第一章 斯麻宿禰β

第六節 斯摩宿禰の出自β

武内宿禰とは誰かβ

  武内宿禰についてしばらく調べてみよう。
 武内宿禰は書紀によれば考元と妃の伊香色謎との子彦太忍信の孫である。彦太忍信の子屋主忍男武雄心は、紀値の先祖菟道彦の女影媛を娶って武内宿禰を生んだ。
 古事記によれば考元と妃の伊香色謎との子比古布都押之信が、木国造の祖宇豆比古の妹山下影日売を娶って建内宿禰を生んだ。比古布都押之信からは孫でなく子である。比古布都押之信は別に尾張連の祖意富那毘の妹葛城の高千那毘売を娶って味師内宿禰を生んだという。
 菟道や宇豆は山城の宇治または内であろう。山城国には紀伊郡紀伊郷・宇治郡の宇治郷があり、綴喜郡には有智郷があった。宇治の元も綴喜郡の有智すなわち内であったかも知れない。後に葛城郡にも有智郷が出現する。  それなら紀や木は「気」の意で、実際は気長氏である。尾張並びに葛城はその字の通りであるが、太忍信の出自は仮託に違いないから、これは太忍信というある人物が、気長氏の女を娶って武内宿禰を、葛城氏の女を娶って味師内宿禰を生んだということである。
 彦太忍信が葛城氏、あえて言うなら斯摩氏であるとすれば、気長氏と縁を結んで武内宿禰を、斯摩氏の同族の女から味師内宿禰を生んだ。
 検証は後とするが、この場合葛城高千那毘売は一世代後であるかも知れない可能性がある。甘美内宿禰は武内宿禰の子であるかも知れない。
 この二人は後に応神九年(三九八年)に争う。

     <応神九年条>  四月、武内宿禰を筑紫に遣わし百姓を監察せしむ。時にその弟甘美内宿禰、兄を廃てむとして、讒言す。「武内宿禰、独り筑紫を裂きて、三韓を招いて己にしたがわしめて、遂に天下を有たむとす」と。
 武内宿禰は無実を明らかにすべく、朝廷にて探湯をしてこれに勝つ。味師内はこれを殺さず紀値らの祖に賜った。

   ここに「紀値らの祖」とあるのは、その後葛城氏に比肩して半島に関りが深かった紀氏の出自が、ことによると味師内宿禰に発する可能性を示唆する。
 二人の争う応神九年は、むろん応神の時代ではない。事実上三九八年にして仲哀七年である。仲哀がそれまでいた豊浦から立って、筑紫の儺県の橿日宮に入った年であり、ちなみにこれは大和朝廷が時に筑紫の根幹であった儺の地を治めた始めであろう。
 仲哀は足仲彦という。これを普通名詞と解してはならない。足仲彦は諱ではなく謚であり、「足」は加羅との関り、「仲」は儺之津の意であろう。儺征服王である。
 仲哀の目的は熊襲の討伐であったが、ここでいう熊襲は論理的には儺県であり実際的には新羅そのもののことに違いない。半島にともなう事象をすべて神功に帰した書紀の編者の仮託である。
 武内宿禰はつまりこの時新羅征討の前線基地にいた。  景行に仕え、成務ついで仲哀と神功にも仕えたという武内宿禰は、書紀を通じてここにはじめて半島とかかわりをもつことになる。
 文脈としてはおかしい。  この人物は、景行のとき東国に派遣されて、蝦夷の動向を探索し、成務の時代は大臣であったという。その後も応神と仁徳の治世に活躍したが、とりわけ神功が新羅征討のあと大和にはいって仲哀の遺児を討ったときは、神功の側の総指揮官であった。
 武内宿禰は書紀にも古事記にも頻繁にでてくる。しかしその登場のしかたは決して親切ではない。景行とのかかわりも、景行に代わって、紀伊に神祇を祀った武雄心の子として、理由もなく登場する。その子孫の伝承もまた不透明である。先に記した後裔氏族の祖たちも、実は一概に武内宿禰の子の世代とはいえない。
 葛城襲津彦は子の世代であり、混乱はない。襲津彦の女磐之姫は仁徳の后となっているから、磐之姫は孫の代である。
 波田八代はその女が仁徳の子履中に嫁しているから、波田は磐之姫と同じ世代で、武内宿禰にとっては孫の代である。平群木莵(都久)はその誕生の時、時を同じくして生まれた仁徳と名を交換したとあるから、これも磐之姫と同世代である。
 一方応神紀三年条に百済に派遣された将軍として、紀角・羽田・石川・平群木莵の四人が出てくるから、この四人も同世代と見ていいであろう。また応神十六年条に平群木莵と的戸田が加羅に派遣されている。的戸田は葛城襲津彦の後というから、これも上記の四人とともに同世代でろう。
 これとは別に、襲津彦には葦田宿禰という子があり、一方で干支一運を戻してここに位置する木羅斤資・荒田別・鹿我別がいる。四二〇年代である。
 すると武内宿禰後裔氏族とその関連氏族の世代はこうなる。  

