母后の血筋β
あらためていうが、大王氏にとってその継承の正統性は、もっぱら母の血によった。このことがすべての前提にあり、そのために寿命が少なく治世の短い時代にあっては、必然的に兄弟継承がよくおこなわれた。
兄弟継承をそれ自体でひとつの文化また因習とすべきではない。母の血の優劣を競うことにかけては、同母弟の地位はすでにはるかに高いものであった。
したがってこの大王氏の母后の血筋の重視という根源的な手法は、神武が姻族という概念をもって大和に入った、その王権の思想そのものにほかならない。姻族の血こそ王位継承の第一の条件であったと思う。
さて神武から崇神にいたる后妃の系譜をみてみよう。
これにあたって、綏靖から開化にいたる八代の大王は、欠史すなわち事績の記録を欠き、そのために実在が疑われてきた。しかし何度ものべるように、書紀の編者が今日の史家もしくは社史編纂者とおなじ感性をもつとすれば(もっていたに違いない)、そもそも軽々しく王統の架上を試みる筈がない。
この八代は欠史なのではなく、先述のように二、三の王は有力な前後の大王の事績に集約され、多くの大王が実は父子でなく兄弟であり、その分治世が極めて短期間であって、記録すべきことが少なかった。そのためである。
しかしそれが問題なのではない。われわれが知りたいのは因果あるいは動機そして事件であり、いわば歴史の本質である。それもまた一に大王の母の血から解きあかされる筈である。
まず書紀と古事記から、その記述する大王系譜をみていこう。綏靖から崇神に至る系譜は、書紀と古事記とで若干異なる。書紀をベースとしてこれを一覧してみよう。つまり書紀の記載を主とし、古事記は注(*)の表記でこれをまとめる。
書紀・古事記の母后からみる大王系譜 ======================================================== 母:五十鈴姫 *比売多多良伊須気余理比売 神武------神淳名川耳(綏靖) 母:五十鈴依姫 *川俣比売 綏靖------磯城津彦玉手看(安寧) 母:淳名底仲媛 安寧------息石耳 *常根津日子伊呂泥 彦耜友(愨徳) 磯城津彦----------□--蝿某姉 蝿某弟 母:天豊津媛(息石耳女) 愨徳------観松彦香殖稲(考昭) *多芸志比古 母:世襲足媛 考昭------天足彦国押人 日本足彦国押人(考安) 母:押媛 考安------根子彦太瓊(考霊) *大吉備諸進 母:細媛 考霊+-----根子彦国牽(考元) | | 母:倭国香媛(蝿某姉) | *意富夜痲登玖邇阿禮比売 +-----倭迹迹日百襲姫 | *日子刺肩別 | 彦五十狭芹(吉備津彦) | 倭迹迹稚屋姫 *倭飛羽矢若屋比売 | | 母:倭国香弟(蝿某弟)*蠅伊呂杼 +-----彦狭島 *日子寤間 | 稚武彦 *若建吉備津日子 | | 母:*春日千千早眞若比売 +-----*千千早比売 母:欝色謎 考元+-----大彦 | 根子彦大日日(開化) | 倭迹迹姫 *少名日子建猪心 | | 母:伊香色謎 +-----彦太忍信 | | 母:河内青玉繋女埴安媛 +-----武埴安彦 母:伊香色謎 開化+-----御間城入彦五十瓊殖(崇神)*御眞木 | *御眞津比売 | | 母:丹波竹野媛 +------彦湯産隅 | | 母:和珥祖妣津妹妣津媛 *意祁都比売 +-----彦坐 | | 母:*葛城垂水宿禰女鷲比売 +-----*建豊波豆羅和気 =========================================================この欠史八代を復元するのは、先に紀年の特定ができているとすれば、ほとんど単一の処置作業でいい。
母の血にともなう系統をいくつかに分類して整理することである。そしておそらくはこの八代を通じて、わずかに磐余から畝傍までを本貫としたこの王家が、しだいに膨張し、大和一国の主になっていく過程を辿ることになるであろう。
ひとつづつ片付けていこう。系統の整理は、書紀と古事記の后妃をして、后妃の立場と同時にその王子にとっては母后であったという視点をみることである。これがどういう意味をもつのかという点については、前章にも指摘した通りだが、若干の補足をしておこう。
