磐坂市辺押羽β
文脈上当然とみられるこの雄略六年が、壬寅年(三六二)であるという点については、実は重大な疑義がある。
理由そのものは単純である。ひとつに雄略記は確かに木梨紀でできているが、実雄略紀そのものも木梨紀であるかどうかという検証が済んでいない。
書紀にはこうしたケースがいくつもあった。すなわちこの六年は、木梨紀でなく実安康紀の六年であると思う。書紀の大王の事績についての記述は、すべからくその父兄の係年に拠っている。この視点に準拠すると。実雄略紀もまた一部はかならず安康紀によるところがあって当然である。
雄略紀六年の「泊瀬小野」の記事が、木梨紀でなく安康紀に準拠すると仮定してみよう。実安康六年すなわち甲辰(三六四年)である。雄略はこの年一一月に践祚・立宮し、翌乙巳年(三六五)を即位元年としたことになる。
ところで雄略紀が実安康紀に拠るとすれば、一連の葛城山や三輪山、吉野山にかかわる記事も、また移動するのである。この区分は、それぞれの事件につき雄略が関与する度合で決まってくるであろう。
呉使関係記事、とくに派遣でなく「呉使来」という六年条の記事と、半島関係の記事は、基本的に実木梨紀によると思う。
逆に、明らかに雄略の時代とみられる身狭・桧隈の呉への派遣記事は、おそらく実雄略紀のものである。
上記の係年表は次のように修正されなければならない。この時先の雄略元年と後の雄略元年に四年に差異があることに注意しておきたい。
いくつか不安定な部分もあるが、とりあえず一挙に復元してみよう。雄略紀年譜(修正) ============================================================ 干支 西紀 紀年 記 事 ============================================================ 丙申 456 允恭没(8) 丁酉 457木梨元年 木梨即位 戊戌 458 2 百済池津媛(7) 吉野行幸(10) 己亥 459 3 栲幡皇女自刃(4) 木梨自刃 庚子 460 4 安康元年 吉野行幸(8) 辛丑 461 5 2年 中帯姫立后 壬寅 462 6 安康陵葬 呉使来(4) 3年 被殺(8) 癸卯 463 7 市辺元年 4年 葛城山(2) 甲辰 464 8 膳臣与高麗戦 2年 5年 葛城山(2) 乙巳 465 9 泊瀬小野(2) 3年 6年 丙午 466雄略元年 三輪山(7) 吉備討伐 稚媛立妃 田狭任那 丁未 467 11 2年 百済貴信来 戊申 468 12 3年 己酉 469 13 4年 庚戌 470 14 5年 辛亥 471 15 6年 秦酒君太秦姓 壬子 472 16 7年 漢氏 癸丑 473 17 8年 身狭・桧隈派遣呉(2) 漢使主直姓 甲寅 474 18 9年 祭祀宗像(2)紀小弓伐新羅(3)紀大磐 誉田陵 乙卯 475 19 10年 遣使帰還(9ー10) 穴穂部(3) 丙辰 476 20 11年 高麗滅百済 丁巳 477 21 12年 与百済熊川 遣使呉(4) 戊午 478 22 13年 立太子(1) 己未 479 23 14年 東城王立 呉使来(1)歓待呉使(4)雄略病没(8) ========================================================みての通り、ここには市辺の大王としての紀年を入れた。理由はむろん、安康の没年とみられる陵葬記事と、雄略の践祚とみられる泊瀬記事の間にある四年の差を捨象するためである。
また実安康紀で復元した場合の「葛城山」関連記事が、雄略紀の記事のなかで、「百済池津媛や吉野山」の記事とならんで異質なためである。
前者に関連しては、雄略は「有徳の天皇(雄略四年・葛城山)」いわれ、後者については、「大悪天皇(雄略二年・吉野山)」と記録されている。
どちらも雄略の資質を形容したものではないと思う。前者は履中の子で母が葛城の黒媛であった市辺のことであろう。葛城山がでてくるのもそのためである。市辺は履中の嫡子で仁徳の嫡孫であった。書紀・古事記はこの系を大王の正系であるとみなした形跡がある。その尊重の色調は、市辺の子、顕宗・仁賢にまで及んでいる。
後者は吉野に仮託した木梨のことであろう。木梨は百済池津媛を焼き殺したという、対外的に収拾できない残虐行為が譴責されている。大悪天皇という所以である。
すなわち葛城山関連記事は雄略四年・五年とある。この初出の四年条こそ、市辺即位元年であったと思う。西紀四六三年、安康紀三年(没年)の翌年にほかならない。
