神武辛酉元年β
神武紀元は紀元前六六〇年という。
唯一注視すべきは、その年が辛酉であることである。
書紀の編者が免れなかった讖緯思想における「辛酉年」は、テーマが「革命」であった。建国すなわち天地の革命であるから、編者は理論年表上の神武紀元年をさっそく隣接する辛酉年(前後どちらかの)に仮託した。
復元すべき理論年表上の神武紀元は、むろん書紀の記録の前後三〇年以内にあることになる。
次に神武紀元の絶対年代だが、数理文献学を古代史に適用する安本美典氏は、後世の諸大王の平均治世年数から神武の元年を二八〇年代と割り出している。客観的かつ蓋然性の高い数値である。
二八〇年代とすれば、書紀が原理的に仮託した辛酉年は二四一年か三〇一年かどちらかである。
然るべき推論を待たず結論を言ってしまえば、これは三〇一年である。すでに四世紀であった。
神武を「始馭天下之天皇」といい、崇神を「御肇国天皇」といい、ともにハツクニシラススメラミコトと訓む。訓みかたには異論もあるが、いずれにせよこれを同一人物として、神武は実在の崇神を過去に投影した架上の産物であろうという。ただの説ではない。今日では定説といっていい。しかしこの定説となったいくつかの根拠の最たるものはといえば、やはり古事記の没年干支であった。
古事記に記録される十五王の没年干支を、書紀と異なるためにかえって史実に近いものとみなし、かつその最古のものが崇神のそれであったという認識に立つのである。
そこから一歩進めば直ちに崇神までを実在とすることになる。神武から開化までの九代を捨象するのである。
先に述べたように古事記のこの没年干支戊寅(西紀三一八年)は、崇神がその治世を神武に仮託するために、つまりは神武の没年を指示するものであった。崇神のものではない。書紀の神武没年干支は「丙子」で適当に当てはめれば西紀三一六年であった。二年違うがこれは後にしよう。
そもそも書紀と古事記との間に根本的な編纂方法の差というものはなかった。大王紀年についても同様である。
始馭天下之天皇というのは、観念的には一系の天子の祖の意であり、実質的には、大和の国にはじめて本拠をもった大王という程の意味であった。その大和ももともとは磐余から畝傍辺りまでの狭い地域であったであろう。御肇国天皇というのは、大和の国中にして近畿の主宰者であった磯城の国にはじめて本拠を得た大王という趣旨のもので、その名も御間城入彦という謚を冠する。御間城は真城、すなわち磯城を意味する。概念的には神代にいう葦原中国をも指すであろう。
「天下」と「国」との言葉の異同に、書紀の編者の意図も含まれているかも知れない。そもそも国という言葉は、国神(地祇)を指し、要は在地の豪族の勢威のあるものをいうのである。磯城を制したことで大和の範囲はひろがり、その後大和の名は範囲をさらに拡大して奈良盆地全域をいったが、狭義の大和は依然として磯城とその周辺の地をいったと思う。倭国である。大和は後世の言葉で、「国」と「倭国」は同義であった。
大王氏の本拠地は一〇代を経て畝傍から磯城に移動した。神武はわずかな領土で王権の観念を、崇神は確たる版図で王権の実質を打ちたてたのである。
さて方法論である。
書紀の記述から神武の紀年を復元するのは、一見容易でない。ただ示唆するところがないこともない。まず即位という意味の取りかたである。
神武は辛酉の年一月、畝傍の橿原に即位したという。その後連綿とつづく王権の大和における始元であったために、どこかしら特別に扱われている。大和朝廷の始源は大和の最初の本拠地において、威風をはらいつつ始まらなければならないという観念がここにはあったに違いない。
ひるがえって、これを一人の大王の紀年としてみれば、実はこの年がかならずしも即位元年なのではない。これを即位年としても、践祚して元年とするのはかならずしも即位年ではない。後代の大王のそれについての記述からして、東征開始以前または東征開始のその年が神武元年でなければならない。神武がこれを指揮していれば、当然そうあって然るべきである。
しかしそうなっていない。
この視点からみると、東征の指揮官がはたして神武であったのかという疑問が生じる。これがこの章の最初の課題である。
候補は一人しかいない。すなわち書紀の記述に照らして、神武とその座を争うべき東征の指揮者は唯一五瀬であろう。五瀬は神武の同母兄という。
東征は、日向にあって五瀬と神武が、「何地に坐さば、平けく天下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ(古事記)」と語りあって、これを決めた。
ただし兄弟はこの二人だけではない。鵜萱草萱不合と玉依媛とのあいだには、五瀬・稲飯・三毛入野・狭野すなわち神日本磐余彦(神武)の四人があった。にもかかわらず東征の決断が、五瀬と神武の二人でなされたという伝承は、かならず後世からの付会であろう。結果として大和の制覇が神武によったためにほかならない。
しかし付会であるなら、ここにあえて五瀬が鳴り物入で登場する必要がない。その戦死が克明に語られる必要がない。修辞というものは事実があってこれを膨らますのである。神武が最初から最後まで主人公であるなら、五瀬についての記事は過剰である。つまるところこの文脈は、東征はこれを五瀬の決断に負いかつ東征の指揮者もまた五瀬であったという見解を生む。
東征の主人公を五瀬と仮定して、神武紀の前半を見てみよう。例によって干支には適当な西紀を当てはめる。神武紀年譜(非修正) ===================================================== 干支 西紀 紀年 記 事 ===================================================== 甲寅 294 | 日向出立、珍彦、宇佐、岡水門、安芸 乙卯 295 | 吉備(高島宮)、 丙辰 296 | 吉備滞在 丁巳 297 | 吉備滞在 戊午 298 | 孔舎衛戦、五瀬没、伐磯城、伐長髓彦 己未 299 | 周辺討伐、東征六年を述懐、宮建設 庚申 300 | 立妃 辛酉 301 元 | 即位、立后、橿原宮 壬戌 302 2 | 論功行賞 癸亥 303 3 | 甲子 304 4 | 高皇産霊祭祀(鳥見山) =====================================================五瀬は東征の最後の年(戊午)の一月、孔舎衛坂の戦いで負傷し紀伊に至って没した。神武はこれを龜山に葬り、その足で熊野、菟田を経て大和に侵入、その年のうちに兄磯城を伐ち饒速日を降して大和を平定した。 古事記に載らない長脛彦の討伐には疑義がある。
五瀬が指揮者であったなら、当然のことながらこの間、すなわちまだ紀伊にあって、五瀬の後を神武が襲った。践祚である。そしてその年のうちに大和平定があった。このとき、翌年の己未の年に「宮を建てはじめ」また「后を捜す」という記事があり、さらにその翌年の庚申に「媛蹈鞴五十鈴媛の立妃」があった。立后ではない。
しかし書紀の文脈では立后・立紀は同列のもので、原則としてその二年であるから、順当なみかたをすれば、この庚申の立妃年こそ即位二年であり、すなわち己未の年が即位元年でなければならない。辛酉からすると二年の前である。すなわち五瀬没年の翌年である。
五瀬を除く二人の兄のなりゆきが、この辺りの事情を示唆するらしい。五瀬の死んだすぐあと、一行は熊野をめざしたが、風雨にあって進軍を妨げられた。稲飯と三毛入野のふたりは、みずから身をなげて海を鎮め、もって一行は熊野に上陸した。
このとき、稲飯と三毛入野はこういって入水した。
「吾が租は天神、母は海神。如何ぞ我を陸に厄め、復我を海に厄むや」
「我が母及び姨は並に是海神。何為ぞ波瀾を起てて、潅溺すや」留意すべきは、このとき特に「海神の女を母とする」のになぜ我らを苦しめるのか、といっていることである。
書紀によればこの五瀬・稲飯・三毛入野の四人の兄弟は、海神の裔であり同母兄弟である。しかしながら、この系譜には明らかな疑義がある。神武の名は、神日本磐余彦・若御毛沼・豊御毛沼(古事記)・彦火火出見・狭野などがある。正式の謚はむろん神日本磐余彦であり、その他もなんらかの謚であろう。彦火火出見だけは諱であったかも知れない。
この神日本磐余彦という謚は特徴的なことがひとつあった。「神(かむ)」の名を負っているという点である。
書紀・古事記を通じて、この時代に「神」の和風謚をもつ人物は四人しかいない。神阿田鹿葦津姫・神日本磐余彦(神武)・神淳名川耳(綏靖)・神八井である。後代では辛うじて、開化記に「神大根王」というのと景行紀に「神夏磯媛」の名がみえる。