  
 
                     +---葦田宿禰
                     |
    武内宿禰----+---葛城襲津彦-----+---的戸田
     |    |          |   羽田八代
     |    |           |   曽我石川
     |    |                  |  平群木莵
     |    +------------------+---紀角
          |        |
    味師内宿禰  +---(味師内宿禰)     木羅斤資
                      荒田別
                      鹿我別
                      

                                                                      言うなればこの伝承は世代を意図的に混乱させた。その理由は主として葛城襲津彦と木羅斤資の二人をして、いくつかの事績の主役にしたてたことによる。同時にその活躍年代もさかのぼった。要するに大王氏がそうしたように、この二つの氏族も自らの出自を悠久にさかのぼらせるべく編集に作為を施したのであろう。
 このことから、その後のとくに五世紀の書紀の記録はこれを理解しやすくなる。しかしこの後裔氏族をもってしても武内宿禰そのものはなんら明らかにならない。
 武内宿禰について、これ以上の考証にたる史料はない。したがってどこか別の視点でこれを見直さなければならない。武内宿禰を追求することが、斯摩宿禰にまで到達しうるのかという点は、依然として不分明である。  発想を転換しよう。
 ここに二人の人物を登場させる。
 気長宿禰王と葛城高額媛である。

  息長宿禰王β

 気長宿禰王は書紀・古事記によれば、ともに開化の曽孫である。葛城高額媛は書紀に出自がなく、古事記に新羅の王子天日矛の子孫という。
 この二人の間に息長帯比売が生まれる。古事記はほかに虚空津比売と息長日子王の二人を数える。事績はなにもない。この二人は気長足姫すなわち神功の両親としてのみここに登場する。
 気長氏は謎の氏族と言われている。確かなのは允恭の時、すでに近江坂田あるいは都祁に播拠して、允恭の后忍坂大中姫がそこから出た。その後継体もその類縁から出た。また継体の時息長真手王の女麻績郎女を妃として荳角皇女を生んだ。敏達もまた息長真手王の女広姫を立てて后とした。
 この最後の伝承はとくに混乱しているように見えるが、正しいとすれば広姫の方であり、王室においては初めての大后であった可能性が指摘されている。その敏達と広姫の子が押坂彦人大兄であり、天智・天武にとっては、その父舒明を通じて祖父にあたる。
 押坂は忍坂であり、先の允恭の大后忍坂大中姫の本拠地である。この地は一時允恭もいたと思われるから(隅田八幡画鏡)、その後代々大王家で管掌されてきた可能性もあるが、要するに気長氏の所領でありつづけた可能性もある。
 舒明が息長足広額といい、その后で舒明の没後、皇極次いで重祚して斉明となった宝皇女は、諡(おくりな)して天豊財重日足姫という。足は神功以来の半島との関りであり、舒明のそれはさらに気長氏の名を残したものである。
 朝廷の気長氏に対する扱いはその後も丁重で、天武一三年(六八四)には息長公に八草の姓の最高に位置する真人の姓をを与えている。しかし葛城氏や曽我氏のように大臣であったことはない。誄などをよくするのは、天智・天武系の大王の時代であったからで、その政治力や武力が多とされた訳ではない。強いていうなら血筋を珍重されたように見える。
 気長氏はこれをよく咀嚼しておかなければならない。
 気長氏はもともと近江ではなく山城の豪族であったと思う。その姻族としての嚆矢が、たぶん垂仁の后日葉酢媛であった。彦坐の子丹波道主王の女というが、その出自に関してこういう話がある。
 日葉酢姫が先に妃として入った時、その妹の淳葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛も後宮に入れたが、竹野媛だけは不器量を理由に里に帰された。葛野で自ら輿より落ちて死に、その地を堕国といい、後になまって弟国というとある。葛野も弟国も山城である。古事記ではこれを円野日売(真砥野媛)の話しとして、山代の相楽に至って死んだという。
