β NEXT大和の発生β
大和の発生というテーマで大和朝廷前史を書いた人がいる。武光誠氏である。
これがちょっと意外性があって面白いのは、大和の発生といわれるとつい大和朝廷の発生のことだと思ってしまうからである。そう受けとるのは普通の感覚だから不思議でもなんでもないが、よく考えるとやはり面白い。大和朝廷前史という視点が、なんとなくいまだ闇い黎明の時というイメージがあるからである。
どうしてそうなるかというと、大和朝廷が大和に発生したことは誰も疑わないが、その時期がいつかという問題で、頭の中にあるイメージがいつも曖昧模糊だからである。
そもそも日本の文化の燭光は西から昇った。博多湾沿岸である。あるいはその内陸部である。
邪馬臺国が九州にあったと思う人は、邪馬臺国が東遷して大和朝廷になったと考えるから、それ以前の大和盆地は化外の土地であろう。邪馬臺国が大和にあったと思う人は、大和朝廷はそこから進化したと考えるから、それ以前の大和盆地はやはり未明の土地であろう。どちらに組みしても同じなのである。
ということは大和朝廷でない大和という概念が、われわれにはもともとない。なぜないのかという問題はややこやしくなるが、考古学的にも明らかになっている大和盆地の弥生遺跡について、いわば日本列島をみる鳥瞰的視野でこれをみていないということなのである。
例えば纒向遺跡がある。
これを広い視野でみれば、列島のなかでの位置づけがわかる。対照するべき弥生遺跡はそれこそ九州から東北まである。だから当然の考えとして、この纒向遺跡が類をみない規模であることを諒解すれば、黎明をすでに超えた歴とした勢威の誕生を認めるべきなのである。
それでもそうはならない。黎明を超えた文化はすぐさま大和朝廷とみなされしまう。自己撞着のようなものである。したがってこれについての正確な視点をもつためには、要するに大和朝廷の前にこれに勝るとも劣らない勢威があったと仮定するしかない。
武光誠氏はそういうことをしてみた。レンズを換えてみたのである。
弥生時代の大和や河内の人口をフォーカスして、氏が大和朝廷前史を描く様子は、岡田英弘氏が東アジアという包括のなかから半島と列島を覗いていたのとよく似ている。
本題に入ろう。
大和盆地の弥生文化の始まりは、飛鳥川と布留川そして狭保川流域にあった。石器と木器また土器に新しい文化の創出がみられ、畿内が後進地域を脱していく過渡期がかいまみられる。
その後一世紀末に、唐子・鍵遺跡を遺した勢力が盆地の中央に出現した。この頃大阪平野にも瓜生堂遺跡・加美遺跡をつくった勢力が現れている。唐子・鍵遺跡の住民は二世紀にいたって銅鐸をもち、これによる祭祀を行なった。その後この銅鐸文化はローカルに止まらず、漸次周辺に影響力を及ぼし、やがて東海から吉備に接する広範な文化圏を形成するに至った。
銅鐸文化圏として、北九州を主宰とする銅剣・銅鉾文化圏と対峙したことについてはよく知られている。前者と後者の境界が吉備であった。吉備が境界でありながら、はっきりと銅剣・銅鉾文化圏に属すことは覚えておきたい。
銅鐸文化は弥生時代後期の一世紀以上にわたって繁栄したが、その漸時の後の三世紀中葉、三輪川と巻向川の流域に全く新しい勢力が突如として発生した。纒向遺跡である。
この遺跡は途方もなく巨大であった。六つの環壕集落で形成され、その一つの集落がすでに唐子・鍵遺跡の全容に比肩した。およそ一〇〇ヘクタールである。この規模はこの時代にあって尋常なものではない。吉野ヶ里遺跡さえ二五ヘクタールほどである。
この遺跡は銅鐸を造らなかったが、銅鐸文化圏を陵駕する新たな文化圏を形成したらしい。
関東から北陸、また中国・四国の最西部にまで及ぶ地方の土器が出土する。纒向の首長の祭祀のために、地方の首長がこれを持ち寄るのだというが、そうした権勢を想像する必要はとくにない。単なる交易の結果とみればいい。
ちなみに纒向遺跡にはいくつかこれを貫通する溝があるが、これはたとえば吉野ヶ里の環濠のようなものではない。そのなかに集落があってこれを守ったのでなく、そもそもこの集落は無防備であった。溝は運河とみられ物品の集散のために造られたらしい。
すなわちこの遺跡の本質は交易都邑の巨大な集合体であったらしい。磯城氏がこれを主宰するとすれば、王権云々の前にこれを為らしめた経済力という背景を考慮しなければならない。
すでに弥生時代後期から、大和川流域の大和盆地ならびに淀川流域の河内・摂津の人口は、列島のなかでも特筆すべき巨大なそれであったという。
時に列島の人口が推計六〇万人として、大和盆地には二万人、河内・摂津に一万人、つまり近畿で一括すると三万人の人口を擁していた。列島の全人口の五パーセントである。その多寡がかならずしも政治的な権威の大小を云々するものではないが、経済活動をふくむ文化の伝播などの波及には、間違いなく大きな影響力をもったであろう。
さて纒向遺跡の文化には、きわめて特徴的なことがあった。独創的な纒向型前方後円墳をつくったのである。
纒向型前方後円墳はその内容の評価で見解が分かれる。帆立貝式古墳とみる向きもある。単なる墳丘墓とみなす説もある。全長は一〇〇メートル未満、初期のものは形状がいびつで、後期になると真円になり連結部をもつなど整ってきて、鳥瞰図は後世の前方後円墳とかわらない。ただし前方部はおしなべて低く張りだしている。
今一つ決定的なことは、遺跡から直孤文・葺石・都月型円筒埴輪などが出土していることである。
いずれもオリジナルでなく、二世紀末とみられる吉備倉敷の楯築遺跡から出土するものと酷似する。纒向の吉備と共通する遺跡出土物は、纒向遺跡の主と吉備の住人との直接的な関連を示唆するものである。
武光誠氏は、吉備または吉備を経由した北九州の勢力がから東遷したことを意味するという。この議論はなんら証拠がないが、纒向遺跡の出現の直前まで存在していたらしい唐子・鍵遺跡からは銅鐸の鋳型が出土するにもかかわらず、纒向遺跡からは壊れた銅鐸あるいはわざと壊した銅鐸が出土する。
纒向遺跡の主が、弥生中期以来の大和盆地の住人でなく、外部からそこに入って銅鐸文化の住民を駆逐したという文脈がみえてくる。
この纒向型前方後円墳は前期と後期に分類できるという。オリジナルである纒向の地には次の前方後円墳がある。===================================== 前期纒向型前方後円墳 ------------------------------------- 纒向石塚古墳 93m 推定250年代 矢塚古墳 96m 推定260年代 ===================================== 後期纒向型前方後円墳 ------------------------------------- 勝山古墳 100m 推定270年代 東田大塚古墳 96m 推定270年代 ホケノ山古墳 90m 推定270年代 =====================================ついで全国各地には、同様な纒向型前方後円墳とみなすべき古墳が存在し、おおむね次のようなものがそれという。
==================================== 前期纒向型前方後円墳 ------------------------------------ 神門五号墳 千葉県市原市 分校一号墳 石川県加賀市 那珂八幡古墳 福岡県福岡市 津古生掛古墳 福岡市小郡市 神倉古墳 福岡県甘木市 ==================================== 後期纒向型前方後円墳 ------------------------------------ 神門三号墳 千葉県市原市 神門四号墳 千葉県市原市 諏訪台一号墳 千葉県市原市 宮山古墳 岡山県総社市 萩原一号墳 徳島県鳴門市 原口古墳 福岡県筑紫野市 ====================================とくに庄内式土器の出土する福岡県の津古生掛古墳、千葉県の神門四号墳、京都府の芝ヶ原古墳などの纒向型前方後円墳などは、あきらかに箸墓の纒向3式相当とみられる土器を出す。
時代的には大和のそれが相対的に旧いから、畿外のこれらの古墳にこの連続性を認めれば、纒向型前方後円墳はわずかの間に東は関東、北は北陸、西に北九州に波及したことになる。
これは、関東から中国地方西端にいたる各地の土器とみられるものが、纒向遺跡から出土することと補完的な関係にあると思われる。纒向遺跡を担った磯城の文化がどういう性格のものであったかの一端を物語るものである。交易文化である。
纒向の首長は今日の想像をはるかに超えた巨大な勢威をもっていた。その交易文化もおしなべて本州の半ばまで流布して、たとえば列島の盟主とみまかうことすら起きたかも知れない。
その纒向遺跡は発生からたぶん半世紀の栄華を経た。
さて考古学的な見解がこうした共通認識をもつものの、その具体的な年代の特定については統一的な見解がない。纒向遺跡を出土する土器で編年した石野博信氏は、その発生を二世紀後葉から三世紀初葉におく。おなじく大和盆地の遺跡を再整理する寺沢薫氏は三世紀中葉においた。
その先に古墳時代の到来がある。その嚆矢がいうまでもなく箸墓である。
纒向遺跡と纒向型前方後円墳はむろん並行するから、流れとしては纒向型前方後円墳の時代がほぼ半世紀経過して後、古墳時代最初の本格的前方後円墳・箸墓が出現するのである。したがって箸墓の成立は、石野博信氏の説によれば三世紀中葉前後、寺沢薫氏の説によれば四世紀前後ということになる。
纒向型前方後円墳から箸墓のような本格的前方後円墳への推移は、一部に異論はあるが、基本的には漸進進化とみなすことができる。
纒向型前方後円墳の最初とみられる墳丘墓は纒向石塚古墳であるが、いびつながらすでにその形式の確かさをもっている。後期の勝山古墳・東田大塚古墳ではその形状も均整がてれてきて、前方部の低い設定を除いては、箸墓のミニチュア版といってもいい。
