宋書倭国伝β
倭関係記事をもつ中国の史書のなかで、宋書倭国伝と魏志倭人伝は、ともに抜きんでた史料価値をもつ。ひとえに編纂時期が近いといういわゆる同時代的史料であるためである。
有史以前の一世紀から一一世紀七世紀まで、倭関係記事をもつ中国史書はおよそ一一書あるが、同時代史料といっていいのはそのうちの五書である。後代から順にいえば、新唐書・旧唐書・隋書・宋書・魏志ということになる。
以外の北史・南史・梁書・南斉書・晋書・後漢書は、すべて編纂時期が遅く、一部そのために前代の史料を曲解・再編録するなど、記述のあいまいさが目立つ。
同時代史料がただちに信頼性につながるのではないが、史書の編纂作業が、根底で解釈というものをともなう以上、時代を降るほど真実を観る視点に落差を生みだすであろう。
同時代史料とみられるものに*印をふった。正史志・伝名 該当時代 成立時代 成立王朝 撰者 ============================================================ 後漢書倭伝 一〜三世紀 五世紀前半 南朝宋 笵曄 三国志魏書倭人伝 三世紀 *三世紀後半 西晋 陳寿 晋書倭人伝 三〜五世紀 六世紀前半 唐 房玄齢 宋書倭国伝 五世紀 *五世紀後半 南朝梁 沈約 南斉書倭国伝条 五〜六世紀 六世紀前半 南朝梁 蕭子顕 梁書倭伝 六世紀 七世紀前半 唐 姚思廉 南史倭国伝 四〜六世紀 七世紀 唐 李延寿 北史倭国伝 四〜六世紀 七世紀 唐 李延寿 隋書倭国伝 六〜七世紀 *七世紀前半 唐 魏徴 旧唐書倭国伝 七〜一〇世紀*一〇世紀前半 五代晋 劉句 新唐書日本伝 七〜一〇世紀*一一世紀前半 宋 宋祁 ============================================================宋書に描かれた宋代は、その源流を魏にまでさかのぼる。中国三国時代の魏ついで晋が華北の五胡十六国の乱の後滅び、王家が江南に渡って興したのが東晋(西紀三一七年建国)である。その東晋が一〇〇年余を経た時、これを滅して宋が興った。南朝第二の王朝である。
宋は西紀四二〇年に興って四七九年まで続くが、その後は、斉(西紀四七九年)、梁(西紀五〇二年)、陳(西紀五五七年)とつづき、西紀五八九年、北朝から興った隋によって滅ぼされ、中国は再び大統一される。
南朝の各王朝は、陳を除いてそれぞれ王朝の正史を残した。晋書・宋書・南斉書・梁書である。
ちなみにさらにそれを総括して編纂されたものが「南史」である。北朝のそれもあり「北史」という。史料的には個別の王朝史にくらべて目新しいものはないが、いくつか特徴的な記事もある。この点については、各王朝史に先立って整理しておく必要があろう。
就中「倭国伝」に関するかぎりは、ひたすら宋書がひとり同時代史料であって、以外は晋書・宋書を参照して書かれたものとみられる。
たとえば、晋書や宋書が書いていない西紀三一三年朝貢の倭王の名を、梁書と南史が、「(晋)安帝時、倭王讃朝貢」と書いているが、これはオリジナルとは思えない。
分析しやすい宋書の「倭の五王」のなかで、とくにその嚆矢であった倭王讃についての梁書・南史の見解は、これを是とするか否とするかによって、解釈がかなり異なってくる。
宋書における倭王の記録の嚆矢は、宋武帝の永初二年(西紀三二一年)で、「倭讃朝貢、除授賜うべし」とあって、これが初出である。両者の倭王讃の登場には、ざっと八年の差違がある。
また梁書は、宋書が記録しない珍と済の続柄を「父子」と書いている。これもまた検討の余地のある記述である。
さて、宋書における記述はつぎの通りである。宋書倭国伝記事 ----------------------------------------------------------- 四二一 宋武帝 永初二年 倭国は高麗東南大海中にあり、世々 貢職を修む。 皇祖永初二年、詔して曰「倭讃万里 貢を修む。遠誠宜しく甄すべく、除 授賜うべし」 四二五 宋文帝 元嘉二年 太祖元嘉二年、讃また司馬曹達を遣 わして表を奉り方物を献ず。讃死し て弟珍立つ。使いを遣わして貢献し 自ら使持節都督倭・百済・新羅・任 那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将 軍倭国王と称し、表して除正せられ んことを求む。詔して安東将軍倭国 王に除す。珍また倭隋等一三人を平 西・西虜・冠軍・輔国将軍に号に除 正せんことを求む。