 日葉酢媛とその姉妹の本居が山城であった証拠である。もっとも丹波道主の系統だけが山城にあったのではない。
 その父という彦坐は、開化と和珥氏の女との王子で、古事記によれば(書記にはない)山代の苅幡戸弁を娶り大俣王を、同族丸邇の袁祁都比売を娶って山代の大筒木王を、沙本の大闇見戸売を娶り、沙本毘古・沙本毘売を、近近江の息長水依比売を娶って道主王・水穂王を生んだという。
 その道主王の子が日葉酢媛姉妹で、山城に本拠をもち、水穂真若王は近近江の安値の祖であるという。
 この文脈はおかしなところがある。狭穂姫と日葉酢媛の関係である。後の垂仁ははじめ狭穂姫を后としたが、狭穂彦の乱で狭穂姫がその兄と燃える稲城のなかで死んだ後は、日葉酢を立てて后としたという。ところがその狭穂姫は彦坐の子で、日葉酢媛は彦坐の子丹波道主の女であったというのである。
 これを鑑みるに彦坐と丹波道主はおそらく父子でなく兄弟であろう。水穂真若もまたその弟である。
 するとここに出てくる彦坐・丹波道主・水穂真若の三人は、狭穂彦・狭穂姫のいた添下あるいは長狭、日葉酢媛のいた南山城、そして近江安の地に基盤をもつ。さらに道主王の本貫という丹波もその係累の及ぶところとすれば、これらの併せた勢威は、すなわち添・山城から近江・越・丹波に至る広域の勢力を、ほぼ一通りの系統で結びつけていることになる。
 この系統が気長氏であったと思う。
 その立場をもうすこしはっきりさせておきたい。おそらく三人とみられるこの兄弟の出自は、南山城の内(有智)あるいは宇治で、そこはたとえば奥城(瀛)と呼ばれた。「奥磯城」の意である。神武の時代、添には新城という氏族もいた。
 その祖はここでは問えないが、彦坐・丹波道主・水穂真若の三人は、時に勢威ある氏族の第二世代にあたるのであろう。考霊・考元と同世代なのである。そして垂仁の時代に、彦坐の子と丹波道主の子が王后の座を相次いで襲ったが、彦坐の子は反乱を理由に攻め滅ぼされたのである。
 この事件が日葉酢媛の登場の契機であれば、これは丹波道主がその勢威ですでに彦坐を陵駕したことを意味するであろう。もっとも彦坐が早世している可能性も考えられる。これはその被葬者らしい巨大古墳の築造時期から推測されるが、詳しくはここで述べない。
 するとここに丹波道主が山城の奥城の一族の宗家となった。この人物は古事記では「丹波比古多多須美知能宇斯」と書かれる。この「比古多多須」は要するに「彦立」ではないかと思う。そして気長と称した。奥城長である。長の称は添の長狭に由来するであろう。
 大王氏においてはその姻族(特定婚姻氏族)はまず磯城氏であった。その後は十市氏であった。この間一時期尾張氏と穂積氏があったが大勢はかわることなく、気長氏ついで葛城氏へとつながる。十市氏から気長氏へ交替していく契機は、おそらく垂仁の即位である。
 その宗家もはじめ彦坐で、垂仁の后に狭穂姫を出した。狭穂姫は皇族でかつ春日の出というが、文脈からすればむろんそうではない。彦坐の豪族としての勢威に、おそらく春日の一族が荷担したそれであり、兄狭穂彦が垂仁と王位を争ったという挿話も本筋が違っていたであろう。
 垂仁はこれを滅ぼして王位にのぼった。垂仁の和風謚、活目入彦五十狭茅の名はすなわち生駒入彦の意味であろう。生駒とは後の矢田の地で、饒速日氏(物部氏)の本拠地であった。生駒征服王である。五十狭茅の名は、添すなわち狭穂彦・狭穂姫のあった長狭の地を席捲した事績による。
 垂仁の宮城はむろん磯城にあったが、王陵は狭城盾列(佐紀楯列)に営まれた。これはとくに留意しておきたい。その後の狭城の巨大墳墓群は大和盆地北部いわゆる添の地にある。この王陵の地を管掌したのが和珥・春日氏であったとするのは適切ではない。
 これだけの規模の墳墓を築き得る豪族は、磯城氏や十市氏あるいは葛城氏に匹敵しなければならない。山城を地盤に近江・越へと触手を延ばしていた気長氏が辛うじてこれができる豪族の一に違いない。
 気長氏は垂仁の時代、磯城氏や十市氏に替わって登場し、新たな姻族としての地位を確立したのだと思う。この画期を強く注視すれば、気長氏の背景もある程度明らかに思える。
 書記の神武紀にこう書かれていることが参考になる。神武即位前記、大和平定の終わった翌年己未の年三月の記事である。  

