万世一系の源流β
神武について書くべきは、本来このことだけである。
神武の王権は大和に立ち、書紀によれば万世一系を保って、おそらくは今日にいたる一七〇〇年を経た。これを虚構というのはたやすい。王系はどこかで途切れ、いくつもの他の氏族がこれを纂奪したかも知れない。一系を保持した可能性が確認されるのは書紀の書かれた七世紀以降のことであり、それ以前はなんの保証もない。
それでもなお筆者はこの大王氏が一系であったと思う。
その最たる理由が、神武がおそらく抱き、もって世界を睥睨した王権の思想に他ならない。
神武は自分の一族を天孫と称した。その天孫たる由来は書紀ならびに古事記の神代編にある。この場合だけ古事記のほうが書紀より詳しい。天上の世界たる高天原の支配者であった高皇産霊あるいは天照大神が、婿子または嫡子天忍穂耳の子たる瓊々杵を、地上世界の葦原中国の支配者たるべく降臨させる。瓊々杵は筑紫の日向の高千穂峯に降り立ち、山祇の女を娶って火折(彦火火出見)を生み、火折は海神の女を娶って彦波瀲武鵜草葺不合を生み、彦波瀲はその伯母を娶って磐余彦を生む。
海神の母から生まれた磐余彦が、一族を率いて日向を発ち、海路大和に入って畝傍に国を建て、即位してのち連綿と続く王朝の初代となった。七世紀の隋書によれば、その姓は「天(あめ)」といった。
ちなみにここには大王氏の始祖たる天孫の天上からの降臨と、天孫の東征とその成果たる国家の建設というふたつの主題がある。またこの主題に付帯して、東征の主人公が海神を母とするという要素と、東征が海洋を渡ってするという要素がみられる。これらが何を意味するかという点については順次みていこう。
しかしこれはいわゆる神話であって歴史の記述ではない。アプローチは余程注意してかからなければならない。比較神話学は昨今急速な発展を遂げつつある学問である。日本神話もその源流をいくつかのパターンに分類され、漸次全容をあきらかされつつある。しかしまだ確信はとてももてそうにない。
分類そのものにまだ恣意的な部分を多く残しているように思う。特に王権を由来を説く挿話においては、これを纏めるにあたって、本来の伝承をすこぶる権力側に偏ってみることがあるであろう。史実と違って王家の出自はこれを自由に脚色して、誰にもはばかることがない。
さらにまたある時代に、神話はこれを整備・統合したという見方もできる。その時代に知られた世界の神話はいつでもこれを取り込んで、文飾に役立てることができたのである。
かといって王権の由来を問うについては、神話の比較ということを避けて通れない。これを極力容易にするために、いくつかの背景をきっちり抑えておく必要があろう。まず大和の王権の機能と構造がどういうものであったかということと、その本来的な背景である。その最たるものがすなわち万世一系という理念であった。
ここではいかなる組織も団体もその生命の摂理がひたすら継続することであることを想えばいい。発展することは継続の不可欠条件であってそれ以上のものではない。
さてこの日本の王権の一系という理念は、むろん日本の古代にあって自生したものではない。北方ユーラシアないし北アジアに発してついに列島に至ったものであろう。岡正雄氏は列島の文化を時代を異にした二種の母系的文化・一種の父系的文化・一種の男性的文化・一種の父権的文化の重層したものという。うち最後の父権的文化こそ「父権的・『ウジ』氏族的・支配者文化」であり、王権が担ったそれという。
この視点をもって日本の王権を見るとき、これともっとも酷似すると思われるのは、時代も地理的条件も日本に接する国家ではない。時空を遥かに隔てた、前三世紀末葉から後一世紀末葉までの北アジアにあった。匈奴である。
すでによく知られていた匈奴の俗を、日本の俗と直裁に結びつけたのが、江上波夫氏の著名な「騎馬民族国家」であった。氏の主題よりも氏の方法論の方が斯界に大きな影響を与えたと思う。
中国の嚆矢たる史書「史記匈奴列伝」によれば、匈奴の冒頓単于が漢の文帝におくった書に、自らを「天立つるところの匈奴大単于」「天地生むところ、日月置くところの匈奴大単于」と称したという。単于も「天の子の大いなるもの」という意味をもち、「天」が王権の由来であると主張している。天子すなわち天孫である。
これが隋書倭国伝の開皇二〇年(六〇〇)条に記録される倭王の使者の言にぴたりと重なる。
すなわち「倭王は天を以って兄となし、日を以って弟となす。天明けざる時出て政を聴き、跏趺して坐し、日出れば便ち理務を停め、『我が弟に委ねん』という」とある。また同じく大業三年(六〇七)年の倭王の書には「日出る処の天子、日没する処の天子に致す。恙なきや」とある。
この天子はむろん中国風のそれなのではない。匈奴とおなじく天地・日月をともに親族とする好一対をなす主張であり、漢の高祖を退けた匈奴の冒頓単于の矜持と同種のものが迸る。これを時の聖徳が、史記の記事を参照しつつ、そのもてる博学を駆使して書いたという想像は道理ではあるが、本質的な議論ではない。仮にそうでも聖徳がこれに倣ったのには、そうすべき基盤がもともと大王氏にあったのでなければならない。
ちなみに匈奴単于の書と倭王の書とに一見みられる差違は、差違というほどのものではない。
後代の北アジアに君臨した突厥の可汗は隋の文帝に「天より生れし大突厥の天下覧聖天子(隋書突厥伝)」というが、突厥のビルゲ・カガン碑文では「天の如き、天よりなりし突厥の可汗」といい、また「上方で蒼き天と下方で闇き地が出きた時、これらの間に人の子たちが生まれた」ともいう。
この蒼天と闇地は世界観の問題でいわゆる「天地」とは意味が異なるが、上天の信仰は天と王者とを必ずしも区別すべきものではなかったのだと思う。
そもそも北アジアに一般的であった「祭天」の信仰は、もっぱら上天を祭祀するものとみられがちだが、たとえば東胡の後裔という烏桓では「敬鬼神、祀天地・日月・星辰・山川及び先大人有健名者。祀るに牛羊、畢れば皆之を焼く(後漢書鮮卑伝烏桓条)」という。 事実は汎神論的なそれなのであって、さらなる実態は「先大人有健名者」すなわち始祖・中興の祖を祀ったのである。匈奴も「五月大会。龍城、祭る其の先・天地・鬼神」といった。
これをいうならば、王も始祖王もすなわち鬼神・天地・日月・星辰・山川と同格的な存在であっておそらくは区別がない。「天地生む、日月置く」という匈奴単于の語は、むしろ中国風の上天思想に若干の影響を受けた結果かも知れなく、実際は天地・日月と共に立った大単于という意味ではなかったかと思う。「天を兄、日を弟」というのと同様である。
さて万世一系の理念である。
匈奴においては、単于の位はこれを冒頓の攣E氏に限定し、その男系にのみ継承された。事実冒頓の父頭曼を初代として、その後の三世紀、二二代を経た冒頓匈奴の単于は、すべて頭曼ついで冒頓を始祖とする一系のものであった。
北アジアの広大な支配地は、中央を南面する単于庭として、西に右賢王東に左賢王をおき、いずれも嫡子とそれに準ずる王子をこれに任じた。通常は左賢王から右賢王に昇格することが、単于の継嗣たる途であった。右賢王・左賢王に準ずる位階もあり、それぞれ右賢王・左賢王の北に差配地をもち、単于一族がこれを担った。服属する異族の王は、これらの単于一族のどれかの配下に組み入れられていた。
単于庭の南方と北方については記録がない。
ただスキタイとは異なるこの配置は、例えば夫餘や高句麗にもあるいわゆる「世界四分観」によるものとすれば、南方と北方にもある氏族を配したのである。とくに北方には単于氏の婚姻氏族がいたかも知れない。
さて匈奴の一系は漫然と維持されたのではない。それはいわば思想というべき確固たる方針であったが、ただ天子たる王家の貴種性が然るべくこれを遵守したためではなかった。どうやら婚姻氏族の存在が、これを遵守するシステムを構築していたものらしい。すなわち単于氏には異姓婚姻氏族というものがあった。
王家たる攣E氏に后妃をいだす異姓の氏族で、代々その役割を果たしつづけた。これを閼氏(后妃氏)といい、呼衍・須卜・丘林・蘭など四氏あったというが、嫡后を出すのは時に須卜氏など限られた特定の婚姻氏族であって大閼氏とよばれ、後継単于に口を出すことがあった。通常は軍事や徴税に関らず、もっぱら行政と司法に関与したという。異姓大臣ともいわれている。これをみると婚姻氏族は時にあたって原則一氏であったのであろう。
一見中国の外戚政治に似るが、そうでもない。外戚たることはそもそも特定の氏族である必要をもたない。かって周の王室に妃を出しつづけたという姜姓の氏族があったというが、このほうがまだ近い。また外戚たることをもって、軍事にたずさわるに遠慮はない。姻族はそうでなく、そもそも軍事は自家の範疇にのみあって国家のためにはない。匈奴にあっても、その軍事の管掌は単于氏の一族がこれを担った。
江上波夫氏は、匈奴の国家に重きをなしたこれらの異姓姻族と単于氏族を、先のように行政・司法と軍事・徴税をそれぞれ分掌するとともに、別の面では中央氏族と地方氏族をそれぞれ形成していたと言っている。
さてこのような匈奴の風が、結果として比類のない確固とした王権のシステムをなしたと思うのは、そもそも王権というものがすなわち王朝を企図するために、そこでは王家の貴種性を維持することが必須であったという理由による。しかもこれに当たっては当然のことながら婚姻氏族を要するが、その婚姻氏族もまたその貴種性を誇示することを求められた。
河内祥輔氏は大和朝廷の王位継承にともなう血族関係を次のようなモデルで説明している。すくなくとも六、七世紀以降の大王氏あるいはこれをとりまく勢威ある豪族にとっては、基本的にこうした種類の観念があったことは疑いないところであろう。妃 妃 | | 皇后 +----------皇后 +----------皇后 | | | | | +---------天皇 +----------天皇 + | | | | | 天皇 +----------天皇 +----------天皇 | | | | | +---------皇后 +----------皇后 + | | | 妃 妃 妃しかしながらこのモデルでは、婚姻氏族の貴賤の別はこれを説明していない。あるいは貴種を前提としている。しかしこのモデルが正常に機能するためには、実のところ婚姻氏族の貴種性がむしろ必須不可欠なものである。なぜなら王族はひたすら必要十分条件として王族たる血液が流れていればそれでいい。できうれば先王に血統で近いことが優位なのは違いないが、それがとりあえず決定的なことではない。
むしろ婚姻氏族の貴種性が多くの場合、後継を決める主たる要素であったであろう。父母ともに王族であることがとくに優位なのではなかったのである。これをいうなら王位を希求する母方の血は、王族と婚姻氏族がこれを対等に争ったのである。すなわち母系においては、貴種たる婚姻氏族の血はもともと大王氏の血に比肩もしくは陵駕していたのではないかと思う。
こうした婚姻氏族をあらためて姻族といおう。
大和では藤原氏・曽我氏・葛城氏・気長氏・十市氏・磯城氏などがこれであった。いずれも時代に並行してこれがあるのではない点に留意したい。姻族は大和のその時代にあっても原則として一氏であったと思う。和珥氏は大王氏にとって永く婚姻氏族でありつづけたが、ついに大王を出さなかった。姻族とは言えなかった。その条件は天孫を除く地祇(国神)ないし天神であること、畿内において然るべき勢威をもつ豪族であって、かつ大王氏と政治的な同盟をよくするものであった。
したがって姻族の盛衰もこれをよく理解できる。姻族はその勢威が継続する限りにおいては、大王氏と同様に一系を続けるべき氏族であった。なんらかの理由で衰退すれば、ここに新たな姻族が登場するが、これも先の姻族から母系で繋がる縁をもったのではないかとみられる。
たとえば曽我氏が稲目の時代に葛城氏を襲って姻族の座についたのは、一に曽我稲目が葛木氏の女を娶って堅塩媛・小姉君・馬子を生んだからである。堅塩媛と小姉はその葛木の血の故に欽明の后妃となった。堅塩媛は一説に「大后」ともいうらしい。稲目と馬子が時の朝廷で勢威を誇った異姓大臣であったことはいうまでもない。
しかしこれだけのシステムを擁してなお、大王氏の王位の継承はつねに波乱を含んだ。
雄略の後継たる清寧の没にあっては王統の断絶さえ起こった。そうした危機でさえ大王氏がこれをよく接いで、王統を護りつづけたという伝承の所以は、ここに明らかに思える。大王氏とその時代ごとの姻族氏が一系を遵守すべき機能を、確固たる構造として組み込んでいたからにほかならない。
これが必ずや意図的であると思うのは、国家においてそもそも行政と司法はこれを文官が所轄し、軍事と徴税はこれを武官が所轄するとき、国家の根本たる大事、たとえば王位の継承問題はこれを当然文官が取りまとめるのである。官僚といってもいい。ましてその文官の長が王家の后妃を出す氏族であって、大臣としての日常の勢威を誇るものであれば、合意は極端には前王の遺志すら必要としない。自らの血筋の入る前王の血族を立てるのみである。
すなわちこの場合、姻族としてのもともとの勢威ならびに貴種性と、行政と司法を司る継続的な勢威がともに必須なものであった。姻族の条件といっていい。
これらの背景にあるべきものは、唯一王統に対する確固たる信念の共有であった。
つまるところ王権と姻族のシステムの目的とするところは、ひたすら王族の一系をつなぐ王朝の維持であった。ちなみに姻族とせずに行政と司法を異姓氏族に委ねるとすれば、これはいわゆる執権である。頼朝の鎌倉将軍家が三代で消失した例もある。
匈奴が一系の王朝を維持したのは必ず偶然ではない。天上の子の王権の万世一系と悠久の姻族のシステムによって成立していたのである。
大和の朝廷にあって、この匈奴の風との類似は著しいものがあった。臣と連の別である。