それをさらに形式的に整え、前方部を高めて後円部とのバランスをとり、さらに思い切って巨大化する。これがその直後の出現する箸墓なのである。
二〇〇メートルを超える箸墓のような本格的な前方後円墳は、したがって漸進進化ではあるが、それまでとは一線をかくす大進化でもあった。
この大進化の概括的意義をはっきり認識しておく必要がある。纒向型との落差が大きい点がともすれば断絶とみなされるために、つねに議論が輻輳してしまうが、これは要するにここに画期たる急激なエネルギーの発露をみるべきなのである。
進化の連続性はかわりがない。そのエネルギーが何に由来するかがこの章のテーマでもある。
さて大和朝廷前史としての磯城纒向の勢威がこれほどのものであったという認識を新たにして、その半世紀に亘る絶対年代を特定したい。
これはつまりその直後に発生した、最初の本格的な前方後円墳である箸墓の成立年代がいつかというのが問題と等価である。
これにはいくつかの準備がいる。
古墳の年代β
筆者はとりあえず文献学を本分とする。うちとくに文献年代論を専門分野としているつもりである。といっても個人的に面白いからそうしているのでほかに理由があるわけではない。
できればそれだけをやりたいが、ここへきて古墳の年代という問題に直面して困ってしまった。考古学的にもっとも史料が多いこの分野が、いわゆる絶対年代を特定できていないのである。
無理はない点もあるが、相対年代がある程度特定できるのだから、後は仮定が含まれてもいいから、論理的な計算でいくつかのケースを提示してくれればいいと思う。それをしてくれる人がいないために、嫌々ながら自分でしなければならない。
まず基本的な前提であるが、古墳の相対・絶対年代の特定に使うべき定規は何があるであろうか。
立地・形体・石室・棺・副葬品・埴輪などである。大きくは古墳の形態論的な手法と出土物の比較論的な手法がある。 数理文献学を古代史に援用した安本美典氏は、古墳の形態的な比率すなわち「前方部幅墳丘全長比」と「前方部幅後円部直径比」をもちいて古墳を分類し、柳本・纒向の前方後円墳の築造年代を、崇神陵・箸墓・景行陵の順とする。
非常に面白いのだが、前方後円墳の各部の比率が意味をもつケースというのは、それを設計・施工するプロジェクトの連続性を仮定することになる。専任工房である。古墳時代中期以降によくあてはまるかもしれないが、逐一新たなプロジェクトが組織されるとすれば、そもそも統一的な設計・施工が行われることがない。
この点では副葬品であっても、三角縁神獣鏡のようなものはこのケースにあてはまる。椿井大塚山古墳の被葬者のよる三角縁神獣鏡の配布という著名な理論も、出発点から誤謬を含むと思う。
この種の副葬品は制作プロジェクトばかりでなく、交易するプロジェクトの存在がある。さらにこれを保持する期間を考慮すれば、その古墳に副葬されるた時点との関係はほとんどない。
副葬される埴輪においてもいくぶんその傾向がある。とくに特殊器台埴輪というものは、直孤文とともに吉備の墳墓から発掘される埴輪であるが、一般の土器類とは使用目的が違うと思う。たぶん鏡や剣あるいは玉類と同様、価値ある副葬品として扱われた。
とくに箸墓や西殿塚など草創期の古墳ではではそうであった。桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳になると、後円部墳頂に円形壇または方形壇が存在し、その壇を巡って円筒埴輪が設置される。したがってこれは大量に供するために作られたものであり、土器類の状況と同様である。
箸墓や西殿塚では壇を囲う埴輪がなく、出土する埴輪は築造よるものではなかった。吉備でつくって搬入した場合があったであろう。埴輪は大和で特殊器台から円筒埴輪に進化してはじめて、築墓に伴って作られるようになったと思う。
すなわち副葬品はつねに保持していた期間が問題になる。
ダイレクトに編年に採用できるのは、要するに副葬品ではない。伴葬品なのである。
この点で古墳の年代をはかるべき定規はあきらかである。はじめから古墳の築造に並行してつくられ、伴葬されたものである。
土器である。弥生式土器・古式土師器・土師器・須恵器の類である。
ここにやはり土器の異種である埴輪も入る。
大和盆地に限ると、典型的な弥生式土器(第五様式)の後に時代を画すべく発生するのが、庄内式土器といわれるものである。古式土師器ともいわれるが、並行してとくに纒向の地には纒向型土器といわれるものが発生する。これも古式土師器である。
庄内式土器と纒向型土器は並行しながら、漸次典型的な土師器である布留式土器にかわっていくが、庄内式は布留式の登場とともに衰退していき、纒向型はそのまましばらく布留式と並行して出土する。
さて、この種の土器のみで纒向の編年を試みた一人が元橿原考古学研究所の石野博信氏であった。ひたすら纒向式土器で行なっている。
石野博信氏が報告する大和古墳群の編年は次の通りである。出土の状態により、もっともふるいとみられるのは、箸墓ついで西殿塚・桜井茶臼山である。この表にはないが、南山城の椿井大塚山古墳もまた茶臼山と同列に位置するものとしている。
場所の表示は分かりやすいように駅名を使った。======================================================= | 長柄 | 柳本 | 纒向 | 桜井 ======================================================== 纒向1式| | | 石塚 | | | | | ------------------------------------------------------- 纒向2式| | 黒塚 | | | | | | ------------------------------------------------------- 纒向3式| 波多子塚| | 箸墓 | | | | | ------------------------------------------------------- 纒向4式| 西殿塚 | | | 茶臼山 | | 渋谷向山 | | メスリ山 ------------------------------------------------------- 纒向5式| | 行灯山 | | | | 櫛山 | | -------------------------------------------------------
今日われわれが得ることのできる土器編年としては、正確なものであろう。一般的な見解と異なるとみられるのは、渋谷向山(景行陵)と行灯山(崇神陵)前後関係である。
ちなみに広く敷衍する考古学的な定説はといえば、まず箸墓があって次いで西殿塚・桜井茶臼山さらに前後して行灯山(崇神陵)・渋谷向山(景行陵)という順である。このうち行灯山と渋谷向山の順序に異論がある。
近年箸墓の環壕部の発掘で布留0式の土器の出土があった。古墳時代が弥生式土器から土師器への転換とともに始まるというのが考古学の定説である。
纒向型土器は古式土師器ともいわれ、弥生式土器から土師器に至る過渡期の土器である。しかし布留式土器こそ土師器そのものであるから、その嚆矢とみられる布留0式の出土は、まさに纒向3式の時代が古墳時代のスタートであったことを指示する。
布留0式=纒向3式という式が成り立つ。編年が並行変化するなら布留x式=纒向x+3式という式も成り立つ。
石野博信氏はこれらの相対年代を設定した上で、纒向1式の発生を三世紀初葉におくようである。纒向3式の箸墓は三世紀中葉ということになる。これには納得しうる説明がない。
同じく元橿原考古学研究所の寺沢薫氏はこの発生を三世紀中葉においた。半世紀以上の差異がある。
古代史における文献学と考古学の違いは、確実な痕跡においては考古学がすぐれ、年代の特定においては文献学が確かだという点にある。歴史はもとより考古学を抜きで語れず、そのために一体のものに違いないが、これは鳥瞰的にそうなのであり細部ではとてつもなく輻輳するのである。
ときどき不思議に思うのだが、歴史というものは徹頭徹尾因果関係でできているのだと思う。したがって鳥瞰的な視点ではこれをよく咀嚼できるが、年単位の話になれば相互の事象の前後関係の特定が決定的に歴史観に影響する。
歴史家が文献中心に語りはじめて、そのつど考古学的な事象を援用する際、ともすれば時代の確定を保証しないで話を進めるのは、本質的な不備といわざるをえない。考古学は特性上、考古物の相対的年代を確定するのであって、その絶対年代は特定しないのである。できないといっていい。
古墳の考古学的成立年代については、最少五〇年、最大一〇〇年の推定差がある。金石文の類が、解釈の差異は別としてこれをはじめて特定できる。したがって仮定する絶対年代は、その実つねに誤差をともなうのであって、文献学が定説として考古学のそれを議論に援用するのも、その逆もまたかなりの率で暴挙ということになる。
つまるところ、ある程度保証された年代の範囲のなかで、どの位置をとるかという問題はつねに恣意的なものになる。纒向式の発生は、その3式の時代に箸墓が出現するために逆算されるに過ぎない。だから箸墓の探求だけが、かわらぬ問題の焦点なのである。
実のところこれを歴史的な画期ととらえて、直感的に年代を位置づける考え方もある。
土器の形式変化は、一形式二〇〜三〇年という。それなら纒向1式・2式は四〇〜六〇年で纒向3式に代わった。その纒向3式に箸墓が誕生するなら、多くの識者がいうように「箸墓のような画期の古墳が出現するのは、大和朝廷の発生と不可分な関係にあるはずである」という視点がもてる。つまり土師器の出現もこの画期と機を一にする。たとえば四世紀初頭である。
考古学的な正攻法を遵守した上で議論を進めよう。土器の編年はあくまで土器自体で詰めていくべきであろう。恣意的でない方法というものはあるであろうか。
とりあえず土師器と埴輪の関係をまとめておきたい。
