は姻族として登場する最初の気長氏であった。そのもとは瀛(奥磯城)氏であったが、ともに后妃であった長狭氏出自の狭穂姫の滅んだときに、長狭の「長」を仮冒したのではないかと思う。長狭氏の後裔が山城の丹波道主の家系に入ったかも知れない。
 先の、狭穂姫自身が望んで死に赴きその後を日葉酢媛に託したという記事は、文脈のなかでは日葉酢媛の嫡后たる立場の正統性を主張しながら、日葉酢媛がその実垂仁からは疎んじられた妃であったことを示唆する。このことは他の例でも推測される。
 垂仁と日葉酢媛の子は、書紀では五十瓊敷・景行・大中姫・倭姫・稚城瓊入彦といい、古事記も印色入日子・景行・大中津日子・倭比売・若木入日子と大同小異である。
 景行紀は基本的に垂仁紀をもととしているが、元年はこれを崇神紀の元年から発しその余の係年はこれを、崇神紀・垂仁紀の二つを並行援用している。これをみると景行の父は一見崇神ともみまかうことが起きる。
 一連の背景からしてこれは無理であろう。景行の母が日葉酢媛であることは動かしがたい。景行の諱とみられる忍代別・淤斯呂和気(おしろわけ)は、要するに大和の後ろ(尻)すなわち山代別の意であろう。五十瓊敷とともに垂仁と日葉酢媛の子に違いない。
 景行の后が八坂入媛であることも間違いないと思う。八坂入媛は崇神の子八坂入彦の子というが、文脈からすれば子ということはない。同名を負うのは兄弟か夫婦である。八坂入姫は崇神の子にして八坂入彦の妹であろう。またこの辺の父子・兄弟関係は、とくにその没年を指示する係年の持ち主がそれであることが多い。垂仁の没年は考霊三七年であり、景行のそれも考霊五三年である。  景行はむろん垂仁の子で、垂仁についで崇神の係年を重要な元年から用いたのは、その后が崇神の子八坂入媛であったことが関係するかも知れない。そのさらに重要な立太子没年は垂仁紀(実考霊紀)によるのである。
 今一つ景行がたぶん垂仁に疎んじられ、かつそのために垂仁を王位から追って自ら即位したという景行の即位の背景からすれば、景行が父垂仁でなく崇神をとくに奉じたという文脈も考えられる。日葉酢媛の妹たちが疎んじられたという挿話、垂仁から西征を命じられた経緯などからすれば、垂仁からする日葉酢媛とその王子たちの扱いは庶流のそれと変わらなかった。垂仁が嘱望した後継者はおそらく誉津別あるいは倭建であったのではないかと思う。
 垂仁紀年譜に戻るが、垂仁二六年条のうち、「物部十千根大連をして出雲神宝を検校させ、もって掌らしむ」という記事と、二七年条の「兵器をもて神祇を祀る始め」という記事はここから除いた。いずれも実開化紀のそれであって、事実上垂仁紀(実考霊紀)三八年・三九年に相当する。西紀二七一年と三七二年である。
 ちなみにその後者の武器祭祀記事は、景行三九年(垂仁三九年・実考霊三九年)の五十瓊敷の一千口の太刀と石上への奉納記事と同年であり、むろん神功紀の七枝刀とも同年である。
 垂仁紀における物部氏の登場は、すなわち垂仁治世の始めではない。その終盤に近い実垂仁紀一三年(西紀三七一年)である。ただしその前年の垂仁二五年に次の記事がある。

 阿倍臣の遠祖武淳川別・和珥臣の遠祖彦国葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日、五大夫に詔して曰はく「今朕が世に当たりて、神祇を祭祀ること豈怠ること有ること得むや」とのたまふ。
 三月に天照大神を豊耜入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ。