臣の氏族は朝廷に后または妃を出し、朝政にたずさわった。連の氏族は専ら軍事を司り、后妃はこれをよく出さなかった。前者の例が、葛城氏や曽我氏であり、後者の例が物部氏や大伴氏である。
この区分が朝廷において、構造の骨格的なものであったことは、書紀や古事記の全編を通じてあきらかなことのように思える。物部氏は垂仁以来、軍事を担って朝廷に重きをなしたが、一度たりともその女を大王の后妃としては出さなかった。わずかに二例、武烈のときの物部大連麁鹿火の女影媛と安閑のときの物部大連木蓮子の女宅媛があるが、妃でなく嬪であろう。
大伴氏もまた金村のとき、継体を擁立して朝廷に威を張ったはずだが、その女を后妃とすべきそぶりすらなかった。わずかに一例ある安閑のときの大伴連糠手の女小手子があるが、これもまた嬪であろう。
仮にこれらが妃としても、時代を降ったなかで姻族の概念を逸脱した例とみられ、例外がこれほどわずかであったことに注目しておきたい。どのみちこれらの子は庶子でしかなく王位にはつけなかった。
この徹底した職掌分担と本分のわきまえは、とても自然な経緯によるものではない。確固とした国家観の共有にもとづくとみるべきであろう。すなわち連の氏族は軍事と徴税を、臣の氏族は行政と司法を、そして臣の氏族の権勢あるものは大王氏にとっての姻族であった。
ひるがえって、匈奴のそれが大和のそれと全く同然であったかといえば、いくらか微妙である。
たとえば匈奴の王家は漢の王室から公主王昭君を娶って、かつその生まれた女子を須卜氏ならびに当于氏に降嫁するということをした。降嫁はほかにも漢出自の将軍李陵・李広利や烏孫王にも行われている。いずれも嫡后でなくその子も嫡子とはみなせないが、大和にあっては、こうした降嫁は一般的には傍流を含む王族に対してなされていて臣下へのそれは例外である。
異なる点の一例であるが、匈奴においては、庶流は奔放で然るべきであったということかも知れない。一部に匈奴のオリジナリティーの変容という可能性もないではない。
匈奴は頭曼・冒頓の二代で北アジアに覇権を打ち立て、機を一にして立った中国の漢を対峙した。東胡や月氏あるいは丁零などは、これを討伐して隷属させたが、漢は一度これを破ったにも関らず、制圧はできなかった。
このとき匈奴は、漢を全き対等の国家として認知した。「天地生むところ、日月置くところの匈奴大単于、敬みて皇帝に問う、恙なきや」という書簡の文面は、このことを端的に顕している。これを背伸びした矜持とみることは、事の本質を失うであろう。武力のみではなく、背景とする文明の質量において差異を感ずることがなかったのである。
しかしながら、その後は緊密な接触とともに、漸次漢の文明を憧憬していくことがあったであろう。この時漢の血をもつ女が、遊牧民の習いとして貴重な略奪物ないし恩寵物の意味をもった可能性がある。漢の血を引く単于氏の女のみが、特殊な理念の変容を被ったのである。
いずれにせよ匈奴において明示的な、この王権に付帯する姻族という概念は、その古代的オリジナリティーに特徴があったとみられる。匈奴以外には、この概念のあきらかに存在する国家はなかったのであろうか。これを求めてみなければならない。
姻族の存在する国家β
匈奴のこうした姻族のシステム、あるいはこれに類するシステムをもつ国家は、後世の記録から推測すれば、匈奴以降にもいくつかあったらしい。ただ王家に婚する貴種性と権勢をあわせもって、かつ行政にも携わるという特殊な氏族の存在は、匈奴以外ではほとんど語られていない。
かといって中国の史書が、匈奴以外にこの存在を認めなかったというのではなく、そもそも史家がこれらの俗について関心をもたなかったことによるであろう。古代中国の誇るべき史家の使命感は、つねに事実の記録にあったが、事実関係についてはそもそもこれを解釈すべき見解を要するのである。
関心をもたぬ事柄はむしろ事実のままに提示すべきであろう。この点で中国の史書の記述はつねに一貫性をもつらしい。 匈奴については、中国の統一国家・漢が立ったまさにその瞬間に、北方の巨大な統一国家として対峙して、漢の将来の興亡に直接からんだために、その記事が詳細に書かれなければならない理由があった。その一連の風俗の記述のなかに姻族についてのそれもあったのである。
さて、匈奴の姻族の存在は王権の骨格の一つであった。王族と姻族の二者で、王族の万世一系を悠久に続けるためのシステムであった。その背後にはこの二者の貴種たる信念があり、その信念は「天地の立ち、日月の置くところ」の王の概念に由来するものであった。天子・天孫の概念である。
これが万世一系と姻族のシステムの存在と等価であることはないが、背景条件の一つではあろう。しかも匈奴の天子・天孫の概念はかなり独自のものであったらしい。つまり遊牧民族の始祖であったスキタイの「天帝の子」というそれと同質なものに思えないのである。むろんギリシャ式の天上世界の神聖に拠るのでもない。古代中国のいわゆる上天の思想によるのでもむろんない。ユーラシアに敷衍するシャーマニズムに基づくという見解にもとても肯けない。
シャーマンは部族の成立に先立っては首長の一人であったかも知れないが、国家にあっては王に付属する技能者であったであろう。王権の根源は、遊牧を生業とする民族の生態的なそれ、すなわち自然発生的な思想によった。そうした思想の具体的な顕れが天の祭祀というものであった。
天の祭祀の現実的な意味は、先に述べたように、烏桓の「敬鬼神、祀天地・日月・星辰・山川及び先大人有健名者。祀るに牛羊、畢れば皆之を焼く(後漢書鮮卑伝烏桓条)」とあるのがその典型である。鮮卑も言語習俗烏桓と同という。また匈奴も「五月大会。龍城、祭る其の先・天地・鬼神」という。
夫餘は「正月天を祭る。国中大いに会し、連日飲食歌舞し、名づけて迎鼓という」とあり、高句麗も「十月を以って天を祭る。国中大いに会し、名づけて東盟という」とある。穢もこれを十月として「舞天」とするから、おそらく夫餘・高句麗・穢・東沃沮は「祭天」の俗を有していた。
かなり異質ではあるが、韓(馬韓)も「国邑各々一人を立て、天神を祭るを主らしむ。之を天君と名づく」とある。異質にしても天の祭祀があったのである。
高句麗のそれが「東盟」といったことが、烏桓の「先大人有健名者」と通ずる。東盟は東明にほかならず、高句麗の始祖朱蒙の後世における謚である。すなわち天の祭祀は要するに始祖王の祭祀であった。
するとこの始祖王と、天地・日月・星辰・山川・鬼神との関係がどういうスタンスであったかを、いますこし明らかにしておかなければならない。
始祖の伝承は、北アジアと東北アジア(中国東北三省)ならびに半島を地域的に峻別すれば、北アジアの東部から東北アジア以東の地域において、「日神の子」という概念に収斂する傾向があったらしい。高句麗の「河伯の孫・日月の子」や日本の「日子」もこの類型であろう。
しかしこれは後に述べるように中国中原に発生した日光感精神話に影響を受けたものらしく、その周辺・辺境においてもオリジナルではなかった。とくに北アジアの匈奴や突厥など北アジアの西部に発生するらしいトルコ系またはそれに近い氏族にあっては、「天地・日月・王者」の誕生という、諸界並行的な始祖伝承がオリジナルであったようである。
匈奴の「天の立てる」、「天地生む」という趣旨は、「天地の間なる王者」という概念に近かった。突厥の碑文に残る「蒼き天と闇き地が生まれたとき、その間に人間が生まれた」とあるのは、この概念をよく伝えている。天地・鬼神・王者は同格のものであったのである。
先に述べたように七世紀の推古の時代、倭王が中国の隋に送った書簡に「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴き、跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと」とある。大業三年の倭王の書簡には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」とある。
「書を致す」という文面は突厥が隋に送った国書にあり、「恙なきや」というのは、匈奴が漢に送ったそれに見える。
天帝の子や天子・天孫という表現は、汎ユーラシア的な視点でするところの、匈奴から東北・半島・列島に至るこの王権に対するいわば修辞に過ぎなかったのだと思う。基本的なその原形たるものは、要するに始祖王が天地・日月・星辰・山川・鬼神とともに世界に誕生するという摂理であった。天の祭祀が始祖王の祭祀と不可分である所以である。すなわち日本における天子・天孫の本来の意義も同様であった。姻族の問題の戻ろう。
さてこの天の祭祀がおしなべて行われる北アジア・北東アジアで、さらに姻族の存在が確認あるいは推測される国家は寡少である。そのひとつがほかならぬ突厥であった。
突厥は六世紀から八世紀にかけて北アジアを支配した、匈奴類似とみられるトルコ系の遊牧騎馬民族国家である。独自の突厥文字を創始したが、これを刻んで著名なオルホン碑文を後世に残した。中国の史書と相互に補完すべき貴重な史料価値をもつ。
そしてこの突厥は、匈奴の時代から四世紀も後の国家にもかかわらず、王家たる阿史那氏と王家に后妃を出す阿史徳氏という、まぎれもない姻族があった。この二つの氏族が国家支配の根幹をなす貴種たる氏族で、うち阿史徳氏はいくつかの場面で、国家の行政官であり、後継者の決定にも力があった。その貴種性もふくめて匈奴の姻族と同様なものといっていいであろう。
護雅夫氏は、この突厥の姻族阿史徳氏はたぶん匈奴のそれより勢威が劣るようだといっている。突厥にはシャドという王族の冠名もあり、右シャドというのは匈奴の右賢王(第一等王族)と同等のようであった。もっともよく匈奴の風を継承したそれであったのは間違いないところであろう。
匈奴も突厥も列島からは遠隔であるが、列島に近い半島の地で、若干手掛かりがある。すなわちかろうじて姻族らしき俗を伝える高句麗がこれである。
高句麗には桂婁部・涓奴部・順奴部・灌奴部・絶奴部の五部族というものがあった。
魏志高句麗伝は「王を出す桂婁部、世々王に嫁ぐ絶奴部」と記述する。また「はじめは涓奴部から王を出したが、いまは桂婁部から出す」ともいう。後者は高句麗の王都が桓仁から集安に遷都した事実を示唆するらしい。
音韻から訓みとれるこの五部の具体的な意味は、桂婁(内・中央)、涓奴(左・西)、順奴(右・東)、灌奴(前・南)、絶奴(後・北)である。すなわち行政地域の別であった。つまり「はじめ涓奴部から」というのは集安から西にあった桓仁の旧都・卒本の地域を指し、いまは集安の国内城(丸都城)の「桂婁部から出す」というのであろう。
集安遷都については魏志にも「高句麗王の伯固が死んで、長子の抜奇と次子の伊夷模が後継を争ったが、輿論が伊夷模を担いだので、兄は涓奴部の大加とともに公孫氏に降り、弟は集安に新国をつくった。今日の王都がこれなり」とある。矛盾はしない。
しかし輿論が根拠というのはそのままでは納得しがたい。つまり伊夷模がもともと正嫡子であったとすれば、これは庶子たる兄の反乱ということになって分かりやすい。そしてこの場合涓奴部の大加(大干)が兄と行動を共にする意味も明らかであろう。仮に匈奴においてと同様な姻族のルールがあったとすれば、後継者の騒乱に主体的に動くのは「世々王に嫁ぐ」という絶奴部の大加でなければならない。そうでなく右賢王的な部族(涓奴部)の長が立つのは、おそらく抜奇が伯固の子ながらその母が涓奴部から出ていたからという推測も成り立つ。
さらに魏志高句麗伝は「伊夷模子無し。灌奴部に淫して子をなす。名付けて位宮、今高句麗王宮これなり」と伝える。つまり灌奴部から生まれた伊夷模の子位宮は、本来子ではないといっているのだから、中国風の倫理観が混入することを割り引いてもなお、これこそ正嫡の子が絶対的な地位をもっていたことを顕している。絶奴部が明確に姻族たることの証左となろう。
ところが高句麗と同じくD貊族の上に立った国家であり、高句麗がそこから出たともいう夫餘においてはこれに類する記事がない。魏志夫餘伝は「兄死すれば嫂を妻とす。匈奴と同俗」という。先のように姻族の制は匈奴も大和も一夫多妻・嫂婚制を伴うが、とくにこの点を記録するいわれはない。「匈奴と同俗」が主たる文脈と考えるのは穏当ではないから、ここでは夫餘の婚姻の制は不明であるというしかない。
ただ夫餘には「国に王あり。官に馬加・牛加・豬加・狗加あり、別れて四出道を司る」という記録があって、これは高句麗の五部(王家を除く四部)に似る。
大林太良氏はこれを世界に広範に分布する「四世界観」の一例とみなし、他の記事から「神聖弑逆」を認め、あるいは夫餘の特殊性を指摘するが、これは読みすぎであろう。もしそうなら夫餘とともに高句麗もこれにあてはまらなければならない。しかしその高句麗の五部に、王族(桂婁部)と姻族(絶奴部)があるのだから、夫餘のそれもやはり高句麗と対照すべきではないかと思う。すなわちそもそも匈奴の支配地の配置システムが、このような四部構成をもっていたか、あるいは匈奴のそれが夫餘・高句麗で四世界的に変容したのかのどちらかである。
匈奴の領土は中央に直轄領たる単于庭があり、西東に王族出自の右左賢王などを配置して、単于庭の北と南については記録することがない。姻族氏がどこを宰領していたかも分からない。もしかすると単于庭の北部にあったかも知れない。夫餘・高句麗の四道・四部はつまるところ匈奴の制に由来する可能性もある。
ちなみに夫餘もその基本種族がそれであったDについては、魏志は「同姓婚せず」と記録している。
結局東北地方ならびに半島においては、婚姻の俗も含めて、高句麗の記事がもっとも多くかつ詳細である。これは一に前一世紀後葉から七世紀後葉まで、およそ七〇〇年を経世した高句麗が、このなかでもっともよく中国に知悉された国家であったからであろう。したがって論理的には、高句麗に先立つ夫餘やDも、高句麗と同様な俗と姻族に似た制をもっていた可能性が大いにある。