書紀の神代紀によれば、神阿田鹿葦津姫は瓊瓊杆に嫁いで火酢芹・火明・火折の三人を生んだ。このうち火折の別名を彦火火出見という。火折は海神の女豊玉姫を娶って彦波瀲武鵜草葺不合を生み、鵜草葺不合はまた姨玉依姫を娶って、五瀬以下五人を生んだ。この系統にいま深入りしない。ただ書紀にあって名称に重複のあるのは、かならずしかるべき理由がある。
神武が彦火火出見の諱をもつなら、神武は神阿田鹿葦津姫の子であろう。ついでに綏靖がまた神の謚を負っているなら、綏靖もまたその子であり、すなわち神武の同母の弟であろう。とすれば、海神の女である玉依姫媛あるいはその姉と伝える豊玉姫の子というのは、五瀬と稲飯そして三毛入野の三人であったのではないかと思う。
これをいま論理的には検証できない。一事がそれにのみに関る訳ではないから余計にできない。例えば瓊々杵の降臨という一連の挿話のなかで全体像を把握し、その上で所以を問わなければならない。ここではそう仮定して進めよう。
五瀬が没した時、つまりはその後継を互いに異母の兄弟たちで争った。そして神阿田津姫の子である神武がこれを勝ちとった。海神の裔である二人の王子の入水は、氏族が担った因習などによるのではなく、王位を巡っての紛争の結果であったと思う。
たとえばこんな系譜が想定できる。ちなみに綏靖が神武の弟王であれば、手研もまた神武の弟王にして綏靖の庶兄であろう。綏靖の同母兄という神八井については理由あって省略する。豊玉姫 玉依姫 | 五瀬 +------------稲飯 +-----------+ 三毛入野 | 瓊瓊杆 | +-----------+ | 神阿田津姫 +------------神日本磐余彦 | 神淳名川耳 吾平津媛 +------------手研耳本来あるべき火酢芹・火明・火折・彦波瀲武鵜草葺不合の四人の名は、神話的に五瀬以下の王子に仮託するのだと思う。したがってこれも省いた。
因みにこの系譜も完全なのではない。後で修正したい。
東征を開始しこれを指揮した主人公は五瀬であった。その伝承は確としてあって、書紀と古事記の編纂時に(あるいはそれ以前に)、五瀬の事績を神武に仮託した。東征の終着点である大和の制覇を成した神武を唯一の英雄としたのである。景行・成務にあった半島の事績を神功に仮託したのと同様の手法であろう。
五瀬の大王としての存在を以上のように仮定すると、その没と践祚の関係から、神武の即位にためらいは生じない。先に述べたように、辛酉の二年前の己未年である。そしてこの適切な西紀は二九九年であろう。
次の問題がある。東征開始年である。 >
東征開始甲寅年β
東征開始の甲寅年は、これもまた讖緯思想によって、「元気始動」すなわち「開始年」とされているから、これもその本来を問わなければならない。この推測はさらに困難だが、ひとつだけ方向がある。
書紀の大王の紀年は、どの大王の即位元年も、みずからのそれであることはない。数代前の大王の元年に仮託する。するとそれがない神武紀はいわゆる王朝の創始者として特異であったのであろうか。そうではないと思う。神武紀もまた五瀬という前王に仮託しているのではないかという疑いがある。
己未の年の三月、平定を終えた神武は、「皇都を恢き廓めて、大壮を規りつくるべし」と令をくだしたが、これにあたって、「東征よりここに六年になる」と述懐している。わざわざ六年と記述することに留意したい。
この六年前はむろん甲寅年であるから、文脈上矛盾はない。しかしこれをして、書紀に慣例である前王の五瀬に仮託すれば、神武の大和平定の年は五瀬の吉備平定の年である。事実は単なる侵入であろう。
侵入すら穏当でなければ、進出といってもいい。平定はもとより吉備侵入という記事すら書紀にはない。古事記にもない。滞在というばかりである。しかしながらここでの問題はその微妙な差異にあるのではない。要するに当初に企図した、東征して平らげるべき目的地なのである。
これは「なお東に行かむ」といって発ったという古事記の記述が正確だろうと思う。書紀は「饒速日が降った地こそ、国の中心」であろうといって大和をめざしているが、これは無理がある。饒速日の存在は日向にあって知ることができたとは思われない。仮に知識があったとして、最終目的がそこに絞られた筈はない。
吉備進出と滞在の記事は、やはり侵入を目的とするものであったと思う。そして失敗した。あるいは戦闘を試みて敗れた。また準備をしているうちに気が変わった。
吉備での滞在が書紀で三年、古事記で八年というのも、そこに定住を試みた結果であったであろう。大和の詳細な情報は、これを滞在中の吉備で得たものである。
これに関係して珍彦の話がある。亦名を椎根津彦、古事記では槁根津日子ともいう。珍彦は書紀・古事記とも速吸之門で神武の軍に帰順し、その後の進軍を先導したという。しかしこの記事は書紀と古事記では場所が違う。速吸之門は地理的にいって、書紀では豊予海峡とみられ、古事記では明石海峡とみられる。珍彦はのちに功績を認められて倭国造となったというが、その帰順の所以は、書紀にも「海導者」と書かれる案内人であった。
珍彦を一人とみる必要はない。大和侵入にあたって吉備滞在のあいだに、この水軍を味方にひきいれた。先導ができるという意味はすなわち大和の地を周知していたためである。珍彦は宇豆彦(姓氏録)であり、宇豆は書紀にあっても普通、「宇治」に通ずる。正確には「内」かも知れない。
倭名抄には山城宇治郡とともに相楽郡有智郷がある。論証はあとにして、とりあえず山城の宇治または内にゆかりをもった人物とみたい。
とすれば珍彦が帰順した速吸之門は、古事記のいう明石海峡でなければならない。明石はその西播磨を通じて吉備に近接する。武光誠氏によれば、三世紀後半のこの時代に、大和の王畿たる磯城国は、山城から摂津・播磨を通じ吉備国と深い関りがあった。そもそもかって吉備のそこに進出したものという。
珍彦はおなじ磯城・吉備の類縁のなかで、神武の一族に関心をもった異端者であった。その水軍の本拠が速吸之門にあった。後ちの倭国造という論功行賞もこれにふさわしい。後世、書紀において倭国といわれたのは、磯城郡の版図とした地にほかならない。
ちなみに旧事本紀国造本紀は椎根津彦を、倭国造としかつ明石国造ともする。
速吸之門の所在が古事記のいう明石海峡であれば、書紀のいう豊予海峡が疑問である。大和でなく吉備を目指すにあたって、そこでも先導人を得たという、別の伝承があったのではないかと思う。豊予海峡における海導人は、菟狭国造の祖という菟狭津彦だったかも知れない。混乱のもとは、もともと二つの伝承を一つに集約してしまった齟齬によるのであろう。
もとへ戻ろう。こうした議論が成りたつなら、そもそも東征は二段階あった。吉備侵入と大和侵入のふたつである。してみると己未年(二九九)の「東征より六年」という述懐も、大和でなく吉備到着の直後のことと見ることができる。例えば大和の場合と同じく到着の一年後である。そしてそれが六年である東征開始の年は辛亥(二九一)になる。
強引な議論をしているが、むろん理由がある。そもそも甲寅年は辛酉年とセットで設定されているように思えるし、神武元年と同様、甲寅年に替る東征の開始年はぜひともこれを仮定しておかなければならない。書紀にあっては、神武紀とその後のいわゆる欠史八代の大王紀年は、これをやはり前王に仮託してるために、復元するには必須のプロセスであるからである。
結論から議論を帰納しているように感じたら、正解といっておこう。係年についてはつねにシミュレーションをしている。合致するものから逆の過程を辿ってもいる。諒解されたい。
ともあれ、五瀬紀の即位元年を辛亥年(二九一)すなわち東征開始年と仮定して、この時代(五瀬・神武)の紀年を書き改めてみよう。五瀬紀・神武紀・綏靖紀年譜(修正) ===================================================== 干支 西紀 紀年 記 事 ===================================================== 辛亥 291 1 | 五瀬元年・日向出立 壬子 292 2 | 癸丑 293 3 | 甲寅 294 4 | 乙卯 295 5 | 吉備進入 丙辰 296 6 | 吉備滞在 丁巳 297 7 | 吉備滞在 戊午 298 8 | 出立・大和侵入 五瀬没 神武践祚 己未 299 9 | 1 神武元年(綏靖元年) 庚申 300 10 | 2 立妃 辛酉 301 11 | 3 壬戌 302 12 | 高皇産霊 4 神武没 (神八井没) 癸亥 303 13 | 5 手研立 甲子 304 14 | 6 乙丑 305 15 | 7 手研没 丙寅 306 16 | 8 綏靖元年 丁卯 307 17 | 9 戊辰 308 18 | 10 己巳 309 19 | 11 庚午 310 20 | 12 =====================================================今一度いう。神武の即位元年は己未年(二九九)である。