そもそも大王位は、大王の子であることは前提であって、とりあえずさしたる意味はない。次なる大王の正統性は、つまるところその母の血の重みにあった。その重みは他の王子との競争に耐え、なおかつ次王につなげる強さでもあった。
書紀の編者がその係年のひきのばしを試みたとき、当然仮構しなければならなかったのは、兄弟王を父子王とすることであった。このときこれも当然のことながら、それぞれの大王の后妃と母后が混乱し輻輳する。実際的には複数の后妃と母后が一代の王に出現するのである。
書紀の編者はこれをなるべく穏当な手段できりぬけた。すなわち大王の出自に関して、その父王はこれを無視して、母后をとりわけきちんと指示することで後世に示唆して然るべく残したのである。
われわれはだから、書紀・古事記の系譜をひたすら母の血筋を主たる項目として、これを見なければならない。
后妃一覧の復元β
これを「修辞」と「本来の伝承」という二つの要素をもとに、取捨選択してみよう。
修辞というのはほぼ五つのタイプがあるのではないかと思う。
一は「妹」なる語である。
事実とは関係なく后妃を前王の后妃の妹というのは、おそらくその二王が兄弟であることを示唆するのだと思う。同様にこの表に頻繁にある「葉江女」なる語も、それを記す大王が兄弟であることを示唆すると思う。愨徳から考霊に及ぶそれはその指示のためにだけあって、それ自体に意味はないであろう。
二は「女」なる語である。
世代を輻輳せざるを得なかった書紀の編者にとっては、女は多くの場合妹なのであろうと思う。大王が兄弟であっても父子としたのと同じ文脈である。
三は「女」の父たる名称である。
書紀の磯城県主太真稚彦女飯日媛は、古事記では師木県主祖賦登麻和訶比売である。これは妹としたための修辞で、太真稚彦という人物はいない。あくまで太真稚媛があったのであろう。
四は派生語である。
一見して大間宿禰と大目とは同一の名称と思われる。大日諸も同様である。またそれらの女という糸織媛・糸井媛・細媛も同列にある表示なのであろう。要は世代を階層化するにあたって、もとの語から派生させたように思える。
五は亦名の表記である。
亦名はその諱的な出自と謚的な事績をいう場合に必須のものであり、賦登麻和訶比売(亦名飯日比売)という表記ではまにあわないことがあったであろう。また階層化を試みたときにあえて分けてこれを記載したことがあったかも知れない。この例は豊秋狭太媛女大井媛である。賦登麻和訶のことであろう。
この五つのタイプを頭に入れて事前にこれを整理すると、次のような表を得る。
書紀・古事記の后妃系譜(修正2) ========================================================= 書 紀 本 文 ・一書・その他 | 古 事 記 ========================================================= 神武 | | | 事代主女 | | | 大物主女 媛蹈鞴五十 | | | 比売多多良 鈴媛 | | | 伊須気余理 | | | 比売 | | | 綏靖 | | | 磯城県主女 | | 春日県主大 | 師木県主祖 川派媛 | | 日諸女糸織 | 河俣毘売 | | 媛 | 媛 | | | 尾張連遠祖 | | 倭国豊秋狭 | 尾張連祖奥 瀛津世襲妹 | | 太媛女大井 | 津余曾妹余 世襲足媛 | | 媛 | 曾多本毘売 | | | 安寧 | | | 事代主孫鴨 | | 大間宿禰女 | 師木県主波 王女淳名底 | | 糸井媛 | 延女阿久斗 仲媛(淳名 | | | 比売 襲媛) | | | | | | 愨徳 | | | 息石耳女天 | | 磯城県主太 | 師木県主祖 豊津媛(姪) | | 真稚彦女飯 | 賦登麻和訶 | | 日媛 | 比売(飯日 | | | 比売) | | | 考霊 | | | 磯城県主大 | 春日千乳早 | 十市県主等 | 十市県主祖 