詔して並びに聴 す。 四四三 宋文帝 元嘉二〇年 倭国王済、遣使奉献、また以て安東 将軍倭国王となす。 四五一 宋文帝 元嘉二八年 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・ 秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東 将軍は故の如く、並びに上る所の二 三人を軍郡に除す。済死す。世子興 遣使貢献す。 四六二 宋光武帝 大明六年 詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴 ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境 を寧んじ、恭しく貢職を修め、新た に辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべ く、安東将軍倭国王とすべし」と。 興死して弟武立ち、自ら使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王 と称す。 四七八 宋順帝 昇明二年 遣使上表、(略)詔して武を、使持 節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王 に除す。 ------------------------------------------------------------四七八年の倭王武の上表文の内容はここでは略したが、著名な「封国は偏遠にして、藩を外に作す」にはじまる長大なそれである。
以上が宋書倭国伝の記事だが、宋書の倭関係記事は実はこれだけでなく、別途に「本紀」があり、これには「倭国伝」を相互に補完すべき記事がある。うちあるものは重複するが、一部は重複しない。つまり本紀単独の記事である。宋書本紀倭関係記事 ----------------------------------------------------------- 四三〇 宋文帝 元嘉七年 倭国王貢献 四三八 宋文帝 元嘉一五年 弟珍立ち貢献安東将軍倭国王に除す 四六〇 宋光武帝 大明四年 倭国貢献 四七七 宋順帝 大明四年 倭国貢献 -----------------------------------------------------------義煕九年の倭讃β
宋書の倭国伝と本紀を対照すると、おしなべて実際の朝貢の回数が分かるが、あわせて別途の事実、つまり倭国伝の記事が実は複数の朝貢を踏まえ、かつこれを再編して書かれていることが判明する。
たとえば四二五年の「讃死し弟珍立つ」という記事以降は、四三〇年あるいは四三八年の朝貢によって書かれたものであろう。すなわち本紀の四三八年条に「弟珍立ち貢献」とある。これををみれば、四三〇年の朝貢はいまだ倭王讃のそれ、四三八年の朝貢こそ珍の初出である。したがって倭国伝の方はこれを、四二五年条に一本化して総括的に記述したことになる。
そもそも史書の記述は、朝貢における使者の弁を記録するか、または冊封のために派遣する遣使のもちかえった報告によるのかのいずれかである。したがって倭国伝のみに準拠すれば、「讃死し弟珍立つ」の記事は、四二五年の後の数年間にあったと推測するしかない。その間の彼我の交流はこのままでは計り知れない。倭国伝の次の記事が四三八年に飛んでいるからである。
幸いにして本紀が四三〇年と四三八年の記録を残し、かつ四三〇年条でなく四三八年条に「弟珍立ち朝貢」とするために、四三八年の朝貢こそ、代替わりした珍のそれであることが分かる。この点の解釈については、これまでいくつもの異論があるが、文脈からする穏当な解釈は以上に尽きるであろう。
まとめると宋書倭国伝の元嘉二年(四二五)の記事のうち、「讃死し、弟珍立ち朝貢」という記事以降は、倭国伝がその後四四三年まで記事を載せないために、その間の元嘉七年(四三〇年)、元嘉一五年(四三八年)の記録を合わせたのである。
したがって、四五一年の「済死す。世子興遣使朝貢す」という記事も、これに準じて解すべきである。倭国伝の次の記事は四六二年であるから、四六〇年の興の朝貢(本紀)については、これを四五一年のそれに併合したのである。