神武の没年ならびに、綏靖と手研耳についてはとりあえず先行してここに入れてしまった。 この五瀬から神武および綏靖即位に至る「五瀬紀・神武紀・綏靖紀年譜」を説明するにあたっては、引き続いて綏靖紀を検討したい。
手研耳弑逆と綏靖践祚β
神武紀が五瀬紀に拠っているように、綏靖紀もより明瞭に神武紀からできていると思う。書紀・古事記にあって兄弟または同世代(従兄弟)の大王はそうあって然るべきであった。
とりあえず綏靖紀は書紀にしたがって要約すれば、下記のようになる。修正神武紀と併記する。神武紀・綏靖紀年譜(非修正) ===================================================== 干支 西紀 紀年 記 事 (修正紀年 記事) ===================================================== 己未 299 | 1 | 神武即位 庚申 300 | 2 | 立妃 辛酉 301 1 | 神武即位 3 | 壬戌 302 2 | 立后 4 | 高皇産霊 癸亥 303 3 | 5 | 甲子 304 4 | 高皇産霊 6 | 乙丑 305 5 | 7 | 丙寅 306 6 | 8 | 丁卯 307 7 | 9 | 戊辰 308 8 | 10 | 己巳 309 9 | 11 | 庚午 310 10 | 12 | 辛未 311 11 | 13 | 壬申 312 12 | 14 | 癸酉 313 13 | 15 | 甲戌 314 14 | 16 | 神武没 乙亥 315 15 | 17 | 丙子 316 16 | 神武没 18 | 丁丑 317 17 | 19 | 手研弑逆 戊寅 318 18 | 20 | 綏靖即位 己卯 319 19 | 手研弑逆 21 | 庚辰 320 20 1| 綏靖即位 22 | 辛巳 321 21 2| 23 | 神八井没 壬午 322 22 3| 24 | 癸未 323 23 4| 神八井没 25 | 甲申 324 24 5| 26 | =====================================================この書紀の綏靖即位前記は、係年の上からは極めて特異な記述であった。
神武は治世七六年に没し、綏靖がその年に手研を弑して践祚し、翌年を元年としたとある。文脈になんら乱れはない。それなのに、その余の係年にはあきらかな誤謬がある。
すなわち書紀の神武没年が辛酉年(三〇一)の七六年(事実上一六年)であるために、その没年は当然丙子年(三一六)になる。一方綏靖紀は綏靖の即位元年太歳を庚辰年(三二〇)とする。その前年は己卯年(三一九)であるが、この時神武が没して山稜をつくったともいう。したがって神武紀のいう神武没年七六年(丙子)と、綏靖紀が神武没という綏靖即位前記年(己卯)との間には、明白に三年の差異がある。即位年までは四年である。
記述の整合性をあえて踏みにじって、こうした矛盾を残したのは、むろん意図的なものであろう。
手研耳が即位してこの間の三年を治世したのを指示する筈である。
とりあえず神武元年が記録上の辛酉年より二年遡るとして、これを先の年譜に併記した。しかし単純な復元は意味をなさない。意味のあるのは記録における三年の矛盾だけであって、本来の係年は別のところにある。事実としての神武没年である。
神武元年は分かっている。その没年はどこにあるであろうか。
先程のように、五瀬紀が神武紀でできていて、綏靖紀もまた神武紀からできていると仮定すれば、このあたりの係年が詳らかになる。綏靖紀の神八井の記事が意味をもつ。
書紀・古事記に神八井として出てくるのは「神」の名をもつことからして、ほかでもない神武のことであると思う。綏靖四年条にこの神八井の陵葬記事があり、綏靖元年が神武元年から始まっているとすれば、これは神武の没年を示唆するであろう。
注意すべきは、この年が神武紀にある鳥見山中の記事と同じく四年条であることである。すなわち神武紀四年条の「高皇産霊を鳥見山中に祀る」という記事は、後の斎宮記事に似る。とすればこれは神武の没にともなう、おそらく手研の践祚儀礼の象徴ではないかと思う。
すなわち神武四年条と綏靖四年条のこの記事は、結局同一事項にほかならない。逆に同一事項と認められるから、綏靖紀は神武紀から成るのだともいえる。
すると神武は神武紀四年に没した。思いのほかの早世であった。壬戌年(三〇二)である。
改めて書紀の文脈に準拠すれば、この神武没年の壬戌年(三〇二)が綏靖即位前記年(践祚年)、翌癸亥年(三〇三)が綏靖即位元年に当たるが、事実はそこからさらに手研耳の治世四年が加わるべきであった。従って綏靖の践祚年は、論理的にも乙丑年(三〇五)、即位元年は丙寅年(三〇六)でなければならない。
綏靖は丙寅年(三〇六)に即位した。
事実上の神武没年から綏靖即位前記年までは三年、即位元年までは四年になる。
以外の記事が実際の綏靖紀である。ほとんど即位前記のそれしかない。綏靖立太子没年(綏靖二六)も没年(綏靖三三)も、神武紀による後代の大王のそれを仮託するであろう。
復元した紀年をまとめてみよう。実神武紀・実綏靖紀年譜(修正) ===================================================== 干支 西紀 紀年 記 事 ===================================================== 戊午 298 | 出立・大和侵入 五瀬没 神武践祚 己未 299 元 | (神武即位) 庚申 300 2 | 五十鈴姫立妃 辛酉 301 3 | 橿原宮即位、五十鈴姫立后 壬戌 302 4 | 高皇産霊(兄神八井を陵葬) ----------------------------------------------------- 癸亥 303 5 | 甲子 304 6 | 乙丑 305 7 | 76年3月神武没、11月手研を弑 丙寅 306 8 | 元 綏靖即位、葛城高丘宮 丁卯 307 9 | 2 五十鈴依姫を立后 戊辰 308 10 | 3 己巳 309 11 | 4 兄神八井を陵葬 ----------------------------------------------------- | 25 磯城津彦玉手看を立太子 | 33 綏靖没 =====================================================さてその綏靖即位前記は、すでに述べてきたように、綏靖の手研耳弑逆記事であった。この記事の内容もかなり複雑怪奇である。
手研耳の挿話は書紀・古事記に若干の相違があるが、神武の没後、神武の后であった媛蹈鞴五十鈴媛を娶って朝政をみ、その後神武と五十鈴媛の王子である綏靖が、これを弑逆して王位を継いだという。
この話はいくつかの客観的要素をもつ。
いわゆる嫂婚的な話と弑逆による王位の纂奪、そして記述上は異母兄弟だが、母后である女からする文脈からは、その関係が実際は叔父甥の争いらしいことである。五十鈴媛はわが子の危機を憂えていた。ハムレットと同じである。
一人または姉妹の女を共に娶ろうという王ないし王子は、書紀でも古事記でも要は父子でなく兄弟であった。事実がそうなのではない。書紀・古事記の編者がそうみなした。手研耳の母が吾平津媛というなら、吾平津媛は神阿田津姫の姉妹であり、手研耳は神武の異母弟であろう。神武と同母であった綏靖からは異母兄すなわち庶兄であった。年齢は神武・手研耳・綏靖の順であろう。
綏靖の年齢が手研耳より稚いのは、書紀に「庶兄手研耳命、行年己長いて、久しく朝機を歴たり。故亦、事を委にて親らせしむ」とあるからで、年齢的にも綏靖に先だって手研耳が神武を後継したことを示唆する。
結果として手研耳の即位を、記述上あえて無視した書紀の編者の意図は、綏靖の血統ならびに特筆すべき事績の大王たる評価であったと思う。その見解が綏靖の正統性を主張し、異母兄であった手研の即位を否定するのであろう。
まとめると、これら一連の綏靖即位前記の話は、嫂婚と弑逆については綏靖紀にふさわしい。もう一つの要素である叔父甥らしい関係は異質である。綏靖は異母弟であって甥ではない。したがってこれは兄弟を父子に昇華した書紀・古事記の文脈上の仮託であって、他意はないともみることができる。しかしそうではないであろう。古事記の記述ならびに文脈がこれに反する。
そもそも嫂婚の記事は古事記にあるのだが、古事記はこれをこう書く。故、天皇崩りまして後、その庶兄當藝志美美命、その嫡后伊須気余理比売を娶せし時、その三はしらの弟を殺さむとして謀る間に、その御祖伊須気余理比売、患ひ苦しみて、歌をもちてその御子等に知らしめたまひき。歌ひたまひけらく『狭井河よ、雲立ちわたり畝傍山。木の葉騒ぎぬ、風吹かむとす』とうたひたまひき。