     この時に層富県の波多丘岬に新城戸畔という者あり。また和珥坂下に居勢祝という者あり。臍見長柄丘岬に猪祝という者あり。この三処の土蜘蛛なおその勇刀を恃みて不背来庭。天皇すなわち偏帥を遣わし皆誅さしたもう。    

     臍見は穂積であろう。この文脈が山の辺を北から南へ辿っているために、長柄は大和山の辺の長柄に違いない。また和珥坂下は和珥の本貫地というべき地で、現在も変わらないが、居勢の音はことによると春日かも知れない。層富の波多の地は不祥であるが、文脈からして和珥の北すなわち添下郡のうちであろう。この記述はあきらかに北から南へと下っている。注目すべきは新城という呼称であろう。磯城の城がこの氏族の本来の姓氏であれば、新城とはその分かれに違いない。
 そもそも磯城氏は三世紀半ば以来、三輪山山麓にあって吉備と深い関りがあった。直載にいえば吉備の一族が大和に侵出して、弥生以来そこに勢力をもっていた唐古・鍵遺跡の主宰者を追って、纒向に巨大な拠点をつくったのである。三世紀の半ばの出来事であろう。銅鐸の文化を滅ぼしたのも磯城氏だと思う。
 そのために磯城氏はその発生のときから吉備との不断の交流があった。その交通は当然山の辺から山城を経て摂津・播磨を抜けていく道であった。従ってそこそこの交通の要地に磯城氏の拠点もあった。
 新城というまつろわぬ部族は、磯城氏がその弟磯城(黒速)をもって大王氏と結んだとき、これを了としない、あるいはする必要がなかった磯城氏の分流であったと思う。特に大和の北部にいた者をそう言った。当然その時、そこを越えた他の分かれも、山城から摂津にかけて存在したのであろう。気長氏は必ずしも新城氏そのものではないと思うが、一つの例にはなる。
 それが先に触れた「奥城」である。奥磯城の意であろう。書紀には「瀛(おき)」とも書かれている。気長氏のイメージが湧いてきたように思う。
 そもそも気長氏が単に南山城ついで近江坂田の豪族の一であったら、葛城氏やその後の曽我氏とわたりあって王統に繋がることは出来なかった。磯城氏は大王氏の大和に入ったその画期以来の姻族であり、そのためにその後裔は結局七世紀の天智・天武の時代まで姻族でありつづけたのに違いない。ちなみに継体はその近江坂田の気長氏の擁した大王氏から出た。
 姻族というのは、王家に独占的に后を出す特権氏族をいう。因みにこの姻族の概念にもとずけば、磯城氏や葛城氏に比肩して曽我氏が大王家の大臣として政務を管掌しつつ、その外戚となって威を張った事実も納得がいく。いわゆる中国風の外戚なのではない。王族と姻族という相互依存の思想なのである。曽我氏はすなわち稲目の時代、葛木の女を娶って馬子・堅塩媛・小姉君を生んだ。馬子の権勢も、堅塩媛と小姉君が欽明の妃となりえたのも、その母の出自が葛木氏であったからだと思う。
 さて、気長宿禰王に戻ろう。