さらに四六二年条の世子興についても、「興死す、弟武立つ」という記事がともなっている。これも同様に四七七年または四七八年の倭王武の朝貢に基づき、さかのぼって書きあわせたものであろう。
これを整理・修正すると次のようになる。この際、「前王死す、当王立つ」の記事は、本来あったであろう年の朝貢・除授の記事欄に編入し直した。
あわせて宋書の前後の時代で倭に関連する、晋書・南斉書・梁書・南史の記事もこれを加えておく。先のように梁書には宋書にない「弥死して子済立つ」という記事もあるから、これも入れる。五世紀中国史書倭国関係記事 ----------------------------------------------------------- 四一三 東晋安帝 義煕九年 倭国朝貢(晋書) *安帝時有倭王賛、賛死立弟弥、弥死 立子済、済死立子興、興死立弟武 (梁書) *安帝時倭王讃朝貢(南史) 四二一 宋武帝 永初二年 倭讃万里修貢、除授賜う可(宋書) 四二五 宋文帝 元嘉二年 太祖元嘉二年、讃また司馬曹達を遣 わして表を奉り方物を献ず(宋書) 四三〇 宋文帝 元嘉七年 倭国王貢献(宋書) 四三八 宋文帝 元嘉一五年 讃死し弟珍立つ。遣使貢献して 自ら使持節都督倭・百済・新羅・任 那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将 軍倭国王と称し、表して除正せられ んことを求む。詔して安東将軍倭国 王に除す。珍また倭隋等一三人を平 西・西虜・冠軍・輔国将軍に号に除 正せんことを求む。詔して並びに聴 す。(宋書) 四四三 宋文帝 元嘉二〇年 倭国王済、遣使奉献、また以て安東 将軍倭国王となす。(宋書) 四五一 宋文帝 元嘉二八年 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・ 秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東 将軍は故の如く、並びに上る所の二 三人を軍郡に除す。 (宋書) 四六〇 宋光武帝 大明四年 倭国貢献 済死す 世子興遣使貢献す。(宋書) 四六二 宋光武帝 大明六年 詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴 ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境 を寧んじ、恭しく貢職を修め、新た に辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべ く、安東将軍倭国王とすべし」と。 (宋書) 四七七 宋順帝 大明四年 倭国貢献 興死して弟武立ち、自ら使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王 と称す。(宋書) 四七八 宋順帝 昇明二年 遣使上表、(略)詔して武を、使持 節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王 に除す。(宋書) 四七九 南斉高帝 建元元年 *武進号鎮東大将軍(南斉書) 五〇二 梁武帝 天監元年 *武進号征東(大)将軍(梁書) ------------------------------------------------------------*印を付けた四つの記事については、実際の朝貢・除授ならびに系譜等疑問のあるものである。疑問というよりスタンスの異同というべきかも知れない。まず最後の二つの記事、すなわち四七九年の倭王武の進号は、宋を継いだ斉高帝の建国宣言にともなう一方的な叙勲、五〇二年の進号も、斉を継いだ梁武帝のおなじく建国宣言である。いずれも倭王武の朝貢があったのではない。建国以前に前王朝の叙正が知られていたからに過ぎない。とりあえずこうした叙正が行われるためには、むろんそれ以前に記録に残る朝貢があったのでなければならない。
この視点でみると、最初の二つの記事(事実上同一記事)、すなわち印をふった四一三年の倭王朝貢の記事も、ちょうどおなじスタンスから見直さなければならないことになる。つまり四二一年の倭王讃への叙正は、七年前前王朝の東晋に知られた讃への、宋武帝の建国宣言であったとみることが可能である。これまでもこういう主張は多くあった。