また歌ひたまひけらく『畝傍山、晝は雲とゐ、夕されば、風吹かむとぞ、木の葉騒げる』とうたひたまひき。 ここにその御子聞き知りて驚きて、すなわち當藝志美美を殺さむとす。これは嫡后にして正系の王子の生母でる女の、夫に害されそうなわが子に対する訴求と悲嘆である。王子からみる義父との関係は、すなわち叔父甥のそれである。むろん綏靖に対するものではない。仮に異母弟の綏靖を子に仮託したとして、神武ついで手研耳の后妃であった女が、綏靖に肉親の感情をもつことは不明瞭である。
これを創作とみなすことはできない。こうした伝承が残るのはそれなりの理由がなければならない。
結局この挿話の骨子は、手研なる人物が兄神武の后なる五十鈴姫を娶って朝政を司り、その後神武と五十鈴姫の間の王子に弑されるという文脈である。五十鈴媛だけが本来のもので、その他の主人公は、まったく異なる人物の物語でなければならないと思う。
綏靖以降の大王の時代にあって、ある王子が、その母と王位を父たる前王の王弟に奪われ、これを弑して立ったという史実がここに託されているであろう。
綏靖以降にこの弟王に比定されるところは誰であろうか。安寧だと思う。
その弟王を弑してみずから立ったのは愨徳であろう。その母はむろん神武の嫡后である媛蹈鞴五十鈴媛であった。
磯城津彦玉手看β
綏靖の後を継いだのは安寧である。
そもそも大王氏の創始期における一〇代の系譜は、少なくともその過半が父子でなく兄弟である。したがってひとりひとりの大王の明瞭な関係はただ王位の継承順であるしかない。したがって神武と綏靖が同母兄弟であれば、綏靖と安寧の関係はどうであったろうか。この順を追うことが次のステップになる。
安寧が記述通りに綏靖の王子であったかどうかという問題は、書紀・古事記ではとくに示唆的ではない。ただ神武から崇神に至る一〇代の大王の直系父子系譜のなかで、唯一子が王位を継いだという記録が三例ある。安寧と考昭と考霊である。いずれもこの逆は真ではないが、この時代に唯一子という例は、不自然ではないが特殊ではあった。書紀の編者がそうしたのである。
この点については鳥越憲三郎氏が有意義な指摘している。通常は複数の王子のうち、第一子が祭祀権を第二子が治世権を継承したのではないかという。それが正しいかどうかは分からないが、書紀・古事記の編者がそうした記述上の意図をもっていた可能性もある。つまり唯一子たる三王は弟王であった蓋然性を考えるということである。
この場合は、安寧は綏靖の弟王にして、大王氏第一世代の末弟である。どうであろうか。
安寧の和風謚は磯城津彦玉手看という。玉手看の名おそらく諱は「玉」を冠すること以外は、穂穂出見(火火出見)という諱をもつ神武に近い。「見」が要するに耳とおなじであれば、綏靖(神淳名川耳)や手研耳にも近い。
一方で磯城津彦の名は二つの可能性がある。書紀のその後の文脈からして、その母の血筋のために磯城の地に由緒をもったか、あるいは王者として磯城出自の妃をもち以って磯城の地に特別な威を張ったか、そのどちらかであろう。玉手看という諱らしい名をもつところからすると、後者のほうが可能性が高い。
安寧はしかし、その名に「神」の謚をもたないことからいって、神阿田津姫の子ではない。五瀬の母豊玉姫または玉依姫か、手研の母吾平津媛かということになれば、五瀬の同母弟は神武が立つときに滅びていると思われるから、これは後者とみられるが、これも必ずしもそうではなかった。
後に述べるように安寧の紀年は五瀬に仮託されている。これをおしなべて援用すれば、安寧は海神の母をもちかつ熊野で生き残った五瀬の記録されない弟王ということになる。
さて話をこの後に進めるにあたっては、この辺つまり神武から安寧次いで欠史八代を含み崇神に至るべき大王の紀年譜が必要である。それにあたって、どんな手法で記述されたかという問題もある。係年のみならずこれに相対する系譜も重要である。
具体的に安寧の子孫系譜から、これをみてみよう。
系譜の造作β
安寧は書紀・古事記によれば次のような子孫をもつ。安寧 (磯城津彦玉手看)---+--息石耳 *常根津日子伊呂泥 | | | | +-----------+--愨徳(大日本彦耜友) | | | | 淳名底仲媛 +--磯城津彦---和知都美---蝿某姉 蝿某弟まず愨徳はこの場合なんら関係がない。安寧自身も綏靖の王子ではない。兄弟を父子とすることで系譜をつなぐ書紀・古事記の文脈のなかでは、この父子関係は直系的な血縁すら要しない。ひたすら王代の順を指示するだけである。偶然記述のまま父子関係であることがある。後代になるほどその確率はたかくなる。
安寧の第三子に磯城津彦がいる。この磯城津彦はむろん重複する。重複は基本的に削除すればいいが、削除のしかたは簡単ではない。のちに神代紀はこの小論の帰納するところとして、数柱を削除しなければならないが、安寧の系譜でもそれとおなじことが起こる。
すなわちここでの問題は安寧が磯城津彦の名をもつことであって、そもそもその名は神武紀に別途に出現する。「十有一月の癸亥朔己巳に皇帥大挙して磯城彦を攻めむとす。先づ使者を遣わして兄磯城を徴さしむ。兄磯城命を承けず」
したがって書紀の記述にあって「彦」の尊称はかならずしも大王氏に限るのではない。書紀には当然ながら大王氏と大王氏にかかわる系譜はこれをよく記録した。のちに滅びまた姻族である家系のそれはあくまであらわれてこない。しかしその子孫並びに後裔に大王氏にかかわる人物がいる場合はどうなるであろう。その系を大王氏に仮託して封じるのである。
磯城津彦は磯城の首長が自らここに繋がっているのだと思う。むろんこの場合安寧の子は存在せず、まず大日本彦耜友(愨徳)は神武の正系の子とみられ、安寧の子としたのは先のように単に王位の順番を指示しているに過ぎない。
つぎに息石耳は「磯城津耳」のような意味であろう。「息」はのちの気長(息長)を髣髴とさせる。しかし書紀も一書で捕捉し古事記もいう息石耳の別名らしい「常根津日子伊呂泥」はこの系譜の本来が何であったかを語る。
すなわち常根津日子伊呂泥は「根津日子」と「伊呂泥」の分けられる。伊呂泥は、紐(紐_当字蝿某姉と蝿某弟の「某弟」と同じ意味で、同母兄弟姉妹をいう。したがってこの系譜はこの三人が兄弟姉妹であることを示唆する。磯城彦の子である。ちなみにこの蝿某姉と蝿某弟の姉妹は、のちに考霊の妃になり、倭迹迹日百襲姫・彦五十狭芹(大吉備津彦)・若建吉備津日子を生む。
つまるところ磯城津彦玉手看(安寧)はその子に仮託して磯城の首長磯城津彦をつないでいるのであって、安寧自身の後裔はこれをもたなかった。あるいは大王位にかかわらなかったために記録されなかった。
つまり安寧の名は本来的に「玉手看」であって磯城津彦の謚は、おそらく磯城津彦の女すなわち磯城氏の正系を娶ったためにこういうのであろう。大王氏の記述に磯城氏の系譜を記述する必然はないから、磯城氏にかかわる氏族が都合よくここに系をつなぎ、もってこの磯城氏の出自を仮託したのであろう。
復元するにあたっては、世代もまた一代を補正しなければならない。神武 綏靖 | 安寧(磯城津彦玉手看) 磯城津彦-----------和知都美-------常根津日子伊呂泥 蝿某姉 蝿某弟 考霊 考元この和知都美なる人物についてはここでは触れない。古事記は「淡路の宮に坐」という。次章のテーマであり、検証に多大な準備がいる。
書紀・古事記のこうした系譜についての操作の方法は、結局そう複雑なものでもない。歴史にかかわった画期の大王氏以外の氏族をその系譜ともども取りこんでいるのである。この点では大氏族の祖として氏姓録などで皇別に分類されるそれは、かなりの確率で王統へ仮託しているのではないかと思う。書紀の編者としてはこれを利用して氏族の本来の出自を示唆することができた。
この時代で似たような系譜の仮託は、たとえば神八井の後裔という多氏がある。多氏は飫富・大・太ともいい、古事記の編者太朝臣安萬侶は七世紀の太氏の長者であった。また考安の同母兄という天足彦国押人は和珥氏の祖という。これらもまた単純に作為というべきものではない。それぞれ確固とした理由があるであろう。
ちなみに綏靖の兄神八井、愨徳の弟磯城津彦、考安の兄天足彦国押人がそれぞれ地祇氏族の仮託であれば、先の唯一子は、綏靖・安寧・愨徳・考昭・考安・考霊の六王を数えることになる。この六王はいずれも弟王である可能性がある。愨徳のみ表記上は息石耳を別にもつために、これと同列ではないかも知れない。
大王紀年譜の復元は、こうした削除を前提に考えればある程度まで可能である。紀年のひきのばしという基本命題のもとで、この実現の手段として数代前の大王紀年を当王のものとした。これで全体的にひきのばしができるが、これにみあうように兄弟を父子として、さらに適切たるべき係年をつないだ。