古墳の相対年代につき、現状の基本的認識を整理しておこう。
大和の初期の古墳の相対年代は、古い順に箸墓次いで西殿塚・茶臼山・渋谷向山(景行陵)・行灯山(崇神陵)・メスリ山・櫛山などであった。纒向式では3式から4式の間にある。
このうち草創期の箸墓と西殿塚には、吉備由来の特殊型埴輪(特殊器台・特殊壺)が出土する。箸墓は宮山式と都月式を出し、西殿塚は都月式を出す。
宮山式がより古く、大和では葛本弁天塚古墳に宮山式、最近の発掘で知られる中山大塚と馬口山古墳に都月式が出土する。畿外では兵庫揖保郡の権現山51・山城の元稲荷・近江の壺坂山などが都月式である。
大まかにはこれらの古墳が箸墓と同程度の古さをもつことは確かだが、埴輪としては埴輪0、布留式土器としては布留0に属し、確かな相対年代を特定するまでには至らない。宮山式を出す箸墓と葛本弁天塚古墳がほかより古いという程度である。
ここまでは大和東部である。
つづいて大和北部の佐紀の地に古墳が出現する。纒向5式の時期である。五社神古墳(神功陵)と佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)、次いで佐紀大塚山が造られた。
並行して大和西部の馬見の地にも、巨大な前方後円墳が現れてくる。さらに大阪古市古墳群が登場する。
肝心な点であるが、このうちとくに布留式と円筒埴輪による編年は、纒向式土器のそれと微妙なぶれをみせる。
大和の円筒埴輪編年を確認しておく。
橿原考古学研究所業書の資料を参考にする。絶対年代はないから纒向式編年との関係も不明だが、纒向3式が布留0式、並行して埴輪0でもあるという。参考にしたい。========================================================= | 大 和 | 佐 紀 |馬見・葛城| 河 内 ========================================================= 埴輪0 | 箸墓 葛本弁天塚 | | | | 中山大塚 馬口山 | | | | 西殿塚 桜井茶臼山| | | --------------------------------------------------------- 埴輪1 | | | | | | | | | 東殿塚 メスリ山 | | 新山 西山| --------------------------------------------------------- 埴輪2 | 行灯山 東大寺山 | | | | | | | | 渋谷向山 |佐紀陵山 巣山 宝塚|津堂城山 --------------------------------------------------------- 埴輪3 | | | 室宮山 |仲津山 | | | |石津丘 | | | | ---------------------------------------------------------纒向式土器の変遷と埴輪のそれは、一見して一致していないようにみえる。いくばくかのずれがある。
纒向3式と4式に分かれる箸墓と西殿塚は、埴輪ではともに0期である。要するに発生の所以が異なるのだから当然であろう。 たとえば纒向式土器の発生は吉備なりの勢力がそこに侵入し纒向遺跡を開始したことをもって画期とした。埴輪とくに円筒埴輪はその後の箸墓の築造を画期として始まったのである。
しかしながらこれも、とりあえず土師器の布留式と並行すると思う。これは布留0式の発生がやはり箸墓に由来するとみられるからである。土師器そのものがこの築造にともなって生まれた。円筒埴輪もまた箸墓に発する。
吉備の特殊器台の流れを汲み、この時期に吉備とは異なるべき円筒埴輪としての進化を開始した。もし土器類が仮にある一定の期間ごとに形式変化をしていくとすれば、布留式土器と円筒埴輪は並行進化していったことになる。
布留X形式=埴輪Xである。そうだろうか。
考古学的な絶対年代は、金石文の出土ではじめて検証されるといった。それは金石文の出る年代が限られるため、唯一須恵器だけがこれをできる。この本筋を辿ってみよう。
須恵器の編年とこれにともなう絶対年代の特定である。
土師器と須恵器β
この議論は、須恵器の年代特定とあわせて、その先立つ土師器の布留式土器との相対関係が仮定できれば、布留式の絶対年代も仮定できるということである。
まず基本資料である。
田辺昭三氏の著作になる「須恵器大成」をみる。「大阪南部窯跡群」の出土須恵器編年と形式一覧である。若干の西紀表示ラインに差違が生じるが容赦願いたい。西紀 形 式 資料:田辺昭三「須恵器大成」 -------------------------------------------------------- | | | | | 400|-----| | | | | | | | 大阪・履中陵 | | | | | | | | TK-73 | | 大阪・応神陵 | | | TK-216 | ON-46 | 大阪・仁徳陵 | | | TK-208 | MT-84 | | 500|-----| TK-23 | KM-1 | | | | TK-47 | | 埼玉・稲荷山 | -------------------------------------------------------- | | TK-15 | | | | | | | | | | TK-10 | | 福岡・岩戸山 | | | | MT-85 | | | | TK-43 | | 奈良・飛鳥寺 | 600|-----| | | | | | TK-209 | | | --------------------------------------------------------- | | TK-217 | | | | | | TK-80 | | | | TK-46 | | | | | | | 滋賀・近江京 | | | TK-48 | | | 700|-----| | | 奈良・藤原京 | | | MT-21 | | 奈良・平城京 | | | | KM-16 | | | | | TK-53 | | -------------------------------------------------------- | | | | | | | TK-7 | | 京都・長岡京 | 800|-----| | | 京都・平安京 | | | MT-83 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | --------------------------------------------------------ここにあるのは、平安京・平城京・藤原京・近江京・飛鳥寺などそれぞれの史跡から、その出土する形式の年代特定をしたものである。
文献上でも、書紀の継体紀にある磐井の没年(西紀五二七年)を史実とみなし、かつ福岡の岩戸山古墳がその墓に比定されため、これも絶対年代が特定できた。一連のこうした史跡の項目が、逐一須恵器の相対編年に援用できるために、須恵器の編年に絶対値を与えることが可能になった訳である。
埼玉県稲荷山古墳出土の鉄刀銘文(西紀四七一年)のそれは問題がある。須恵器先進地域は近畿・北九州・瀬戸内・東海などが知られ、以外は須恵器の後進地域とみられるからである。
解釈に微妙な差異はあるだろうが、それぞれ、TK=10(六世紀前半)・TKー47(五世紀後半)が特定できるが、関東ではこの時期にやっと須恵器の隆盛すなわち古墳への大量埋納をみたであろう。古墳の築造時期がこの時期なのであり、銘文の鉄刀はこれを二世代保持したのち埋納されたとみたい。
ちなみに畿内での古墳への大量埋納は、1式第3段階前後のTK208あたりから始まったらしい。つまるところこの大量埋納をもって発生期の須恵器が須恵器としての完成をみたのである。
誉田御廟山古墳(応神陵)の絶対年代も改めてこれを特定できた。須恵器の発生期に相当する五世紀中葉ないし後葉前半である。 ちなみにおおまかに相対年代でしか確定できないといわれる円筒埴輪も、この誉田御廟山出土のそれが、川西宏幸氏のいう埴輪4期に属しながら黒斑をもたない点で、須恵器窯すなわち登窯で焼かれたことが明らかになった。
ピンポイントで一致したといっていい。一部の宝玉類の年代も五世紀後半を指示するという報告もある。
TK73をさかのぼる須恵器の存在というものがある。大阪南部窯跡群のなかでは大庭寺遺跡・小阪遺跡、また吹田32号・須賀2号などの生産遺構である。
しかしこれは模様などにいずれも半島の影響を強く受け、いわゆる0期のものとみなされる。TKー73はその模様を払拭して生まれたものであり、これがために最古の須恵器なのである。
須恵器の編年に絶対年代を想定できるという成果は画期的なものであった。ちなみにTKは高倉(窯跡)の略である。以下MT(陶器山)・TG(栂)・ON(大野池)・KN(光明寺)・TN(谷山)となる。
さてこの表はもうひとつの解釈を与える。
TKー73からTKー7に至る形式がある一定の期間で変遷していくらしいということである。
半世紀単位の絶対年代も記載した田辺昭三氏は、おそらく細部にわたる係年を計算した。しかし公表はしなかった。
およそ一〇〇年当たり七形式である。
これは一形式が二八・六年で変遷することを示すが、創始期など画期の時代には、細部で一形式一四・三年で変わっていく。二八・六年がなんの意味があるかといえば、これはたぶん世代の交替期間をいうのであろう。大王の平均治世も平均一〇余年ながら、世代別の平均治世は二〇年から三〇年の間にあった。
この時代の土器の形式変遷が、時代を二、三世紀さかのぼってもそう変わらないとすれば、須恵器のこの変遷期間は、土師器の布留式土器の編年にも援用できるであろう。
布留式土器も須恵器と五世紀中葉以降ほぼ並行した時期があった。