その前年の四二〇年(永初元年)に、征東将軍高句麗王を「征東大将軍」に、鎮東将軍百済王を「鎮東大将軍」に進号しているが、三国史記にもこの時の朝貢は記録されず、いずれも宋朝側の一方的な除授であったらしいから、倭讃もこうした解釈を採りたくなるのも当然である。
しかし巷間に知られたこの記事の解釈を、そういう風にはとらえるべきではない。建国元年と二年の違いが微妙であるし、自然な文脈はその時点での倭王讃の朝貢に対してのねぎらいであったと思われる。今一つ、ここでは検討を省いてあえて仮定しておくが、この四二一年こそ応神践祚の年であった思うからである。倭のほうに朝貢すべき事情があった。
この問題は、つまるところ四一三年の「倭王讃」の有無にからんでくる。朝貢があったことは事実に違いないが、この朝貢は高句麗と併記され、かつ倭国の朝貢の品が、なぜか大陸的なものであったらしく、全体の文脈に素朴な疑問が生ずるからである。それでなお、梁書と南史がこれを「讃」と書くのは、どういう理由によるであろうか。
そもそも、宋書・晋書に記載のない倭王の名を、そこからもってくるべき他の史料があったとは思われない。
もっとも考えやすいのは、今日の我々と同様に、梁書・南史の編者が、この四二一年の「倭讃」を建国宣言のためであったと、自ら見直したのではないかということである。その場合は、同年(四二一年)の朝貢は存在しない。にもかかわらず宋書が「倭讃」と書くのだから、その先東晋安帝時(四一三年)の朝貢は、ひたすら論理的にだけ「倭讃」でなければならなかった。
梁書と南史はそうした修辞を発揮して、結果として事実の改竄を行なった。すなわち四一三年の「倭讃」の記録は、宋書にも晋書にもなかった。宋書にとっては四二一年の倭讃の朝貢だけが事実であった。晋の記録にあった四一三年の倭の朝貢は、その事実のみがあって、その倭王の名は知られていなかったのである。
その東晋の記録は以下の記述に尽きている。晋書安帝紀 義煕九年、是歳、高句麗・倭国並びに方物を献ず。 晋義煕起居注 倭国貂の皮・人参等を献ず。詔して細笙・ 麝香を賜う。晋義煕起居注はオリジナルのそれではなく、「太平禦覧」の引用による。
この記録は、讃が疑問なばかりではなく、そもそも朝貢物が倭国の方物ではない点が重要である。ともに朝貢した高句麗の産物なのである。
これについては、「倭国」の岡田英弘氏が「高句麗の遣使にたまたま同行した倭人」という主旨の指摘をしている。方物も高句麗で入手したものらしいから、氏の指摘は蓋然性がたかい。しかしながら今すこし突っ込んだみかたをすれば、事情はさらにはっきりする。
たとえばその年義煕九年(四一三)は、高句麗の広開土王が没した年(四一二)の翌年である。践祚元年即位を旨とする高句麗ではめずらしい例だが、その子長寿王はその年(四一二)践祚、翌四一三年を即位元年としている。義煕九年はその元年にあたる。
広開土王は倭・百済両国にとって、辛卯年(三九一)以来不倶戴天の相手であったが、その後を継いだ長寿王は、苛烈な父王とは異なった性格の王であったらしい。
たとえば、なにかの拍子でこの時、長寿王の即位儀礼に列席した倭人が一人いたとしよう。なぜか長寿王の庇護をうけ、対晋派遣使に思いつくままこの倭人を同行させた。
事実はこんなところであったと思われる。正史でなき倭使がいう王名が晋の正規の記録にのこる筈がない。
おそらく正式な倭使ではなかったこの倭人については、後に詳細に語りたい。
もうひとつこれに関連する傍証がある。宋の武帝である。
宋書にでる宋の太祖武帝は、もと劉裕といった東晋の一将校の出身であった。その歴史の舞台への登場は思いのほか早く、永始二年(四〇四)に挙兵して、東晋の実権を握っている。直ちにかって帝位にあった安帝を復位させたが、その翌年(四〇五)がすなわち義煕元年である。
微賤の出であった劉裕は纂奪を急がず、それから一六年を待ってようやく帝位についた。永初元年(四二〇)がそれである。このため国号「宋」は「劉宋」ともいわれる。
すると当然のことだが義煕九年(四一三)の倭王の朝貢時に、晋の朝廷を取仕切っていたのは、ほかならぬ宋の武帝その人であった。
この点で武帝が永初元年、その建国宣言をするにあたって、高句麗や百済とならんで倭王を叙正していず、いたって永初二年に叙正記事があるという事実は、すべての関連疑問を霧散させる。もし周知の倭王であったら、わざわざ翌年に叙正をもちこす理由はない。永初元年以前に讃の名をもつ倭王の朝貢はなかったのである。
この詳細も随時していくことにしよう。ここではとりあえず、義煕九年の倭使を派遣したのが、讃ではなかったと仮定して話をすすめる。