このとき起こることは、むろん容易に想像ができる。一人一人の大王の系譜上の位置が、数代にわたって移動することである。しかし三代以上にわたってひきのばされては、父子兄弟の関係とそれぞれ関係する后妃などの系譜もはなはだ複雑化するであろう。
書紀・古事記はここにあえて一書という手法を用いた。
たとえばその時代に関る王家以外の氏族の、しかも同一人物の名を若干の変更を加えて、王代のあちこちにばらまいたりした。
一書による数多くの后妃の記載もそのためであると思う。複数の伝承を記録したのではない。
ちなみに綏靖紀即位前記の手研耳の挿話は綏靖紀であるとともに、その一部は愨徳紀のものであるといった。愨徳は前章にみたように特殊月即位であり、他の大王と異なって、元年二月四日に即位している。この特殊性は書紀において、おおまかに祚年改元元年を意味する。祚年元年の理由は先王の譲位ないし弑逆による。だから愨徳は安寧を弑してみずから王位についた。綏靖紀にある記事の五十鈴媛に関る挿話は、愨徳の即位前記であり、すなわち愨徳紀は欠史なのではない。
神武紀にもこれに類したものがあって、神武三一年条の「腋上の丘の国見」とその地を「秋津州」と呼んだいう記事がある。これも神武でなく、その地にはじめて威をはった第六代の考安であったと思う。これは考安の母がその地の出自なのであり、その父たる大王も考昭ではない。
すなわち神武三一年というこの記事は考安元年にあたる。考安は、高尾張あるいは鴨また葛城の地と接触したとみられる綏靖の子とみられ、その母(綏靖の后)は、襲あるいは足の名をもつその土地の出身であった。考安二年条に「秋津洲宮」をたてたとあるのは、この地の制覇ないしその本居をもってする間接的な領有を意味するかも知れない。斯摩(州)征服王である。「国見」にも本来そうした意味があった。
東征の主人公は五瀬であった。
その兄弟は同母・異母を含めて多く、稲飯・三毛入野・神武・手研耳・綏靖・安寧があった。五瀬の死後、神武がこれを襲って大和に侵入し橿原に都したが、神武が治世四年で没すると手研耳・綏靖・安寧がその後を順に継いだ。 これらの大王の係年譜の復元の前に、もう一つ検証しておくことがある。書紀・古事記のなかから父子を兄弟に還元する示唆を、その漢風謚と和風謚からある程度推定しておきたい。治世の多寡はそれとも関係する。
謚と父子兄弟β
神武から崇神にいたる謚は以下のとおりである。======================================================= 神武 神日本磐余彦(かむやまといわれひこ) 綏靖 神淳名川耳(かむぬなかわみみ) 安寧 磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ) 愨徳 大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも) 考昭 観松彦香殖稲(みまつひこかえしね) 考安 日本足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと) 考霊 大日本根子彦太瓊(おおやまとねこひこふとに) 考元 大日本根子彦国牽(おおやまとねこひこくにくる) 開化 稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおおひひ) 崇神 御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ) =======================================================これをまず和風謚から簡単に整理すれば、
神武・綏靖にのみ神の名がつく 神武・愨徳・考安にのみ日本がつく 考霊・考元・開化にのみ日本根子がつく 綏靖にのみ淳名川がつく 考安にのみ足がつく 安寧・考昭・崇神に磯城の名称がかかわる以上だが、この整理自体予断がはいってはいる。日本は大和ないし倭のことであるが、この言葉がかならずしも正嫡の王をいうのではない。日本とつく神武と愨徳そして考安は、神武の時代の磐余から畝傍にいたる版図をもった王であるに過ぎない。あとでさらに検証することになるが、日本根子の名は、のちの磯城郡一帯の広範な領土をいったと思う。
これにくらべて安寧と考昭はそれぞれ磯城津彦・御真津彦である。この二人が大王であったとして、正系のものとみなされなかった可能性があろう。ちなみに考安の「足(たらし)」の冠名は、むろんこの王がのちの葛城の地にかかわりをもったからである。後世からの尊称にすぎない。
しかしながら謚というのはいずれも後世からのそれである。崇神のそれは「入」を負うためにそれ以前の王とは決定的に違う。この名は磯城征服王を意味するであろう。それが大本では同母(いろ)に由来するとしても、結果としての意味には変わりがない。
綏靖の淳名川はさらに異質である。この特異さは、そもそも地名によらないように見えるために余計感じるのだが、結局のところは地名に由来するのであろう。この説明は次節のテーマである。
ちなみにこれだけのことでも、最低限一対の父子関係だけはわかる。すなわち特徴的な謚である考霊・考元・開化の日本根子である。うち開化の稚日本根子は前二王と差異がある。大でなく稚である点である。この差異は景行(大足彦)と成務(稚足彦)との違いと関連がある。成務が正しく景行の王子であると思われるために、開化はかならず考元の王子であろう。
兄弟関係もある程度は推測できる。「大日本根子」という著しい一致が考霊と考元にあることである。したがってそう議論の余地なく、考元は考霊と兄弟であろう。
漢風謚はさらに単純かも知れない。特異な点は主として一点のみである。考昭・考安・考霊・考元の四王に「考」がつく 安寧は後の清寧とおなじく系の断絶を示唆する 綏靖の名だけ目立った特異性をもつこのシンプルな整理に意味があるのは、単純にこの考昭・考安・考霊・考元の四王が綏靖を父とする兄弟ではないかと思うからである。この検証は母后の血筋を検めなければならないが、ここではこれを仮定するとして、神武から崇神にいたる一〇代の父子兄弟関係が一応推測できる。
先に済ませた、綏靖・安寧そして考昭・考安・考霊・考元などが弟王である蓋然性もこれに反しない。
綏靖の名は綏撫を意味するかも知れない。この場合は安寧と対になって、神武が侵略した大和を太平に治世したというような意味であろう。綏靖はまた青龍を企図するかも知れない。白虎に対する青龍である。小林恵子氏によれば天智は陰陽にいう白虎、天武は青龍であったという。因みに神武の謚は始馭天下之天皇、綏靖のそれは神淳名川耳天皇といい、天智は天命開別天皇、天武は天淳中原瀛眞人天皇という。綏靖はこれを天武が仮託したかも知れない。
とりあえず仮であるが、次のようになる。神武------------愨徳 | | +------考昭 | | 綏靖-----+------考安 | | | +------考霊 | | 安寧 +------考元---+----開化 | +----崇神さて以上を事前の準備として、神武から崇神に至る一〇代の係年を復元したい。その発する源は、むろん五瀬辛亥(二九一)元年と神武己未(二九九)元年にある。
大王一〇代の紀年譜β
前章に使った方法を順守したいから、まず基本的な大王没年を「有為」で一覧する。大王即位・没年(有為) =========================================================== | 書紀 | 古事記 ----------------------------------------------------------- 大王 | 即位西暦 | 係年 干支西暦 | 干支西暦 | 修正西暦 | 元年 | 没年 没年 | 没年 | 没年 =========================================================== 神武 | 辛酉 301 | 76 丙子 316 |* | 戊寅 318 綏靖 | | | | 安寧 | | | | 愨徳 | | | | 考昭 | 丙寅 306 | 83 戊子 328 |* | 考安 | 己丑 329 | 102 庚午 370 | | 考霊 | | | | 考元 | | | | 開化 | | | | 乙卯 355 崇神 | | | 戊寅 318 | 壬戌 362 垂仁 | 壬辰 332 | 99 庚午 370 |* | 景行 | 辛未 371 | | | 成務 | | | 乙卯 355 | 甲午 394 仲哀 | | | 壬戌 362 | 神功 | | 69 己丑 389 | | 丁卯 427 応神 | 庚寅 390 | 41 庚午 430 |* 甲午 394 | 壬申 432 仁徳 | 癸酉 433 | | 丁卯 427 | 丁丑 437 履中 | | | 壬申 432 | 反正 | | | 丁丑 437 | 允恭 | | | 甲午 454 | 甲午 454 安康 | | 3 丙申 456 | | 雄略 | 丁酉 457 | 23 己未 479 |* 己巳 489 | 己巳 489 ===========================================================第一章では、この表をもとに、雄略の治世二三年は木梨元年丁酉(四五七)から雄略没年己未(四七九)であり、応神の治世四一年は、成務元年庚寅(三九〇)から応神没年庚午(四三〇)であるといった。