 後の記事はむろん垂仁即位前記年で関係がない。先の記事は事実上西紀三七一年である。
 物部氏の係累は列島各地にまたがって存在し、うち特に北部九州にあって圧倒的であった。
 旧事本紀には饒速日降臨にあたって、次の物部一族が随伴したと記録される。
 五部人は、物部造祖天津麻良・笠縫部祖天勇蘇・為奈部祖天津赤占・十市部首祖富富侶・筑紫弦田物部祖天津赤星。
 天部造は、二田造・大庭造・舎人造・勇蘇造・坂戸造。
 二五部人は、二田物部・当麻物部・芹田物部・馬見物部・横田物部・嶋戸物部・浮田物部・菴宜物部・疋田物部・酒人物部・田尻物部・赤間物部・久米物部・狭竹物部・大豆物部・肩野物部・羽束物部・尋津物部・布津物部・住道物部・讃岐三野物部・相槻物部・筑紫物部・播磨物部・筑紫贄田物部。
 筑紫とりわけ筑後川と遠賀川流域に比重のある物部一族の形成を、その地の自生として、後大和や東国に進出したという説がある。物部氏の東遷として知られる。
 これはおそらく逆であろう。筑後のそれは継体の時、筑紫国造磐井の討伐にあたった物部麁鹿火が、その地の物部の嚆矢であろう。継体は麁鹿火に「将軍」の位を授けて「筑紫より西を治めよ」と言っている。この文脈は景行が倭建を将軍の位に据え、もって東国へ派遣した経緯と相似するものである。
 古来、切り取った大地は、切り取った者がこれを宰領する習わしであったかのようである。
 物部氏とみられる筑前遠賀川の勢力も、景行紀十二年周芳娑麼に入った景行が対岸の土豪を視察するために派遣した武将のなかに、「多臣の祖武諸木、国前臣の祖菟名手、物部君の祖夏花」の名がみえる。物部氏の嚆矢である。これを現地の勢力の帰順したものとみることは、文脈からして不可能であろう。景行に随伴した武将に違いない。
 多臣は太(大)氏のことで、神武紀には神八井を祖とする氏族といい、火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連などをこの同祖としている。火君は肥君のことで、後多氏の建借間命が蝦夷を征することがあった時、この軍兵が杵島節を歌ったという伝承がある。常陸の鹿島神宮は多氏の氏神でこれに由来するが、杵島も鹿島ももとは肥前の地名であった。
 このため多氏の出自もまた九州とみなす見解があるが、その出自は神知津彦(椎根津彦)とみられるから、これはむろん誤謬で必ずや大和に発生した。景行紀にこの名があるのは、景行に随行した氏族に多氏があったことを意味し、かつその「君」としての土着が、この時からあったことを示唆するであろう。
 「君」の意味がそうであれば、国前臣もまた日子刺肩別の後裔(考霊記)とし、旧事本紀は吉備臣同祖吉備都命の後裔とするから、すでに吉備に勢力を敷衍していた大和の手下におかれ、景行に随伴した吉備出自の氏族であろう。
 要するに物部君の名もまたこれと同様である。大和の物部の一族の出で景行に従っった。物部君夏花の名はこの従軍と関係があって、この記事のすぐ後にある、おそらく周芳対岸の土豪であった「神夏磯媛」の帰順に功があったためにその名の一部を負ったのであろう。この景行一二年はすなわち垂仁三十年(実垂仁紀五年)、西紀三六三年狭穂彦の乱の年で、また五十瓊敷と景行が後継を争ったらしい兄弟試験の年でもある。
 景行が西征に発った時、これに従った氏族は、時の垂仁の治世下にあって、不遇を囲っっていた氏族であったかも知れない。そもそも景行もまた五十瓊敷によって不遇を囲った。西征は垂仁の命令によったが、その実不遇の王子と、落日の遺族の不満分子を追いやったものであったかも知れない。
 垂仁三〇年・実垂仁紀五年(三六三)から垂仁三八年(三七一)までの九年間は景行の西征にともなう画期の時代であった。これに随行した物部氏・多氏・国前氏などの一族は、景行の大和帰還ならびに即位とともにその勢威を高らしめた。
 一連の軍事の氏族は、すなわち垂仁の威光の下にあったのではない。景行の威令の下で頭角をあらわしてきたのである。
 さらに記録には残らない景行に荷担したもう一つの氏族があった。
 葛城氏の登場である。
 日葉酢媛は古事記によれば大后であった。適后(嫡后)ともいう。磯城氏・十市氏・穂積氏に次いで、十市氏流の大王氏の姻族として次代を担うべく成立した。事実上気長氏の誕生である。景行・倭建・成務・仲哀を通じて姻族であり続けたと思う。しかしながらこの時同時に新しい姻族の流れがあった。
 姻族には大王氏とおなじく姻族としての継続性があったといった。葛城氏はまさにその継続性を維持して登場し、もって姻族の坐を強奪した。その祖は一章にあった、考元と伊香色謎の子彦太忍信(比古布都押之信)である。
 書紀は彦太忍信の子屋主忍男武雄心が「紀直遠祖菟道彦の女影媛を娶って「武内宿禰」を生むという。古事記は比古布都押之信本人が、木国造祖宇豆比古の妹山下影日売を娶って建内宿禰を生んだという。後者が正確であろう。菟道・宇豆はいずれも山城の内または宇治である。この系譜の世代を先の世代系譜に当てはめれば、下記のようになる。 