高句麗は中国の史書においても、半島の三国史記においてもさらに広開土王碑においても「その先夫餘に出る」と記録される。もし夫餘の王権と婚姻の制が高句麗同然とするなら、東北地方に共通な姻族のシステムの存在を仮定できる。
つまり高句麗が伝承にある前三七年の建国でなく、史料上の見地から西紀前後であるとして、夫餘のそれがおそらく前二世紀中葉から末葉とすれば、匈奴に早く接したのは夫餘であった。夫餘の祖先が北アジアの草原から大興安嶺を越えて東北地方就中黒龍江流域に進出したとみれば、論理的にも矛盾しない。
ちなみに夫餘は「鹿(ぷよ)」の意であるという。このために夫餘も狼など獣をトーテムにした蒙古族の一派であるという見解があるが、筆者はその説に組みしない。夫餘の名称は、烏桓が烏桓山にちなみ鮮卑も鮮卑山にちなむために、かならず最初の本拠地たる鹿山にちなむであろう。吉林にあったと思う。
夫餘が蒙古族という証拠はない。烏桓・鮮卑とおなじく、匈奴の時代に東蒙古から東北地方にあった東胡の後裔であろう。そしてD族の上を覆って国家を立てた。
とりあえず全体的な背景をみてきたが、ここまでの議論はここで反転する。
高句麗の発祥β
匈奴から夫餘さらに高句麗にに至るという伝播の率直な道筋は、しかし実のところ次のような事情があって根本的な疑義がある。
すなわち高句麗という国家のたぶん特異といっていい成立のプロセスが問題になる。一見不合理ながら高句麗の成立の時期は、おそらく夫餘よりも早かった。その王権の思想を直接受け取った先もむろん夫餘ではなかったと思う。その根拠がある。焦点を絞って整理してみよう。
高句麗の名が、高句麗建国(前三七年)に先立つ前一〇七年に、中国の史書に初めて登場するという事実である。すなわち前漢の武帝が前一〇八年に衛右渠の王国を滅ぼした直後、半島から東北地方にかけて漢の四郡を設置したが、うち楽浪・真番・臨屯の三郡はこれを前一〇八年に、翌前一〇七年には玄菟郡を置いた。その玄菟郡の主県が高句麗県であった。
この高句麗県がなんらかの意味をもつ漢語であれば、高句麗の名はこのとき誕生し、かつその後夫餘から南下した高句麗部族が仮冒したのである。
しかし文脈からすればそうではない。武帝が直ちに楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を置いた事情は、一に衛右渠の故地の支配のためであった。すなわち武帝は二年わたる執拗な攻撃をもって右渠を滅ぼしたが、その注ぐ力の大半は首都平壌の王倹城を落とすことに費やした。
後に魏が公孫氏を攻めた時はそうではなかった。楽浪を滅ぼすとともに高句麗を攻め徹底的な打撃を与えた。そして日本海を望む東界の咸興に進出した。魏の東北地方ならびに半島支配にとって必要なそれらの地域への進出の条件が、この二国の討伐であったためにほかならない。
漢の武帝は衛右渠を滅ぼした時、さらなる討伐を試みなかった。そして直ちに四郡を置いた。すなわちこの四群は衛右渠の、それぞれ程度の異なるにしろ一国支配の下にあったのである。そのために武帝はその服属する部族たちを懐柔しつつ、そのまま新たな支配に組み込んだのであろう。右渠のシステムを流用したことになる。
これは失敗した。まず真番・臨屯が廃止(前八二年)され、玄菟もその郡治咸興を楽浪の所属として、新郡治を北方の新賓に後退させた。高句麗県もこれにともなって新賓に移動した。前七五年のことである。新賓はその後紆余曲折しながら、西晋の時撫順に後退するまで玄菟郡治であり続けた。
これを総じるに、楽浪を除いては真番・臨屯の地は衛右渠をしてもまだよく統制しておらず、これに替わった漢もまたよくこれを制御できなかったことを意味するであろう。その二つの地は四世紀まで諸国邑都の分立するところであった。玄菟だけはある程度の部族統一があった。したがってその支配に対する抵抗もあった。
漢が後退しながらも玄菟を維持したのは、ここが支配すなわち収奪に値する部族的な統一システムをもっていたからに違いない。すなわちその主体であった高句麗県は、真番・臨屯と異なって、例えば一つのまとまりを有していたのである。
また玄菟郡が置かれた前一〇七年に高句麗県に属した部族が、そうしたまとまりある勢威をもっていたとすれば、高句麗という部族名もまたそのときすでにあったのである。
すなわちその発祥はさらなる過去に遡る。衛満の王国の創設のあった前一九五年からその滅亡までの間である。
ちなみに三国史記の伝える高句麗の始祖王朱蒙(鄒牟)の建国が前三七年であることは、このことと矛盾しない。建国と発祥が概念的に分離できるのである。朱蒙は伝承の通り夫餘から東南下して貊たる高句麗族の上に降り、もって高句麗王となったのであろう。これは神武が東下して大和に入り、磯城の一族の上に王朝を建てたのと同様な文脈である。
とすれば王権をもつ朱蒙が姻族ないし婚姻氏族としたのも、またもとの高句麗族の王家あるいはそれに準じる部族なのであろう。これも磯城氏と同様である。
したがって夫餘が本拠地であった鹿山にその部族名あるいは国名を由来するなら、その先はさらに北方の地にあって、なお夫餘とは呼ばれなかった。たとえば黒龍江に由来する「黒水」などと呼ばれていたのである。するとその夫餘の一族たる朱蒙が高句麗に侵入し、なおその拠点たる山麓の名称を受け継がず、もとからあった高句麗なる部族名をわがものとした訳はどういう理由に基づくであろう。
朱蒙の出自を陵駕する王権の伝統が、既にそこにあったのでなければならない。
これに関連して高句麗には奇妙な挿話が伝えられる。新唐書高句麗伝によれば当時高句麗に「高麗秘記」という予言書があり、そこに「高句麗は九〇〇年に及ばぬうちに滅びる」という主旨が書かれていたという。ちなみに唐・新羅連合軍の攻撃による高句麗の滅亡は、六六八年である。また唐の将軍がこれを引用して対高句麗戦必勝の宣言を皇帝にしたというから、伝承にしろこの時期に高句麗が建国九〇〇年を望みつつあったことを示唆する。
三国史記の記述によれば、高句麗滅亡時の新羅王の言葉に、「高句麗は始祖中牟王から八〇〇年」という述懐も載る。また日本書紀には「高句麗の滅ぶのは七〇〇年の末」とあるから、新羅の認識は八〇〇年、日本の認識は三国史記と同じ七〇〇年ということになる。
そもそも三国史記の書く朱蒙建国は前三七年であるから、その滅亡六六八年は七〇四年後ということになる。事実は三国史記の記述する第二代の瑠璃明王の即位(前一九年)当たりが、本来の朱蒙の建国であろうと思う。紀元前後の新の王莽の時に活動する高句麗王鄒こそ鄒牟すなわち朱蒙にほかならない。
「漢書」王莽伝によれば、王莽は「新」建国の翌年西紀九年に、四辺に使節を出し、夫餘と高句麗を外臣として印綬を与え、これを承認したという。中国としてこの二国の独立を認めた最初であろう。そして西紀十二年王莽は匈奴を伐つべく高句麗に出兵を命じたが、拒否したために高句麗王鄒を斬ったとある。この鄒は広開土王碑にある高句麗の始祖王朱蒙の別名「鄒牟」のことに違いない。実際は鄒牟と朱蒙は全き音通であるらしい。
高句麗の建国はかくして世紀前後でなければならない。三国史記にはさらに西紀二十年、高句麗は夫餘と戦いこれを破ったとある。高句麗が夫餘と衝突した嚆矢であろう。
前一九年から滅亡までは六八六年である。三国史記に先立つ史書が旧三国史記ばかりでなく数種あったとして、そこに書かれたのは書紀と同じく七〇〇年に満たぬそれであった。
したがって高句麗自体が伝承した九〇〇年というそれは、別の意味をもつであろう。朱蒙以前の高句麗という部族国家の存在である。
六六八年から七〇〇年を遡れば前三二年、八〇〇年を遡れば前一三二年、九〇〇年を遡れば前二三二年である。
前一三二年であれば衛満の王国が平壌に誕生して六四年後、それが滅びる二五年前である。前二三二年であれば衛満の王国ができる三八年前である。
高句麗族は古来貊(ハク)と呼ばれた。穢狛と一括されるがことによると違う種族かも知れない。夫餘は穢の上に国を立て漢から「穢王之印」をもらっている。先に述べたように高句麗は穢貊とは言わず専ら貊と称されたから、穢とは一線を画したかも知れない。先述のように日本語では狛と書き「こま」と訓した。
高句麗の名称は、白鳥庫吉氏によれば「高(大)なる句麗」の意という。その句麗は忽・溝婁(ムル・マリ)とおなじで高句麗後の「城」を意味するという。広開土王碑に記載する「模盧」で、夫餘ではこれを「鴨盧」と書く。事実魏志高句麗伝には、「句麗一名貊耳(マル)」とあり、この場合高句麗はすなわち高貊耳(コマル)で、日本語で古末(コマ)・狛(コマ)と称したのもこれに由来するであろう。D貊と一括されるが、高句麗はあくまで貊であってDとは峻別されるかも知れない。
しかし白鳥庫吉氏はいま一つ別の解釈も提示している。
高句麗の「句麗」が河を意味する「ムル」ではないかというのである。鴨緑江の訓である「アムル」は「大ムル」の意で、事実上「大水・大河」を意味するらしい。黒龍江をアムールと呼ぶのもこれに類する。アムルとコムルが通ずることになる。
すると高句麗は「大水・大河」、あるいは意味を拡大すれば「大河の人」であった。
これが正解であろうと思う。「高(大)句麗(河)」である。
かくして高句麗族の立国が前三世紀から二世紀にかけてあったとすれば、これはむろん衛満の王国と関係するであろう。そのさらに先、遼東半島から鴨緑江下流域にかけて、支石墓や独自の遼寧式銅剣文化を担った種族があった。積石塚や美松里型土器とともに貊の文化という識者もいる。箕子の後裔あるいは箕準と伝承されるそれをそこに比定する向きもある。
その論理的かつ現実的な位置は、遼東半島から鴨緑江下流域一帯であろう。その在地の部族もまた貊であった。だから燕人あるいは殷の遺族がそこに入って下地をつくったということはありうるであろう。勢威の兆しとも言えるかも知れない。しかし国家なのではない。
半島における嚆矢たる国家の成立は、衛満の王国にほかならなない。そして国家はその影響をそれに先立つ国家からしか受け取れない。高句麗族の国家類似の成立は、おそらく衛満のそれとともに始まったに違いない。前一九五年である。その滅亡まではおよそ八六〇余年であった。
この種族の本拠地は、前二世紀末葉には鴨緑江中流域の集安・涓原・楚山などにあった。それ以前についていえば、たとえば鴨緑江下流域にあったかも知れない。いわば河川の民であったのであろう。
ここに高句麗がその建国の王を「天帝之子・母河伯女郎(広開土王碑)」と記録する理由があったと思う。
さらなる王権の由来のために、高句麗の神話をみてみたい。
しかしながら神話については検討するにあたっていくつか準備がいる。とくに王権にかかわる神話を採るにしても、神話というものがもつ独特の文脈の中にそれもあるからである。神話の概念からこれを整理していかなければならない。
神話と王権β
端的に考えれば、王権の由来は神話とくに始祖神話の分析からすぐ導くことができそうに思える。しかしいわゆるシンプルな比較はたとえば比較言語学がまま袋小路にはいってしまうのと同様な過ちを起こすであろう。全体比較と個別比較の差違という問題もある。。神話全体の比較という視点はとりあえず捨象しよう。始祖神話という視点にだけこれを絞りたい。
だから仮定の話から進めるが、始祖神話といわれるものはその一部にかならず史実を反映すると思う。それが王権の由来にかかわるために、神話の骨格でなければならなかった。そしてたぶんそれを重視するあまりに、その他の関連する事項はこれを仮構するにやぶさかでなかった。
この辺については、たとえば書紀・古事記の編者が歴史をしてその関係をあくまで遵守しようとする姿勢とは、かなり様相が異なるであろう。神話世界はある意味で広大無窮のそれであり、いうなれば修辞の自由が保証されている。書紀・古事記においては神代紀・記がそうである。始祖神話における事実と修辞を具体的な例でみていこう。
まずルコ民族の始祖神話である。
武帝の時代(前一四一〜前八三)西域に派遣された張騫は、トルコ系とみられる烏孫の始祖神話を記録している。
すなわち大月氏に滅ぼされた一族に一人生き残った幼児があったが、牝狼に乳をもらって生き延び、長じて烏孫の祖となったという。
おなじくトルコ系とみれられる高車の神話は、世紀前後の中国の記録である。これによれば、匈奴の単于は二人の娘を人間に嫁がせたくなくて、天に与えるべく北方の地に高台を築いてその上においた。四年経って天神は現れず、狼が高台の下をうろついた。姉妹の姉はこれを畜生として顧みなかったが、妹の方がこれを天神の化身として高台を降りて狼の妻となった。その子孫が高車であるという。
間違いなくトルコ民族の祖である突厥のカガン阿史那氏の神話は、六、七世紀のこととあって記録が詳細である。突厥の祖先はかって隣国に攻められて一族が滅亡したが、一人生き残った小児を牝狼が育て、これが長じると交わって懐妊した。隣国の王はこれを知ってその児を殺したが、牝狼は天空を跳躍して一つの山の上に降りた。その下に洞窟があり、牝狼はそこに隠れて十人の男子を生んだ。その一人が阿史那氏の祖である。
その子孫はしだいに増え、数世代たって洞窟を出て柔然に仕え、金山で鍛冶を営んだ。その後一族を糾合した阿史那氏が勢力を拡大し、柔然に婚を求めて断られたのを契機としてこれを攻めて滅ぼし、北アジアを統一した。
突厥の始祖神話は、従来から狼の始祖神話ということになっているが、高車さらに烏孫のそれをみると、そもそも世界に類例の多い狼に育てられた人間という事実の話に由来するように見える。烏孫のそれは狼から生まれたのではなかった。育てられたのである。