雄略紀の即位前紀年、すなわち安康没年の年、まだ童男であった雄略がその同母兄を殺戮し、さらに「安康が市辺に位を伝えたい」と望んだという理由で、雄略が市辺を射殺したという記事がある。この最後の記事だけがどこか唐突で、別の記録からもってきたのではないか、という見解が多くあった。
事実そうであったのであろう。時代がさらに四年降った時の事件であった。
雄略がその間を待った、あるいは世上が市辺の即位を了とした理由は、一に雄略が童男すなわち然るべき年齢に達していなかったためではないかと思う。倭建の正系たる「剣太刀太子」であった履中の嫡子市辺の、血筋から拠ってたつ大王位の権利が、安康も認めざるおえないほど大きかったせいかも知れない。
ちなみに雄略の誕生について、允恭紀七年条に次のような特別な記事がある。皇后(忍坂大中姫)、大泊瀬天皇を産らします夕に適りて、天皇(允恭)、藤原宮(衣通郎女宮)に幸す。皇后聞こしめして恨みて曰はく、「妾、初め結髪ひしより、後宮に陪ること、既に多年を経ぬ。甚しきかな、天皇、今妾産みて、死生相半ばなり。何の故にか、今夕に当たりても、必ず藤原に幸す」とのたまひて、乃ち自ら出て、産殿を焼きて死せむとす。
天皇聞こしめして、大いに驚きて曰はく、「朕過ちたり」とのたまひて、因りて皇后の意を慰め踰へたまふ。
この允恭七年は、実允恭紀元年または二年とみられるため、西紀四四三年ないし四四四年のことである。産気づいた后を放って稚妃(后の妹)のところに行こうとする允恭に、産屋に火をつけて、胎の子ともども死んでやると脅すのだから、忍坂大中姫の権威の大きさが分かるような気がする。
いずれにせよここに雄略が誕生したのだとすれば、安康没年すなわち西紀四六二年には、雄略は何歳になるであろうか。数えで一九歳または一八歳になるのである。
ところが古事記は、先のように安康の殺害の時にあたって、「ここに大長谷王子、當時童男なりけり」といっていた。童男(男具那)は倭建の時もそう述べており、おそらく一八歳に満たぬ年端をいうのであろう。すると雄略の兄たる安康が、宋書の世子興であるとすれば、「世子」として朝貢した理由も分かる。安康もまた即位にあたっては、いまだ一八歳に満たなかったのである。
允恭紀の雄略生誕にかかわる記事は、素朴な信憑性が感じられる。これは必ず雄略であって、安康でも木梨軽でもない。
すると允恭紀の藤原大娘にかかわる記事は、実履中紀によるのでなく、允恭のすぐ上の兄、反正の紀年によるという可能性をみてみたい。ひるがえって允恭には持病があった。そのために当初王位の継承を固持することがあったと伝えている。その病のために三年一月、新羅に医師を求め、同八月医師が来朝して、このために允恭の病は快癒したのである。
この年が実允恭紀三年であれば、これは実履中紀(允恭紀)九年にあたる。ところが古事記は、このとき允恭が病のために践祚を固持し、大后(忍坂大中姫)等の説得でついに王位を継いだといい、あわせて、新羅王の派遣した薬方を知る大使が、允恭の病も治したと伝えている。同年のことなのである。
つまりこの允恭三年条は、允恭紀(履中)三年でなく、実反正紀三年条であろう。西紀四四三年、一二月即位でなお、その年を即位太歳と記録した允恭元年にほかならない。ちなみに遣新羅使は一月、新羅使の来朝は八月、即位が一二月であった。允恭は古事記のいうように、持病を克服してから即位したのである。
即位年の七年の中に、新たな妾妻(藤原衣通郎女)を囲うことは無理であろう。快癒の後の七年条のこの記事が、つまるところ三年条の新羅使と同じく、実反正紀三年と思う理由である。
すなわち雄略生誕の年、允恭紀七年(実反正七年)は、西紀四四七年になる。雄略がこの年に生まれていれば、安康没年の西紀四六一年には、若干一五歳である。童男と伝承される所以であろう。
安康が雄略より三年程早く生まれていたとすれば、安康も即位の時せいぜい一八歳前後、その一、二年前に遣宋使を派遣しているとすれば、その時点ではまだ一六、七歳の年端であった。実権がすでにあったにもかかわらず、「世子」と自称した理由である。
允恭紀についてのこれに関する詳細は、先のように後述としたい。いまは雄略紀の整合的な復元を試みていきたい。
先に進むが、総じて雄略紀は、木梨紀・安康紀そしてむろん実雄略紀そのものからできている。うち紀年全体は木梨紀にほかならず、基本的なそれは安康紀と雄略紀である。市辺紀が存在するようには一見みえない。