目女細媛 | 山香媛 | 祖女真舌媛 | 大目女細比 | | | 売 蝿某姉(倭 | | | 意富夜麻登 国香) | | | 玖邇阿禮比 | | | 売 | | | 蝿某弟 | | | 蠅伊呂杼 | | | 考元 | | | 穂積欝色謎 | | | 穂積内色許 | | | 売 | | | 伊香色謎 | | | 伊迦賀色許 | | | 天足彦国押 | | 十市県主五 | (姪) 人女押媛 | | 十坂彦女五 | 忍鹿比売 (姪) | | 十坂媛 | ===========================================================タイプ別の想定をしながら、各項目をさらに整理しよう。
まず神武の后は媛蹈鞴五十鈴媛(富登多多良伊須須岐比売・比売多多良伊須気依理比売)であり、七媛女の長女でその母を玉櫛媛(勢夜陀多良比売)といい摂津三島の溝杙(溝咋)の女である。
父は書紀では事代主神だが古事記では大物主神で、これは古事記に正鵠がある。大物主神は磯城の首長にほかならない。このいわば正系の母から生まれたのが愨徳であろう。
この表には出ないがその富登多多良伊須岐比売・比売多多良伊須気余理比売は手研耳の后妃となった。即位は伝えられないが事実上、手研耳が神武の嫡后とともにその後を襲ったのであろう。ただその后妃は富登多多良伊須岐比売でなく比売多多良伊須気余理比売とのみ伝える。
綏靖の后は五十鈴媛の妹五十鈴依媛という。書紀本文の記述であるが、これは文脈からして綏靖が神武と同世代であることを示唆するためであろう。富登多多良伊須岐比売・比売多多良伊須気余理比売を娶ったのではなかった。
一書で川派媛といっていて、古事記も師木県主祖河俣毘売というから、このほうが正しいと思う。古事記が県主祖というのは、つまりは師木県主の異母妹にあたるために違いない。川派媛(河俣毘売)の川派は河内国若江郡川俣郷をい。磯城の首長と河内川俣の豪族の女の間に生まれた女である。
綏靖の后はつまり、神武のそれとはおなじ磯城氏でも母の出自が違っていた。したがってその子も正系とはみられなかった可能性がある。考昭(観松彦香殖稲)である。
次に同じく綏靖の后妃という春日県主大日諸は、安寧后の大間宿禰さらに考霊后という磯城県主(十市県主)大目と類似の名前をもつ。同一人物であろう。後に検証するが偽書として名高い十市氏系図ではこの複数の人物の世代系譜を遺している。
古事記で師木県主波延(葉江)女阿久斗比売こそ、事実上の安寧の后とみられる。
これが古事記にしか出現しないのは留意すべきであろう。しかも阿久斗の名は特徴的であり、同じ欄の磯城県主女川津媛とはあきらかに異なる。
同じく安寧后という事代主の子鴨王の女、淳名底仲津媛(淳名襲媛)は、一見考昭の后妃磯城県主女淳名城津媛と類似するが、後者は別の連動があってここでは同一視できない。「淳名城」の名は、神淳名川耳という綏靖に関りがあるであろう。しかし「淳名底・淳名襲」の「底・襲」の名はこれとは別に、「常」なり「根」なりに関係すると思う。この淳名底仲津媛(淳名襲媛)だけはあと回しにしたい。
愨徳の后である磯城県主女太真稚媛(飯日媛)は、古事記に師木県主祖賦登麻和訶比売(飯日比売)という。これも古事記が正確であろう。女系の名あるいは地名に由来する名は直接子に伝わる倣いであるから、「太瓊」という考霊の諱はこれに因るかも知れない。
すると賦登麻和訶は綏靖の后妃で考霊を生んだ。豊秋狭太媛女大井媛も類似であろう。
豊秋狭はなんらかの美称で大井は飯日の転かも知れない。賦登麻和訶は愨徳の后妃としてあらわれるが、むろん考霊の母后で、考安に仮託した綏靖の后妃にでる豊秋狭太媛女が、大日諸女とおなじく綏靖の父王たる立場を指示するであろう。
考昭の后尾張連遠祖瀛津世襲の妹世襲足媛は、古事記でも尾張連祖奥津余曾の妹余曾多本毘売という。父を綏靖とする考安の母であろう。
この「瀛」の名称にも注意がいる。大王氏の姻族がまず磯城氏であったとすれば、ここにいきなり尾張氏の后妃が出てくるのは首尾一貫しない。考安が王位を継がなかった可能性をみるか、もしくはこの尾張氏の瀛津世襲の出自が磯城氏もしくは磯城氏の流れかも知れない可能性をみたい。瀛すなわち奥城(奥磯城)である。