「古墳時代の研究」で大和の土師器について報告している米田敏幸氏によれば、須恵器が発生期のTK73・TK216・TK208と推移していく間に、特にTK216とTK208に伴って布留5式土器が出土してくるという。
ということはTK216・TK208の期間すなわち一形式二八・六年が布留5式の期間であったことを指示する。実際は互いの発生の時期や状況が異なるのだから、一致することはなく誤差があるであろう。ただ同時に並行して出土している場合の誤差は、細かくいえば前後に七・一五年の差である。許容範囲と考えるほかはない。
ここからが実験である。
平均形式変化年を二八・六年として、須恵器の絶対年代とこれにともなう布留式の土師器の年代を復元してみたいのである。252.3------------------------------------------------------ | | 266.7-------------------------------------| 纒向1式 | | | 280.9------------------------------------------------------ | | 295.2-------------------------------------| 纒向2式 | | | 309.4------------------------------------------------------ | | | 323.7---------------------------| 布留0式 | 纒向3式 | | | | 338.0------------------------------------------------------ | | | 352.3---------------------------| 布留1式 | 纒向4式 | | | | 366.7------------------------------------------------------ | | | 380.9---------------------------| 布留2式 | 纒向5式 | | | | 395.2------------------------------------------------------ | | 409.4---------------------------| 布留3式 |---------------- 須恵器 | | 423.7--(1式)----------------------------------------------- | | TK73 誉田御廟山 | 布留4式 | 452.3------------------------------------------------------ TK216 大山 | | 466.7---------------------------| 布留5式 |---------------- TK208 | | 480.9------------------------------------------------------ TK23 495.2------------------------------------------------------ TK47 稲荷山趾(471) 509.4------------------------------------------------------ 523.7--(2式)----------------------------------------------- TK15 岩戸山趾(527) 538.0------------------------------------------------------ 552.3------------------------------------------------------ TK10 566.7------------------------------------------------------ 580.9------------------------------------------------------ TK43 飛鳥寺趾(587) 595.2------------------------------------------------------ 609.4------------------------------------------------------ TK209 623.7------------------------------------------------------ 638.0--(3式)----------------------------------------------- TK217 652.3------------------------------------------------------ 666.7------------------------------------------------------ TK46 680.9------------------------------------------------------ 近江京趾(667〜694) 695.2------------------------------------------------------ TK48 709.4------------------------------------------------------ 藤原京趾(674〜710) 723.7------------------------------------------------------ MT21 平城京趾(710〜794) 738.0------------------------------------------------------ 752.3------------------------------------------------------ 766.7--(4式)----------------------------------------------- 780.9------------------------------------------------------ 795.2------------------------------------------------------ TK7 長岡京趾 809.4------------------------------------------------------ 平安京趾 823.7------------------------------------------------------ MT83 838.0------------------------------------------------------ ------------------------------------------------------ ------------------------------------------------------ ------------------------------------------------------この表の意味は簡単である。
田辺昭三氏の須恵器編年に穏当な数値を与え、布留式との連動のためそれを三世紀中葉まで、同様の編年比率でひきのばした。時代を遡るにしたがって比率も異なるであろう。先のようにこの形式変化の根拠が世代であるとすれば、たぶん誤差の範囲を超えない。
また布留式と纒向式も並行とみてこれを記入した。
この土師器(布留式)と古式土師器(纒向式)も発生を異にするから、本来一致した並行をみる筈はない。しかし寺沢薫氏など多くの識者は大体の並行を認めているから、これに倣っておく。
ここから問題の四世紀のそれをとりだしてみよう。さらに埴輪編年をインプットする。
埴輪編年については特に大和についてこれを精査している坂靖氏氏の報告によるものを採った。もっとも円筒埴輪の初期の1期・2期については、川西宏幸氏のよるところと期立ては大きくは変わらない。出土の時期設定に差異がある。
次の表である。252.3------------------------------------------------------ | | 266.7-------------------------------------| 纒向1式 |石塚 | | 280.9------------------------------------------------------ | | 295.2-------------------------------------| 纒向2式 |黒塚 | | 309.4------------------------------------------------------ | |箸墓 葛本弁天塚 中山大塚 馬口山 | 323.7 | 埴輪0期 |---------------| 布留0式 | 纒向3式 | | |西殿塚 桜井茶臼山 | | 338.0------------------------------------------------------ | | | | | 352.3 | 埴輪1期 |東殿塚---------| 布留1式 | 纒向4式 | | |メスリ山 | | | 366.7------------------------------------------------------ | |行灯山 櫛山 東大寺山 | | 380.9 | 埴輪2期 |---------------| 布留2式 | 纒向5式 | | |渋谷向山 | | | 395.2------------------------------------------------------ | |室宮山 | | 409.4 | 埴輪3期 |---------------| 布留3式 |---------------- | | | | 423.7---須恵器---------------------------------------------客観的なシミュレーションだから、恣意的なものはひとつもない。