次いで垂仁の治世三九年は考霊元年壬辰(三三二)から垂仁没年庚午(三七〇)らしく、あとひとつ考昭の治世二三(八三)年は綏靖元年からはじまりそうだといった。
適当な係年を想定するのに、雄略紀と応神紀を教科書として、これを按分したのである。考霊元年はその後の経過に従おう。
垂仁紀は事実上実考霊紀とみられた。垂仁の譲位年が三八年であり、その同じ年を景行が践祚元年とした。したがって垂仁の治世は実考霊紀三八年(三七一)を没年(譲位年)とする治世三八年であった。考霊元年は甲午年(三三四)となる。
書紀が事実上考霊元年としたであろう垂仁元年壬辰(三三二)とは、二年違うことに留意したい。それでもこの差異は係年の復元という大局からすれば過小である。
考昭の元年から治世二三年の記述は、他の影響を受けていない。独自の「有為」である。これは考昭が綏靖に仮託したために、綏靖の元年丙寅(三〇六)を直ちに指示し、考昭の没年戊子(三二八)を確定しているものである。考昭のこの「有為」な係年は、いみじくも綏靖紀から推定した綏靖元年丙寅(三〇六)を傍証するものである。
この傍証に近いものは考霊紀にもある。考霊紀は没年をその治世一六(七六)年といい、立太子没年を三七年という。この一六年はともかく三七年は壬寅(三四二)とみられ、事実上の考霊没年であろう。考昭の場合と同じである。その元年もまた丙寅(三〇六)になる。
考霊もまた綏靖に仮託したのであり、考霊元年もまた考昭の仮託した綏靖元年丙寅にほかならない。
このことは考霊紀も考昭紀もその元年を綏靖紀から発し、自らの没年を指示していることを意味する。要するに雄略と応神の手法と同じなのである。考昭と考霊が綏靖の子であると思う理由も同様である。
ここで最低限、元年と没年に関する垂仁の治世、考霊の治世、考昭の治世そして綏靖の即位元年が明瞭になった訳である。先の五瀬・神武の即位元年の仮定と併せて、ここに以降の大王氏の係年譜を復元する基礎資料ができた。大王即位・没年(修正・仮定) =========================================================== | 書紀 | 古事記 ----------------------------------------------------------- 大王 | 即位西暦 | 係年 干支西暦 | 干支西暦 | 修正西暦 | 元年 | 没年 没年 | 没年 | 没年 =========================================================== 五瀬 | 辛亥 291 | | | 神武 | 辛酉 301 | 76 丙子 316 |* | 戊寅 318 綏靖 | 丙寅 306 | | | 安寧 | | | | 愨徳 | | | | 考昭 | 丙寅 306 | 83 戊子 328 |* | 考安 | 己丑 329 | 102 庚午 370 | | 考霊 | 甲午 334 | | | 考元 | | | | 開化 | | | | 乙卯 355 崇神 | | | 戊寅 318 | 壬戌 362 垂仁 | 壬辰 332 | 38 辛未 371 |* | ===========================================================これから一〇代の大王の没年・立太子没年を整理する。この整理は前章でも試みたように、そう複雑ではない。ただその大王紀年がどの前王に仮託されているのかという、一種の想定問答である。とりあえずその結果を表示するが、想像がつくように、この解は筆者が妥当と思う時点でまとめたものである。
細部における解は、筆者のそれ以外にもいくつかありそうであるし、結果に至るプロセスはこれをよく説明できない。白状すれば有為の結果を得るために、幾度ものシミュレーションを行なった結果である。ちなみにこうしたシミュレーションは、表計算プログラムがいかにも便利である。係年は式にしておいて大王元年をひたすらずらせていけばいい。
それでも法則というものがあろう。雄略と応神の係年はこの設定にあたって決定的に有用であった。大王一〇代の没年・立太子没年 ===================================================== 大王 没 年 立太子 修 正 修 正 立 后 前 王 没 年 大 王 没 年 陵 葬 ===================================================== 神武 | 16(76) 43 | 五瀬16 五瀬43 | | 綏靖 | 33 26 | 神武33 神武26 | | 安寧 | 38 12 | 五瀬38 五瀬12 | | 愨徳 | 34 23 | 神武34 神武23 | | ----------------------------------------------------- 考昭 | 23(83) 9(69)| 綏靖23 綏靖9 | 29 | 考安 | 42(102) 17(77)| 考安42 考安17 | 26 | 38 考霊 | 16(76) 37 | 綏靖16 綏靖37 | | 考元 | 57 23 | 考安57 考安23 | 7 | 6 ----------------------------------------------------- 開化 | 60 29 | 崇神0 崇神29 | 6 | 5 崇神 | 8(68) 49 | 崇神8 崇神49 | | 垂仁 | 39 38 | 考霊39 考霊38 | | 景行 | 60 52 | 考霊60 考霊52 | | =====================================================これは木梨から雄略までの四王の紀年を木梨紀で記述し、成務から応神に至る四王の紀年を成務紀でカバーしたのと同様の手法である。ここでは神武から景行までの一二王の係年を復元するに、五瀬紀・神武紀・綏靖紀・考安紀・崇神紀の五王のそれしか使っていない。この該当する大王治世は、詳細には次のようになる。
================================================= 記載没年 | 立太子没年 ------------------------------------------------- 大王 修 正 修 正 | 修 正 大 王 没 年 | 大 王 没 年 ================================================= 神武 | 五瀬16 綏靖没 | 五瀬43 考安没 綏靖 | 辛酉神武33 考安没 | 神武26 愨徳没 安寧 | 五瀬38 考昭没 | 五瀬12 神武没 愨徳 | *神武34 考安没 | 神武23 安寧没 ------------------------------------------------- 考昭 | 綏靖23 考昭没 | 綏靖9 綏靖没 考安 | *考安42 垂仁没 | 考安17 考元没 考霊 | 綏靖16 安寧没 | 綏靖37 考霊没 考元 | 考安57 倭建没 | 考安23 開化没 ------------------------------------------------- 開化 | 崇神0 開化没 | 崇神29 倭建没 崇神 | *崇神8 崇神没 | 崇神49 仲哀没 垂仁 | *考霊39 垂仁没 | 考霊38 垂仁没 景行 | 考霊60 成務没 | 考霊52 倭建没 ------------------------------------------------- 成務 | 応神0 成務没 | 応神49 仁徳没 =================================================成務紀がここに突然登場するのに特に他意はない。
たまたま書紀において成務紀が景行治世に含まれる不思議のためである。古事記はちゃんと分けている。景行没年は事実上神功紀六九年(三八九)であり、ここには載ってこない。
没年・立太子没年だけをとりあげている。