 
 
    第二世代        第三世代        第四世代
 ---------------------------------------------------------
       考安            開化
       考霊            崇神
       考元            垂仁            景行
                                       倭建
 ---------------------------------------------------------
        日古由牟須美    大筒木垂根王
                        讃岐垂根王

       彦坐            大俣王          曙立王
                        小俣王          兎上王
                        志夫美宿禰王
                        
                        狭穂彦
                        *袁耶本王
                        狭穂媛(佐波遅比売)
                        
        山代大筒木真若  迦邇米雷        息長宿禰
                        
  ---------------------------------------------------------
       丹波道主        日葉酢媛
       
       水穂之真若      意富多牟和気    布多遅比売
 ---------------------------------------------------------
        考元            彦太忍信        武内宿禰
        伊香色謎
  ---------------------------------------------------------

 書紀・古事記に統一的な「影媛」なる人物は、日葉酢媛の類縁に繋がるであろう。気長氏である。ちなみに古事記にある迦邇米雷王が丹波遠津臣の女高材比売を娶って息長宿禰王を生んだという伝承は、これに対応するであろう。高材(高木)の名称も綴喜郡にある。十市ゆかりの高木比売がおそらく影媛のことであろう。
 世代からすれば日葉酢媛の妹の一人かも知れない。ちなみにそれを娶った彦太忍信は伊香色謎の子ではなく、かならずや葛城の歴史に登場する最初の首長であった。
 この高木媛(影媛)が正系の姻族であるために、葛城の豪族斯摩宿禰は、その母なる血と本居を誇って「内宿禰」と名告った。彦太忍信はまた葛城高千那毘売を娶って味師内(甘美内)宿禰を生んだ。これを古事記は「山代内臣の祖」といっている。しかしこれは矛盾であろう。武内宿禰と甘美内宿禰は後の応神朝に兄弟で争い、武内宿禰がこれを殺そうとして、朝命で「紀直等の祖に賜う」とある。
 これは紀直のみならずいわゆる武内宿禰後裔氏族のうち紀氏系であった紀氏・平群氏の祖となったのであろう。葛城高千那毘売は息長宿禰王が娶って気長足姫を生んだ葛城高額比売と類縁をもつ人物である。息長宿禰王が武内宿禰なら、甘美内宿禰は弟でなく子である。葛城高額比売から息長垂日売・虚空津日売・息長日子王が生まれた。葛城高千那毘売から味師内宿禰がうまれた。気長氏という姻族の血を受けた斯摩宿禰は腕力で姻族の地位を奪った。
 気長氏が意外に短期間の間にその勢威を減じていくのは、長狭氏の勢威を呑み込んだ和珥氏の進出のみによるのではない。葛城氏の登場とともにその勢威が侵食されていったためであろう。
 ちなみに甘美内宿禰の後裔は第二部の話とするが、葛城襲津彦と比肩するこの甘美内宿禰は、半島に威を張り、大和においては馬見から平群にかけて本拠をもった。そして曽我氏・紀氏・平群氏の祖となった。馬見丘陵の古墳群を築いたのはこの一族とみられる。
 その姻族としての嚆矢が仲哀の后気長足姫であり、完全な登場が襲津彦の女にして仁徳の大后となった磐之比売である。
 ちなみに姻族という概念からすると、葛城氏こそ磯城氏からこれを受け継ぎ、血統でなく実力でこれを勝ち取った真の意味で新しい姻族であった。磯城氏・十市氏・気長氏という系列は一に磯城氏の同族なのである。それでも気長氏はその後天智・天武系の祖として朝廷に重きを置いて、その系を悠久を繋いでいった。
 葛城氏は武内宿禰が母系からこれを引き継いだ。しかし曽我氏とおなじくその本来は、武内宿禰本人の同母の姉妹までが正統であった。強いていえばその妻たる加羅媛から生まれた気長足姫もまた、姻族の正統ではなかった。ましてその子葛城襲津彦の女たる磐之比売は、全き葛城の女であった。
 書紀・古事記の編者にあって大王氏は一系であった。姻族はしかし数度これを替えた。それをよく承知していたとみられるのが、聖武が藤原不比人の女光明子を入第するとき、元正が聖武に語ったという「光明子のことは、かの磐之比売以来のことと思え」という言葉である。つまり磐之比売は画期の存在であった。ひるがえってそれだけ姻族の概念もまた強固であったことを髣髴とさせる。
 その後葛城氏はほぼ二〇〇年を、藤原氏は一二〇〇年を姻族として存在し続けた。