加羅の地の伝承β

 気長宿禰王は書紀によれば開化の曽孫であり、古事記の息長宿禰王は、開化の子日子坐の子山代大筒木真若王の子伽邇米雷の子である。日子坐と大筒木の母は丸迩、伽邇米雷と息長宿禰王の母は丹波である。

 
  息長宿禰王
     |            +------息長帯比売
      |            |
      +------------+------虚空津比売
      |            |
      |            +------息長日子王 
       |            
    葛城高額比売 
 

       息長宿禰王が天之日矛の末裔である葛城高額比売を娶って、息長帯比売・虚空津比売・息長日子王を生んだ。息長帯比売はすなわち神功である。
 この伝承は山代と丹波とが輻湊するが、丹波の出という息長宿禰王の母高材比売の名は山代の地名であり、伽邇米もまたそうであり、筒木は言うまでもない。従ってこの一連の姓名はほぼ山代に限る。
 一方葛城高額比売は天之日矛が多遅摩に定着して後、その地での土着婚によって五世の孫である高額比売が生まれる。この場合葛城の名はその血筋に由来しないから、すなわち後世の謚である。
 この謚が一つの論拠であり、高額比売は必ずや葛城襲津彦とかかわるであろう。史実としての葛城の名の嚆矢は葛城襲津彦にほかならない。書紀における襲津彦と気長足姫との関連記事が、同世代のそれに見られることを加味してこれを見れば、すなわち高額比売は襲津彦の母の世代にあたるのである。
 高額比売が気長足姫の母として記録され、かつその出自が半島であったことを仮託するために、天之日矛をもちだしたのであろう。同じく息長宿禰王はその出自が山代にあったことを仮託しているのに違いない。
 してみればこれらの関係は一言で片付く。
 葛城襲津彦の父が武内宿禰であれば、比古布都押之信が木国造の祖宇豆比古の妹山下影日売を娶って武内宿禰を生んだ、という伝承がここに生きる。すなわち山下影比売は木氏ならぬ宇治(内)の息長氏であり、武内宿禰はその母の血のなかにに息長氏のそれをもっていた。
 古来、人にとっては本居(産土)の地名こそ諱であった。本名のことである。
 すべての大王の王子が、その母の地たる本居また養育された氏族の名をもって諱としたことを想えばいい。曽我馬子もまた曽我大臣でなく嶋大臣と呼ばれたのである。武内宿禰は、その本居をもって、気長宿禰とも名告ったのだと思う。その元名こそ内宿禰であった。武はむろん武威をいう美称である。
 その後武内宿禰は葛城に還って本拠とした。葛城の宇智郡は山城綴喜の内に由来するであろう。
 事態は収斂していくと思う。
 武内宿禰は気長宿禰であり、すなわち気長足姫その人の父であった。
 ささやかな傍証だが、息長宿禰王の子として、息長帯比売とともに古事記に併記される虚空津比売は、ソラツでなくカラツと訓むべきであろう。加羅津比売の意である。気長足姫の母、葛城高額比売もまた加羅城の高額比売の意であろう。
 あらためていうが、襲津彦以前においての葛城の名称は書紀と古事記を通じて、三者しかいない。葛城高額比売と古事記の開化記にいう葛城垂水宿禰、そして葛城高千那毘売である。
 葛城垂水宿禰はその子に鷲比売があり、開化とのあいだに建豊波豆羅和気を生んだ。波豆羅は弁羅(カルラ)であろう。但馬の垂水に、のちの葛城の勢力が進出していたことを示唆する。したがってこの葛城は後世からの仮託といっていい。