正直なところ巷間にいう獣のトーテムとこれを始祖とするという古代の俗は、確かな根拠があるのであろうか。もし北方ユーラシアから狼の始祖神話を削除するとすれば、獣をテーマとする神話ないし伝承が霧散するのである。しかも突厥の神話の骨子が烏孫のそれに由来するなら、そもそも始祖神話そのものが古代のトルコ族にあって存在しない。
事実あった事件がひたすら増殖を重ねていくプロセスなのである。その典型的な例がモンゴルの神話であった。
一三世紀のモンゴルの祖テムジンの家祖の神話は、ドーソンの「蒙古史」にひくペルシャの歴史家が同時代に収録している。これによればモンゴル人はかって一族が滅び、二組の男女が生き残った。外界から隔離された岩山の中に逃れ、やがて子孫を増やし鍛冶の部族となったとき、岩山の鉱坑を煽って爆発させて通路をひらき、オノン・ケルレン・トラの三河の河畔に住み着いて、「蒼い狼」という首長を選んだ。鍛冶師の誕生神話を含む。
その後その子孫のドブン・バヤンの妻アラン・ゴアが夫の死後、「天窓から光が入ってきて、それが少年にかわった」といい、この光に感じて三子を生んだ。その一人がジンギスカンの祖ボドンチャルである。
「元朝秘史」では少し異なる。蒼き狼と美の鹿の子バタムカンがモンゴルの祖で、その一〇代目のドブン・メルケンの妻アラン・ゴアに光る黄色い人が来て孕み三子を生んだ。その一人の子孫がテムジンである。この元朝秘史には鍛冶の話がなく、狼の始祖と日光感精神話の二つの始祖神話がある。
しかしながらここに時代が降るが、アルメニアの史書に記録されるタタール人の始祖神話というものも残る。これはテントの天窓から入ってきた光に母なる人が感じて孕み、生まれたのがタタールの祖ジンギスカンであるというシンプルな神話である。
この最後のものが原形であろう。
つまるところ、モンゴル人の本来抱いていたであろう始祖神話は、すなわち狼でなく日光感精神話であった。この見解は内藤湖南氏以来通説といっていい。狼と鍛冶の神話は、モンゴル以前に北アジアに勢威をもった突厥のそれにちなむのである。しかもその突厥の始祖神話のうち、鍛冶のそれはすなわち突厥の生業であって、かつこれをもって柔然の鍛奴であった史実をいうのである。 ここにおいて神話の成り立ちというものについて、ある程度の推測がつく。これは剽窃なのではない。たとえばモンゴルの神話は突厥のそれを模倣したのでなく、突厥の栄光を正当に継ぐという信念に基づいたであろう。北アジアの大地が育んだ過去の嚇葯たる栄光は、ひとえにこの大地とともにこれを呑み込んだモンゴル人に帰すものであった。
突厥には本来始祖神話というものがなかった。モンゴルにはあったが、それは獣祖神話でなく感精神話就中日光感精神話(以下感精神話)であった。
これについて三品彰英氏はおよそ感精神話というものは、雷電星辰のよりもの、天下る霊物によるもの、日光によるものがあり、いずれも中国から蒙古・満州に及ぶ広範な分布をするといっている。この三つの分布の仕方については、神崎勝氏がこれをさらに整理して、日光のそれが蒙古・満州のオリジナルで、雷電星辰・霊物は中国を含む北アジアに共通して存在すると指摘している。
霊物については、玄鳥の卵(殷)・霰・流星・菖蒲花・卵の半分の大きさの日精・字図・大星・薬一丸・神鵠の朱果(清)を挙げている。霊物は呑み込むということになろうが、雷電星辰やとくに日光はこれに接して孕むということになる。
遊牧民族にあってはさらに室内にあってかつ天窓から射し込む光に感精するのである。北魏の太祖道武帝の母は「日の室内に出る」のに感じて孕んだという。高句麗の朱蒙の母も室内に幽閉され「日影の射して避けるも追う」ものに感じて孕んだ。
さてこれらが総じて感精神話に括れるとすれば、その原形的なものが問われなければならないが、中国中原に発した夏・殷・周などの古代国家の文明のそれに由来するであろう。
たとえば周の祖という后稷の誕生はつぎのように伝えられる。
后稷の母姜原は野に出て、巨人(天帝)の足跡を見て、欣ぶ心あってこれを踏みたいと思った。そしてこれを踏み孕んで一子を生んだ。それが后稷であるという。不祥のためこれを棄てたが、牛馬・鳥がこれを避けて踏まずまた助けたという。ちなみに周は西戎の出自であった。
東夷の出自という殷の祖契の説話は、その母簡狄が玄鳥の卵を呑み込んで孕み契を生んだ。この鳥の卵という霊物による感精神話は、とくに卵生神話といわれる。卵生神話については、周に滅ぼされたという山東半島内陸部の准河流域の徐国の神話が残っている。
すなわち「徐国の宮人が孕みて卵を生み、不祥として捨てるが犬が咥えて母に戻す。母は異となしこれを煖め、遂に小児を成す。長じて仁智、襲いて徐君となる」とある。また「溝を開き、舟行の便として、天瑞をもって朱の弓矢を得た」ともある。
卵で生まれるという完全な卵生神話であるが、内陸部の后稷説話と同様な棄児の伝承もある。山東の徐国の神話が不祥と棄児のそれをもつことは、周の時代にすでに大陸一帯で神話の融合が行われていたことを示唆する。
このうち感精神話については先に言った。卵生神話については、中国中原のそれとは独立して、インドネシアから南シナ海・東シナ海・黄海に沿う中国大陸沿海部に広く分布していたが、中国が春秋戦国以降に呉越を伐ってこれを切り離したために、北限をD貊、南を南島として分布に偏りが生じたという。
すると大陸の古代においては、内陸部に発祥する感精神話と沿海部に発祥する卵生神話が並立していたことになるが、そうした理解でいいであろうか。
これを仮定すると、内陸部の感精神話は北アジアの蒙古・満州に伝播していき、沿岸部の卵生神話は山東から半島に及び、その二つは満州(中国東北地方)で溶合したことになる。
それは匈奴の時代をはるか遡る、前一〇世紀から前五世紀にかけての時代、北アジアも東北アジアも半島もいまだ黎明の時代であった。その拡散が一巡した後の前三世紀、北アジアにユーラシア由来の遊牧民族国家が誕生した。中国文明に比肩しまたは陵駕するこの文明は、またたくまに北アジアを呑みこみ、東北アジアと半島に浸出していった。半島においては徐国型の始源の卵生神話と感精神話の溶合する上に、北アジアの遊牧民族の独自に発展した日光感精神話が覆い被さったのである。
ここに至ってやっと北アジアに発した王権とその始祖神話の波及と経路を東北地方と半島で探ることができる。
夫餘と高句麗の始祖神話β
夫餘の神話は「魏志夫餘伝」によれば、次のような簡潔なものである。以下史料については神崎勝氏のまとめたもの並びに氏の見解に一部に準拠する。
夫餘の始祖東明王の母は北夷の索離国の王の侍児であったが、「天上の鶏子の如き気」にあたって孕み一子を生んだ。王は(不祥として)棄てたが、猪・馬はこれを避けて殺さず、以って母に返す。名づけて東明。長じて弓矢をよくし、王はその猛きを憎みて殺そうとしたため、逃げて「掩施水」に至る。弓をもって水を撃てば魚鼈が浮いて橋となり、東明が渡ればすなわち解けて追う兵渡れず。その地に都して夫餘の王となった。
出典は他に「論衡」・「後漢書夫餘伝」があるが、いずれも大同小異である。音韻からするこの索離国の意味は、「黒水国」で黒龍江を示し、掩施水は「大河」の意で松花江を指示するらしい。卵生伝承は痕跡程度であるが、確実な感精神話(日光感精誕生型)をもっている。
感精的なものを除くすべては、まさに徐国神話型の影響といってよく、これらはそもそもDが担ったそれであろう。夫餘の王家としてこれらを捨象すれば、この神話の骨子はほとんど「南下渡河・侵入建国」と渡河における「魚鼈扶助」という二事件に尽きている。
オリジナリティーという概念をよく咀嚼しておこう。これがつまり夫餘のピュアな神話なのである。本来のそれはほとんど南遷をいうだけであった。
つづいて高句麗のそれをみてみよう。「魏書(北魏)高句麗伝」による高句麗の神話は、主人公を朱蒙という以外は全体的に夫餘のそれと大同小異だが、卵で生まれるという完全な卵生をともなうとともに、夫餘における侍児が「河伯の女」といって、危機を告げて朱蒙の出奔を導く。魚鼈の挿話の河は「一大水」と書かれるが固有名詞ではないことに注意がいる。朱蒙の母河伯女は夫餘王に幽閉されたが、その室に光射し身を避けるも日影なお追い、遂に孕んで一卵を生む。王はこれを棄てるが犬・猪・牛馬これを避けて殺さず、割ろうとして割れず、遂に母に戻す。母はこれを暖めすなわち殻を割って一男を出す。名づけて朱蒙、長ずるに弓射をよくし、夫餘人怖れて王に除くを請うが王聴かず。さらに夫餘臣ついに殺さんとす。母これを聞いて「国将に汝を害さんとす」と朱蒙に告げて逃がす。朱蒙は夫餘から東南に走り、一大水に至る。渡るを得ず、追撃急。朱蒙「我是日子、河伯外孫。如何得済」言えば、魚鼈並び浮かんで橋となる。遂に渡る。魚鼈解き、追騎渡れず。卒本に至って国を立て高句麗と号す。
朱蒙の説話は中国史書ばかりでなく、広開土王碑にも「天帝之子、母河伯女郎」とあり、卵を割って出生し長じて夫餘から逃亡またその過程での魚鼈の挿話もある。
高句麗の族長「牟頭婁塚墓誌」には「河伯孫日月之子、鄒牟聖王、元出北夫餘、天下南方、知此国云々」とある。この場合河伯外孫を先に挙げてかつ日月の子と明記してある。これは天帝の子でなく孫にあたるとみられるが、このほうがオリジナルかも知れないという指摘もある。
夫餘と高句麗のこうした「(東)南下渡河と侵入建国」の説話は、夫餘にあってはその黒流江流域にあった夫餘の祖たる一族が南下して、松花江流域の吉林または農安に都した事実をいうであろうし、高句麗のそれも夫餘に倣うとともに吉林または農安付近からたぶん東南下して、桓仁に都したということを示唆するであろう。するとこれらはひたすら史実の反映であった蓋然性がたかい。
しかしながら史実とすれば、その基本的なプロセスは一部族の離脱と逃亡そして新天地における国家の創設なのである。
次のことだけは問題が残るであろう。すなわち高句麗にある夫餘との微妙な相違である。いずれも渡河にかかわることで、魚鼈浮橋の奇跡は、高句麗にあっては朱蒙が「我皇天之子、母河伯女郎」と言うことが呪文であった。夫餘の東明王は「以弓撃水」なのである。
これは一に朱蒙の母が河伯女であることが原因であろう。するとオリジナルは夫餘のそれで、弓矢の呪力は徐国のそれとも似ていたことに注目したい。つまるとこと渡河の説話はそれ自体は夫餘でも高句麗でも史実であった。ただ魚鼈の挿話は穏当に読めば、逃亡者がある援助を得たために無事建国の地に入ることができたということをいうのである。したがって魚鼈のそれこそ夫餘・高句麗の始祖神話のオリジナルでなければならない。そうであろうか。
まとめると東北地方には古来の「庶子・卵生・棄児・試練・大成」という徐国型の神話の体系があった。そこに夫餘の「南下渡河」・「侵入建国」という史実にともなってオリジナルの「魚鼈扶助」の神話が重なった。高句麗はその先夫餘の出自をもって、「南下」を「東南下」とする以外は夫餘の神話をそのまま担ったが、その母を「河伯女」とすることにおいてのみオリジナリティーをもった。 夫餘のそれが「大きさ鶏子の如き」という気に感精する点と、高句麗のそれが日光に感精して一卵を生むのは、せいぜい時代差の程度であろう。
ひるがえって高句麗の河伯女は、何に由来するであろうか。
夫餘とははっきり異なったこれは、先に述べたように、例えば「河川の民」に由来する。朱蒙が姻族とした地在の高句麗族に発祥するのだと思う。
広開土王碑・牟頭婁塚墓誌・北魏書高句麗伝・三国史記などにおける相互の差異は、一二世紀という三国史記のそれがもっとも複雑化して挿話の数も夥しい。しかし本質的な点を求めれば、牟頭婁塚墓誌のそれだけが目立つ。すなわち大河に臨んで「河伯之孫、日月之子」と唱えるのである。「天帝(日)の子、母河伯女」という広開土王碑や北魏書との順序が違う。
その牟頭婁はその祖が夫餘から朱蒙に従ったといい、いま北夫餘を管理するという。文脈からすると官吏の体を感ずるが、要するに官僚であろう。するとおそらく北部を管掌したという絶奴部の出身かも知れない。この部は「世々王に婚す」という姻族であった。姻族としてその河伯女を王家の祖とするために、まず「河伯之孫」然る後「日月之子」というのではないか。
ちなみに王権が天帝と河伯女との間の子にあったという伝承は、匈奴に先立つ西ユーラシアのスキタイの王家のそれに似る。
さて夫餘・高句麗の始祖神話を、一応そのオリジナルにおいて抽出したが、ここに至ってこのオリジナリティーが全きそれであるかについて一抹の疑問が湧く。ただ南下、東南下だけであったのなら、あまりに修辞がきつい。
これらの収斂するところとを見る前に、さらなるオリジナルとして衛満の王国を覗きみたい。この議論を進める上では必須の作業であると思う。
檀君神話の陰影β
衛満の国家がいかなる王権をもったかについて、知られるところがない。その神話も伝わらない。ただ筆者は実は世にいう檀君神話こそそれであろうと思う。
この神話はいかにもシンプルである。天帝桓因の庶子桓雄が三つの天符印をもって太伯山の神檀樹の下に降臨し、岩穴にあって熊と虎と一緒に暮らした。熊は修行して人間の女になり、桓雄に嫁いで檀君王倹を生んだ。王倹はその後平壌にうつってそこに都した。
大林太良氏はこの神話を分析して、熊は豊穣を意味する農業生産を、虎は高麗朝の官吏で武官を「虎班」といったことを事例として軍事組織能を意味するといっている。これは匈奴に影響を与えたスキタイの王族・戦士・農耕の三機能を前提としているのだが、王家に伝わる盃・戦斧・犂を意味するものでもあるという。大和における三種の神器である。
筆者の理解では、熊と虎はそもそも大興安嶺の東側すなわち東北と半島地方において神たる獣であった。魏志東夷伝にも「穢は虎を崇める」という記事がある。前三世紀においてはいまだ未開に等しかったこの地方で、熊と虎はそれぞれの在地の部族そのものを意味するであろう。そして熊を標榜する部族を姻族とした。