問題は安康紀と雄略紀の使い分けだが、これは記事の内容によって分けたのではないかという気がする。
先に述べたように、最初の呉使や百済関係記事は木梨紀のままである。主たる国内記事は安康紀、就中新羅関係記事も、これはもっぱら任那国司田狭など国内記事の延長にあるとみられ、やはり安康紀である。
一方雄略時代とみられる遣呉使は、国内記事の一種として処理されらしく、たぶん実雄略紀なのである。理由は宋書が倭王武とする武の記事が、四七七年から四七九年に至る、雄略治世末葉に記録され、書紀の遣呉使の記事が、「雄略八年派遣・一〇年帰還、一二年派遣・一四年帰還」というように年度を追って現れるからである。
その最後の一四年の遣呉使の帰還は、あきらかに呉使をともなっていた。事実は呉の冊封使に違いない。
これは、木梨紀に従えば四七〇年、安康紀に従えば四七三年、雄略紀に従えば四七九年になる。
宋書の倭王武の除授は、まぎれもなく四七八年の「安東大将軍」の除授で、宋書は記載しないが(つねに記載しない)、この時冊封使はかならず派遣された。四七八年の記録は、その冊封使が同年かおそくとも翌年に倭国に至ったことを示唆する。雄略一四年条の、呉使をともなった遣呉使の帰還が、一月と記録されることがいくばくか伝承にもとづけば、呉使は四七九年に倭に到着しているのである。
遣呉使関係記事と、これにともなう呉使来朝の記事が、実雄略紀年に拠ることはあきらかである。四六二年とみられる呉使来朝という単独記事の場合は、木梨紀に拠ったのだから、この辺の書紀の編纂方針の一端も明解である。ちなみに三六二年の呉使すなわち冊封使は、倭王世子興の「安東将軍倭国王」の除授に違いない。五世紀中国史書倭国関係記事(世子興・武) ----------------------------------------------------------- 四六〇 宋光武帝 大明四年 倭国貢献 済死す 世子興遣使貢献す。(宋書) 四六二 宋光武帝 大明六年 詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴 ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境 を寧んじ、恭しく貢職を修め、新た に辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべ く、安東将軍倭国王とすべし」と。 (宋書) 四七七 宋順帝 大明四年 倭国貢献 興死して弟武立ち、自ら使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王 と称す。(宋書) 四七八 宋順帝 昇明二年 遣使上表、(略)詔して武を、使持 節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王 に除す。(宋書) 四七九 南斉高帝 建元元年 *武進号鎮東大将軍(南斉書) 五〇二 梁武帝 天監元年 *武進号征東(大)将軍(梁書) ------------------------------------------------------------今一つ実雄略紀の元年が、西紀四六六年(三輪山記事)でなく、その前年四六五年(泊瀬小野記事)である可能性が残っている。書紀においては宮城の初出記事が、事実上の元年であることが多い。したがって「一一月践祚、翌即位元年」とする雄略紀の記事は、なお検討の余地がある。
この可能性があれば、実雄略紀は治世一四年でなく、一五年になる。呉の冊使の到着は西紀四七九年でなく、四七八年のことになる。どうであろうか。
どちらともいえないが、ここに雄略二〇年条(三七六)の、「高句麗による百済漢城陥落」記事が参考になる。この記事は「注」で、実は乙卯(三七五)の事件であると改めて断っている。すなわち本来の実雄略紀が治世一五年で、その一一年に漢城陥落があったという記録があったのである。
その治世一五年を一四年に改めれば、丸一年を降って記述と合う。以外の半島関係記事、たとえば「文周王没、東城王立(四七九)」の係年が正しいから、雄略治世はやはり一四年というのが、書紀の編者の基本的な認識であったのである。
雄略紀の検証β