それにしても古墳時代前期についての従来の定説からは、かなり年代が降る。つまり箸墓は三一〇年前後に出来た。寺沢薫氏の見解がかなり近いことが分かる。
今一度確認しておくが、布留5式が須恵器の第1期草創にあたるために、そこから須恵器の形式編年数値すなわち一形式二八・六年を布留0式までさかのぼってみたのである。これが世代交替とかかわるなら、遡るほど一世代平均年が低いという一般的傾向から、誤差はすなわち短縮する方向に出る可能性が大きい。
つまり箸墓に発した布留0式ならびに埴輪0期の発生時期は、これよりもむしろ降るかも知れない可能性がある。
とりあえず画期の箸墓の成立年代を四世紀初頭とする。
誰の墓であろうか。
箸墓の被葬者β
箸墓はすくなくとも三つの特徴をもつ。
一つは大和における前方後円墳の発生地である磯城纒向にあることである。
二つはふるい墓制を残しながらも、後の五世紀の前方後円墳の基準たる形式を完成していることである。
三つは平地に築かれたはじめてのそれとみられることである。
形体の進化という点でいえば、纒向にはそもそも纒向型前方後円墳が先に発生し、その形は前方部も後円部もいびつで規模も全長九〇メートル級であった。これが前期で、後期纒向型となると前方部もきっちりとし、後円部も真円に近く、それぞれの接点に確かな連結部をもつようになった。規模的にはかわらない。いずれも前方部は低く造られ、参道として使われた可能性を指摘されている。
その後おそらくは直後にあらわれる磯城纒向の前方後円墳が、すなわち箸墓である。
全長二七八メートル。ひろい周壕をもち、それまでの低い前方部が後円部と同じく高く造られ、参道的な利用法を排除している。纒向型にくらべて全長で三倍、体積では二七倍という巨大なものである。参道をもたないことでは墓制の変化、巨大化においては権力の誇示が示唆される。
こうした一連の流れを常識的に考えれば、歴史的な推移はある程度クリアなものである。
大和の墓制というものは、磯城纒向の地に生まれた前方後円墳が、前期纒向型から後期纒向型へと形式的な整理をともなった小進化を遂げていき、ある時期に至って一気に完成化・巨大化という大進化を果たしたといっていい。いわば質量の変貌である。
また近畿周辺一帯では、その間にそれらしい前方後円墳があらわれていないから、この進化はもっぱら磯城の地で進んだのである。したがって論理的にも、箸墓は纒向型の前期・後期にひきつづいて出現したものとみなければならない。
すなわちそこに時代の連続をみなければならない。纒向型が三世紀中葉からはじまって、四世紀初葉にその大進化したものとして箸墓が造られた。
さて文献からする箸墓は、書紀の崇神紀に記録される。古事記にはない。
倭迹迹日百襲姫の挿話として知られている。この後に倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となる。然れどもその神常に昼は見えずして、夜のみ来す。倭迹迹姫命夫に語りて曰はく「君常に昼は見えたまはねば、分明にその尊顔を視ること得ず。願はくは暫留りたまへ。明旦に仰ぎて美麗しき威儀を観たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対へて曰はく「言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願わくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。
ここに倭迹迹姫命心の裏に密かに異ぶ。明くるを待ちて櫛笥をみれば、遂に美麗しき小蛇有り。その長さ衣紐の如し。すなわち驚きて叫啼ぶ。時に大神恥ぢて忽ち人の形に化りたまふ。その妻に謂りて曰はく「汝忍びずして吾に羞せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。
仍りて大虚を践みて御諸山に登ります。ここに倭迹迹姫命仰ぎみて悔いて急居。すなわち箸に陰を撞きて薨りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故時人その墓を号けて、箸墓と謂ふ。この墓は日は人作り、夜は神作る。故大坂山の石を運びて造る。すなわち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手逓伝にして運ぶ。
時人歌して曰はく「大坂に継ぎ登れる石群を手逓伝に越さば越しかてむかも」
この書紀崇神紀の倭迹迹日百襲姫の伝承は、実はこのままではすんなり扱えない。著名な割にオリジナリティーがあるのではないのである。類似の挿話がいくつかある。これを整理しておかなければ先に進めない。
まず書紀では神武紀にある玉櫛媛の話と似る。また崇神紀にある活玉依媛の話と似る。
古事記とは神武記の勢夜陀多良比売の挿話、ならびに崇神記の陶津耳の女活玉依毘売の話とが共に詳細でよく類似する。
書紀の玉櫛媛と活玉依媛と古事記の勢夜陀多良比売と活玉依毘売とはそれぞれ同一人物だから、これをまとめると類似の人物としてはここに三人が登場していることになる。
玉櫛媛(勢夜陀多良比売)。
活玉依媛(活玉依毘売)。
そして倭迹迹日百襲姫。
いずれも大物主との交歓の説話である。時代もまた違う。
古事記の二つの挿話のうち、勢夜陀多良比売は神武の一代前の時代である。活玉依比売は崇神の時代に書かれるが、そこから四代前の妣の話として書いているから、これも勢夜陀多良比売と同時代である。
書紀の倭迹迹日百襲姫は崇神の時代で、活玉媛はその同時代の大田田根子の母であるから、これは倭迹迹日百襲姫の一世代前ということになる。
シンプルな疑問だが、活玉媛の伝承は書紀と古事記で時代が違う。この点を重くみてかつ古事記がオリジナルとすれば、書紀の倭迹迹日百襲姫のそれだけが、事実上崇神の治世下の挿話ということになる。
つまり類似の三人のうち、玉櫛媛(勢夜陀多良比売)と活玉依媛(活玉依毘売)は同世代、倭迹迹日百襲姫だけは一人、数世代降るのである。これが一つの論拠になる。
倭迹迹日百襲姫はおそらく実在したであろうが、箸墓の挿話にあるようにではなかったと思う。
伝承の内容からこれをみておこう。
箸を陰に突くという倭迹迹日百襲姫のそれは、書紀・古事記にある三島溝咋の女玉櫛媛(勢夜陀多良比売)が陰を突いて生んだというそれと酷似する。この挿話は一般に丹塗矢型の神婚説話という。山城風土記にも大同異曲の賀茂説話というものがある。
賀茂建角身の女玉依日売が、乙訓神社の火雷命の化身である丹塗矢を川から拾い、床の辺に挿しておくと、忽ち孕んで一子を生んだ。賀茂別雷命という。
これが山城の地域伝承であることは覚えておきたい。これに比べると活玉依媛の伝承は一般に三輪山型の神婚説話といい、丹塗矢型とは一線を画すという。
さてここで倭迹迹日百襲姫の伝承と玉櫛媛(勢夜陀多良比売)のそれをともに丹塗矢型伝承とすると、この伝承には当然の疑義が生じる。
すなわち倭迹迹日百襲姫と玉櫛媛(勢夜陀多良比売)を比べれば、原形はかならず玉櫛媛(勢夜陀多良比売)のほうであったと思う。時代的にそうなる。
そもそも大王紀年は、それぞれ前代の大王のそれに仮託されていた。このことがここにも当てはまるのではないか。倭迹迹日百襲姫もまた前代の誰かに仮託された。そう仮定しよう。
するともう一つの問題が発生する。玉櫛媛(勢夜陀多良比売)の子である。
書紀は媛蹈鞴五十鈴媛と書き、古事記は富登多多良伊須岐比売と書く。これはむろん同一人物とみられるが、とくに古事記の富登多多良伊須岐比売という表記は示唆的である。「富登多多良」という。
丹塗矢型の神婚説話の特徴はつまるところ「陰部」にあるのである。倭迹迹日百襲姫の「百襲」と富登多多良伊須岐比売の「富登多多良」とは、つまりは同義語であった。すると倭迹迹日百襲姫の伝承は、勢夜陀多良比売だけに仮託するのではない。富登多多良伊須岐比売にもまた仮託するのである。
箸墓の被葬者は、一連の挿話を倭迹迹日百襲姫に集約するために、その本来は勢夜陀多良比売あるいは富登多多良伊須岐比売であったと思う。
どちらであろうか。 富登多多良伊須岐比売をもうすこし詳細にみて結論をだそう。
富登多多良伊須岐比売β
富登多多良伊須岐比売は古事記の名で、亦名を比売多多良伊須気余理比売といい、父を大物主母を三島溝咋女勢夜陀多良比売という。
書紀では媛蹈鞴五十鈴媛といい父は事代主神、母は三嶋溝杙耳女玉櫛媛である。神 武 后 妃 父 名 母 名 ------------------------------------------------------ 古事記 富登多多良伊須岐比売 大物主神 勢夜陀多良比売 (比売多多良伊須気余理比売) (三島溝咋女) ------------------------------------------------------ 書紀 媛蹈鞴五十鈴媛 事代主神 玉櫛媛 (三嶋溝杙耳女) -------------------------------------------------------書紀と古事記で大きな異同があるが、神武が姻族とした氏族は磯城氏にほかならないから、磯城氏の奉ずる大物主神こそ后妃の父でなければならない。この点はあくまで古事記が正しい。
書紀は葛城氏とその地を過剰に記録すべきために葛城の神事代主神をもちだした。五十鈴媛も大同小異である。母の名も異なる。
統一的なのは一に母の父である「三島溝咋」である。