 葛城高千那毘売は、味師内宿禰の母である。武内宿禰の異母弟というが、ここに葛城高千那毘売というのは、前後の文脈として分かりにくい。古事記はむろん説明もしない。高千那毘売はつまりは高額比売のことかも知れない。とすれば味師内宿禰は武内宿禰の弟でなく子である。
 しかし、この二つの葛城の名を棚にあげれば、葛城高額比売と葛城襲津彦の名は、書紀と古事記のなかに唐突にあらわれる。前者がとくに唐突であり、かつ後者の葛城の姓が、「弁羅城」に由来してまたその母の出自をいうなら、この二者は必ずかかわりがあるであろう。
 息長宿禰すなわち武内宿禰はしかしいつ半島に交渉をもったのであろうか。
 先述のようにそれは応神九年すなわち仲哀七年(三九八)であった。神功が仲哀の后となって七年のときである。この時神功が二〇代前半であるとすれば、その誕生は三七〇年代でなければならない。葛城高額比売を娶ったものは三六〇年代に半島にいなければならなかった。
 武内宿禰はそのとき半島にいない。
 当然の帰結としてその時代半島で活躍した大和出身の人物は、ほかならぬ斯摩宿禰およびその亦名とみられる千熊長彦であった。
 斯摩宿禰は神功四六年(三六六)から五二年(三七二)にかけてと、またそれ以後も半島で軍事的に干渉した人物である。したがって、葛城襲津彦の葛城が「加羅城」に、すなわちその母である「加羅」姫に由来するなら、その父はその加羅姫を半島で娶った斯摩宿禰にほかならない。
 さらにいえばその斯摩宿禰の斯摩は後の葛城の地名であった。すなわち斯摩宿禰は葛城氏の祖であった。ここに同じくその祖であったと記録される武内宿禰とのかかわりもまたあきらかである。
 斯摩宿禰は武内宿禰であった。
 論理的な結論である。空論の怖れもなくはないのでこころして噛みくだいてもらいたい。
 その母の血のために息長宿禰ともいった。神功即位前年記(四〇〇)に現れる神功と葛城襲津彦は、斯摩宿禰が加羅の地から娶った女から生まれた兄妹であった。三七〇年代前半に誕生したとすれば、四〇〇年前後には二〇代後半の年齢である。神功はその九年前に仲哀の后となったから、一〇代の後半に当たる。古事記の記述のしかたからすれば、神功が姉で襲津彦が弟であったかも知れない。
 すなわち斯摩宿禰は四つの名をもつ。斯摩宿禰・千熊長彦・武内宿禰・気長宿禰がそれである。そして気長足姫と葛城襲津彦を生んだ。
 補足しなければならないことがある。
 識麻那那加比跪は斯摩宿禰ことであるという前提を、すらりと流してしまった。書紀は斯摩宿禰については「その姓を知らず」といい、千熊長彦については「百済記にいう識麻那那加比跪は蓋しこれか」といって、これを区別している。この文脈では斯摩宿禰は千熊長彦なのではないが、そもそも書紀は百済記の人名を大和のそれに当てはめることをしなかった。「蓋しこれか」という註は例外的といっていい。
 たとえば沙至比跪すら葛城襲津彦といっているわけではない。その類似を利用して、一運さかのぼらせる手だてにしているのであって、事実は襲津彦でなく幸彦すなわち玉田宿禰であった。したがって書紀は百済記の大和出自の人物は、これをその記載のままにつかうのを原則としている。識麻那那加比跪については百済記のみならず大和にも伝承があり、重要な人物としてその動向を描かなければならなかった。とりあえず和訳が必要であり、もっとも字面にあう千熊長彦を選んだ。
 つまるところここに千熊長彦として出てくる名は、書紀の編者にあって識麻那那加比跪と書いていることと同じなのであろう。本来は斯摩中彦またはせいぜい濁点をつけて斯摩長彦と訳すべきであった。
 だから筋道はこうなる。半島に突出した大和の最初の将軍は斯摩宿禰といった。しかしその後の動勢は大和の記録に薄く、もっぱら百済記を援用した。援用するにあたっては、書紀の編者の史料に忠実たるべき思想をもって、識麻那那加比跪の名でこれを一貫したのである。