雄略紀の完全な復元は次のようになる。雄略紀年譜(修正) ============================================================ 干支 西紀 紀年 記 事 ============================================================ 丙申 456 允恭没(8) 丁酉 457木梨元年 木梨即位 戊戌 458 2 百済池津媛(7) 吉野行幸(10) 己亥 459 3 栲幡皇女自刃(4) 木梨自刃 庚子 460 4 安康元年 吉野行幸(8) 辛丑 461 5 2年 中帯姫立后 壬寅 462 6 安康陵葬 呉使来(4) 3年 被殺(8) 癸卯 463 7 市辺元年 4年 葛城山(2) 甲辰 464 8 膳臣与高麗戦 2年 5年 葛城山(2) 乙巳 465 9 泊瀬小野(2) 3年 6年 丙午 466雄略元年 三輪山(7) 吉備討伐 稚媛立妃 田狭任那 丁未 467 11 2年 百済貴信来 戊申 468 12 3年 己酉 469 13 4年 庚戌 470 14 5年 辛亥 471 15 6年 秦酒君太秦姓 壬子 472 16 7年 漢氏 癸丑 473 17 8年 身狭・桧隈派遣呉(2) 漢使主直姓 甲寅 474 18 9年 祭祀宗像(2)紀小弓伐新羅(3)紀大磐 誉田陵 乙卯 475 19 10年 遣使帰還(9ー10) 穴穂部(3) 丙辰 476 20 11年 高麗滅百済 丁巳 477 21 12年 与百済熊川 遣使呉(4) 戊午 478 22 13年 立太子(1) 己未 479 23 14年 東城王立 呉使来(1)歓待呉使(4)雄略病没(8) ========================================================新羅にかかわる記事は、主に雄略八年の「任那膳臣与高麗戦」と、同九年の「紀小弓伐新羅ならびに紀大磐伐新羅」の二条の記事である。九年条は身狭・桧隈派遣呉にともなう宗像祭祀ともかかわるから、実雄略紀九年のことであろう。
八年の記事は特殊である。
この記事は新羅がこの時期高句麗と結好していたとするが、このため新羅に駐留していた高句麗兵が横暴で、いつか新羅を滅ぼすつもりだというのを聞き、新羅人が高句麗の将兵を殺す。高句麗王は怒って兵を出すが、新羅は任那の王膳臣に援軍を頼み、辛うじて高句麗兵を押し返したという。
三国史記は麗紀の長寿王二八年条(四四〇年)に、「羅人襲殺辺将、王欲往伐、羅謝罪乃止」とある。しかし羅紀にはその年にそれに類する記事はなく、かえって訥祇三四年条(四五〇年)に「殺麗将、麗王怒侵辺、王謝之乃止」という近似の記事を記録する。訥祇までの羅紀は未斯欣や朴好などの記事にみられるように、意図的な係年の再編があるから、これは同一記事でかつ麗紀が正確であると思う。
書紀の雄略紀八年に記録する「膳臣与高麗戦」という一連の記事が、麗紀の四四〇年条に該当する。するとこの「八年」というになる書紀の係年は、むろん雄略の時代ではない。安康・木梨でも允恭でもない。西紀四四〇年を治世八年とすべき大王は、四三三年を即位元年とする仁徳なのである。
特殊というより異常というほかはないが、思うに羅紀が麗紀と異なる年代に当てはめたのと同一の理由によるのであろう。倭に単独のたぶん仁徳治世での伝承があって、なおその係年の特定が半島の記録に不備であったために、羅紀の方を尊重して年代を降ろし、かつ仁徳に次いで新羅に大きな威を張った雄略の係年に編入したのであろう。
雄略二年の百済池津媛の記録もこれに似た状況にあったらしい。書紀は百済から大王に供するために送られた池津媛が、石川楯なる人物に犯され、これを怒って池津姫を焼き殺したという。この残忍な行為は先のように、大王木梨の仕業に違いないが、書紀はここに註して「百済新撰に云はく、己巳年蓋鹵王立つ。天皇阿礼奴跪を遣して来たりて女郎を索はしむ。百済慕尼夫人の助を壮飾らしめて、適稽女郎と曰ふ。天皇に貢進るといふ」とある。
己巳の年は四二九年または四八九年だが、これは従来から四二九年として、蓋鹵王ならぬ眦有王の即位(四二七年)の二年後というみかたが一般的であった。このため応神三九年(四二八)条の「百済新斉津媛の来朝」と同一事項とされ、いわゆる重複記事とみなされた。
そうではないと思う。これは文脈からして、「己巳」でなく、「己未」の誤謬であろう。己未(三五五年)はすなわち百済蓋鹵王の即位の年である。「蓋鹵王立つ」と記録することに一致する。蓋鹵が即位四年後の雄略二年すなわち実木梨二年(三五八年)に、あらたに池津媛なる王族の女を献じたのである。