また太白山への降臨は、遼東から平壌へ東遷した史実をここに仮託するであろう。思うに匈奴にあってもその後の鮮卑・柔然・突厥にあっても、天上からの降臨という歴とした伝承はなかった。スキタイにもない。天上と天子・天孫の関係は、前述のように修辞であって、天界を支配する天帝(ゼウス)の後裔を意味するのみなのであろうと思う。実態は天地・日月と同格の王者であった。降臨の本来の意味も遷都であったであろう。
疑問に思うのはこの檀君神話が異常にシンプルなことである。骨子だけがあって本来の神話としての構成が垣間みえない。
中国の史書にみえる檀君神話の嚆矢は、北斉時代に編纂された北魏書で、成立は西紀五五一年以降とみられる。「檀君王倹開国号朝鮮」とある。平壌が高句麗の版図に入ったのは西紀三一三年、遷都して首都となったのが西紀四二七年であるから、これは高句麗時代に採取された。一方三品彰英氏によればこれらが記載する太白山と神檀樹など主要なモチーフは、仏教の影響を受けたものであるという。時代はさらに絞れて、高句麗に仏教が伝わった小獣林王二年(三七二年)から北魏書の五五一年の間に、高句麗支配下の平壌で完成をみたのであるという。
しかしながらこのために檀君神話がいわゆる創作とはかえって思われない。高句麗支配下で生まれたにしては、高句麗の始祖神話とはあまりにかけ離れているためで、これが平壌の地域伝承であったという見解がこれに拍車をかける。
そのさらに遡って平壌に存在した神話があって、そのオリジナルの神話はこれよりもさらにシンプルなものであったという想像がたやすい。
平壌をひらいた王家が外から至って王倹城を築いたという伝承に違いない。そして王倹の名称はすでに史記朝鮮列伝に「満はその国に王となり王倹に都した」とあるのである。
夫餘と高句麗の神話をあらためて檀君神話と比べると、一見まったく主題の異なるそれにみえるが、天からの降臨をすなわち本拠地からの脱出と新天地への侵入とみれば、基本的な文脈は違わない。
そしてこの文脈のなかで、夫餘と高句麗をあらためてみると、次なる課題が顕れる。「東明王」である。
夫餘の主人公の名を東明とするところに、筆者は強く疑義を感じる。
東明の名は中国史料には夫餘にのみ登場するが、朝鮮史料の三国史記・三国遺事ではむしろ高句麗始祖王朱蒙の謚であった。これは夫餘の滅亡(三四六年)の後、東北唯一の雄国となった高句麗が、出自上宗家たる夫餘の始祖王の名を仮冒したと見ることができるが、それだけの理由では率直に納得しがたい。
こうした仮冒をよくするためには、この東明王の号がすなわち画期の英雄のそれでなければならないと思う。しかしそうなっていない。
そもそも夫餘の神話が語る東明王は、文脈からして単なる南下建国王であった。高句麗の朱蒙も文脈からすればさほどの英雄性もまたもたなかった。むしろ画期は母の河伯女という出自にあったのである。その朱蒙の高句麗があえて夫餘の始祖王の名を仮託するのは、東明という名がD貊といわれたこの種族にとって極めて誇るべき画期なそれであったのでなければならない。
ここに問題野焦点がある。東明は夫餘の始祖王のそれではなかったと思う。
高句麗はもとより夫餘にも先立って、文字通り東に走って曙の地に国を建てた人物のそれではなかったかと思う。
衛満である。
たとえば檀君神話が平壌で採録された時、そこには衛満の謚として確たる東明王があった。すでに夫餘と高句麗の神話に東明王の名が使われていたためにこれを削除した。想像だが蓋然性はあるであろう。
夫餘の建国はその時代が明らかではない。およそ前一五六年から前一〇八年の間にあったとみられる。その最初の王都は吉林であろう。しかし衛満の朝鮮王国は前一九五年から前一〇八年まで八八年余存在した。夫餘国は衛満国の興隆と滅亡をみながらその国家を創始したのである。
つまり夫餘は大興安嶺の西からその始祖神話を抱いて移動してきたのではない。移動した後で巨大な国家の文明に影響を受けたのである。
一方高句麗は前一世紀後葉に桓仁に建国した。ただしすでに論じたようにその始祖朱蒙が姻族として自らも同化した高句麗族は、衛満の王国とともに組織化されて国家の体を呈していた。夫餘よりもさらに密接な関係にあったであろう。
この点をあらためて認識すれば、その衛満の担った王権と神話がどのように引き継がれていったかが推測できる。衛満王国の滅亡は漢の武帝の前一〇八年であった。そして楽浪を主体とする四郡が置かれた。拡散した衛満の王権は夫餘と、まだ夫餘化していない高句麗族に引き継がれていったであろう。ついでにいえば、知識としてはこれを体系的に楽浪に引き継がれたであろう。さらにいうなれば天孫と姻族の骨子のみが、楽浪・高句麗・新羅・高麗朝とつづく悠久の時代を経て、平壌の檀君神話に残存した。
この仮定にしたがえば衛満の神話の要点もまた明らかである。夫餘の神話の不祥の卵生的神話を除いた全部であろう。すなわち天帝の子(庶子)たる天孫が一大水を魚鼈の扶助で渡るを得、平壌(王倹)に入って建国した。一大水はすなわち鴨緑江である。魚鼈はすなわち鴨緑江の河川の民である。
ちなみに中国史書の伝える夫餘神話では、東明王は索離国(黒龍江)から出奔して掩施水(掩利水・掩滞水)を渡って建国したが、この掩利水(アムリ)もすなわち「大河」の意であった。そしてこの大河という称は半島においては普通鴨緑江(アムル)をこそ指示するのだという。
したがって夫餘伝にいう「渡河掩施水」も高句麗伝の「渡河一大水」も同義であって、伝承の骨子は「渡河鴨緑江」であったのではなかろうか。夫餘が黒龍江上流域から南下して渡るべき河は、その当初の都城が吉林とみられるために松花江であった。高句麗においては吉林から桓仁に至るためには、一小河すら渡る必要がなかった。
掩利水・一大水の真の意味は鴨緑江に違いない。
そしてこの魚鼈に仮託された鴨緑江の河川民こそ、衛満の逃亡を助けのちにその姻族となったものだったのではないであろうか。 衛満は「千余人を連れて東方に亡命し、朝鮮・真番ならびに燕・斉から流れた族を糾合して、ついにその国に王となり、王険(平壌)に都した」のである。しかも時の朝鮮なる地名は前章のように遼東をいった。遼河以東、遼東半島から鴨緑江流域一帯を指すであろう。その河川の民がたぶん貊と呼ばれていた。
魚鼈扶助の神話は夫餘・高句麗にオリジナルなのではない。衛満のそれにオリジナルであったと思う。
そして高句麗の河伯女の挿話は、もし衛満の姻族である朝鮮の族すなわち鴨緑江の河川の民であれば、高句麗の朱蒙が姻族とした高句麗族と同源ではなかったかと思う。
天帝と河伯女の子という基本的な王家の出自は、結局、匈奴も東胡たる衛満もともに抱いた概念であったのであろう。
歴史と神話との関りについていえば、ひとえに神話のなかにどれだけの史実が含まれているかという問題に尽きる。あたりまえである。これは王権という抽象概念についても同様であって、王権の由来がどこに発してどのような経路を辿って伝播したかが問題である。その経路の特定こそ史実の本質を示唆するものである。
夫餘・高句麗の神話の根幹にある王権は、むろんマクロには西ユーラシアからそれを受け継いだ、匈奴に発する北アジアのそれであった。しかしその伝播の経路は匈奴の故地から直接大興安嶺を越えてきたものではなく、一にそれらの建国以前にすでに平壌に存在した衛満王国に由来するのだと思う。
むろん直接匈奴からきた夫餘の前身たる氏族の担った王権もあったという指摘があるであろう。しかし王権のみならず国体も含め、一国の文化体系が確たる完結をみるためには、内外ともに認知された確固たる国家の存在が必須であった。
ちなみに夫餘が確固たる国家として認識されたのは、後二世紀尉仇台の時代で漢から「D王之印」を拝受するときである。高句麗もその二世紀ころから頭角を顕すが、国家としての実力の認知ということでは、集安(丸都)遷都である西紀二〇九年以降であろう。
結局前三世紀から後一世紀までの間に、広く北アジアで中国以外の影響をもって存在した国家はひたすら匈奴と衛満王国の二つにほかならなかった。夫餘・高句麗以前の大興安嶺以東の満州・半島で、大いなる国家の威容を呈したのは、唯一衛満王国にほかならなかった。
夫餘と高句麗の王権と神話はもともと匈奴の俗をオリジナルとしても、なお衛満のそれを骨子とするであろう。
あらためて北アジアの国家とその波及的王権ついで文化の源流を、大興安嶺の西方と東方に峻別しておこう。西方では匈奴がそして東方では衛満の王国がそれぞれの出発であった。前三世紀末葉である。
列島では弥生時代前期前半が終わり前期後半に入ろうとする時期であった。
文化の経路β
王権は思想でありまた文化のひとつであると思う。そしてこの文化の経路を考えるとき、筆者はそこに確固としたセオリーがあったと思う。
辺境にこそオリジナルが遺産するというセオリーである。それが極東とよばれる最たる辺境であった倭に、匈奴および衛満の王権が伝承された理由であると思うのである。
辺境に旧い文化が残るという現象はそもそも普遍的なものである。日本の漢字音が典型的なそれであった。言語学のカール・グレーン氏も現在残る最古の漢字音であるといっている。
われわれの現在も使う漢字音は隋・唐代の音である。中古音として既に体系的に整理されたものを輸入した。南朝梁代の「玉篇」、隋代に書かれた「切韻」がそれである。並行して仏典とともに入った呉音などを別にすれば、日本には七・八世紀から入って漸次国内で収斂していき書物にもまとめられた。九世紀には空海が玉篇を参照した「篆隷椽名義」を出し、昌住は「新撰字読」を書いた。一〇世紀には切韻を踏まえた「類聚和名抄」が上梓されている。
由来一〇〇〇年に亘ってその音は変わらなかった。日本語の変遷にともない口語のそれは変化をみたが、旧仮名遣いではオリジナルのまま表記される。
この間に中国における漢字音は幾多の変遷をみて今日の北方音・南方音となっている。体制の継続性に乏しかったのと、文化を異にする民族の流入がこれを助長したであろう。日本の場合は少なくとも歴史時代以降に、こうした体制変革をともなう人的融合がなかった。
したがって辺境に文化が吹きだまる条件は、おおまかにある程度体系的にこれを受けることと、いまひとつ受入側の政治的体制に継続性があることであると思う。
かって周代古音という説があった。日本の古代文書にあらわれる漢音では訓めない特殊な音の表記を、周代のそれとみなした。いわゆる上代特殊仮名使いである。これもある意味で体系的に流入した初期のそれであった。つまり当時の日本の文筆はこれを半島出自の文官が担った。その出身地は楽浪の影響を受けた韓、就中百済であったから、楽浪とその永続する漢字文化を受け継いでいた。前漢・後漢を通じて揺るぎない漢の上古音である。周代音ではむろんない。
上古音は中国では、二・三世紀、黄巾の乱から三国時代の確立に至る時期に中古音に代わっていったが、この間に楽浪は文化のレベルではこれに侵略されず、その伝統たる漢の上古音を維持したものとみられる。このことは大いに注目しておいていい。
漢代は中国中原の悠久の歴史のなかでも、もっとも安定かつ永続的な時代であった。この時代の漢字音もほぼ変化をみなかったらしい。楽浪も同様である。その後後漢の時代に入って、中原の朝廷は半島の経営に関心を減じていったから、楽浪はその辺境にあって独立自治区の体を成した。
後漢末葉からの中国の激動の影響、すなわち公孫氏・魏・晋の文化が、少しはこれを変革した可能性もある。しかし魏志韓伝・倭人伝をみても、その太守に王姓も見え楽浪官人の権威は維持されていたとみられる。中原との人的融合が大きなものでなければ、体制の変革も微小で、漢字文化もまた漢のオリジナルのままを残したであろう。
すなわち魏・晋の時代にあって、楽浪の古風な上古音はすでに中原のそれと異なっていたのである。日本の古代文書が七世紀の段階でもなお古訓を残していた理由もここにあろう。拠ってたつのはすべて楽浪の漢字文化であった。
すべての文化が漢字音と同じように辺境に定着するという解釈は成り立たないが、いくつかの条件によってはつねにこの事態が起こりえた。自然で必然的な流入と定着次いでそれを意図的に整備することである。この場合意図的なそれがないと、新しい流入と定着が絶間なく起こることになる。今一つ辺境には、その嚆矢に洗礼を受けた文化を維持することに頑固であったという性質を指摘することができるかも知れない。
とくに日本は、列島をなして大陸あるいは半島から一海を隔てていることが、辺境の度合をたからしめていたのである。
大興安嶺の東方にあって衛満の王国から始めた王権は、東北地方と半島のみならず列島もまたこれを直接洗ったのではなかったであろうか。どんな文化も簡単に海を越える。しかしながら確固としたものはもっと容易にそれをするであろう。
衛満王国は平壌を中心にのちの楽浪郡を直接支配した。そして集安を中心とする鴨緑江中流域から東北地方に強い影響力をもった。真番と臨屯の地にはたぶん緩やかな支配関係をもった。以上の地域すなわち東北から半島にかけての広大な領域は、九〇年に渡った衛満王国の思想と文化を吸収して、これを自らのものとしたのである。
列島にあっても隣国の最初の国家の出現は、驚異と畏怖のそれであった。そしてたぶん列島は、三国史記の新羅本紀が記録する倭寇の時代であった。
倭寇が羅紀の通りというのではない。その記録自体は後世からの仮託であろう。ただ列島に確たる国家とっその勢威がなかった時代には、かならず倭寇の盛んな活動があった。それは略奪者であると同時に交易者でもあった。衛満の王国と直接交渉をもったのは、まずこの海賊に類した倭人たちであったのだと思う。その王権の列島に渡来した証拠はない。そもそも文献にない。ただこれまで列島の王権の嚆矢といわれてきた一世紀中葉の「漢倭奴国」に先立って、間違いなく存在が確認されている古代国家が一つあった。これも一例となる。