 宿禰という称号もかならず後のものであろう。この時代の「宿禰」が書紀・古事記を通じて葛城もしくは武内宿禰後裔氏族に限られていることを思いだせばよい。その例外の一つが息長宿禰王であり、そのために武内宿禰との具体的な関係が問われたのである。
 宿禰は少兄(すくなえ)からきたという。しかしとくに葛城氏に後代までその名が残ることを考えれば、これは韓語の村(すく)にかかわりがあろう。村主のような意味でる。葛城の名と宿禰の名は半島由来という根をもつことにおいて、一体のものなのであろう。
 関連記事かひとつ残っている。  神功紀四七年条に神功が天神に「百済と新羅への問責を誰にするか」についての神意を問うた時、天神は「武内宿禰をして議を行わしめよ。因りて千熊長彦を以って使者とせば、當に所願の如くならん」といった。千熊長彦が斯摩宿禰であり、斯摩宿禰がいま考証を進めるとおり武内宿禰であれば、この文脈は、斯摩宿禰に半島の全権を与えたことを表明する。
 内は山城綴喜の地名といった。内臣という言葉は別の起源であろうがもともと地名との連動があったのではなかろうか。斯摩宿禰の斯摩はその父系をいい、武内は母系の出自をいう通称であり、その名は中彦または長彦といった。千熊という名の人物は存在しない。葛城の名もいまだなかった。
 ひとつ留意すべきは、葛城襲津彦がその母の血筋をもって葛城と称したのであれば、葛城の姓は襲津彦一代のもので、その後裔の一族は元の斯摩を姓としたのである。
 斯摩宿禰についての追跡はこれで終えよう。正直なところいくつかの問題をあえて迂回してここに至った感もある。大枠で有為の結論にいたったかも知れないことでひとまず満足したい。
 ここで第一章を終わるとすれば、この大和あるいは斯摩宿禰と半島とのかかわりのなかで、もうひとつ先の時代の情景が髣髴としてくる。
 気長足姫の新羅征討という伝承である。史実としての可能性が疑われている書紀のもっとも有名な伝承である。  気長足姫の話そのものは単純な古代英雄潭に過ぎない。文脈は仲哀の后として、熊襲の征伐に筑紫へ向かったが、神託があり、熊襲にかかわりおらず、黄金の国新羅を攻めよとあり、仲哀はこれを信じず神霊にうたれて死んだ。  気長足姫はこの神託を信じ、仲哀の喪を秘して熊襲を平らげ、その足で新羅を攻める。その城を落とし、新羅王を降伏させてその王子を人質にして凱旋する。
 この文脈に唯一動機が語られるとすれば、神託しかないが、むろんそうなのではない。新羅城まで攻めこむという神功のエネルギーは、前後の文脈からして常軌を逸しているようにみえる。行動に異常がみられる。だからこれに史実がふくまれるとすれば、必ずそれなりの理由がなければならない。
 黄金の国はすなわち鉄をい出す国であり、気長足姫の動機はその益権を奪取することにあったと思う。その益権はしかし時の大和の政権としては、なきに等しいか又は突出するものではなかった。大和のそれは、せいぜい九州の倭人が古来そこに参画し、それを支配し始めた部外者の後追いでしかなかった。
 だから気長足姫の行動は、これとは一線を画すであろう。ありうべき唯一の動機は、すなわちその母の血に由来した。
 斯摩宿禰が娶り、気長足姫の母となった弁辰の血筋である。気長足姫はこの血筋の故に、むろん存在する継承者として、弁辰の地における新羅の專往に対し強硬な主張ができたのである。
 それが神功の、不可解にして異常なエネルギーについての解であると思うのである。

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