いちばん降った時代からはじめたい。宋書における倭王の名で、書紀・古事記が比定しうる大王として、おそらく統一的な了解があるとおもわれる倭王、すなわち「武」、雄略からである。
宋書において倭王武の記事は、とくに係年を特定してあることが、彼我の対照の大きな助けになる。
上記の修正した宋書倭国伝に基づけば、倭王讃は四三〇年から四三八年の間に没している。珍は四三八年から四四三年の間に、済は四四三年から四六〇年の間に、興は四六二年から四七七年の間に、それぞれ没していることになる。
雄略の没については宋書からは分からない。南斉書・梁書の記事もあくまで建国宣言のためで、武の朝貢があったためでないから、その生死も特定できない。
ただひとつだけ、倭の側からみたある一定の傾向は、指摘しておくことができる。三国史記をみると、百済・新羅・高句麗の北朝・南朝に対する朝貢は、その代替わりすなわち当王即位と多く関りがある。この背景にはおそらく宗主国という概念がある。この概念が強いほど代替わりにおける朝貢は不可欠のものとなるであろう。
ひるがえって倭においては、こうした概念が半島三国のようにはあった筈がない。代替わりの意図はあったであろうが、五王全体を通ずる文脈からすれば、むしろ自らの半島に対する益権の主張と、大王としての勢威を内外に宣言することに比重があったのではないかと思われる。
このことは逆に、倭王の朝貢が自らの即位と密接であったのでなく、むしろ治世の中途からその没するまでの期間、つまり権威の高まる時期に、よく朝貢を試みたのではないかという推測がなりたつ。すなわちそれぞれの倭王の朝貢の終わる時点の方が、その倭王の没年に近いとみるべきである。
すると倭讃は四三〇年前後に没した。一度しか朝貢していない珍は四三八年頃、済は四五一年頃、興は四六二年頃、武は四七八年頃に没したことになる。この辺が全体の流れからして穏当な解釈であろう。
さて武を雄略としよう。その雄略は書紀によれば西紀四七九年に没している。上記の推測に合致する。
雄略の時代β
雄略紀についての検討は、第一編第一章でおこなった。雄略と応神の紀年は、書紀の記録する紀年年譜のなかで、もっとも合理的な手段方法がとられ、そのためにその他の大王の紀年年譜の復元のモデルとなったものである。
この二王についてのみ、その立太子没年と没年が一致する。書紀の編者の意図的な示唆であろう。<書紀・古事記係年比較表> =============================================== | 書紀 | 古事記 ----------------------------------------------- 大王 | 即位西暦 | 係年 干支西暦 | 干支西暦 | 元年 | 没年 没年 | 没年 =============================================== 神武 | 辛酉 301 | 76 丙子 316 |* 綏靖 | 庚申 320 | 33 壬子 352 | 安寧 | 癸丑 353 | 38 庚寅 330 | 愨徳 | 辛卯 331 | 34 乙丑 304 | 考昭 | 丙寅 306 | 83 戊子 328 |* 考安 | 己丑 329 | 102 庚午 370 | 考霊 | 辛未 311 | 76 丙戌 326 | 考元 | 丁亥 327 | 57 癸未 323 | 開化 | 甲申 324 | 60 癸未 323 | 崇神 | 甲申 324 | 68 辛卯 331 | 戊寅 318 垂仁 | 壬辰 332 | 99 庚午 370 |* 景行 | 辛未 371 | 60 庚午 370 | 成務 | 壬未 371 | 60 庚午 370 | 乙卯 355 仲哀 | 壬申 372 | 9 庚辰 380 | 壬戌 362 神功 | 辛巳 321 | 69 己丑 389 | 応神 | 庚寅 390 | 41 庚午 430 |* 甲午 394 仁徳 | 癸酉 433 | 87 己亥 399 | 丁卯 427 履中 | 庚子 400 | 6 乙巳 405 | 壬申 432 反正 | 丙午 406 | 5 庚戌 410 | 丁丑 437 允恭 | 壬子 412 | 42 癸巳 453 | 甲午 454 安康 | 甲午 454 | 3 丙申 456 | 雄略 | 丁酉 457 | 23 己未 479 |* 己巳 489 =============================f==================重複するが、雄略の没年は己未(四七九年)で、その即位元年の丁酉(四五七年)は木梨軽の即位元年が仮託されている。つまり雄略紀は、木梨・安康・市辺・雄略の四王からできている。応神のそれが成務・神功・某倭王・応神の四王からできているのと同じである。