物部十千根の登場β

 物部氏が権威ある人物として大和朝廷に登場するのが、景行の西征帰還の年であった。すなわち垂仁二五年条の五大夫の一人として登場する。そしてその翌年二六年条には出雲派遣官として再び現れる。物部十千根である。
 二六年はそのままでは考霊紀二六年、すなわち垂仁元年だが、実質は開化紀二六年(西紀三七一)である。これが蓋然性が高い理由は、その翌年の二七年に「神官に命じて、武器を神々に供する可否を占わせ、吉とでた。よって弓矢と太刀を、諸々の神社に奉納した」という記事があるからである。これは五十瓊敷の太刀一千口と同様、七枝刀の奉納と関連するであろう。
 神功紀五二年(三七二)すなわち垂仁紀三九年条の、七枝刀と石上の挿話である。この垂仁三九年すなわち景行二年が三七二年に該当する大王紀年は、すなわち開化のそれである。開化二七年が三七二年にあたる。したがって開化二五年は景行帰還の年、二六年は垂仁を追って景行が祚年即位元年とした年であった。
 物部十千根が景行の帰還と翌年の践祚にともなって、夥しく登場してくることに留意しておきたい。
 そうすると崇神六〇年の出雲の神宝をめぐる話も、この時期かも知れない。出雲の挿話は、この崇神六〇年に、「矢田部造の祖武諸隅を出雲に派遣して、神宝を奉らせた」とあり、垂仁紀二六年には、「物部十千根を出雲に遣わし、神宝を検めさせた」とある。出雲の神宝との関りは、書紀においてこの二つの記事に尽きるから、この二者が同一事項をいう可能性は高い。崇神六〇年は崇神〇年、すなわち事実上景行〇年をいうのであろう。景行即位前記に属するその年は、書紀が踰年元年制を遵守するために事実上景行即位元年、すなわち垂仁二六年とともに西紀三七一年にほかならない。
 ここに矢田というのは、後世つまり仁徳の時代からの仮託で、この時代にあっては生駒であった。武諸隅は旧事本紀では伊香色雄の子大新河の子といい、物部十千根もその伊香色雄の子というから、記述は世代的に異なる。しかし要するに物部十千根と世代を同じくする一族であろう。ただし後の矢田の地を管掌したのであれば、より饒速日の後裔に近い氏族であったかも知れない。
 もっといえば物部十千根その人の仮託かも知れない。
 したがって垂仁紀二五年条に初出する物部十千根は、垂仁三七年(三七〇)に初めて登場したことになる。ちなみに垂仁八七年に、五十瓊敷とその妹大中姫が石上の祭祀を、物部十千根に託したという記事も、同様に開化二七年の石上記事そのものにほかならない。

        

        物部十千根関連記事<西紀三七〇年>      仮託の係年
        --------------------------------------------------
        垂仁二五年      登場五大夫の一          開化二五年

                                  

        物部十千根関連記事<西紀三七一年>      仮託の係年
        --------------------------------------------------
        垂仁二六年      十千根出雲神宝を検      開化二六年
        崇神六〇年      武諸隅出雲神宝を奪      景行〇年
                                               (即位前記)
                                               
                                               
        