以上の結果を今一度まとめてみよう。
十市県主系図には十市県主等祖女真舌媛は倭真舌媛とあり、蝿某弟のことだとしている。とりあえずこれを了としたい。すると春日千乳早山香媛も倭国香と同一人物であろうと思う。
書紀・古事記の后妃系譜(修正3・最終) ========================================================= 書 紀 | 古 事 記 | 書紀一書・その他 ========================================================= 神武 | | | 事代主女 | 大物主女 | |(子・愨徳) 媛蹈鞴五十 | 比売多多良 | | 鈴媛 | 伊須気余理 | | | 比売 | | | | | 綏靖 | | | 磯城県主女 | 師木県主祖 | 事代主少女 |(子・考昭) 川派媛 | 河俣毘売 | 五十鈴依媛 | | | | | | | 尾張連遠祖 | 尾張連祖奥 | |(子・考安) 瀛津世襲妹 | 津余曾妹余 | | 世襲足媛 | 曾多本毘売 | | | | | 磯城県主太 | 師木県主祖 | 倭国豊秋狭 |(子・考霊) 真稚彦女飯 | 賦登麻和訶 | 太媛女大井 | 日媛 | 比売(飯日 | 媛 | | 比売) | | | | | 磯城県主大 | 十市県主祖 | 春日県主大 | 大間宿禰女 目女細媛 | 大目女細比 | 日諸女糸織 | 糸井媛 | 売 | 媛 |(子・考元) | | | 安寧 | | | | 師木県主波 | 事代主孫鴨 | | 延女阿久斗 | 王女淳名底 | | 比売 | 仲媛(淳名 | | | 襲媛) | | | | 愨徳 | | | | | 息石耳女天 | | | 豊津媛(姪) | | | | | | | | | | 考霊 | | | 蝿某姉 | 意富夜麻登 | 春日千乳早 | (倭国香) | 玖邇阿禮比 | 山香媛 | | 売 | | | | | 蝿某弟 | 蠅伊呂杼 | 十市県主等 | | | 祖女真舌媛 | | | | 考元 | | | 欝色謎 | 内色許売 | | | | | 伊香色謎 | 伊迦賀色許 | | | | | 天足彦国押 | (姪) | 十市県主五 | 人女押媛 | 忍鹿比売 | 十坂彦女五 | (姪) | | 十坂媛 | ===========================================================これによれば神武は富登多多良伊須岐比売・比売多多良伊須気余理比売との間に愨徳一人を生んだ。
綏靖は四人の后妃から四人の大王を生した。おおまかに古事記の表記が正確とみられる。
問題点がいくつかある。
大目あるいは大目女細媛が磯城県主と十市県主と二つの見解がある。十市真舌媛が倭真舌媛なら十市と倭の関係も問題である。春日山香がまた倭国香なら、春日とそれらの関係も問題である。いま整理はできない。
また安寧の后が古事記のいう阿久斗比売なら、書紀の淳名底仲媛の名は何であろうか。ちなみに葉江の正系とみられる阿久斗比売の阿久斗は、摂津三島の芥川に由来するかも知れない。磯城氏葉江宗家にとっては、摂津三島との姻戚を続けることが宗家の証しであったかも知れない。
また愨徳の后である天豊津媛は息石耳の女という。この意味が分からない。考元の后妃のかなり複雑なそれも次節にしたい。
あと問題の残るのは、愨徳から考霊までの統一的に「葉江女」とあったものを削除したが、愨徳のそれだけは葉江女でなく実は「葉江男弟猪手」であった。これは削除には問題ないと思うが、葉江の弟に猪手なる人物がいたことは留意しておいていい。
さて磯城県主葉江というのは、神武紀にある「弟磯城」であり、名を「黒速」といった。書紀の文脈のなかでは帰順であるが、事実は神武の一族にとっては、辛うじてこれを姻族とすることができた、巨大な氏族であったに違いない。弟磯城と結んで兄磯城を滅ぼしたという記述も、そのままには受けとれない。