その後の雄略五年(四六一年)条に、百済蓋鹵王が弟軍君(昆支)に、「女人(適稽女郎)を貢るも、礼無くして我が国の名を失へり。以後は女を貢るべからず。汝(昆支)倭に往でて、天皇に事へまつれ」といっている。蓋鹵王は自らの妃である妊婦を昆支につけて送ったが、妊婦は筑紫の各羅嶋で一子を生み、昆支はこれを国へ送り返したという。その子が後の百済武寧王(斯摩王・嶋王)である。
著名な武寧王碑から、その生誕は間違いなく四六一年とみられるから、この記事の信憑性はたかい。あわせて蓋鹵王が四年前に送ったという適稽女郎の信憑性もまたた高いものがある。応神紀の新斉津媛との類似があったから、記述上の混乱を起したのである。ちなみに新斉津媛は直支王(腆支王)の妹というが、時代からして眦有王の妹であろう。
百済関係記事は雄略紀に今一つある。さきに述べた高句麗による百済王都漢城の陥落である。蓋鹵王は殺され、一子文周がこれを継ぎ、南遷して熊川に都城を移した。本文は雄略二〇年(四七六年)に記録するが、註して「百済記に云ふ。蓋鹵王の乙卯(四七五年)、王城陥落」と書くから、認識はあきらかに三七五年であった。三国史記においても事実は間違いなく三七五年の事件であった。
百済はその年ないしは翌年に熊川に遷都している筈であるから、書紀が雄略二一年に「久麻那利(熊川)を文州王(文周王)に与う」というのも係年が一、二年異なる。そもそも与えられて熊川に遷都した訳ではないから、これは倭がこの遷都前後の百済に何事か干渉したことを示唆するのであろう。
さて、宋書が武(雄略)の兄という興は、安康にほかならない。雄略は安康から直に大王位を引継いだというが、そうではなかった。安康と雄略の間には、市辺押羽の即位と治世があった。
倭王世子興β
改めて宋書の倭王世子興と倭王武の記事を、書紀のそれと突き合わせてみよう。上記の書紀の係年を加えてみる。------------------------------------------------------------ 四六〇 宋光武帝 大明四年 済死す。世子興遣使貢献す。 倭国貢献(宋書) (安康元年) 四六二 宋光武帝 大明六年 詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴 ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境 を寧んじ、恭しく貢職を修め、新た に辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべ く、安東将軍倭国王とすべし」と。 (宋書) (安康三年、安康没、呉使来) 四七三 (雄略八年、遣呉使派遣) 四七五 (雄略一〇年、遣呉使帰還) 四七七 宋順帝 大明四年 倭国貢献 興死して弟武立ち、自ら使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王 と称す。(宋書) (雄略一二年、遣呉使派遣) 四七八 宋順帝 昇明二年 遣使上表、(略)詔して武を、使持 節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王 に除す。(宋書) 四七九 南斉高帝 建元元年 *武進号鎮東大将軍(南斉書) (雄略一四年、遣呉使帰還・呉使来、呉使歓待、雄略没) 五〇二 梁武帝 天監元年 *武進号征東(大)将軍(梁書) ------------------------------------------------------------雄略紀の係年のうち、雄略八年の「泊瀬小野」の記事を雄略践祚年、翌年の「三輪山」記事を元年とする実雄略紀では、その一四年が雄略紀(木梨紀)二三年(四七九)に当たる。したがって書紀の見解による、呉の冊使の到来は四七九年一月であった。宋書はその叙正を四七八年に行なっている。
雄略一四年の記事は、呉使が倭の遣呉使とともに、その年一月に倭に至り、三月に大和に入ったことを記している。一方、雄略六年すなわち木梨六年(四六二)の記事は、その年四月に呉使が来たと書いている。これは事実上安康三年で、宋書が「倭王世子興」を叙正したと記録する年である。
宋書の除授の年は、雄略についてはその前年、安康についてはその当年ということになる。ちなみに安康の朝貢は四六〇年のみで、雄略のそれは四七七年と四七八年の二回が記録される。したがって興に対する冊封使の発遣は四六二年であろう。その年のうちに着いた。武に対するそれは、四七八年であろう。翌年に着いたことになる。