       七枝刀・石上関連記事<西紀三七二年>    仮託の係年
       --------------------------------------------------
       神功五二年      神功紀(第一期 )       神功五二年
       垂仁三九年      五十瓊敷剣一千口        考霊三九年
       垂仁二七年      武器祭祀の可否          開化二七年
       垂仁八七年      物部十千根石上祭祀      開化二七年
       

 ちなみに誉津別の挿話はその一〇年後である。先に記したが改めて倭建のそれと併記する。  

 
       倭建関連記事<西紀三七八・七九年>      仮託の係年
       --------------------------------------------------
       倭建熊襲派遣                            景行二七年
       倭建帰還                                    二八年

 
 
       誉津別関連記事<西紀三八一年>          仮託の係年
       --------------------------------------------------
       誉津別出雲(景行九年、倭建帰還二年後)  垂仁二三年
 
 
 
       倭建関連記事<西紀三八二〜八五年>      仮託の係年
       --------------------------------------------------
       倭建東国派遣    大伴武日従軍            考元四〇年
       倭建没                                    〜四三年
 
 

 倭建については別稿を設けることとして詳細は省く。
 古事記は倭建が熊襲征伐の後に出雲によってその地の土豪を征伐したことを記録する。それが景行二八年であれば、誉津別の出雲行幸はその二年後であった。
 誉津別の挿話は書紀では、この唖の王子が鵠の鳴くのを聴いて大王がよろこび、山辺大鷲なる人物が紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を巡ってようやくこれを捉えて献上したという。この意味はほかでもない不遇の王子に従軍して四辺を切り取っていった物部氏の伝承であろう。
 この軍事の成果が伝承になくとも、誉津別あるいは倭建に随行した物部氏の活躍であったことを示唆すると思う。誉津別は物部一族の象徴であった。そして倭建にもっとも近しい王子でもあった。
 改めていうが、物部十千根は、垂仁紀(実開化紀二五年・西紀三七〇)すなわち景行大和帰還の年とともにに登場する。
 一連の整理は物部氏が意外に遅くに書紀に現れるという事実に焦点をあてる。長狭氏・饒速日氏の滅亡と物部氏の登場は、むろん因果関係にあるであろうから、長狭氏・饒速日氏の滅亡はその数年さかのぼったどこかにある。その象徴がむろん狭穂彦の乱(西紀三六三年)で、またこの添の討伐はすなわち生駒の制圧でもあった筈である。七年前である。
 長狭氏と饒速日氏の滅亡が、磯城氏や十市氏のような祟り、すなわち遺族の跳梁をともなわなかったらしいことには注意していい。それが大王氏の大和侵入以来、互いに尊重しつつ協調路線を約した同士ではなかったことを示唆する。一方でその滅亡が徹底的なそれでもなかったことも指摘できるであろう。
 阿倍臣の遠祖武淳川別・和珥臣の遠祖彦国葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日という五大夫の記録は大鹿嶋の存在に疑問があるが、彦国葺・武淳川別・十千根は垂仁と同世代とみられる。大伴武日は倭建の東国出征にも従軍している。出現時期のその差一〇年余はあり得ることかも知れない。
 上毛野君の祖豊城または八綱田と多氏の祖もここにあって然るべきであった。しかしながら物部十千根の登場が、この垂仁二五年条の五大夫の一としても、事実上の意義は、垂仁二六(三七一)年条の出雲に関る事績なのであろう。十千根あるいは武諸隅の出雲での活躍が、朝廷における歴とした将軍としての物部一族の嚆矢であった。
 その後倭建がふたたび出雲を伐った。九年後の西紀三七九年である。
 誉津別は物部氏の奉じた最初の大王氏であった。その挿話に出雲に入って(三八一年)、その祟り(古事記)と調伏が記録されるのは、すなわち物部氏の武力が出雲に入ったことを示唆するのである。
 物部十千根は旧事本紀でも姓氏録でも伊香色雄の子という。また伊香色雄は十千根以外に、大新河・建新河という子をもった。大新河は物部連の名を初めて負うが、淳名川が淳名城の意であったことからすれば、その名も大新城・建新城とみられ、長狭(添下)に隣接する添上に播拠したのである。事実上の物部氏の祖は「十市」の名跡と関るらしい物部十千根その人であろう。
 伊香色雄が山城の女と磯城の女を娶って七男を生んだという伝承が意味をもつ。この山城の女こそ十市氏の後裔を示唆するとすれば、滅んだ十市宗家を母系からこれを継いだという矜持をもったかも知れない。伊香色雄の宗家もまた十千根に継承された筈である。
 ひるがえってこれを滅びた椎根津彦の太(大)氏からみれば、豊城入彦ついで狭穂彦・狭穂姫こそその正系の子孫であった。その従姉妹たる日葉酢媛が姻族の後を襲ったとして、なお彦坐の正系の後裔たる光輝は輝いていたであろう。彦坐が椎根津彦の嫡子であるためである。
 豊城が滅びその弟らしい八綱田が継いだ彦坐の宗家もまた栄光の余残をもった。しかしいずれも滅びたそれは修復されることがない。
 ここをもって物部十千根の登場の現実的な背景が推測できる。景行はおそらく父たる垂仁を実力で廃してみずから立った。第一章に指摘した垂仁の退位と没年に一年の差違がこれである。この纂奪を援けたのは斯摩宿禰(武内宿禰)にほかならないが、垂仁によって滅ぼされた長狭氏の後裔もまたこの時、景行を奉じて立ったのである。
 物部十千根は長狭氏・饒速日氏の後裔たる残照を一身に受けて立った。くわえて伊香色雄が担った太(大)氏・十市氏の光輝もまた勝者としてのそれを父方からも母方からも負っていた。そして垂仁に討伐されたが、丹波道主の子孫と同様、完全には滅ぼされずに漸次後世を築いていたのである。
 西紀三七一年とみられる「武器祭祀の可否占い」ならびに「石上祭祀」の記事は、その後に者十千根が五十瓊敷にかわってこれを祭祀したのをみると、この祭祀こそ、伊香色雄ならびに長狭氏の正当な後裔たる物部一族の復興ではなかったかと思う。
 ちなみに石上の名称は「五十狭」に由来するであろう。もっといえば伊勢の地名もまたそれに発祥したのではないかと思う。その主宰者としての物部十千根は、すなわち姻族の後裔を標榜しつつ軍事の氏族として佇立したことになる。
 それでもその表舞台は、垂仁の不肖の子とみられた景行によって演出された。