留意すべきは、この黒速すなわち葉江は神武と同世代の人物でなければならないということである。
先に神武と綏靖は兄弟であるといった。ともに神の名をもち、かつ綏靖紀に同じ神の名を担う神八井の記述があるからである。 神八井は神武の仮託であろう。安寧もまた同様である。つまり神武の世代は神武・綏靖・安寧の三代であり、その一世代後すなわち子の時代は愨徳から始まるのである。
それでなお愨徳から考霊に至る四代の大王が、一書とはいえ、おしなべて磯城県主葉江の女(または葉江弟の女)を母とするのは、書紀の編者自身が伝承を鑑みるに、この四王が父子でなく兄弟であったという見解を、とくに後世のために示唆するのだと思う。 これが意図的な示唆であると思う理由が、ほかならぬ考昭の后にして考安の母たるものを「磯城県主葉江女淳名城媛」と記述することである。考安の母は磯城県主葉江女ではない。先に指摘したように、世襲足媛という表記名前からするこの母の血は、高尾張すなわち後の葛城にかかわるものに違いない。
もっとも考昭・愨徳・安寧・綏靖などの、子を生さず後世にも知られなかった后妃の表示としては、あり得ることだが、可能性は乏しい。歴史に関らなかった后妃や母后の名が、あえて伝承に残ることは矛盾であろう。
まとめてみよう。
愨徳については前に言った。文脈からして大王氏第二世代の嚆矢であり、おそらく神武と媛蹈鞴五十鈴媛(富登多多良伊須岐比売亦名比売多多良伊須気余理比売)の子である。
考昭はその名を観松彦香殖稲ということから、傍系の川派媛の子であろう。父はむろん綏靖である。
考安の母である世襲足媛についても既にいった。考安の母の各種の異称は、たとえば襲や曾は、葛城襲津彦あるいは仲哀・神功を通じて、後の葛城の地を象徴するものである。足(たらし)もむろん景行・成務・仲哀・神功を通じて、半島とそこに力のあった葛城の一族を示唆する。その父はといえば、本来的な葛城の地に宮をもった大王である綏靖または考昭であろう。事実はむろん綏靖である。
神武から開化に至る一〇代の王宮と陵地を参照されたい。葛城の地にかかわった大王は綏靖と考安である。
======================================= 大王 | 宮 地 | 陵 地 ======================================= 神武 橿原宮 畝傍山東北陵 綏靖 *葛城高丘宮 *桃花鳥田丘上陵 安寧 片塩浮穴宮 御陰井上陵 愨徳 軽曲峡宮 繊沙谿上陵 考昭 掖上池心宮 掖上博多山上陵 考安 *室秋津嶋宮 *玉手丘上陵 考霊 黒田廬戸宮 片丘馬坂陵 考元 軽境原宮 剣池嶋上陵 開化 春日率川宮 春日率川坂本陵 =======================================
β NEXT欠史八代の背景β
さて書紀の一書を含む系譜と古事記のそれのなかでは、綏靖がもっとも重要な大王であるようにみえる。
神武より治世がながく、その后妃の広がりが注目される。しかもその謚が特徴的である。
綏靖は神淳名川耳という。「淳名」の名はのちに垂仁の女淳名城媛や、遠くは敏達の名「淳名倉太球敷」また天武の「天淳名原瀛眞人」などがある。淳名は「瓊(珠)」の意であろうが、地名としては特定できない。「珠の国」のような美称ではないかと思う。磯城の地以外にそう呼称する地は、重要性からして十市か葛城をいうであろう。後の書紀・古事記の文脈をみると、十市あるいは十市の拡大していった地域をいうように思う。後の十市郡である。
後世の十市郡の版図を鳥瞰すると、一見して奇妙なかたちであることに気づく。磯城郡を囲うようにして南東から西北にいわば斜めにのびる。その南東の端は宇陀郡に接し、桜井・安倍から香久山にいたる磐余を含み、そのまま西北に滲出して多の地(多町)にまで至る。多の東隣がすなわち十市御県坐神社の所在地である十市(十市町)である。
十市が瓊と呼ばれた証拠はない。しかしながら瓊の真の意は要するに「玉造」であろう。五、六世紀の玉造遺跡は曽我遺跡・布留遺跡など大和盆地のところどころにある。いずれも加工生産拠点である。あるいは集荷販売拠点である。