ちなみにこのことは、興・武以外の倭の三王についての基本的な捉えかたを示唆するものでもある。宋書の除授の年との関係ばかりでなく、宋書が決して伝えないにもかかわらず、この中国の正統を標榜した王朝が、除授を単なる形式でなく、できうるかぎり冊封使の派遣によって、倭王に直接これを告諭すべきことを方針としていたことが明らかである。
さて倭王世子興・倭王武以外に除授のあったのは、四二一年の倭国王讃、四三八年の安東将軍倭国王珍、四四三年の安東将軍倭国王済の三人である。さらに四五一年には、安東将軍倭国王済に「六国諸軍事」を加えることがあったが、若干主旨が異なっても、これも正式な除授の一つである。
対するに書紀の伝える「呉使」は、雄略の一回(雄略十四年)、安康の一回(雄略六年)のほかには、仁徳の五十八年条の一回だけである。「冬一〇月、呉国・高麗国並びに朝貢」と書かれている。
仁徳五八年は事実上倭建五八年で、西紀四三九年にあたる。仁徳没年の翌年である。
ちなみにこれはすべて「呉使」と記録された。冊使とは言わない。
書紀は七世紀、時の宮廷のもつ中華思想とその矜持のなかで編纂された。そのために父祖たる倭の大王の中国朝貢という史実は、これを認めなかった。のみならず宋書そのものを無視した。書紀の編者が宋書を知らなかったという事実はない。書紀は一部、あきらかに梁書の記事を援用することがあった。梁書をみて宋書をみなかったということはあり得ない。宋書・梁書のみならず、七世紀の存在した中国の史書は、すべからく書紀の編者の手元にあって、一般史料に供せられていたとみるべきである。
一方倭から派遣する「遣呉使(遣宋使)」については、雄略の身狭村主青・檜隈民使博徳(雄略八年・一二年)と、応神の阿知使主・都加使主(応神三七年)だけが記録される。雄略の遣呉使の目的はあきらかだが、書紀はそうはいわない。雄略一〇年の帰還の時、「呉の献る鵞(鳥)」といって、珍物を求めるためという理屈がついるの。応神の遣呉使の目的も、「縫工女を求む」ためと言っている。
ちなみにそれぞれの帰朝も記録されるが、呉使(宋冊使)をともなっての帰還が明示されているは、雄略一四年条だけである。これはむろん雄略一二年に派遣した使者の帰朝ということになる。
宋書をみると、五世紀のこの時期の倭の朝貢はのべ九回であった。書紀が記録するのはのべ三回だけである。
倭王に対して叙正があったのは、称号の追贈である四五一年の倭王済をふくめて、のべ六回である。うち三回の「呉使」が書紀に記録されていることになる。この回数の差に留意したい。
叙正とこれにともなう冊使派遣、そして倭の側の対応のしかたが、おぼろげながら分かる。
三国史記はその中国(北朝・南朝)への遣使は、これをかなり克明に記録している。そして「冊使来」の記事もしばしばある。しかしながら、遣使と冊使来の記事は互いに補填しているのではない。「冊使来」の記事の方がすくないのである。しかもそれは宋書など中国側の史料で「叙正」が記録される数と比べても、なおすくないのである。
三国史記がこの点について、かなり克明であったことを評価すれば、事実としての冊使派遣の回数は、あきらかに除授の回数よりすくなく、おそらく半減するのではないかと思われる。すると書紀の記述もまた正確なのではないかと思えてくる。
すなわち宋の倭王に対する叙正は、のべ六回であった。うち三回については冊使を派遣した。それが書紀が「呉使」と記録しているものだと思う。
雄略一四年(四七九)の「六国諸軍事安東大将軍倭国王・武」と、雄略六年(四六二)の「安東将軍倭国王・世子興」と、仁徳五八年(四三九)の「六国諸軍事安東大将軍倭国王・珍」である。宋書の記録する叙正の年は、それぞれ四七八年、四六二年、四三八年であった。
仁徳紀年についての詳細は、別章としてここでは省くが、書紀が記録する「呉使」の史実性があきらかになってくる。その正確さは条件つきながら書紀の正確さの証左でもある。宋書「倭王」叙正記事 ------------------------------------------------------------ 四二一 宋武帝 永初二年 倭讃万里修貢、除授賜う可(宋書) 四三八 宋文帝 元嘉一五年 讃死し弟珍立つ。遣使貢献して 自ら使持節都督倭・百済・新羅・任 那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将 軍倭国王と称し、表して除正せられ んことを求む。詔して安東将軍倭国 王に除す。珍また倭隋等一三人を平 西・西虜・冠軍・輔国将軍に号に除 正せんことを求む。