大和朝廷の成立β

 大和朝廷という概念について一言講評を述べておきたい。この王朝は神武が創始したが、そのままでは畝傍に本拠をもつ地方勢力の一つに過ぎなかった。大和の巨大な前方後円墳も大王氏第二世代までは、全て姻族のそれであった。しかしその強固な王権の思想と正統性の矜持が、この王朝の連綿を保証するとともにその将来を企図して揺らぐことがなかった。
 崇神がその数倍の勢威をもつ磯城と十市を滅ぼして磯城郡を統括し、その地に大王氏としてはじめての前方後円墳、おそらく行灯山古墳を築き、なお吉備や越・東海に触手を伸ばしていった。垂仁はこれを受けて西征軍を派遣して長門から北部東部九州を席捲していった。景行はさらに南部九州を見るとともに出雲と東国にも兵を出してこれらを伐った。
 そして景行の橋頭堡となった周芳から斯摩宿禰を派遣して半島に進出するとともに、そこへの継続的なかかわりを持ち続けた。  その拠ってたつエネルギーの求心力の所在もまた明らかである。その企図もすなわち確固たる計画に基づいた。まさに数代にわたって組まれた巧まざるるスケジュールに則った行動であったようにさえみえる。
 画期はむろん崇神・垂仁・景行の時代にあった。しかしながら留意すべきは一代の英雄がこれを成就したのではない。匈奴の冒頓や高句麗の朱蒙と異なるところである。
 だからこれは偶然ではない。歴史的な意志の産物というべきであろう。それがなかったら崇神の登場以前にいつでも埋没して不思議がなかった。とすれば大王氏以外でこの大王氏の歴史の遂行を援けた氏族の評価もここに明らかというべきであろう。
 その代表的人物が、神武・綏靖から考霊・考元の時代に生きた椎根津彦とその嫡子彦坐、そしておそらく考霊・考元・開化・崇神の時代を生きた椎根津彦の庶子伊香色雄であった。
 就中その伊香色雄の後裔として後世に生き残ったのは、ほかならぬ物部一族であった。椎根津彦の子たるべき彦坐の正系は豊城の時代に滅び、いまひとつの嫡流であった狭穂彦は垂仁の代に滅んだ。姻族の正系はたぶん彦坐の弟であった丹波道主の後に伝え、これもついで葛城氏がこれを襲って衰退していった。
 椎根津彦の入婿によって今一つの系が欝色雄と伊香色雄に伝えられたが、長狭の血をひいた伊香色雄が一人その軍事の画期をもって脚光を浴びた。正統性が血統ばかりでなく、ひとつには英雄の事績からから生ずるとすれば、おそらく椎根津彦の後裔の栄誉は伊香色雄がこれを一身に負った。
 そしてその伊香色雄の栄光は、たぶん十市氏の正系の女から生まれた物部十千根に継承された。それは巨大な事績にたいする敬意に裏付けされていた。瓊々杵ないし饒速日がなぜあれほど尊重され、物部氏の系譜と神話がなぜ大王氏のそれに取り込まれていったのかという、これがその疑問の解答の一つである。
 大王氏に比肩する天孫伝承のためだけではなかった。大王氏の一〇数代を通じて巨大な人物であった、椎根津彦と伊香色雄の画期たる栄光を引きずっているのである。
 伊香色雄が大彦その人であれば、その後裔阿倍氏もまた物部氏に次ぐ軍事の氏族であった。多氏もまた椎根津彦の別枝の後裔として大和の拡張に力があった。おそらく十市氏の宗家の流れで磯城の正系により近い女に通じた豊城もまた、上毛野氏の祖として東国に播拠する。
 姻族の座を滑り落ちた姻族の後裔は、すべからく大王氏の軍事の氏族として再生したのである。
 まとめとして垂仁紀を一覧する。  