このときは、四王ごとに二王の紀年が通っていることに注意を促したい。雄略紀は雄略紀年と安康紀年が並行した。応神紀は応神紀年と神功紀年が並行した。
また神武紀には、特別に辛酉神武紀年を「綏靖没年」指示の一ヶ所だけ援用した。そうしなければ説明できないからに過ぎないが、一ヶ所のみ辛酉元年紀年があるのも、ある意味で必然的かも知れない。
この表で係年の一年だけ合わないものには「*」を付した。これも理由がある。書紀の編者のなんらかの見解がもれてきているのだと思う。時代の旧い順からいえば、神武三四年(考安没年)・崇神八年(崇神没年)・考安四二年(垂仁没年)・考霊三九年(垂仁没年)が事実上の没年と一年合致しない。
このうち考霊三九年(垂仁没年)は立太子没年である考霊三八年が必ず正しく、その年景行が践祚し即位元年とした。一章の神功紀を見れば分かる。祚年元年すなわち景行紀二〇年(実崇神紀二〇年)である。西紀三七一年。
この時「年号を替える」といい「倭姫に付けて五百野姫を斎宮とした」という記事があるから、景行は垂仁の譲位あるいは纂奪によって王位を得たのであり、垂仁は没していない。その没年が翌三九年なのであろう。したがって垂仁紀の三九年(九九年)没という記事は合理的なそれである。
以外の神武紀・考安紀・崇神紀の係年はそれとは別である。別であるが、この考霊三九年没の影響を受けたと思う。
事実が三八年立太子没年であっても、書紀の記述は三九年であったから、この特殊性が西紀三七一年を考霊三九年とする記録を生んだ。この場合立太子没年は西紀三七〇年になる。治世は原則としてこれを変えないから、その即位が一年さかのぼることになる。
崇神没年が事実上七年であるのに八年というのは、景行紀の前半が崇神紀からできていて、これを一年繰りさげたからであろう。
考安紀による垂仁没年の指示がその四二年(西紀三七〇年)となったのもこの理由である。
さらに神武紀による考安没年すなわち考霊即位前記を指示するものがその三四年(西紀三三二年)であるのも、このためであったと思う。
事実上の考霊即位前記は三五年(西紀三三三年)、元年は三六年(西紀三三四年)である。垂仁紀の伝承の確定には異同がなかったが、表記にはいかほどか建前があったのである。
通紀で表にすれば次のようになる。大王一〇代通紀年譜(修正) ===================================================== 干支 西紀 紀年 即 位・治 世 ===================================================== 己 酉 289 庚 戌 290 五瀬 辛 亥 291 1 壬 子 292 2 癸 丑 293 3 甲 寅 294 4 乙 卯 295 5 丙 辰 296 6 丁 巳 297 7 戊 午 298 8 神武 己 未 299 9 1 庚 申 300 10 2 辛 酉 301 11 3 壬 戌 302 12 * 4 五瀬12・神武没(鳥見山記事) 癸 亥 303 13 5 (手研即位) 甲 子 304 14 6 乙 丑 305 15 7 綏靖 丙 寅 306 16 * 8 1 五瀬16・手研弑逆 綏靖即位 丁 卯 307 17 9 2 戊 辰 308 18 10 3 己 巳 309 19 11 4 庚 午 310 20 12 5 辛 未 311 21 13 6 壬 申 312 22 14 7 癸 酉 313 23 15 8 甲 戌 314 24 16 9 * 安寧 綏靖9・綏靖没 乙 亥 315 25 17 10 1 丙 子 316 26 18 11 2 丁 丑 317 27 19 12 3 戊 寅 318 28 20 13 4 己 卯 319 29 21 14 5 庚 辰 320 30 22 15 6 愨徳 辛 巳 321 31 23 * 16 * 7 1 神武23・綏靖16 壬 午 322 32 24 17 8 2 癸 未 323 33 25 18 9 3 甲 申 324 34 26 * 19 10 4 考昭 神武26 乙 酉 325 35 27 20 11 5 1 丙 戌 326 36 28 21 12 6 2 丁 亥 327 37 29 22 13 7 3 戊 子 328 38 * 30 23 * 五瀬38・綏靖23 考安 己 丑 329 39 31 24 15 9 5 1 庚 寅 330 40 32 25 16 10 6 2 辛 卯 331 41 33 26 17 11 7 3 壬 辰 332 42 34(*) 27 18 12 8 4 癸 巳 333 43 * 35 28 五瀬43・辛酉神武33 5 考霊 甲 午 334 44 36 29 6 1 乙 未 335 45 37 30 7 2 丙 申 336 38 31 8 3 丁 酉 337 39 32 9 4 戊 戌 338 40 33 10 5 己 亥 339 41 34 11 6 庚 子 340 42 35 12 7 辛 丑 341 43 36 13 8 壬 寅 342 考元 37 * 綏靖37考霊没 14 9 癸 卯 343 1 15 10 甲 辰 344 2 16 11 乙 巳 345 3 開化 考安17・考元没 17 * 12 丙 午 346 4 1 18 13 丁 未 347 5 2 19 14 戊 申 348 6 3 20 15 己 酉 349 7 4 21 16 庚 戌 350 8 5 22 17 辛 亥 351 9 6 崇神 考安23・崇神0 23 * 18 壬 子 352 10 7 1 24 19 癸 丑 353 11 8 2 25 20 甲 寅 354 12 9 3 21 乙 卯 355 13 10 4 22 丙 辰 356 14 11 5 23 丁 巳 357 15 12 6 24 戊 午 358 16 13 7 崇神8崇神没 垂仁 己 未 359 17 14 8(*) 1 庚 申 360 18 15 9 2 辛 酉 361 19 16 10 3 =====================================================大王氏第一世代の紀年β
改めて説明すると、五瀬の元年は辛亥(二九一)、神武はその没の戊午(二九八)に践祚し、翌年の己未(二九九)を即位元年とした。この元年はその更に翌年に、五十鈴姫を妃としたとあるから、事実上の立后はこの年で、その前年すなわち己未年がこの点でも元年になる。
神武は治世四年で没し、手研が践祚する。翌年元年。その四年後(たぶんその年手研弑逆のため)綏靖が践祚元年即位して、治世九年を経る。その後安寧が治世七年を経て、神武の子愨徳がこれを弑して、祚年元年とする。愨徳は二月という特殊月即位であった。以下は次節で述べることだが、とりあえず仮定もふくんで話をすすめる。
この後、愨徳は治世四年で没し、綏靖の子とみられる考昭・考安・考霊が王位をつづける。考昭・考安はともに治世四年、考霊は治世九年であった。
とりあえず五瀬・神武・綏靖・安寧を第一世代と仮定し、愨徳・考昭・考安・考霊(以下考元まで)を第二世代とし、第二世代の王子たちが、神武元年(二九九)から四年すなわち神武治世のあいだに生まれているとする。
このとき愨徳の即位時の年齢は一八歳から二二歳。考昭の即位時の年齢は二三歳から二七歳。考安のそれは二六歳から三〇歳ということになる。
考昭以下が綏靖治世の三〇六年から三一四年の九年間の、たとえば四年間のあいだに生まれていれば、考昭の即位時の年齢は一八歳から二四歳、考安のそれは二二歳から二八歳となる。考霊の即位年齢は、綏靖の治世の間に生まれているかぎりにおいて、二〇歳から二八歳の間にある。考元の即位年齢は遅れて、たとえば二七歳から三五歳の間にある。
数えの一八歳は、今日の皇室典範とおなじく古代においても王位の継承をよくする年齢であったと思う。
それぞれの当王の仮託するのがその兄または父であるとすれば、先の通り各大王の世代ごとの王代紀年は以下のようになった。
実紀年紀という表記をつかう。世 代 記載紀年 復元紀年 ======================================== 第一世代 | 神武紀 | 実五瀬紀 | 綏靖紀 | 実神武紀 | 安寧紀 | 実五瀬紀 ---------------------------------------- 第二世代 | 愨徳紀 | 実神武紀 | 考昭紀 | 実綏靖紀 | 考安紀 | 実考安紀 | 考霊紀 | 実綏靖紀 | 考元紀 | 実考安紀 ---------------------------------------- 第三世代 | 開化紀 | 実崇神紀 | 崇神紀 | 実崇神紀 ========================================考安紀と考元紀が考安紀から成りかつ考安のオリジナルであるのは、作為的なものではないであろう。系譜上で仮託しきれなくなったか、あるいは統一的な手法を順守するためであったかも知れない。