詔して並びに聴 す。(宋書) 四四三 宋文帝 元嘉二〇年 倭国王済、遣使奉献、また以て安東 将軍倭国王となす。(宋書) 四五一 宋文帝 元嘉二八年 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・ 秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東 将軍は故の如く、並びに上る所の二 三人を軍郡に除す。 (宋書) 四六二 宋光武帝 大明六年 詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴 ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境 を寧んじ、恭しく貢職を修め、新た に辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべ く、安東将軍倭国王とすべし」と。 (宋書) 四七八 宋順帝 昇明二年 遣使上表、(略)詔して武を、使持 節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王 に除す。(宋書) ------------------------------------------------------------淡路巡狩記事の特殊性β
今一度整理すれば、宋書による倭王の朝貢は、のべ九回であった。書紀はそのうちの三回を記録している。つぎに宋書による倭王の叙正は、のべ六回であった。書紀はそのうち三回を記録する。そして宋書の叙正のうち、冊使の派遣をともなった叙正が、およそ半数(以下)あるとすれば、書紀の三回の呉使(冊使)の記録は、そのまま宋の冊使の派遣回数であった可能性が高かった。
すると残る課題は、書紀の記録から、倭王の朝貢とされる九回の遣呉使のうち、記録のみえない六回分のそれを推測できるすべがないかどうかという検討である。
もうひとつの課題は、叙正があって冊使を派遣しなかった三回の例は、どういう形式をともなっていたかという検討である。これは穏当に考えても、帰還する倭の使者に告諭して「叙正の詔書」を委ねることであろう。するとこの帰還する遣呉使の時の朝廷の迎えかたが、あらためて検討されなければならない。
結果からいえば、前者の遣呉使については、書紀は明示的にこれを書いてはいないと思う。推測できる余地はある。つねに遣使に当てられたらしい、半島からの渡来者の渡来年代を特定することである。阿知使主・都加使主・阿直支などの渡来者である。雄略紀の遣呉使が、渡来系の身狭村主青・檜隈民使博徳であったように、それ以前の仁徳紀・応神紀の遣呉使もまたそうであったと思う。阿知・都加・阿直支の渡来記録の後に、かならず遣呉使もあった筈である。
後者については、「呉使来」と書かれる以外の三回の叙正の時、おそらく詔書を奉じて帰還する遣呉使を、倭の朝廷がしかるべき迎えた手順である。これは手ぶらの「遣呉使」と異なって、記録から抹消できることではなかった。一定の儀礼をもって迎えるべき重要事項であった。
実は書紀はこれも正確に整理し記録に残した。それが書紀に記される「淡路巡狩」という特殊な記事である。
五世紀にかぎれば、まず応神紀一三年条、髪長媛が「秋九月」、日向から大和へ到来する記事に「一書」を引いて、「日向諸県君牛、女髪長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇、淡路嶋に幸して遊猟したまふ」という記事がある。ついで応神紀二二年条、「秋九月、天皇淡路嶋に狩したまふ」という記事がある。
ちなみに応神紀一三年は、実某倭王紀一三年(四二二)、応神二二年は、実神功紀二二年(四二二)、すなわちいずれも同年のことである。
つぎに履中紀五年条、「秋九月、天皇淡路嶋に狩したまふ」という記事がある。つぎに允恭一四年条、「秋九月、天皇淡路嶋に狩したまふ」という記事がある。前者は四三九年、後者は四五一年とみられる根拠がある。
この三つの記事の特殊性は、いずれも「秋九月、天皇淡路嶋に狩したまふ」という形式的に統一された記述にある。またいずれも前後に関連なく唐突に挿入されるという特徴がある。
ひるがえって淡路嶋については、それ以前の大王の時代ではとくに仲哀紀と垂仁紀に記録される。仲哀紀ではその二年条で、「二月、淡路屯倉を定む」とある。垂仁については三年条で、天日槍の来帰について述べるところで一書を引き、天日槍に、「播磨の宍栗邑と淡路嶋の出浅邑と、是の二つの邑は、汝任意に居れ」と詔している。