 

 西紀 元 開 神             垂 霊                崇 
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 358 16 13 38                25 倭姫            7
 359  17 14 39 卑彌呼太歳  1  26       垂仁元年  8         
 360  18 15 40             2  27 敦賀  立后     9         
 361  19 16 41 倭彦没      3  28 日矛           10         
 362  20 17 42             4  29                11         
 363  21 18 43 狭穂彦の乱  5  30 兄弟試験      12 景行征西
 364  22 19 44             6  31                13 伐熊襲  
 365  23 20 45 日葉酢媛没  7  32 野見宿禰       14         
 366  24 21 46 斯摩卓淳    8  33                15         
 367  25 22 47 斯摩派遣    9  34                16        
 368  26 23 48            10  35 (誉津別)     17         
 369  27 24 49 斯摩帰還   11  36                18 筑紫   
 370  28 25 50        12  37 立太子 五大夫  19 大和帰還
 371  29 26 51 斯摩派遣   13  38   十千根出雲   20 五百野姫
 372  30 27 52 七支刀     14  39 石上   武器占  21         
 373  31 28 53            15  40 但馬神宝    3  22         
 374  32    54            16  41             4  23         
 375  33    55            17  42             5  24         
 376  34    56            18  43             6  25 武内東国
 377  35    57            19  44             7  26         
 378  36    58            20  45 倭武熊襲    8  27 帰還    
 379  37    59            21  46 帰還        9  28         
 380  38    60            22  47            10  29         
 381  39    61            23  48 (誉津別) 11  30         
 382  40    62  倭武東国  24  49            12  31         
 383  41    63            25  50            13  32         
 384  42    64            26  51            14  33         
 385  43    65  倭武没    27  52            15  34         
 386  44    66            28  53            16  35         
 387  45    67            29  54            17  36         
 388  46    68            30  55            18  37         
 389  47    69  神功没    31  56 景行没     19  38         
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 ちなみに崇神紀と垂仁紀にある対外的な交流関係記事の係年復元は以下の通りである。