まず雄略紀の整理をしてから、その記事の係年と宋書の記事の係年を比較することにしたい。しかしながら雄略紀の係年は思いのほか複雑で、復元にはかなりの精査と注意力を要する。また木梨・安康のそれとの関連もひとつかみではない。
とりあえず一通り記事の順を追って一覧することからはじめたい。雄略紀年譜 ============================================================ 干支 西紀 紀年 記 事 ============================================================ 乙未 455 丙申 456 安康没(8) 市辺没(10) 泊瀬朝倉即位(11) 丁酉 457 元年 立后(3) 戊戌 458 2年 百済池津媛(7) 吉野行幸(10) 己亥 459 3年 栲幡皇女自刃(4) 庚子 460 4年 葛城山(2) 吉野(8) 辛丑 461 5年 葛城山(2) 軍君出立(4) 嶋君生誕(6) 壬寅 462 6年 泊瀬小野(2) 呉使来(4) 癸卯 463 7年 三輪山(7) 吉備討伐(8) 稚媛立妃 田狭任那 甲辰 464 8年 身狭・桧隈派遣呉(2) 任那膳臣与高麗戦 乙巳 465 9年 祭祀宗像(2) 紀小弓伐新羅(3) 紀大磐 誉田陵 丙午 466 10年 遣使帰還(9ー10) 丁未 467 11年 百済貴信来(7) 戊申 468 12年 遣使呉(4) 己酉 469 13年 庚戌 470 14年 遣使与呉使来(1) 呉原(3) 歓待呉使・根臣(4) 辛亥 471 15年 秦氏 壬子 472 16年 漢氏 癸丑 473 17年 土師氏 甲寅 474 18年 員弁朝日郎(8) 乙卯 475 19年 穴穂部(3) 丙辰 476 20年 高麗滅百済 丁巳 477 21年 戊午 478 22年 立太子(1) 水江浦島子(7) 己未 479 23年 百済文斤王没末多(東城)王立 雄略病没(8) ========================================================以上が雄略紀の概要である。
留意すべきはは、この即位前紀や即位元年の記事の背後に、木梨の実年代が記録されている点、また安康のそれも並行して混入してくるであろうという点である。いずれも雄略の同母兄であった。
木梨軽の暴虐β
木梨紀というのは記録上は存在しない。市辺もそうで、木梨・安康・市辺・雄略の四王のうち、大王として認められているのは、安康と雄略の二人だけである。
その安康紀も、それ自体やはり木梨紀からできている。その治世も記録されるように三年に違いない。眉輪王に殺される。
それでなお安康紀が、「その没の三年後に陵葬」と書くのは、矛盾を承知で事実を示唆したかったからであろう。書紀の陵葬記事は、「陵葬元年」を旨としながら、その実、没年のその年が事実認識であった。したがってここに安康の陵葬がその六年(安康没の三年後)というのは、文脈からして安康三年(没年)がすなわち木梨六年(陵葬)であることを指示しているにちがいない。
つまり安康紀も雄略紀とおなじく木梨紀からできていて、事実上、木梨紀四年をその元年とする。そして治世三年で没するが、その年(安康三年)に陵葬され、あえてなお「その三年後に陵葬」というのが、要するに安康紀が木梨紀からできていることを、後世に示唆したものなのであろう。
したがって安康紀はつぎのように読みとらなければならない。安康紀年譜 ============================================================ 干支 西紀 紀年 記 事 ============================================================ 丙申 456 允恭没(1) 葬礼(10) 丁酉 457 元年 (木梨元年) 戊戌 458 2年 ( 2年) 己亥 459 3年 栲幡自刃(2) 木梨弑逆 安康践祚(12) 庚子 460 4年 安康元年 辛丑 461 5年 2年 中蒂姫立后(1) 壬寅 462 6年 3年 眉輪殺安康(8) 陵葬 ============================================================允恭没の後、太子の木梨軽王子が即位したがわずか治世三年で没した。記事からする没の事情はあきらかに弑逆である。関係する記事は安康紀だけでなく雄略紀にもある。すなわち木梨三年(西紀四五九)は、木梨紀からできている雄略紀三年でもある。その年、栲幡皇女の自刃があった。