乳飲み子の応神を擁して神功が大和へ帰還するとき、香坂・忍熊が明石まで出陣したという伝承があるが、おそらくは当時のいわゆる近畿の範囲が、淡路から明石ないし播磨のラインであったことを示唆するのだと思う。
この点でみると、淡路あるいは淡路巡狩の記事は海外または遠方からの来賓を出迎える場所であったという可能性がある。
書紀が記録している三回の「呉使(冊使)」と、たぶん「叙正の詔書をもって帰還した遣呉使」を仮託している「淡路巡狩記事」とを、あらためて宋書と対照してみよう。
以下のようになる。宋書「倭王」叙正記事と書紀「呉使」・「淡路巡狩」記事 ------------------------------------------------------------ 四二一 宋武帝 永初二年 「倭讃」万里修貢除授(宋書) *四二二 応神一三年・二二年 淡路巡狩(書紀) ------------------------------------------------------------ 四三八 宋文帝 元嘉一五年 六国諸軍事安東大将倭国王珍 西・西虜・冠軍・輔国将軍、倭隋等 一三人(宋書) *四三九 仁徳五八年 呉使来(書紀) ------------------------------------------------------------ 四四三 宋文帝 元嘉二〇年 安東将軍倭国王済(宋書) *四四三 履中五年 淡路巡狩(書紀) ------------------------------------------------------------ 四五一 宋文帝 元嘉二八年 六国諸軍事安東将軍倭国王済(宋書) *四五一 允恭一四年 淡路巡狩(書紀) ------------------------------------------------------------ 四六二 宋光武帝 大明六年 安東将軍倭国王倭王世子興(宋書) *四六二 雄略六年 呉使来 ------------------------------------------------------------ 四七八 宋順帝 昇明二年 六国諸軍事安東大将軍倭国王武 (宋書) *四七九 雄略一四年 呉使来 ------------------------------------------------------------書紀の「淡路巡狩」という特殊な記事は、ここに援用したものが、この時期書紀に出るすべてである。これが先の仮定のように「叙正の詔書をもった遣呉使の帰還」を迎える儀礼であれば、書紀は宋書と密接に対応する、すべての記録を書き記していることになる。
さて、ここで宋書における倭王の名について整理しておきたい。該当する大和の大王を特定することになる。
武は「たけ」を意味するだろう。「たけ」と訓する漢字は武・建とあり、これから相応しい一字を選んだ。考慮の余地なく雄略(大泊瀬幼武)であろう。
これと同質なのが讃である。讃は「誉む」を意味する。「ほむ」を訓とするのは誉・讃である。讃が応神(誉田別)であることは、武が雄略であることと同じくらい確実である。
興・済・珍は、上の二つの例とは同質ではないようにみえる。とはいっても、要はこれを基本に、いくつかの要素を付帯するだけなのであろう。
興は孔の転ではないかと思う。「孔」はあなである。あなを意味する漢字は、孔・穴である。穴の代称として孔をとり、さらに雅字を望んで興とした。安康(穴穂)である。
済もまた同様であろう。雄朝津間稚子宿禰の語根は朝津間であろう。朝津間は朝妻であり。葛城の地名であるが、このさらなる語根を「妻」としみなした。その音通の雅字は「済」である。允恭(雄朝津間稚子宿禰)のことである。
珍は前者の例か、後者のそれか。
後者とすれば、陳・賃・朕・鎮・砧・沈・椿・枕・亭・椹・狆・ 珎・碪・趁・鍖・鎭・闖・鴆などがある。
前者とすれば、珍は「うづ」にほかならない。菟道すなわち宇治の意である。菟道・宇治であれば、応神の子にして仁徳と王位を譲り合ったという菟道稚郎子が浮かぶ。
後者とすればかなり多様な可能性が考えられる。いずれにしてもこれらの課題を氷解させる手だてはいまのところない。そこですこし途を迂回して、異なる視点からふたたびこの問題に戻ってこよう。
残ったテーマ、すなわち義煕九年(四一三年)の倭の朝貢である。