四世紀のそれの一部はたぶん磐余にもあった。詳細な検証はされていないが、十市という急速に拡大し磯城をも陵駕したかにみえる勢力は、かならずや商業都邑なのであって、その主たる交易商品は宝玉であったであろう。十市そのものが瓊と不可分であったと思う。後の安倍氏は磐余の南部に本拠をもったが、その祖も大彦の子「武淳名川命」といった。
綏靖の「淳名川耳」などのバリエーションにおける典型的な名称は「淳名城」であろう。
一般にいうように「ぬな」が「に」に通ずるのであれば、これは「瓊城」を意味する。いうまでもなく十市は磯城の同族であった。地勢的にもいわゆる磯城郡西部一帯を総称する。
ちなみに垂仁の子淳名城稚姫は「倭大国魂神」を祀ろうとしてできなかったという。この挿話は崇神紀にもあり、「淳名城入姫」をして祀らせたが、やはり髪落ちやせ細ってできなかった。この重複は後に述べるが、垂仁紀のほうに分がある。ここに倭というのは、いわゆる狭義の倭国である。この狭義の倭国もまた磐余から発したとみなすべき理由がある。
綏靖の和風謚は、おおまかな予測として「十市とかかわりをもった大王」をいうとして話を進めよう。
もともと謚は大王の事績をして飾るものである。大和はその王朝を、畝傍周辺から磐余までの狭い土地からはじめて、しだいにその勢力を広げていった。
初めての土地を制覇した大王はとくにその征服地の名称をもって呼ばれた。磐余彦がそうであり、御間城入彦(崇神)も活目入彦(垂仁)もそうであった。綏靖の淳名川の名もまたこれに準じるであろう。
淳名城進出王である。淳名城が瓊城であり十市にかかわれば、十市進出王である。
ところで十市県主大目という人物が、ここにあった。先の表で考元の母は、書紀本文で磯城県主大目女細媛といい、一書で十市県主祖女真舌媛といい、古事記では十市県主祖大目女細比売という。真舌の真が「目」であれば、ここでの記載はきわめて統一的である。もっとも真舌媛は先述のように倭国香(蝿某姉)の弟蝿某弟のことだという伝承もある。
安寧の后という大間宿禰女糸井媛は、葉江女ほどの統一性はないが、要は大目と同一人物であろう。目は目(ま)とも訓む。だからもともとは「間」でなかったかとも思う。
綏靖の后妃とみられる春日県主大日諸女糸織媛もまた十市県主大目女細媛と同一人物と見られる。例えば十市県主系図に、十市氏は春日県主を祖としその後考昭の時代に十市氏になった、という記述がある。それを援用すれば春日大日諸は十市大日諸である。その女糸織媛と大間宿禰の女糸井媛もよく似ている。さらに十市大目の女細媛とも類似する。
要するにオリジナルは十市大目女細媛なのではないかと思う。これを大間・大日諸に転じ、その女も糸井媛・糸織媛に転じた。 磯城の一族に本宗の葉江とは別に、のちに十市に勢力をもった大目なる人物がいて、考元は綏靖とその大目の女との間に生まれ、綏靖と別の某女とから生まれた考霊とは、互いに異母兄弟であったという推測がなりたつ。
その意味では考霊も葉江女の子ではなかった。某女でもない。磯城県主太真稚彦女飯日媛という。古事記は師木県主祖賦登麻和訶真若比売という。古事記の祖という言葉は、師木県主祖河俣比売の表記とおなじで、葉江とは出自を隔すことを意味する。 すると考霊の母后は誰であったのだろうか。磯城葉江宗家でなく、河俣比売の磯城河内家でもない、新たな磯城の一族があったであろうか。この問題は多くの背景を語ることになるが、ここではとりあえず考霊の出自を考元のそれと比較しておきたい。
考霊と考元の謚はよく似ている。大日本根子彦太瓊と大日本根子彦国牽である。だから考元の母后「大目(大間)」は本来「大真」のことであったのではないかと思う。すると「大」と「太」は相通ずるのである。古事記の編者太安萬侶は、多氏ともいった。多氏はまた飫富とも意富とも大ともいったのである。
改めてこれを考えれば、そもそも磯城県主も十市県主もそれ自体は一つの顕職を意味したであろう。特に後世の大和には、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布の六御県があった。本来の氏姓は別にあったのである。