これは摂津三島のことで後の摂津国三島郡であり、はやくに島上郡と島下郡に分かれた。ちなみにこの地には、古墳時代中葉または後半に、弁天山古墳群といわれる前方後円墳が築かれている。一時期、大和盆地を除く河内・播磨・吉備をはじめ山城・近江・丹波などもふくめて最古の前方後円墳とみなされたことがあったが、その後これは前期後半すなわち四世紀後半に修正された経緯がある。 いずれにしても神武の后富登多多良伊須岐比売の本居の地に、古墳時代前期中葉または後半の前方後円墳があらわれることの意味は示唆的である。摂津三島の豪族が勢威を誇った証拠であろう。
ちなみに先に述べたように、弥生時代後期における近畿の人口は、大和に次いで摂津のそれが多かった。河内はさらにこれに次ぐという。
富登多多良伊須岐比売の挿話は古事記にある。「此間に媛女あり。こを神の御子と謂ふ。その神の御子と謂ふ所以は三島溝咋の女名は勢夜陀多良比売、その容姿麗美しくありき。故美和の大物主神見感でて、その美人の大便まれる時丹塗矢に化りてその大便まれる溝より流れ下りてその美人の陰を突きき。ここにその美人驚きて立ち走りいすすきき。すなわちその矢を將ち来て床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、すなわちその美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須岐比売命と謂ひ、亦名は比売多多良伊須気余理比売と謂ふ。故ここをもちて神の御子と謂ふなり」
この後「高佐士野」に遊ぶ七媛女の挿話として、比売多多良伊須気余理比売がその兄媛であることをいっているから、姉妹七人の長女である。しかしこの七人がいずれも三島溝咋の女勢夜陀多良比売から生まれたかどうかは分からない。七人はただ多数をいうだけかも知れない。
書紀の記事はもっと簡単である。「事代主神、三嶋溝杙耳の女玉櫛媛に共して生める児を媛蹈鞴五十鈴媛命と曰す。是、国色秀れたる者なり」
「媛蹈鞴五十鈴媛と曰す。事代主神の大女なり」
大女(おおむすめ)なる語は大兄媛をいうであろう。
さて古事記が富登多多良伊須岐比売、亦名比売多多良伊須気余理比売と記述するのは注意を要する。疑義がある。
普通依の名は弟を指示する。だから、本来富登多多良伊須岐比売と比売多多良伊須気余理比売は姉妹ででなければならないと思う。それがなぜ同一人物として扱われるのかという点は、その後の文脈のなかで明らかになる。
すなわち神武の後を襲った手研耳はその后を娶ったという。嫂婚である。その時の后で綏靖の母でもあった女の名が比売多多良伊須気余理比売であるのは、事実上時の神武の后で愨徳を生んだのが、比売多多良伊須気余理比売であったことを示唆するのではないか。
おそらく富登多多良伊須岐比売と比売多多良伊須気余理比売は摂津出自の同母姉妹であり、前者は早世したかまたは子を生さなかった。後者は神武より長命でかつ一子を生んだために、おそらくは早くから神武の嫡后であったのであろう。手研耳がこれを娶るのは兄の嫡后であるためにほかならない。
このためにこの二人は一人に収斂していった。摂津の陰部にかかわる伝承はともにこれをもっていたために、その貴種性もまた同等であったに違いない。
神武の嫡后が比売多多良伊須気余理比売であったことを確認しておいて、改めて一連の神婚説話を整理しよう。
書紀・古事記の崇神紀・記にある大田田根子の祖先の説話は、先述のように比売多多良伊須気余理比売のそれとはあきらかにテーマが異なる。
その骨子は「大物主神が河内の陶津耳の女活玉依毘売を娶って、櫛御方・飯肩巣見・建甕槌・意富多多泥古にいたる」という系譜である。書紀はこれを「父をば大物主神、母をば活玉依毘売と曰す。陶津耳の女なり。また云く、奇日方天日方武茅淳祇の女なり」といっている。
茅淳祇はすなわち河内の茅淳(後和泉国茅淳)であり、これも古事記の伝承と機を一にするであろう。
蛇神と巫女の神婚をテーマとするこの種の説話は、三輪山型説話を呼ばれ、肥前風土記・常陸風土記をはじめ日本全土に分布する。蛇婿入型ともいい、南方文化に源流をもつらしい。 すなわちこれは三輪氏の伝承になるもので、三輪氏は磯城氏の傍流であった。後述するが、磯城氏が崇神によって滅ぼされたのち、その遺族が祟りをなしたために三輪氏をたてて三輪山の大物主を祀らせた。
ただしそのもとが磯城氏であるなら、ここですくなくとも磯城氏の婚姻氏族が和泉茅淳にもあったことを指示する。
勢夜陀多良比売は摂津三島であった。
活玉依毘売は和泉茅淳であった。
神武以前における磯城氏の巨大な勢力の一端がみえる。
倭迹迹日百襲姫の挿話は、丹塗矢型と蛇婿入型が混在しているようにみえるが、文脈の比重は丹塗矢型に多くある。丹矢と箸との差は大きな意味をもつのではない。陰に刺さるものが伝承の骨子であり、富登多多良伊須岐比売の「富登多多良」と倭迹迹日百襲姫の「百襲」とがほぼ同一の事象をいうのであろう。
いずれも陰部についての伝承である。したがってこれらの一連の意味を復元すれば、筋道は以下の通りである。
倭迹迹日百襲姫はその伝承の骨子で勢夜陀多良比売を仮託した。その名称では富登多多良伊須岐比売を仮託した。そして事実上は、これらの収斂するところとして、神武の嫡后である比売多多良伊須気余理比売を仮託したであろう。
箸墓である。もとの名は土師墓かも知れない。初めて土師器(布留0式)を副葬した箸墓の由来としては穏当な解釈かも知れない。その陰部にかかわる伝承は確としてあり、かつその墓が大市の墓であることも明らかなことであった。古事記はこれを陰部の名をもってのみ記録に残した。書紀は倭迹迹姫に仮託して物語にした。伝承の核もまた陰部と大市墓であったのだと思う。
背景もまたあきらかである。箸墓は四世紀初葉に築造された。そしてこの四世紀初葉こそ考古学的な知見が、論理的に大和朝廷の発生とみなす時期であった。崇神を初代に想定している。
書紀の編者の文脈と観念においてはそうではない。神武の即位と治世の時代であった。ひるがえって神武の侵入にひきつづくこの時期こそ、纒向の地に箸墓のような画期の前方後円墳がうまれる条件でなければならない。
この議論はさらに収斂する。
纒向型から本格的かつ巨大な前方後円墳が出現する背景は、つまるところ神武が磯城纒向の王者を姻族としてとりこんだ、いわば革新の結果なのであろう。
そしてこの場合、その被葬者は書紀の記述に反してまた古事記の記録には近い、神武の一族と磯城の一族にとってともに重要であり、そのために磯城の地に陵葬された人物に違いない。女性の墓であるという伝承もまたこれを無視すべきでない。
箸墓の被葬者は、神武の嫡后にして摂津の血をもつ磯城の出身の比売多多良伊須気余理比売である。
この伝承は神武の嫡后であった女、磯城出自ではじめて大王氏に嫁した女の、陰(ほと)つまり陰部にかかわる挿話なのであった。
神武の嫡后は神武より遅くに死んだ。磯城県主葉江の女という人物がそれであり事実はその妹であろう。
古事記の文脈からすると神武は后妃をもつにあたって七乙女と見合いしたという。富登多多良伊須岐比売はその長女であった。さらに六人の妹がいたことになる。その同母の次女が比売多多良伊須気余理比売であった。
箸墓は「昼は人がつくり、夜は神がつくった」という。神武の一族と磯城の一族が、交代にこれを築造したのである。
そこには大王氏と磯城氏との王権をめぐる最初の一章があった。巨大な前方後円墳をつくるにあたって、双方の巨大な権威の表現が必要であった。大坂山から運ぶ大石はその労苦とともに大王氏の記憶にのこったであろう。
箸墓の墳丘を覆う葺石は、大和盆地の西部に偏る、芝山の頂上部にのみ産する特異な玄武岩であるらしいが、芝山はふるく大坂と呼ばれた地域にふくまれる。この伝承の核は史実なのである。
ちなみに比売多多良伊須気余理比売の没は、書紀の文脈からして綏靖の即位元年(三〇六)以降でである。不本意にも手研耳の后妃となってこれを憂えたという文脈は、史実であろう。したがって綏靖即位以前の没していることはない。
さらにその王子が即位するのをみるという文脈も史実であれば、その没年はさらに降り、愨徳の即位元年(三二一年)以降の可能性がある。
築造に数年を要すれば、前者の場合は西紀三一〇年前後、後者の場合は西紀三二五年前後ということになる。前者のほうが文脈の筋が通るように思える。
一つだけ蛇足がある。
箸墓にともなう倭迹迹日百襲姫という伝承は、かならずしも架空のそれではない。書紀・古事記にあって大王氏がそれぞれ前代・前々代にその治世と係年を仮託したように、倭迹迹日百襲姫もまた実在しつつ、その先時代の人物であった神武の后妃比売多多良伊須気余理比売に仮託したのだと思う。
そしてむろん倭迹迹日百襲姫は磯城氏の血をひいていた。さらにいうならそれ以外の氏族の血もひいていた。神武の時代に勢威のあった摂津・河内の豪族の後、数世代を経て摂津のそれに比肩するべき新たな豪族から出た女の担った伝承なのであろう。実際の崇神の時代である。
それもこの節で検証することにする。
磯城県主葉江β
比売多多良伊須気余理比売の背景が以上のものとすると、磯城氏の王権自体がひとつみえてくるものがある。
重複するが磯城氏にとってその婚姻氏族は摂津三島や和泉茅淳にこれを求めた。箸墓や摂津の古墳からして、摂津三島の女からうまれた媛が磯城氏の正系のそれとみなされるから、神武はまさに磯城氏の正嫡と婚を結んだといっていい。
磯城県主黒速のちに「葉江」と書かれるその人である。
比売多多良伊須気余理比売は葉江の子ではない、姉妹であろう。世代は輻輳しがちだが、神武と弟磯城黒速は同時代にあった。弟磯城は文脈からすれば、書紀に兄磯城・弟磯城として登場し、神武に荷担して兄磯城を滅ぼしその後を襲ったのである。
するとこの兄磯城・弟磯城の実質は兄弟ではないかも知れない。すくなくとも同母のそれでなく異母のそれであるか、たがいにどちらかが傍流の出自同士であったかも知れない。
その名の「黒速」という意味も不明である。