伊勢に逃げたという栲幡皇女の自刃記事は、書紀の文法にしたがい当王廃嫡にともなう連座ということになる。示唆されるのはやはり木梨弑逆であろう。
混乱をさけるためにあえて付け加えるが、書紀は安康が允恭(実は木梨)没年の十二月に践祚し、翌年を元年としたと記録する。この記事はひとえに木梨の即位を無視したことからくることだから、安康紀のオリジナルの係年は、そっくり三年を降らせた係年と併記することで、やっと全体が把握できる。安康紀年譜 ============================================================ 干支 西紀 紀年 記 事 ============================================================ 丙申 456 允恭没(1) 葬礼(10) 丁酉 457 元年 (木梨元年) 安康即位 戊戌 458 2年 ( 2年) 中蒂姫立后 己亥 459 3年 栲幡自刃(2) 木梨弑逆 安康即位(12) 安康弑逆 庚子 460 4年 安康元年 辛丑 461 5年 2年 中蒂姫立后(1) 壬寅 462 6年 3年 眉輪殺安康(8) 陵葬 三年後陵葬 ============================================================基本となる係年は「木梨紀」としてある。これをもとに雄略紀ならびに安康紀の記事を重ねてみよう。
別途に市辺紀が存在するが、この説明は後にしたい。雄略紀(木梨紀・安康紀)年譜 ============================================================ 干支 西紀 紀年 記 事 ============================================================ 丙申 456 允恭没(8) 丁酉 457 元年 木梨即位 戊戌 458 2 百済池津媛(7) 己亥 459 3 栲幡皇女自刃(4) 木梨自刃 安康即位(12) 庚子 460 4 安康元年 辛丑 461 5 2 中蒂姫立后 壬寅 462 6 3 眉輪殺安康(8) 安康陵葬 癸卯 463 7 呉使来(4) 4 葛城山(2) 市辺元年 甲辰 464 8 5 葛城山(2) 2年 ========================================================ここにある「百済池津媛・栲幡自刃・呉使来・葛城山」などの記事は、すべて雄略紀からとったものである。したがって、安康即位前紀年に記録される、木梨の「暴虐」と「淫」の記事の実態は、同母妹軽大娘に対するもの(淫)だけではない。雄略紀にあり雄略の仕業という百済池津媛への仕打ち(暴虐)も、実は木梨の犯罪であった。
一連の経緯をさらに一度確認すると、安康は、その同母兄木梨の没年とみられる「栲幡皇女自刃」の年、すなわち雄略紀(木梨)三年(四五九)に践祚年し、翌年(四六〇)を元年とする。そして治世三年、安康紀三年(木梨六年、四六二年)に没したことになる。
安康の後継者である同母弟の雄略は、その年一一月に泊瀬朝倉で践祚、翌年を元年とした。癸卯(四六三年)である。木梨六年と七年のことであるから、雄略六年(四六二)条にでる「泊瀬小野に遊ぶ」という記事、翌七年(四六三)条にある「三輪山に登る」という記事も、この間の状況を保証する。
泊瀬の地名の初出であり、書紀の文法からすれば間違いなく、泊瀬朝倉宮の創設、すなわち践祚記事そのものである。遷宮元年である。
くりかえすが、雄略は践祚年の一一月に遷し、翌年を即位元年とした。先の雄略紀(木梨紀・安康紀)年譜に準ずれば、践祚は雄略紀六年(三六二年)、即位元年は雄略紀七年(三六二年)になるのである。
穏当なみかたにみえ、ほかの解釈はないように思えるが、これが実はまったくの誤謬であった。