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   辛 亥 351        考元 開化  崇神                 考霊
   壬 子 352          10    7     1                   19
   癸 丑 353          11    8     2                   20
   甲 寅 354          12    9     3                   21  
   乙 卯 355 四道将軍 13   10     4  武埴安乱         22  
   丙 辰 356 将軍帰還 14   11     5  蘇那葛叱智渡来   23   
   丁 巳 357          15   12     6                   24  
   戊 午 358          16   13     7  崇神没    垂仁   25
   己 未 359          17   14     8(*)            1   26
   庚 申 360          18   15     9  蘇那葛帰還   2   27
   辛 酉 361          19   16    10  天日矛渡来   3   28
   壬 戌 362          20   17    11               4   29
   癸 亥 363          21   18    12               5   30
   甲 子 364          22   19    13               6   31
   乙 丑 365          23   20    14               7   32
   丙 寅 366 斯摩卓淳 24   21    15               8   33
   丁 卯 367 斯摩派遣 25   22    16               9   34
   戊 辰 368          26   23    17              10   35
   己 巳 369 斯摩帰還 27   24    18              11   36
   庚 午 370          28   25    19              12   37
   辛 未 371 斯摩派遣 29   26    20  景行祚年元年13   38
   壬 申 372 七支刀   30   27    21  石上刀千口  14   39
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 蘇那葛叱智はおそらく金官加羅から、天日矛はおそらく新羅から渡来した。西紀三六〇年を前後するこの時期は、いずれも新羅の慕氏(金氏)の建国とこれにともなう動乱に関係があるであろう。
 蛇足だが崇神五年(六五年)とする蘇那葛叱智の渡来は、崇神一一年(実開化紀一一年)にあたる。西紀三五六年である。この条に「異人の多く帰順する」という記事がある。蘇那葛叱智のみならず角我阿羅斯等の渡来もこの年のことであろう。
 おそらく天日矛の記事だけは、垂仁紀三年(西紀三六一)のことであった。
 さてこれまでのところで諒解されたように、狭穂彦の乱の起きた実垂仁紀五年こそ、垂仁三〇年の景行と五十瓊敷の兄弟試験の年であった。いずれも西紀三六三年。 

 天皇曰はく「汝等、各情願しき物を言せ」とのたまふ。兄王諮さく「弓矢を得むと欲ふ」とまうす。弟王諮はく「皇位を得むと欲ふ」とまうしたまふ。是に天皇詔して曰はく「各情の随にすべし」とのたまふ。即ち弓矢を五十瓊敷命に賜ふ。仍りて大足彦に詔して曰はく「汝は必ず朕の位を継げ」とのたまふ。

 そしてこの年はまた景行一二年(実崇神紀一二年)、すなわち景行西征開始の年であった。これも西紀三六三年。そしてその年、景行が西征の拠点とした周芳娑麼の地で、物部氏の一人の存在が記録される。
 景行紀十二年、周芳娑麼に入った景行が対岸の土豪を視察するために派遣した武将のなかに、「多臣の祖武諸木、国前臣の祖菟名手、物部君の祖夏花」の名があった。狭穂彦の乱と同年でかつそれ以前とみられるこの登場は、あくまで景行の手下として書かれていることに改めて留意したい。多氏の存在にも注意しておきたい。
 物部氏・多氏・阿倍氏・上毛野氏の、列島をくまなく網羅していく端緒がここにあったと思う。それは継体が物部麁鹿火に告げた「周芳より西は汝の思いのままにせよ」という主旨に一致するものである。古代の軍事はこの時代から切り取った者がそれを宰領する習わしであった。
 倭建が東国出征にあたって将軍の位を賜ったという記事もこれに連動する。景行四〇年(西紀三八二)である。景行は列島を西国と東国に峻別して、東国を切り取った上はそこの王となれと倭建にいっているのである。東国の風土紀に倭建が大王として記録される所以であろう。書紀・古事記もまた倭建を大王に準ずる扱いをしている。
 その英雄性のためではない。大王氏が自ら兜鎧を帯びて山野を踏破していた時代の、いわば権利と義務の拠ってたつシステムであった。
 そしてここに、新しい姻族たるべき勢力もまた華々しく登場する。
 葛城氏である。
 すなわちその四年後の西紀三六六年、神功紀四六年条に記される斯摩宿禰が半島に出現した。彼もまた半島に拠った大和の将軍であった。
 「おもしろそう紀」の第一部は、第一章から第四章に至り、もう一度第一章に戻る。ここまで読んだ人は、いま一度第一章にたち戻っていただきたい。第一章を再読して、ようやく第一部が終わり、次ぎなる第二部に入っていける。

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