しかしながら葉江自身が比売多多良伊須気余理比売とおなじく摂津三島を生家とするなら、その名もそこに由来するであろう。
文脈からすると、母系を摂津にもつ磯城の嫡子は、この葉江と富登多多良伊須岐比売・比売多多良伊須気余理比売の三人であったと思う。摂津の津は難波津の意ともいい、もともと大阪湾に面したこの辺りこそ難波と呼ばれた地であった。「浪速」である。「速」はこの浪速に由来するかも知れない。またもし明石海峡が神武紀にある「速吸門」であれば大阪湾のその近辺が「速水」と呼ばれていたかもしれない。
神武以来磯城の宗家となった弟磯城黒速とその宗家の姉妹に違いない富登多多良伊須岐比売・比売多多良伊須気余理比売の出自が、ともに摂津三島にあるためにはもっとも穏当なみかたであろう。
この場合は「黒速」もまた「咋(くら)速」の意ともみられる。三島溝咋の咋である。
さて磯城氏葉江宗家はその後二代に亘って威をはったらしい。「磯城県主葉江の女」は書紀では安寧・考昭・考安の后妃として記録され、「磯城県主葉江弟猪手女」が愨徳の后妃として記録される。古事記には安寧の后として「師木県主波延の女阿久斗比売」を挙げる。
以外のこの辺の后妃で磯城氏にかかわるのは、書紀のいう綏靖の后妃「磯城県主女川派媛」、愨徳の后妃「磯城県主太真稚彦女飯日媛」、考霊の后妃「磯城県主大目女細媛」である。古事記も愨徳の后妃「師木県主祖賦登麻和訶比売」、考霊の后妃「十市県主大目女細比売」を載せる。
このうち愨徳と考霊の后妃の記録は、前章にも述べた理由で磯城氏でなく十市氏とみられる。
この辺の表記上の問題については、今一度みておきたい。すなわち「磯城県主葉江女」と「磯城県主祖または磯城県主女」の文意の違いである。
「葉江女」は葉江の同母妹または女に違いないが、以外の后妃名は葉江とはかかわらない、つまり摂津出自でない磯城氏であった。そのために葉江の名を出さない。「磯城県主祖」と書くのである。
葉江の同母妹は前述のように富登多多良伊須岐比売・比売多多良伊須気余理比売とみられるから、事実上の葉江女すなわち葉江の子とみられるのは、書紀・古事記で同一記事とみなせる安寧の后「県主葉江女川津媛」と「師木県主波延女阿久斗比売」であろう。
前者は綏靖后「磯城県主女川派媛」にひきずられた名前らしく、古事記の「阿久斗比売」という名前がオリジナルであろう。摂津に「芥川」が現存するが、「阿久斗」がもしこれに由来するなら、葉江宗家は二代にわたって摂津出自という貴種性を守ったことになる。
その綏靖の嫡后は、書紀では媛蹈鞴五十鈴媛の妹五十鈴依媛としているが、一書でいう磯城県主女「川派媛」が正確であろう。古事記も「師木県主祖河俣毘売」という。
この辺の記事はおおまかに古事記に分がある。
そもそも依の名がつくのは妹を意味するに違いないが、書紀がここで綏靖の嫡后を五十鈴依媛としたのは、神武とともに姉妹を娶った綏靖の立場すなわち同母弟を示唆するために過ぎないと思う。疑問があるやも知れないから補足しておくと、書紀が古事記の富登多多良伊須岐比売・比売多多良伊須気余理比売を区別せず、媛蹈鞴五十鈴媛一人で表記したのは、ただなるべく整合的であろうとするだけのことである。
その証拠に五十鈴依媛は媛蹈鞴五十鈴「依」媛ではない。「媛蹈鞴」が付かないのである。だから五十鈴依媛は媛蹈鞴五十鈴媛の同母妹ではない、観念的な妹であるに過ぎない。七媛女のうち摂津出自の媛女は長女・次女の二人だけであろう。
さて綏靖の后「川派媛」の名は河内の地名で、和名抄にも若江郡川俣郷がある。
綏靖が磯城氏であっても葉江宗家から后を迎えなかったことは、その子とみられる考昭の謚がその兄または従兄弟とみられる愨徳(大日本彦耜友)と明確に異なって、「観松彦香殖稲」というそれであることで分かる。
観松彦は御間津彦であり、御間城ないし御間津は磯城の地をいう。纒向もまた間城向の意であろう。それでも磯城津彦とは違い、磯城津彦は神武紀にも磯城彦というようにこれが正系の名とみられ、観松彦香殖稲は庶子のそれであったと思う。
綏靖はまた磯城県主川派媛のほかに、磯城県主太真稚彦女事実上太真稚媛(飯日媛)と、十市県主大目(大間・大真)女事実上大真媛(細媛)を后妃とした。前章に述べたようにこの二者の名は、たぶん太真稚飯日媛(亦名細媛)という同一人物で、十市氏の女とみられる。
神武・綏靖・安寧と大王氏の系譜がつづいたのち、おそらく姻族磯城氏の正系の王子は愨徳で終わった。その後を継いだ考昭・考安・考霊・考元はいずれも綏靖の子であった。そしてその考昭の母は磯城氏でも正系でなく、考安のそれは尾張氏そして考霊と考元の母后は十市氏とみられるのである。
磯城氏という神武以来の巨大な姻族にして国家の本でもあった葉江一族は、神武・綏靖・安寧そして愨徳の代まででその勢威を一度止めた。ついで自然に減じていったようにみえる。神武元年(二九九年)から愨徳没年(三二四年)までの二六年間の勢威である。 この葉江の二六年間を今一度総括しておこう。
神武と手研耳の時代には葉江の同母妹が后であった。綏靖に至って葉江には異母の妹川派が后であった。これを継いだ安寧の時代には葉江の女阿久斗比売が后であった。安寧を襲った愨徳の時代には愨徳が葉江の甥であった。
葉江がこの二六年間を生き抜いたという保証はむろんない。
神武建国己未年(二九九)に二〇歳前後とすれば、綏靖即位丙寅年(三〇六)には二八歳、安寧即位乙亥年(三一五)には三七歳、愨徳即位辛未年(三二一)には四三歳、愨徳没年甲申(三二四)には四六歳であった。
これによれば安寧即位時には、葉江の女がすでに成人していた。安寧の后阿久斗比売が葉江の女であろうと仮定した、理由のひとつである。
安寧を襲った愨徳は、神武と磯城の伊須気余理比売の子で、葉江にとっては同母の甥に当たる。葉江の勢威に変わりはないが、直接的な同母の妹あるいは女とは異なっていた。愨徳の后妃に葉江の女はあったであろうか。
前章にあったように愨徳の后妃のうち、太真稚彦女飯日媛(賦登麻和訶比売)は考霊の母后を指すとみられるため、愨徳の后妃としては息石耳の女たる姪・天豊津媛と、磯城県主葉江弟猪手女泉媛が候補として残る。
姪なる語はかならずしも大王氏のそれではない。姻族すなわち葉江の姪でもあり得る。この場合は猪手女泉媛こそ天豊津媛であろう。ちなみにこの猪手はもしかすると「臍見の長柄の猪祝」を母系とする磯城氏で、葉江に組みした葉江の異母弟かも知れない。葉江の子ではないと思う。
姻族の概念からすればこういう考えもある。甥を大王にもつことと大王に后妃を出すこととはどちらの立場が重いであろうか。後者のほうが重いと思う。
すなわち愨徳の時代から葉江の勢威は陰りをみせた。そして愨徳の治世は短かった。その四年甲申年(三二四)に没し、翌乙酉年(三二五)に異母弟考昭が即位する。
その母は磯城氏の出であったが、本居はすでに摂津でなく河内川派にあった。父も綏靖である。そして考昭も短命であった。愨徳と同じく治世わずか四年で没し己丑年(三二九)、その異母弟考安が即位する。その母后はすでに磯城氏ですらない。尾張氏であった。
まとめとして大王氏の后妃の系譜を以下のようにさらに整理する。この場合神武と綏靖ならびに安寧の后妃については前述の通りである。
綏靖の后妃のうち一書にあらわれる春日県主大日諸と安寧のそれである大間宿禰ならびに考霊の后妃(事実上考元の母后)十市県主大目、さらに愨徳の后妃で事実上考霊の母后とみられる磯城県主太真稚彦は、これを全て同一人物として、表記を「十市太真稚」とする。
十市の表記については、先述のように十市大目を古事記が十市県主とするにもかかわらず、書紀が磯城県主大目と記述するためで、ここにある磯城の名はその時代に限って十市氏が磯城県主を兼ねたためと思われる。また考霊の磯城県主太真稚は、書紀・古事記とも「磯城県主」であるが、この母后の名称はつまるところ考元の母后「大目・大間」と同然なのである。やはり磯城を宰領した十市氏をいうであろう。
十市氏が考霊・考元の時から、磯城氏を襲ってその勢威を奪っていったことを示唆する。「安寧」 +-----磯城津彦 | 磯城摂津-+--磯城葉江--------阿久斗比売 | | | | +--磯城富登多多良伊須岐比売 | | | +-(磯城比売多多良伊須気余理比売) | + | 「神武」 | +--------------------「愨徳」 | | 「綏靖」 | +--------------------「考昭」 磯城河内----磯城川俣比売 | | 尾 張----尾張瀛津世襲妹 | +--------------------「考安」 十 市-+--太真稚妹 +--------------------「考霊」 | +--------------------「考元」この表から二つのことがみえる。 一つは磯城葉江宗家が考昭の代から姻族の権威をすべりおち、一時尾張氏がついだが、勇躍十市氏がこれを継いで姻族の正系を成したことである。
綏靖がもともと弟王であったために、葉江宗家がこれを避けた訳ではなかろう。綏靖は神武の同母弟とみられ、その大王氏としての出自に遜色はない。神武はその画期の事績で大和の創始者となったが、綏靖はむろんそうではない。それでも創業の血脈は天武の天智に対するそれと同様にすべからく第一のものであった。
ちなみに天武は天智の弟王として、書紀の文脈のなかでは神武に対する綏靖に仮託されている。また崇神に対する垂仁に仮託されている。あるいは応神に対する仁徳に仮託されている。トータルの文脈のなかでそうなるのであり、とりあえずそれが決定的なことではない。
綏靖の后妃は多々あるが、うち嫡后は川俣比売であった。神武の后であった比売多多良伊須気余理比売は、手研耳がこれを娶ったという伝承がある。事実手研耳が伊須気余理比売を王位とともに継いだのであろう。綏靖は手研耳を弑逆して王位を襲った。
古事記の伊須気余理比売の一連の挿話は、夫王たる手研耳と腹を痛めた子との間のジレンマである。この王子も綏靖ではない。