早良国という。
鳥越憲三郎氏によれば博多湾沿岸内陸室見川中流域の早良に、弥生時代前期末葉にはじまり、中期前半に消滅した短命な国があった。前二世紀末葉から前一世紀前半である。その開始は衛右渠の滅亡時(前一〇八年)に近い。
この早良王国の遺跡は、高床式の王宮・倉とともに土間式住居が分散して存在し、墳墓もまた王墓・戦士墓・庶民墓の三つが独立して位置していたという。とくにこの墳墓の区分は出土副葬品によって明確に分類できるらしく、王慕には石器・青銅武器・碧玉が出土し、戦士墓には主として石器・青銅器の武器が出た。庶民墓とみられる甕棺には副葬品がなかった。
スキタイ式の「王家・戦士・農民」の別が再現されているように見える。スキタイの三種の神器もこれに由来する。高句麗にもあり日本にもむろん王権の標として存在する。
この遺跡がその後どこに通じていったかは分からない。しかし一世紀中葉の奴国や二世紀初葉の伊都国へ至るのではないと思う。たとえば前一世紀中葉から一世紀をかけて、そこから内陸に向かって浸透していった。一世紀ないし二世紀にすでに存在したことがあきらかな吉野ヶ里遺跡や邪馬臺国もそのすぐ先にある。
この時期の王権の経路と関るらしい要素もある。縄文時代末期ないし弥生時代前期初頭からみられる支石墓である。
支石墓は伊都国のあった糸島半島を境界として、その西部一帯から有明海沿岸一帯に分布するという。博多湾沿岸はこれをはっきり除く。有明海沿岸は肥後や筑後の範囲である。後の邪馬臺国と周辺国の版図に重複する。これらの国々が弥生の初期から、博多湾沿岸とは拠って立つ文化的要素が異なっていたようである。支石墓に直接関係がないとしても、文化の伝播の経路としては意味深長である。
すこし話がそれるが、列島の文化的な草創期がこうしたものであるとして、その後の前一世紀から間断なく列島を洗ったのが、すなわち楽浪文化であった。
その文化は圧倒的な高文化として韓次いで列島の倭を呑み込んだ。そこからとくに商業を主たる生業とする都邑が生まれる。 博多湾沿岸の奴国・伊都国である。
これらの国に対する岡田英弘氏による分析は的を射ているであろう。これらの都邑国家はその成立の次第からして商業国家であり、行きつくところ楽浪の華僑の植民地的なそれでもあった。
したがって列島の国家は、これらの沿岸国家を全ての発祥とみなしてはならない。これと背反するように糸島半島西部から有明海沿岸に至る内陸に育った国家の兆しが、真の国家の礎であった可能性がある。
さて王権の由来はいまだ始祖神話からは、これを解けていない。これまでの議論は、日本の王権の様式が万世一系と姻族のシステムで成り立ち、その源流が匈奴から高句麗への流れがあったということであった。そしてその高句麗もおそらくは衛満王国に由来する。したがってその衛満王国こそ匈奴とともにこの王権のシステムを担い、かつ列島の倭はそれを直接の源流としたかも知れない。
その蓋然性をもうすこし探りたい。
日本の神話とくに王権にともなう神話は、かならずしもこの想定と合致していないようにみえるのである。
果してそうであろうか。
さしあたって日本の王権と半島の南部すなわち加羅と新羅のそれを比較することを試みてみよう。
日本神話と加羅神話β
どんな民族も神話をもった。ここで問題にしている神話は王権の由来としてのそれである。この整合性がとれなければ、以上の議論は直ちにごみ箱に抛りこまなけくてはならない。王権の由来が史実に核をもつことが必要である。
王権のその権威はひたすら北方アジアに発するものであった。その余の膨大な神話は直ちに関係しないが、ひとつの民族のなかで一氏族が王家を成して、かつ諸々の氏族とその同胞を取り込むという過程では、文化を共有する民族の神話の誕生があったであろう。それこそその民族の共有した文化の証しであった。
日本神話もまたそうしてできた。
ただ日本神話は他に類をみないほど多様で多岐にわたっていた。その数々の挿話は例えばギリシャ神話の多様さ多岐さに似ている。とても王権の由来を主題にしたものとは思えない。
結局のところ神話というものは、これを熾烈に捉えれば、よくいう権威のために創られるものという見解を裏切るであろう。
思いのほか目的に応じて整備されたものではないのである。始祖神話すら本来王権の由来をもって万民に君臨するのを至上とする筈である。しかしその目的のためには神話そのものの構成が論理的でないと思う。氏族の担った事実の伝承がすべての骨子にあって、かつ接触するその水平の文化に影響を受けつつ、過去から担う本来と文化的な複合をしていくのである。
そしてさらに重大なことは、その先に収斂していくところは、むしろ神話自体の完成度ではなかったのだと思う。すなわち神話はその本質のところで文学であったと思う。日本神話もその典型であった。
簡単に鳥瞰してみたい。
北方系と南方系のおおまかに二種でできているらしい日本神話を分析するのは、そう簡単ではない。しかもそれぞれ時代と背景の異なる挿話が融合しているように見える。ギリシャ神話との著しい類似はすでにおおくの認知をみている。その詳細を述べれば、さらに一冊の本が必要だからここではすべて省略しよう。
日本神話の王権にかかわるそれは、天孫降臨と東征建国の二つのテーマで出きていた。これに海神の母と渡海を加えればほぼ骨格を網羅する。
このうち天孫降臨は一見特殊にみえるが、檀君神話のそれについては要するに遷都を意味するものであった。日本神話でも同じであろう。時に高皇産霊、真床追衾を以て皇孫天津彦彦瓊々杵尊の覆ひて、降りまさしむ。皇孫乃ち天磐座を離ち、且天八重雲分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、串日の二上の天浮橋より、皇孫是に、天磐座を脱離ち、天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、天降ります。果てに皇孫をば、筑紫の日向の高千穂の串触峯に到します。(書紀一書1)
故天津彦火瓊々杵尊、日向の串日の高千穂峯に降到りまして、背宍の胸副国を、頓丘から国まぎ行去りて、浮島在平地に立たす。(書紀一書2)日向の襲の高千穂の串日の二上峯の天浮橋に到りて、浮島在之平地に立たして、背宍の空国を、頓丘から国まぎ行去りて、吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。(書紀一書4)
時に天降りましし処をば、呼ひて日向の襲の高千穂の添山峯と曰ふ。(書紀一書6)
故ここに天津日子番能邇邇藝命の詔りたまひて、天石位を離れ、八重たな雲を押し分けて、稜威の道別き道別きて、天の浮橋にうきじまり、そろ立たして、筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき。
ここに詔りたまひしく、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」と詔りたまふ。(古事記)ここには実は本論と無関係な無駄な要素がある。それから先に検討しよう。
特徴的なことは、瓊々杵が降臨の際に被ったという「真床追衾」と、その降臨の地である「筑紫の日向の高千穂峯」でろう。
文脈からすると、この高千穂峯の別称が「串日・串触」であるらしい。そしてそこから更に、峰々をつたって荒れた不毛の丘を下って、「襲・添・狭・沙」あるいは笠沙に下り立つのである。
串日の名称と不毛の空国(古事記は韓国)に留意すべきであろう。
さてこの降臨の様子がきわめて類似する神話が、三国遺事「駕洛国記」に記録する、加羅の首露王の誕生神話である。所居の北亀旨に常と殊なる声気あり。衆庶を呼喚し、二、三〇〇人が集会す。人の如き音ありて、「ここに人ありや否や」という。九干ら「吾が徒あり」といえば、また「吾が在る所はいづこなるや」という。対えて「亀旨なり」という。
またいわく、「皇天が我に命ずる所以は、この地に御し、家邦を君后のために新たにす。これをなす故に降りる。爾ら須らく峯の頂を掘り、土を撮り、『亀いずこ亀いずこ、首それ現すや、若しくは現さざるや、燔灼して喫するや』と歌い、蹈舞すべし。すなわちこれは、大王を迎え、歓喜勇躍するものなり」と。九干咸忻して歌舞す。
未だ幾もせず仰ぎみるに、紫の縄が天より垂れて地に着く。縄の下を尋ね、紅幅が金の合子を裹むを見る。開きてこれを見れば、黄金の卵六つ、円きこと日の如きものあり。衆人は悉くみな歓喜し、倶に伸びて百拝し、ついで還える。
きものに裹みて抱持し、我刀の家に帰り蓐におく。翌日の平明に衆庶また相聚集して合を開く。而して六卵は化して童子となる。容貌は甚だ偉、すなわち床に坐す。日々大きく、十余晨昏を過ぎ身長は九尺。
即位し、始めに現れる故に首露と諱す。国は大駕洛また加耶と称し、すなわち六加耶の一なり。余の五人は各々帰りて五加耶の王となる。
この神話の成立は檀君のそれとおなじく、仏教の影響があるらしい。また亀は中国由来ながら古来吉祥の徴でもあった。識者は一連の文脈を、とくに首露廟の祭儀における演劇的な発展をみたものといっている。骨子をいうなら、檀君とおなじくシンプルな降臨そのものであったのであろう。
整理すれば加羅の首露王は、「亀旨峰」に「紫の縄の先の紅幅」くるまれた箱のなかの、六つの金色の卵の姿で降臨した。その最初に殻から出た赤子が大駕洛の始祖首露王となった。その山上を蘇伐(そふり)ともいう。
日本神話と著しい類似をもつ
。 すなわちこの亀旨峰が「高千穂の奇触峯・串日峯」、蘇伐あるいは所夫里ともいう後の京城(都)の意が、瓊々杵の降臨地「襲・添・狭・沙」である。また紫の縄の先の紅幅が、瓊々杵のくるまれた「真床追衾」に相当するであろう。
この類似はむろん偶然ではない。文脈の構造がとくに似ているのではなく、地名そのものが酷似するのである。日本神話は加羅神話兄弟なのであろうか。
この問いに対する答えはノーである。直接的な王権に関る神話のうち、これはとくに瓊々杵の降臨に関るそれであった。そのためにこれは、日本神話のそんなに大きな領域を占めなかった。
要は「襲」たる「奇触峯」に降りたという、山上降臨の名称の縁起に過ぎない。しかも真床追衾の伝承は、その後も大王氏の践祚儀礼として受け継がれたものらしいが、それ自体がこの紅幅にのみ由来するのではない。モンゴルの王位継承はフェルトにくるまれてするが、この北方ユーラシアの形式の方は紫の縄をもたないこともあってさらに近いようである。
ひるがえってこれを見直せば、書紀・古事記における本来のオリジナルな記述では、「筑紫の日向の高千穂峯」に降臨するというそれで十分であった。史実の反映とすればそれ以上も以下も必要でない。亀頭を意味するらしい亀旨(奇触峯)も都邑を示唆するらしい蘇伐(襲・添・狭)も本来記述すべき必然性がなかったと思う。
神武の王権の本来的な形式は、こうした周辺の付帯物でなく降臨そのものにあった。強いていえば高千穂峰の神木に降臨したのではないかと思う。降臨の命令者高皇産霊の亦名を高木神というのはこれを暗示する。
とすれば、日本の王権にまつわる神話もまた、本来夫餘や高句麗に劣らずシンプルであった。
書紀本文をこれにみあうように復元してみよう。時に高皇産霊、(真床追衾を以て覆ひて)皇孫天津彦彦瓊々杵尊を降りまさしむ。皇孫乃ち天磐座を離ち、天八重雲分けて、筑紫の日向の(襲の)高千穂(の串触峯)に天降ります。皇孫のさらに遊行するに、頓丘から国まぎ行きて、吾田(の長屋の笠狭碕)に到ります。
吾田はすなわち、瓊々杵の降臨の地での后たる神吾田津姫のいた大地である。だからこれは意味がある。以外の地名はそういう具体的な意味をもたない。直感的に本来のものと思えない。
これは瓊々杵の存在にたいする疑問につながるものである。
瓊々杵への疑義β
視点をあらためてみよう。まず天忍穂耳と瓊々杵のそれぞれの立場である。
多くの識者が本来の伝承にあった降臨者は、忍穂耳ではなかったかという指摘をしてきた。その理由は、この一連の文脈がひたすら忍穂耳の降臨のために、いくどもの葦原中国の討伐を繰り返しているからである。その結果いざ降臨という段になって、確たる説明ぬきでその子瓊々杵の降臨にすりかえられる。
これを持統が、亡き後継者草壁の子文武を皇位につけたという後世の史実の仮託というのは、説得力があるが筆者は基本的にそうした見解に組みしない。
本来的に瓊々杵という人物が、ここに記載されているようではなかったという視点でものを考えたい。理由はいくつもある。
そもそも降臨の命令者が天照と高皇産霊の二者あって、この関係の混乱が明らかであることである。系譜によれば瓊々杵は天照の嫡孫、高皇産霊の外孫であるが、命令がこの二者から出ているとすれば天照と高皇産霊のスタンスが問われなければならない。忍穂耳にとっては外父である高皇産霊は、その出自が明らかではない。
また瓊々杵と物部の祖という饒速日との、極めて不可解な類似という問題がある。それでなくとも瓊々杵の降臨の地の地名は、日向のそれとは思えない。大和の地名ではないかという疑義がある。その地名を負う瓊々杵の后神吾田津姫ならびにその父たる神の名によく現れる。そこから始めよう。