創始の磯城県主においては偶々磯城氏であった。ただし葉江宗家だけがそうであったと思う。河俣比売が師木県主祖といって葉江との関係を言わないのは、ひたすら磯城氏の女であって葉江の同母妹でなくその女でもないことをいうのである。
すると書紀の磯城県主大目の表記が正しく、また古事記の十市県主「祖」大目のそれも正しいとすれば、その本来はむろん古事記の表記に分がある。古事記は「祖」というからである。この祖は本来の祖で、葉江のような別の権威があるのではなかった。文字通りの十市氏の祖である。
すると書紀のいう磯城県主の意味もあきらかであろう。大目は十市県主であったが、後に磯城県主となったのである。十市県主のままで磯城県主になったかも知れない。後に古来の磯城・十市の地は磯城郡に一括され、さらに城上郡・城下郡に二分される。たとえば、あるとき磯城・十市が一つの広大な領域をもったことを想像するのは面白い。
繰り返すが磯城氏の一族の一部が十市氏となったのではない。論理的にはその逆で十市氏があるとき磯城県主を襲ったのである。その時はたぶん葉江宗家が滅んだときであろう。ちなみに葉江宗家はその本宗が後世に残らなかった形跡がある。
すると考霊の母后も一考を要する。書紀は磯城県主太真稚彦女飯日媛と書くが、古事記は師木県主「祖」賦登麻和訶比売またの名飯日比売と書く。飯日媛(飯日比売)が諱であろう。
この師木県主祖の意味は語られない。河俣比売の場合はそれが河内川俣に由来することが分かるから、その出自を推測できた。賦登麻和訶比売あるいは飯日比売にオリジナルがあるであろうか。
とりあえずはない。ただ真稚(麻和訶)はふつう姉がいてその妹の名をいうようである。後代の息長氏の一族の記録にも、大女に飯野真黒比売がいてその弟を息長真若比売といった。さらにその弟は弟比売真若比売といった。飯日比売が弟比売であっても、その姉なる比売はむろん記事になく想像のしようがないが、伝承がそうであったのだから理由はあったであろう。
オリジナルではないが太と大が通ずる点から「太真稚」がことによると「大目(大間)」すなわち「大真」と連動するかも知れない。すると「太真稚媛」はつまるところ「大真(目・間)媛であった。
考霊の母后と考元の母后は、要するに太真・大真と呼ばれる女であったと思う。考霊のそれは「太真の飯日媛」、考元のそれは「大真の細媛」であった。
これをみるとそれぞれオリジナルである飯日媛と細媛こそ太(大)真と呼ばれる姻族の姉妹で、それぞれ考霊と考元を生んだようにみえる。しかしながらそれもまだ迂遠である。細媛の名についてはそもそも疑問がある。
「細」はふつう「くわし」と訓む。「妙(くわし)」である。書紀も崇神の子として遠津年魚眼眼妙媛をあげている。単なる美称であろう。美称なら本来の名がなければならない。それが糸井媛なり糸織媛であれば首尾一貫するのだがそうではあるまい。飯日媛こそ細媛ではなかったかと思う。同一人物である。
すると書紀・古事記とも「磯城県主(師木県主祖)」太真稚媛(賦登麻和訶比売)としているのも、もともとは「十市県主」であったかも知れない。考霊の母后もまた、十市県主が磯城県主を兼ねた時点をもってそう呼称するのである。
これまでのところを先の系譜にしたがって整理すれば、とりあえず神武以下三世代の父系の系譜は異同しない。
神武の子は愨徳のみであり、考昭・考安・考霊・考元の四王は綏靖の子であった。開化・崇神はどうあっても考元の子であろう。 垂仁のみが課題になる。
これも後にしたいが、垂仁紀が考霊紀でできていて、なおかつ垂仁の謚が「活目入彦五十狭茅」といい、崇神が「御間城入彦五十瓊殖」という類似は兄弟のそれに似る。垂仁も書紀の記述に反して崇神の子でなく兄弟、事実上従兄弟なのであろう。つまり垂仁の父は崇神の父考元の兄弟である。考霊のみが該当する。
和風謚の意味を補足しておきたい。