ただ考安紀が独立しているのは、本来の伝承に比して、この葛城の大王を飾りたかったためもあるかも知れない。 この大王紀年の治世を世代別にまとめると以下のようになる。世代治世 大 王 治 世 ================================================== 第1世代 | 神武・綏靖・安寧 | 22年 第2世代 | 愨徳・考昭・考安・考霊・考元 | 25年 第3世代 | 開化・崇神・垂仁 | 26年 ==================================================この時代の一世代の治世としては順当なところであろうと思う。書紀の編者が所持していた係年表もこれに近いものであったと思う。もし作為があったとすれば、考昭と考安の二王の即位の有無であろう。存在を否定する必要はないが、兄弟・従兄弟あわせて五人の順番継承というのは、少し多すぎる気がする。
説明していないことがひとつある。考昭・考安・考元・開化の四王にのみ記載される特殊立后・特殊陵葬記事のことである。
蛇足であるが書紀においてとくにこれが記録されたのには、それなりの理由があったであろう。たとえば複雑な係年の保証のためとかする理由である。
全体一覧のうち、特殊立后・特殊陵葬を付帯する。立后が二年、陵葬が当王没年であるもの、すなわち異常がないものはすべて割愛する。
特殊立后と特殊前王陵葬β
特殊立后・特殊前王陵葬とみられる特異な点は、以下のとおり考昭・考安・考元・開化の四王にある。===================================================== 大王 没年 立太子 修正 修正 立后 前王 没年 大王 没年 陵葬 ===================================================== 考昭 | 23(83) 9(69) 綏靖23 綏靖9 29 考安 | 42(102) 17(77) 考安42 考安17 26 38 考霊 | 16(76) 37 綏靖16 綏靖37 考元 | 57 23 考安57 考安23 7 6 開化 | 60 29 崇神0 崇神29 6 5 =====================================================特徴的なことというのは、考昭紀に立后二九年、考安紀に前王陵葬三八年・立后二六年、そして考元紀に前王陵葬六年・立后七年、開化紀に前王陵葬五年・立后六年とあることである。以外の立后は原則二年であるから、これらは特別な記事といっていい。
わざわざこの種の記事を挿入したのには、むろん然るべき理由があったであろう。書紀の編者が、後世の復元を予期したかも知れないと思わせる一端でもある。
ただしこの記事の係年は先の仮託大王紀年のままではない。考安紀の前王陵葬三八年だけは、五瀬紀によるとみられ、五瀬三八年はすなわち西紀三二八年(考昭没年)である。
その余は考昭元年が前王没二年後という特殊年即位であることが全体に影響しているようにみえる。すなわち特殊年即位は、一年をさかのぼって復元しなければならない。また陵葬の翌年はもともと元年でなく、前王没年とみられる。したがって立后(二年)の前年ではない。二年前である。これも同時に復元されるべきであろう。総じて考昭紀・考安紀はいわば自前の係年をここに記録する。考元紀はそもそも前述のように考安紀でできているため、ここにも考安のそれを仮託するのであろう。
葛城に勢威をもったこの二王に対する思い入れをみるような気がする。============================================ 考昭紀 | 立后29(神武28西紀326・考昭立后) | 考安紀 | 前王陵葬38(五瀬38西紀328・考昭没) | 立后26 (綏靖25西紀330・考安立后) | 考元紀 | 前王陵葬6 (愨徳4西紀324・愨徳没) | 立后7 (愨徳6西紀326・考昭立后) | 開化紀 | 前王陵葬5 (考元3西紀354・考元没) | 立后6 (考元5西紀357・開化立后) ============================================このなかで開化紀だけは異質である。
なによりその王代係年か以外の王のように考昭・考安に仮託するのではない。開化紀はもともと次王の崇神紀によるのである。にもかかわらず開化紀のこの係年は考元に仮託する。考元が開化の父王であることを指示するのであろう。もっとも書紀・古事記にあってもその父王は考元だから、ここでは考元の係年を改めて指示しているかのようである。
さて総まとめをしよう。
かくして神武紀一六年(七六年から一部六〇年を抹消)没の記事は、普遍的に神武没年と伝えられながら、結局神武の没年ではない。五瀬紀による手研耳の没年である。
また神武の立太子没年となる四三年も五瀬紀四三年で、これは考霊没年を指す。神武と安寧は五瀬紀、綏靖と愨徳は神武紀から出きていて、それぞれ綏靖没年、安寧没年、愨徳没年、考安没年、考霊没年を指示する。
しかし結果としては、書紀も古事記もこの神武没年なるものを、神武に仮託した綏靖の没年で指示する意図が、別途にあったのではないかと思う。
この場合についていえば、書紀の正式な見解はあくまで甲戌年(三一四)であった。表記上では神武一六(七六)年丙子(三一六)である。
古事記では戊寅年(三一八)である。崇神のそれに仮託されている。
神武一六年は事実上五瀬一六年であるから、この議論はどこにも進みようがない。しかし別途の係年計算もまたしたかも知れない。すなわち書紀の丙子年(三一六)は、神武の即位元年を二年降ろして辛酉年にした時に、並行して降りたとみなすこともできる。こういう判じ物を立てるのも、書紀の編者の単なる嗜好によったかも知れない。
古事記の戊寅年(三一八)は、同じく綏靖没年を神武に仮託した後、書紀にもある手研耳の治世らしき不明の四年をそこからさらに降ろしたためであろうか。よく分からないが、治世年にこだわりがあったらしい古事記にあっては、そういう趣旨に該当しそうな気がする。
古事記の方がシンプルで事実に近いなら、そもそも手研耳の四年の治世が、神武たる綏靖の治世に加算されるべきという編纂方針が先にあったのである。すると既に設定された綏靖没甲戌年(三一四)に、さらに手研耳の治世を加算したことになる。事実は二重になった。
安寧の没は愨徳紀(事実上神武紀)二三年すなわち西紀三二一年である。ただし愨徳は前章で述べたように、特殊月即位(二月)であり、これは他の例と同じく祚年即位元年にあたると思う。したがって安寧没年が愨徳元年である。 ひとつおもしろいのは、この西紀三二一年こそほかでもない神功紀(第一期)が、事実上即位元年とする年であることである。記述上は西紀二〇一年。二運一二〇年をくりあげると三二一年になる。神功紀はむろんこれを太歳としている。判じ物の一例であろう。
前章のように神功の太歳記事は三ヶ所あった。摂政元年(三二一)、卑彌呼の魏朝貢の年景初三年(二三九、事実上三五九)、そして没年(三六九)である。三五九年が垂仁の即位元年の仮託であれば、摂政元年が愨徳の即位元年であることは、書紀の編者にあって当然のことであったらしい。
考霊が三三四年を即位元年とすることは、書紀の編者の指示としてきわめて確実なことである。
垂仁紀は考霊紀から出きていて、垂仁はその二五年に倭姫を斎宮としている。したがってその二六年が垂仁元年であり、神功の摂政三九年(三五九)太歳の相当する。垂仁没はその三八年すなわち西紀三七一年であり、これは祚年即位の景行元年でもある。垂仁紀は他の例に似ず、治世を通じて考霊紀そのものを援用している。
以上で大王治世係年の検証を終えよう。
このさきに、これら一〇代の大王が事実上どういう経過で即位し、何を事績としてのこしたのかをたずねなければならない。欠史とよばれる大王にしても、その語ることは実は少なくない。
なによりその母后の血が、これらの王の出自と事績をあきらかにするであろう。
ちなみに書紀は考霊からその子孫の記載が多く詳細になる。考元はその即位と没年を考安紀から援用されているが、治世はわずか三年である。開化は考元の子で同じく考元の子とみられる崇神の兄である。二人の母がともに穂積の出自であることからそう認めていい。たぶん崇神の業績がすぐれて他を圧したために、開化の係年は崇神のそれを援用するのであろう。
一方で神武から考安までは書紀の一書などの記載が多い。考えるまでもなくこれらがもともと兄弟であり、それを父子としたとき、それぞれに伝承された后妃の記載は輻輳したであろう。
一書はそのためにあったと指摘した。