瓊々杵の降臨のともなう后・その父兄・その地の国主は書紀・古事記で次のように記載される。瓊々杵后 瓊々杵后の父兄 降臨地の国主 ========================================================= 書紀本 |鹿葦津姫 |大山祇 |事勝国勝長狭 文 |木花之開耶姫 | | |神吾田津姫 | | 一書1 | | |猴田彦 一書2 |神吾田鹿葦津姫 |大山祇 |事勝国勝長狭 木花開耶姫 | | 一書3.5|吾田鹿葦津姫 |大山祇 |事勝国勝長狭 一書6 |豊吾田津姫 |大山祇 |事勝国勝長狭 |木花開耶姫 | | 一書7 |吾田津姫 | | 一書8 |木花開耶姫 |大山祇 | 古事記 |神阿多都比売 |大山津見 |猿田毘古 |木花左久夜毘売 | | =========================================================同じく饒速日については次のようである。
饒速日妃 饒速日妃の父兄 降臨地の国主 ========================================================= 書紀本 |三炊屋媛 |長髓彦 |(長髓彦) 文 |長髓媛 | | |鳥見屋媛 | | 古事記 |登美夜毘売 |登美 |(登美毘古 | |那賀須泥毘古 | 那賀須泥毘古) =========================================================ここにおいて瓊々杵と饒速日の伝承を整理すると、まず「神吾田津姫」の亦名は「木花開耶姫」のみであろう。「鹿葦津姫」は「三炊屋媛」の転であろうと思う。
すると瓊々杵における国主の「長狭」もまた長髓彦の「長髓」の転ではないかと思う。そしてこの長髓・長狭こそ「狭」といい「添」ともいう大和の添上・添下を指示するのだと思う。日向にはこの地名はない。
そればかりでなく「長狭」という人物の、国主という立場が不分明であった。書紀一書五は「其の事勝国勝(長狭)神は、是伊奘諾尊の子、亦名塩土老翁」とあるが、系統の不明な「長狭」である必要はない。神吾田津姫(木花開耶姫)の父たる大山祇神が国主であっていい筈である。文脈に重複を感ずるのは瓊々杵の方なのである。
すなわちこの類似は決して偶然ではない。どちらかがどちらかを仮託・詐称するのである。
文脈の率直な読みかたは、瓊々杵が饒速日から伝承を採って、自らの伝承に付加したようである。
しかしもっと単純な理解がある。瓊々杵その人がそもそも饒速日であったと見るのである。
物部氏の始祖として残った天孫饒速日の伝承は、一方で大王氏の神話に取り込まれてその姿を変えた。なぜそうする必要があったのかは分からない。とりあえずこの視点を仮定して今一度整理しよう。
重複するが改めて神吾田鹿葦津姫など一連の語根は、鹿葦津なのではむろんない。神武が大和を平定する時、長髓彦は神武にこう言っている。「むかし、天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。号けて櫛玉饒速日命と曰す。是吾が妹三炊屋媛を娶りて、遂に兒息有り。名を可美真手命と曰す」
三炊屋媛の語根は炊(かしき)であり、神吾田津媛の亦名である鹿葦津姫の語根は鹿葦(かしつ)である。したがって饒速日の伝承とともに、饒速日の降臨した土地における新たな姻族の女の名である「炊姫」の伝承もまた付随してここに編入された。「炊屋」には特別な意味があるであろう。
ちなみに饒速日の降臨の場所は「狭」であった。「添」ともいう。もっといえば、長髓彦の名の「髓」は狭の意であり、神武紀にも「長髓は是邑の本の号なり。因りて亦以って人の名となす」とある。その本拠地は後の生駒の地にあり、その版図は後世にも「添」と呼ばれた地である。神武紀の大和平定直後の記事に「層富(そほ)県の波多丘岬に、新城戸畔という者有り」とも出ている。
さらにいえば、瓊々杵か降臨した場所は、「襲」の「笠狭」であり、そこに出迎えた国神の名は「事勝国勝長狭」であった。長狭はすなわち長髓彦の長髓にほかならない。
要するに書紀・古事記にあるように、火折(彦火火出見・山彦)・火酢芹(海彦)の母は、神吾田津姫であった。鹿葦津姫の名は三炊屋姫の仮託であり、その地も襲(添・狭)の地でなく、迎えた長狭なる人物もいなかった。
そしてこの場合その父は当然のことながら、忍穂耳にほかならない。
書紀・古事記の系譜では、その火折が豊玉姫を娶って彦波瀲武鵜草葺不合を生み、彦波瀲武鵜草葺不合は豊玉姫の妹玉依姫を娶って五瀬・稲飯・三毛入野・磐余彦火火出見の兄弟を生んだ。
うち神武は神日本磐余彦・狭野・彦火火出見という三つの名をもつ。古事記ではさらに若御毛沼・豊御毛沼ともいわれる。諱(本名)とみられるのは火火出見である。
磐余彦は大和磐余を占拠した事績を多とした謚、そして書紀に「狭野と所稱すは、是年年少くましますときの号なり」とある狭野は、事実はその後、添の地を制圧した事績をもって、こう謚された。添進出王である。「層富(そほ)県の波多丘岬の新城戸畔」を討ったという伝承に即す。
前節に指摘したようにこの火折(彦火火出見)こそ同名の諱をもつ神武にほかならないから、綏靖とともに忍穂耳と神吾田津姫との間の王子であろう。
豊玉姫と玉依姫は古事記でも異同がなく、また玉依姫が依の語を含むためにこの二人は姉妹であろう。したがって五瀬・稲飯・三毛入野の兄弟は、豊玉姫・玉依姫の王子に違いない。
火折と彦波瀲武鵜草葺不合はむろん神話的な仮託であり、いわゆる日向神話の成立にともなってここに架上された。
したがって、ここでの復元はシンプルに、ただ二つの事項の削除また集約をすればいい。瓊々杵の削除、そして火折から神武にいたる三代を一代に凝縮するのである。
このとき降臨者にして神吾田姫を娶ったのは、むろん天忍穂耳にほかならない。前後関係からして降臨時にすでに豊玉姫と玉依姫の姉妹を娶っていたであろう。神吾田津姫はこれを日向で娶った。
瓊々杵、火酢芹・火折、彦波瀲武鵜草葺不合の日向三代は神話的な仮構であった。事実は忍穂耳の脱出と日向への侵入、そしてその異母の王子たちの成長の物語であった。豊玉姫 +----五瀬 *火酢芹(海彦) | | +------+----稲飯 | | | +----三毛入野 玉依媛 +-----------玉手看(安寧) *彦波瀲武鵜草葺不合 +-----|----+ | 忍穂耳 | +-----+----+ | 吾田津姫 +------+----神武 *火折(山彦) | | | +----綏靖 吾平津媛 +-----------手研耳つぎなる課題は瓊々杵の母である。文脈上は忍穂耳の妃でもある。そもそも天照の嫡子たる忍穂耳は、高皇産霊の女というそれをもって天孫たるべき骨格をもった。瓊々杵やその子孫たる彦火火出見・五瀬・神武が天孫を標榜する所以である。
しかしながら一方で神武は高皇産霊を皇祖といっている。高皇産霊は神武の五代前という天忍穂耳の父なのではない。その妃万幡豊秋津姫の父である。つまり高皇産霊は外父にあたる。外父を王統の祖とするのは矛盾である。しかも書紀の文脈は、神武の時代の伝承があきらかに天照より高皇産霊を重んじていたことを示唆する。
さらに瓊々杵がここに始めから存在しなければ、その母万幡豊秋津姫を通じてあった高皇産霊との血縁すらないことになる。こうした矛盾は高皇産霊が事実上王統の祖であり、天照の宗家の男であったと理解して、はじめて解消するであろう。王位としては天照を、王統としては高皇産霊を高祖とするのである。
するとこの天照の宗族の男たる高皇産霊が、例えば姻族の女を娶って生んだ嫡系の一人が、ほかならぬ忍穂耳でなければならない。神武が皇祖と呼び、天照をもまた皇祖というのも当然のことになる。
ここで残る矛盾は、書紀があえて矛盾を覚悟で、なぜ忍穂耳の妃たる万幡豊秋津姫を高皇産霊の女としたのかという問題である。忍穂耳が高皇産霊の男であれば、この夫婦は事実上異母兄妹同士である。異母兄妹の婚姻は古来不自然なものではないが、わざわざ万幡豊秋津姫を登場させるのは、この名が王統にあって重要なそれであったためであろう。
書紀および古事記にあって、王統の系譜はしばし不測の変更を余儀なくされた。とくに兄弟を父子に組み替えるとき、それぞれの后妃といわゆる母后の系譜上の処理は、混乱を極めた。このときに普遍の、あるいはもっとも重要たるべき認識はないかといえば、すなわち王統の正嫡性ないし正統性にほかならない。
つまり母の血である。
王統に繋がることは、王位を継承する必要最低条件であり、それ以上でも以下でもない。正嫡性は偏にその母の血に由来する。したがって書紀の文脈のなかで、系統について複雑な仮託がなされた場合、どうしても残した筈のものこそ、その時点での主人公の母の血であった。
結局この疑問の解答はこうである。万幡豊秋津姫は高皇産霊の女として意味があるのではない。実際血縁すらなくていい。すなわち神武の祖たる王統から本来削除すべき、瓊々杵の母としてのみ意味があったのであろう。
瓊々杵が饒速日の仮託であり、神武の王統に後から組み込まれたのなら、万幡豊秋津姫は饒速日の正統性のために、ここに記録されたのである。
ちなみに万幡豊秋津姫の語根は「幡」であろう。幡についての議論は第二部とするが、幡は要するに「秦」に通じ、「はた」あるいは「ぱた」は半島の言葉で海を意味する。山尾幸久低はその現実的な所在を新羅の蔚珍であるといっているが、どうであろうか。 万幡豊秋津姫は書紀でつぎのように記されている。================================= 本文 | 栲幡千々姫 一書 | 万幡豊秋津媛(思兼神妹) 一書2 | 万幡姫 一書6 | 栲幡千々姫万幡姫 一書6 | 火之戸幡姫の児千千姫 一書7 | 天万栲幡千幡姫 一書7 |*万幡姫の児玉依姫 一書7 | 丹兒姫 一書8 | 天万栲幡千幡姫 古事記 | 万幡豊秋津師比売 ================================「*」印の「玉依姫」は留意しておきたいが、以外はほぼ大同小異といっていい。栲幡・万幡・豊秋津・千々姫である。
ここにおいて饒速日の出自が分かる。天孫を唱えて大王氏にも諒解を得たその由来は、おそらく半島に姻族を求めていた北九州沿岸のいわゆる都邑商業国家であろう。これを厚く遇する、あるいはその伝承を重んじる姿勢が、時の大王氏にあったのである。同時に大王氏の出自は必ずや饒速日とは異なっていたのである。戻って加羅の首露王の神話との類似もまた、その所以が氷解すると思う。
降臨の主人公を瓊々杵にした時から、饒速日が担っていた降臨の神話もまたそこに体系的に挿入された筈である。
加羅・首露王の始祖神話は、六加耶の発生説話などかなり後世的な側面が見られるが、卵生や天から山頂への降臨という説話は、ある意味で古い伝承を伝えたかも知れない。
ちなみに加羅ばかりではない。新羅の神話もこれに類する古伝承を伝える。
新羅の神話は、朴氏・昔氏・金氏の神話が伝えられるが、オリジナルは始源の慶州に発祥した朴氏のそれのみである。新羅・慶州の地には、古く楊山・高墟・大樹・珍支・加里・高耶の六村(六部)があった。それぞれの村の首長の始祖は、かって天から降ったもので、その降臨地も、それぞれの村の聖地・聖山であった。
悠久の後、六村の首長が村民を率い、聖地閼川のほとりで集まって、君主を迎えて国を立てようと相談すると、楊山の麓の蘿井のほとりに、稲妻のようなものが天から地に垂れていた。そこに白馬あって跪き嘶くので、行ってみると、一個の紫の卵があった。
これを割くと童子が現れ、東泉で浴すると光輝いた。これで天子は得たが、王后をと望むと、閼英井のほとりに鶏龍が現れ、腋から童女が生まれた。二人が歳一三になって、王と王妃に推戴して国を建てた。朴氏の初代赫居世である。
この六村は六加羅にも似ている。それでなくとも後世の中国的あるいは仏教的な脚色を受ける前の加羅の神話は、かく新羅のそれに近かったかもしれない。
ひるがえって北アジアに発する遊牧騎馬民族の天の祭祀と、天子たる始祖の祭祀は、ほぼ同等であってかつ天の存在もまた概念的なそれであった。
このなかで具体的な天からの降臨という説話が、東北から半島にかけて僅かに檀君と首露と赫居世のそれしかないということに注意したい。
もし檀君のそれが事実上降臨でなく東征の概念化であってみれば、首露も赫居世もまたそうであろう。原則的に天孫降臨なるものが一個の思想であるのではなかった。瓊々杵のそれはそのこと自体が降臨地の名称とともに、ひたすら加羅の神話に由来しただけなのであろう。
日向の添の高千穂に降りたにもかかわらず、瓊々杵が「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故此地は甚吉き地」といったと古事記が記述するのは、不思議でなくなる。饒速日の伝承がひたすら前後の脈絡なくここに採られてしまったからである。
饒速日の本たる本拠地も分かる。「韓国に向かう」博多湾沿岸のどこかに違いない。
なぜ日本神話の骨格に関るようなこの剽窃が行われたのかも、ある程度想像がつく。加羅の王家たる金官国(金海)の出自に対する尊重であったに違いない。
それはそこに母の出自をもつ瓊々杵すなわち饒速日に対する尊重と等価であった。
金官加羅の王家の出自β
三国史記によれば、新羅の王家は朴氏・昔氏・金氏と三氏が継いできたと記録するが、昔氏は後世にも跡が見えず仮構であったと見られる。そして後世の王家金氏は馬韓の出であった。この議論は岡田英弘氏の指摘以来よく知られている。
五二一年に中国南朝の梁に朝貢した新羅王は「姓は慕、名は秦」とあって、これは三国史記によれば法興王(五一四〜五四〇)である。五六四年に北斉に朝貢した新羅王は金真興というが、これは真興王(五四〇〜五七六)のことである。王統はそのままで姓だけ「金氏」に替わっている。
つまり新羅の王家たる慕(馬韓)氏が、金海の金官加羅国を攻めて王の金仇亥を降ろした年(五三二)をもって、その姓金氏を仮冒したことを意味するらしい。
ちなみに新羅は第二二代智證麻立干(五〇〇〜五一四)の時代に、後世の新羅に至る興隆を始めた。智證麻立干は、斯廬・斯羅あるいは鶏林ともいっていた国号を新羅とて、はじめて王を称した。州・郡・県を置き、また牛力による農業を興したという。