綏靖から開化にいたる八代のそれは、まずは「やまと」の冠名の有無であった。綏靖・安寧・考昭にそれがない。綏靖と安寧についてはすでに検証した。考昭が「みまつひこ」であるのも、綏靖の后妃に河内出自と見られる川派媛がいることと関係があるであろう。綏靖が神武の后の妹を后妃としたという記述もこれを示唆する。したがって磯城の正統が葉江であるなら、その正統の后をもったのは、神武と安寧であったのだと思う。綏靖は葉江の異母妹を娶った。
神武の子とみられる愨徳が「大日本(おおやまと)」の名を負うのはそのためであり、綏靖の子とみられ、かつ磯城の傍系の母をもった考昭の名が、磯城の亦名に違いない「みまつ」であるのは、そういう訳であろう。そしてこれらに勝れた和風謚が「大日本根子彦(おおやまとねこひこ)」である。考昭のそれとはかけ離れ、愨徳のそれを陵駕するこの謚は、歴とした理由に基づくであろう。
磯城の傍流のそれである筈がない。十市氏の出自の貴種性は磯城氏のそれに比肩するのである。
欠史八代の系譜はすなわち次のように整理される。
「神武」 | 磯城県主葉江妹伊須気余理比売 +-----------------------------愨徳 「綏靖」 | 磯城県主異母妹川派媛 +-----------------------------考昭 | 尾張瀛津世襲妹世襲足媛 +-----------------------------考安 | 磯城(十市)県主太真稚媛(飯日媛) +-----------------------------考霊 | 十市県主大真媛(細媛) +-----------------------------考元 「安寧」 | +----------+ | 磯城県主葉江女阿久斗比売そしてこのたぶん十市氏の女を母をもった考霊と考元から、大王氏の歴史が回転していくのだと思う。
ちなみに開化と崇神が父子でなく兄弟であると思うのは、そもそもその母たちである欝色謎と伊香色謎が、ともに穂積氏の姑姪ないし姉妹であるからである。
考元と開化という父子で姑姪ないし姉妹を娶ることが不自然というのではない。当時ではむしろ自然なことであったかも知れない。それでもなお、書紀の編者がそうした状況を記述するのは、考元がその姑姪を娶ったという以上、それを母とする開化と崇神が兄弟である筈だという、編者の認識を示唆するためである。
后妃と母后の血筋という視点でみてきた。一〇代の系譜と係年の復元からすると、その後の推論は崇神紀から始まる。その父の出自である十市の地と母の出自である穂積の地からはじめなければならない。
それを第三章としよう。
その前にこれはひとつに、神武のよってたつ思想と思想にもとづく成果をふまえていなければならない。神武と崇神の差異がそこにある。
ひるがえって東征の神話の本質は、そうした事実の仮定的復元にあるのではない。この一族がなぜ日向の辺境から東征を企てて、なおかつそれに成功した理由が判然としない。そのような突出した部族は、饒速日をはじめいくつもあったかも知れないし、そういう証拠らしきものもある。
例えば、二世紀後半から末にかけて、瀬戸内の沿岸一帯に高地性集落というものが集中して出現する。武光誠氏によれば、縄文から弥生にかけて、すでに六〇〇からの存在が数えられる高地性集落は、この二世紀後半からのものと、三世紀末からの数十年のものと、二回の集中が認められるという。いずれも西の方すなわち北九州の勢力に備えるもので、前者は魏史「倭人伝」にある、二世紀末の「倭国大乱」にかかわるかも知れない。
後者は特に近畿周辺の大阪湾沿岸・淀川・大和川に沿って顕著にあらわれ、おなじく西からの侵略に備えるためのものらしい。要するに、饒速日ついで神武に一族もそのひとつであったとみられる。
それでなお、日向から吉備を経て大和に侵入したこの一族の、よって立つ由来は何であったであろうか。
そこにはとても偶然とはいえないエネルギーがあった。
神功がそうであったように、その後の連綿とした王統を保ちつづけた、確固たる力の源泉は、単なる武力の結果が生みだしたものだとは思われない。
結果には行動と、さらには貫徹すべき動機がある。これを王権の思想といおう。