二三代法興王は官制を敷き律令を施行して、また仏教を公認(五二八)するとともに金官国征服をはじめ、領土拡大の一歩を踏み出した。
二四代真興王の時代には、西は百済を伐ち、北・北西の遠征で統一新羅以前では最大版図を獲得し、著名な真興王四碑を立てた。国史編纂(五四五)も試みている。
二五代は真智王(五七六〜五七九)、二六代は真平王(五七九〜六三二)である。
この新羅真平王の使者の聞き書きが「隋書東夷列伝」に記録されている。その王はもと百済人。海から逃げて新羅に入り、遂にその国に王となった。位を伝えて金真平に至った。
その先は百済に附庸していたが、のち百済が高句麗を征するに因って、高句麗人は戎役に堪えず、あい率いてこれに帰したので、ついに強盛を致し、因って百済を襲い、迦羅国に附庸となった。
新羅の神話のオリジナルとみられる朴氏のそれについては前述した。王統は朴氏・昔氏・金氏と禅譲されたといい、神話も朴氏以外に、昔氏・金氏のものもある。
うち金氏の始祖閼智のそれは、地名と背景のわずかな差違を除いては、朴氏のものと大同小異である。昔氏のそれは特異な点が一つあり、卵で生まれ、不祥をもって海に流されたが、はじめ金海に漂着して拾われず、新羅の海辺で拾われ、長じて大人ついに王となったという。
ちなみにこの昔氏は後世の新羅の貴族にも見えず、慕氏(金氏)による仮冒とみられる。
この王祖の挿話は三国遺事の駕洛国記でも類似のそれがあり、漂着した王子が駕洛の国主と術を争い、引き分けて新羅に去ったという挿話と関りがある。
したがって馬韓から逃亡して加羅に入れられず、新羅の地に入って朴氏に取って代わった新羅の王祖があったのである。その王家がはじめ、対外的にはその出自から「慕氏」を名乗り、国内的には「昔氏」を名乗った。ついで加羅金官加羅の金氏を滅ぼして後、今度は金氏を名乗ったのである。
これもまた新羅の王家(おそらく昔氏)が加羅の金氏を自らの出自とする馬韓の王家よりも、さらには新羅の始祖朴氏よりも尊重したことを意味する。
これに関連して、三国史記に朴氏の時代、つまり新羅の草創期とみられる婆婆尼師今の時代に、次のような挿話が記録されている。音汁伐国と悉直谷国が領土争いをした。新羅王は加羅の首露王を招いて裁決を委ねた。首露王は音汁伐国に属すべしと裁決した。
ことが終わって、王は六村をして首露王を慰労させたが、漢祇部だけは身分の低い者を出してこれに当たらせたので、首露王は怒って、下僕に漢祇部の首長保済を殺させて、すぐ帰国してしまった。下僕は音汁伐国に匿われていたので、王はただちに出兵し、音汁伐国を討伐した。
よく考えると難解な話だが、少なくとも事にあたって新羅王婆婆尼師今は、首露王に報復することはこれを考慮だにしなかった。下僕とこれを匿った村を誅殺したのである。
だからこれは、新羅王が加羅首露王に附庸されていたとすれば、裁決を委託したことも、暴虐に報復しなかったことも理解できる。実年代はわからないが、この種の挿話は仮構の意味がないからまず事実なのであろう。
当時の新羅王と加羅王の武力的な優劣は、とくに差があったとは思われないから、これは加羅首露王のもつ、なにか理由のある権威の大きさを示唆するものである。
その後に金氏(昔氏)が新羅に侵入してその地に王となり、かつ「加羅に附庸」となったというのは、だから事実上加羅を宗家と仰いだという意味であろう。背景は分からないが、韓の盟主であった馬韓の出自に勝れ、慶州六村の王たる斯廬王にも勝れて貴種たるべきこの加羅の王家の由来には、然るべき筋道が存在したであろう。
突然断定してしまうが、この加羅の前身こそ、魏志にある「辰王」なのではないかと思う。
魏志韓伝・弁辰伝は辰王について複雑きわまる記述をしている。「辰韓は旧の辰国」、「辰王は馬韓の月支国に治す」、また「辰王は流移の人」なるをもって馬韓に制せられ、自らは立つことができなかったともいう。「馬韓人かた推戴」、「辰韓・弁辰二四ヶ国のうち一二ヶ国を支配する」ともいう。
これを整合的に理解することは容易ではないが、要は魏志の修辞が色濃く出ていて、実際は辰王の現実的な実力を欠く権威を言っているのであろう。
そして名目が先行するこの権威を認めれば、後世新羅の朴氏も金氏(昔氏)もそこに附庸したという金官加羅国(金海)の王こそ、辰王の後裔である蓋然性が考えられる。金官加羅はまた加羅諸国の盟主でもあった。
時代の前後関係をあえて推測すれば、辰王は、魏志の三世紀には馬韓に属する月支国に治して、その後隣接する直接支配地である弁韓に移り、さらに金海(金官加羅)に移動したのである。
弁韓が辰韓と区別され、なお弁辰と一括されるのは、これが元が一つの「古の辰国」であったためで、いま辰韓は別系統の勢威が生まれ、弁韓はこれを直轄ないし緩やかに支配していることをいう。権威の濃度の差違というべきかも知れない。
とすれば辰王の由来も想像がつく。
半島南部でそれまでの数世紀を経世した衛満の後裔ないしはその権威の残であろう。漢の武帝は衛右渠を滅ぼし直ちに真番郡を置いた。それが可能であったのはそこに右渠の直接支配があったためであろう。
すなわちその辰王の由来は、衛満の真番王であろう。
ちなみに韓は加那の漢語表現らしい。するとオリジナルを残したのは加羅にほかならない。加羅はまた弁韓ともいうが、この弁は「冠(kal)」の意味であるから、これも加羅を意味するであろう。加羅の地の加羅にほかならない。
また新羅はその元を斯廬というが、斯廬は斯那すなわち徐那であり、つまるところ「辰(sin)」の意味であろう。辰韓という所以である。
馬韓は五〇国の一伯済国から出たというが、一説では「乾馬(koma)国」から出たともいう。この由来は不明だか「馬」を意味するとは思えない。高句麗(komal)から出た可能性がある。つまり馬は「句麗(mal)」の意である。
あえて推測すれば、衛満が真番の支配を行なうにあたっては、その王家の一族をして、かつその姻族であったかも知れない高句麗族をともなってその地に入った。馬韓五〇国を実際的に担ったのは「句麗族」であったかも知れない。
勢威をもった姻族が王族を恣意的に推戴するのは、匈奴でも高句麗でもまた大和でも同様である。勢威をもたない形骸化した王族である場合はいっそう道理であろう。瓊々杵を通してここに繋がるべく意図した日本神話の主旨も、加羅の金氏の貴種性を認めたのである。
ひるがえって、加羅の金氏の神話は原始にはさらにシンプルであったであろう。今日残るそれのみならず、おそらく瓊々杵が伝えたそれすらすでに変貌したものであった。
それはその後の韓の地の絶えざる夫餘化による。 復元する手だてはないが、ひたすら天孫降臨を旨とするそれであった。天孫たる王権の保持者としての権威の伝承も、これは確として持ち続けたのである。
さて降臨が瓊々杵でなく忍穂耳であり、事実上高天原という天上ならぬ歴とした国家から逃亡あるいは逃散したのであれば、ここからはいくつかの想像が巡らせられる。
その国家はいつ、どこにあったものであろうか。
忍穂耳の王権β
その国家の時空はなお隔たるとしても、その時代はある程度推測できる。先の復元した系譜が参考になる。
五瀬や神武の一世代前なのである。仮に第一章における東征開始年が正確とすれば、忍穂耳の世代的時代は、その一世代前すなわち平均二五年から三〇年をもって、西紀二六〇年代であろう。その降下(降臨)はこの活躍年代の直後にあるであろう。西紀二六〇年代後葉から二七〇年代前葉である。
これを特定することは容易だが、ここではパスしよう。ひとつだけ注意を促しておきたい。すべて国家の成立はそれに先立つ国家にしか由来しない。そして国家という概念もまた重要である。国家が国家として成立するのはいくつもの条件があった。 奥野正男氏はこう整理している。王を頂点とした身分階層社会 国家統治の官僚組織 租税の徴収・労役の徴収 常備軍 国家的対外交渉これに関してぜひとも確認しておかなければならないことは、自他ともに認める列島の嚆矢たる倭王は、ほかならぬ三世紀の邪馬臺国の卑彌呼であったことである。いま一人はその宗女であった臺与であろう。この二人だけが倭王であった。
邪馬臺国はその王朝の後半期には、大陸との交流のなかで、倭国としては初めて従属国としてでなく、名目上にしても「親魏倭王」たる対等の立場で、互いに遣使を行き交ったのである。よく知られているように、この過剰な除授は、魏の朝廷で重きをなし、大陸東北部と半島ならびに列島を担当した司馬懿忠達が、競争相手の曹蓁に対抗する意図のためであった。曹蓁の事績に大陸西方の征討があり、大月氏と交誼を通じてこれを「親魏大月氏王」に叙勲せしめているのである。
名目上とはいえ、倭王にして初めてこうした形態で、中国との国交をかわした王権は、当然他に優れて唯一無二の存在とみなすべきであろう。邪馬臺国と卑彌呼もそう思った。
「倭国」の誕生である。
この確認は上の原理によっても明白であろう。奴国王は「漢倭奴国王」に過ぎなかった。伊都国王も「漢倭伊都国王」であった。ひるがえって夫餘は「D王之印」を授与されたはじめて国家たり得たのである。
ここで邪馬臺国がどこにあったかという問題には入らない。それがどこかについては、とりあえずこの議論にもかかわらない。むろん神武の東征が史実であって、大和に侵入して国家を立てたことからすれば、おおまかに二つの可能性が出てくる。
邪馬臺国が大和にあったのであれば、神武の侵入は、丁度高句麗の鄒牟(朱蒙)がすでに国家であった高句麗族の上に王権の思想をもって被さったのと同様のそれなのである。一度滅びた邪馬臺国の上にで被さった。邪馬臺国の残照たる後裔は、自らを神武の姻族とすることで新しい歴史を拓いた。
邪馬臺国が九州にあったのであれば、神武は邪馬臺国かまたはそれに準じる国家の正当な王権を伝承する後裔として立ち、これをもたぬ大和の国家の上に被さったのである。
どちらをいうも、神武紀・神武記の記述する文脈は神武の王権が強固なものであったことを示唆する。その矜持の巨大さが磯城のような国の巨大さを陵駕したであろう。すなわち神武の王権は必ずや、列島最初の国家であった邪馬臺国に由来をもつ。
それは天子・天孫の思想と姻族の概念をもっていた。
書紀・古事記に記録する日本神話の王権が、著しく農耕民のそれであることは自明のようである。そのためにここに神武の父祖であった忍穂耳の王権と、瓊々杵に仮託された饒速日の王権の違いも明らかに思える。
神武に引き継がれた忍穂耳の王権は内陸農業領域国家のそれであり、瓊々杵に仮託された饒速日の王権は海浜商業都邑国家のそれであったと思う。
前者が後者を含んで倭の最初の国家として佇立したに違いないが、拠って立つ根拠は異なっていたのである。後世に整備したという前提に立っても、内陸農業領域国家はすくなくとも国家の思想・体系を前二世紀末葉以前には受け入れて、それを抱き続けた。海浜商業都邑国家は同様にこれを受け入れてから、その立地上さらに楽浪の直接的な影響を間断なく受け続け、さらには半島の南端からの文化も受容し続けたのである。
それでも瓊々杵の国家は、邪馬臺国連合国家の一部としては統一的な概念をもった。忍穂耳と瓊々杵がともに天孫であった理由である。かつまたおそらく先進地にあったのではない忍穂耳にとっては、瓊々杵の伝承はこれを取り込むに値するものであった。
さてその邪馬臺国のなかに、天孫の王権と姻族の思想がみえるであろうか。
魏志倭人伝・後漢書倭伝をみる限りにおいては、これは見えない。卑彌呼は「鬼道を事とす」とあるばかりである。その風俗も、これを魏の使者の中国的な観念のもとに記述されたとして、なお圧倒的な南方系のそれである。
大林太良氏は、その俗における文身・貫頭衣・横幅(袈裟)・丹塗(身体塗装)・長上短下弓・暦(春耕・秋収)・持衰を南方系とみなし、北方系とみられるのは骨占くらいという。妻子・門戸・宗族の記載があるが、この宗族が父系の親族集団と見られる以外は、かえって双系的社会と思われると言っている。半島南部の韓とともに夫餘的な文化はこれの浸透する前段階にあったらしい。
しかしこの視点は事を複雑にすると思う。
夫餘系の文化はその代表者になった高句麗が、その最盛期を迎える五世紀後半から圧倒的な影響力を周辺に発揮し始めるのである。それ以前は四世紀中葉に、夫餘の滅亡とたぶんこれにともなう百済の建国があった時であろう。馬韓の地はすくなくともこの時期から夫餘系の文化が浸透しはじめた。
辰韓・弁韓の地はさらにまだ黎明のなかにあった。
魏志倭人伝によれば、邪馬臺国の成立は後漢の末、西紀一八五年から一八九年であった。そして邪馬臺国は内陸の典型的な農業国家であった。
これを要するに列島の嚆矢たる国家は、その始源においては、夫餘・高句麗の影響はこれを受けなかった。半島の北半から東北地方にかけての文化と列島の間には、前二世紀末の前一〇八年以来、いまだ明けやらぬ韓と楽浪が存在していたのである。 楽浪文化に基づく博多湾沿岸国家に対峙していたために、その王権の由来もまた韓の、しかし更に古い韓の地の伝統に因るであろう。
古い韓とはいにしえの辰国である。そして辰国は真番国の謂であろう。
衛満の王国の一であった。
大和の王権の由来はこれであきらかであろうか。
実のところ邪馬臺国問題に触れていかないと、この正確な後付けはできそうにない。ただそれは当面この書物の目的ではない。いつか書くとしよう。
蛇足だが、これまで書いてきたのは、神武の王権の由来であった。それを究めていく過程で、忍穂耳と瓊々杵すなわち饒速日の王権の由来を問うことになった。
この章のテーマは、かくしてこれを意図することなく、三世紀末葉から四世紀初葉の大和に在った二つの王権の由来を問うことになったのである。
これが次の章のプロローグになる。