手研耳弑逆の事件そのものは弟王としての綏靖がこれにかかわった。比売多多良伊須気余理比売が、その子愨徳の将来を期すために、綏靖と結託してこれを起したのであろう。
同様の事件がその後愨徳の即位に関っても起きた。安寧の弑逆である。この事件のかたちは、綏靖即位前記に形式的に仮託されているが、たぶん実情はよほど違っていたであろう。
安寧の后は葉江の正系の女阿久斗比売であった。その子孫系譜にある愨徳はむろん仮託、息石耳もなんらかの挿入とみられるが、磯城津彦という王子の存在が問題である。
その名は磯城の首長の名と同じである。大王氏の王子にして磯城津彦という人物を想定するよりは、そのまま磯城の一族の仮託とみるべきではないか。安寧の謚が同じく磯城津彦玉手看というのは、正系の后と王子をもったことによるであろう。するとこの磯城津彦は、つまるところ神武や葉江の前代の人物である。
さて磯城県主葉江の立場からいえば、磯城纒向の地はすでに半世紀も前から大和における王者にして、列島の雄であった。自らはその正嫡の地位にはなかったかも知れないが、神武を認めてその大王氏としての王権と思想を了解し、もってこれに協力して兄磯城を伐った。
大王氏としては磯城氏を姻族の枠にはめたが、磯城氏においてはこの権威の差異を意識していたかどうかは分からない。概念的な権威よりも現実の実力たる権威が大王氏より勝っていることは衆知のことであったかも知れない。
さてこの表の今一つの問題である。
神武や葉江の一世代前にある「磯城彦」の存在である。安寧一子磯城津彦もこの仮託であると指摘しておいた。
磯城氏がもともと纒向の王者であって、その権威が交易文化国家のそれとして、いわばその交易文化版図が列島をくまなく巡るほど巨大であったとする。この時葉江の正系たる血は摂津三島のそれであった。また和泉茅淳にもその婚姻氏族がいた。河内若江川俣にもそれがあった。大和盆地内では添下に新城なる氏族があった。山城にもたぶん瀛すなわち奥城(奥磯城)があった。
交易ルートを辿れば、さらに山城・近江・丹波・越また播磨・吉備を通して西海方面を、伊賀・伊勢また美濃を通して尾張そして東国方面にもそれぞれ拠点をもった。拠点のうちには一族の派遣者がいて、これに同調する地在の豪族もいた。
神武とともに大和を攻撃した椎根津彦もまた、その名に山城の宇治または内の名をもち、なおかつ明石海峡を本拠としたらしい。淡路の首長であったかも知れない。氏姓録は大和国造祖といい明石国造祖ともいっている。前章の冒頭で椎根津彦の亦名珍彦は宇豆彦であり宇治彦の意であろうといった。また磯城氏につながる一族の異端者ではなかったかと指摘した。
そうした可能性はここにおいてさらに高い。
神武や兄磯城・弟磯城にさきだって「磯城彦」たる巨大な勢力をもった磯城の首長がいた。その子孫は交易の然るべき土地において逐一拠点をもち、かつ磯城本国を継承するにたる権威ももっていた。その一人が兄磯城(磯城彦)であり、いまひとりが摂津三島を本居とする弟磯城黒速であった。
河内にあっても山城にあっても、また添下の地にあってもこの磯城の王権には緩やかにして平等の権利があったとしたらどうであろうか。
われわれは磯城も吉備も出雲も、その王権の由来と観念を知らない。かろうじて神代の出雲神話がそれを示唆するかも知れない。想像の域をでないが、王権の様式の違いがあったかも知れない。たとえば農業国家たる神武の王権に対して商業国家たる磯城が対峙したのである。
摂津三島を宗家としたのも、磯城氏の正当な王権の観念でなく、ひょっとしたら神武ともに立ってこの結果をみた弟磯城黒速の主体性によるのかも知れない。その場合兄磯城につながる磯城氏の別の正嫡というものすらあったかも知れない。
葉江や神武の前代である「磯城彦」の系譜はむろん復元できないが、磯城氏が姻族であったために、磯城彦の交流する近畿あるいは近畿を超えた地方に、姻族を継承すべき在地豪族がいくつもあった。そうみておきたい。
補足することがある。
磯城宗家葉江の後はどうなったであろうか
後世磯城の地で磯城氏の後裔とみなされたのは、三輪氏と磯城県主家である。三輪氏はその出自を書紀・古事記とも和泉茅淳の大田田根子の後裔としていて異同がない。大物主の祭祀を司った。
磯城県主家はそもそも葉江が磯城県主と記録されるため、葉江の後裔とみられがちだが、これは全くそうではなかった。饒速日の後裔というのである。すなわち饒速日の子孫の一人である伊香色謎が、磯城県主の血統を継ぐ女を娶って一子を生んだ。これが磯城県主になったという。
すると磯城葉江の宗家は残らなかった。衰退して十市氏に替わられただけではなく、その後のどこかで滅亡しているのである。
われわれがこれまで知らない磯城彦の婚姻氏族が、もっと広範にあったとすれば、その検討が必要である。磯城氏は大王氏の嚆矢たる姻族であった。その系は滅びてもなお引き継がれなければならない。新たな姻族の登場は、古い姻族の血を活かすのでなければならない。
尾張氏と姻族の継続性β
大王氏にとって姻族はいわば国家の思想であった。姻族の側でもこの思想の共有がいわば経世の基本であった。
そのために姻族は本来的に退潮も消滅もできない。別の姻族が立つためには然るべき手続き継続が不可欠であった。磯城氏が一世代二〇余年で衰退していったことは論理的ではない。
これに代わる勢威はよほど早くにその基盤ができていなければならない。まず尾張氏が問題である。磯城氏を継いだとみられる十市氏がつぎの問題である。姻族たるべき出自は、とにかく磯城氏との係累の連続性をもって明らかにされなければならない。
そもそも大王氏の姻族が他氏族に替わるについては、後々までに一つの法則があった。曽我氏が姻族になったのはその先姻族であった葛木氏の後裔を曽我稲目が娶って、堅塩媛・小姉君・馬子・摩理勢を生んだためであった。その母の血をもってして、堅塩媛と小姉君は欽明の妃に入った。用明・推古・崇峻は曽我氏の血をひくために王位を得たのではない。その母からうけついだ葛木の血統を重くみられたのである。
その葛木氏すなわち葛城氏もまた気長氏からその貴種の血をうけついだと思う。葛城氏初代の武内宿禰はその母系から山城の内の血をもった。この山城の内氏は気長氏にほかならず、気長の気はその先「奥城」の意であったと思う。奥城長である。長の意については後にしよう。
大王氏が一系を遵守するばかりではない。その姻族もまた悠久に原点たるべき姻族の血の係累を守るのである。
綏靖の后妃「尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曾)の妹世襲足媛(余曾多本毘売)」は、姻族たる磯城氏からすればその最初の断絶であった。この出自は尾張氏である。高尾張ともいうが、鴨氏とおなじく葛城氏以前の葛城の地の首長であった。
後世の祖先伝承は、瓊々杵の兄弟である天火明命の子天香山命というが、天孫でなく歴とした地祇とみられ、饒速日の後裔や葛城氏との婚姻が記録される。
姻族の原理からするとすぐさま納得できないが、強いていえばこの瀛津世襲の「瀛」こそ、奥城の意で気長・息長の由来ではないかと思う。つまり瀛津世襲なる人物はその妹とともに磯城氏から分かれた氏族の母から生まれた。
尾張氏の伝承もこれに対応している。これによれば瀛津世襲の母は、尾張氏と神武に封じられた葛城国造剣根の女賀奈良知姫との子であった。賀奈良知姫は知姫(しりつひめ)であり、知はつまるところ山城の背(尻)に通ずるであろう。すると尾張氏の娶ったのは葛城の女でなく、南山城の豪族の女であったことになる。
瀛津世襲妹世襲足媛は古事記では余曾多本毘売と書かれる。余曾は「外(よそ)」に違いない。山城の「内(うち)」との対比がおもしろい。多本は美をいう「妙(くわし)」かまたは「淫(たふ)」の転であろう。淫であればこれは綏靖が淫して考安を生んだという文脈になる。正嫡でなく姻族でもないことをいうのである。
「伊夷模子無し。淫して一子を生む」という高句麗の山上王のケースに似ている。姻族の正嫡でない女は淫なのである。
この議論は収束する。すなわち姻族は磯城の葉江をもって嚆矢とした。その貴種性もまた葉江一族に由来した。したがってその父たる磯城彦の分派が、血液の混在なくして葉江に準ずる貴種性をもつことはない。綏靖が世襲足媛を娶ったのは、妃または嬪としてであろう。その子もまた正嫡ではない。考安はやはり即位しなかったのではないかと思う。
これは聖徳と馬子の作為であったとみられるが、ことは考安の存在のみならず、葛城氏とその類縁につながる全ての氏族がある程度仮構されたのだと思う。実は編纂時に行われた作為とはいいきれない背景もある。編纂後にひたすら一人歩きしたらしい「天皇記・国記等」の状況に不穏なものを感じる。
この最初の国史は聖徳と曽我馬子の企図の基に編纂された。推古二八年(六一七)条にこういう記事がある。是歳、皇太子・嶋大臣共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記を録す。
暦本及び天文地理の書を携えて、百済の僧観勒が渡来してきたのは推古一〇年のことである。「皆学びて業をなしつ」というこの記述の時から、一八年経っている。天皇記・国記等がこの時編纂を始めたそれであったと思うべきであろう。
しかしながら、その原本は残らず、曽我毛人が滅びた時に「焼かるるまま」その屋敷から辛うじて持ち出された。持ち出したのは船史恵尺という。百済王の後裔王辰爾の後で代々の文官であった。そして「中大兄王子に奉献」した。皇極四年(六四五)すなわち乙巳の変(大化の改新)の出来事である。
文脈からすると、この「天皇記及び国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記」は、国家的編纂事業というものとは違っていた。「皇太子・嶋大臣(馬子)共に議りて」録したというのである。私家的な編纂であろう。私家的編集とはいえ、この種の著作として、仮構で成り立ったのではない。オリジナルはおそらく仮託も含め架上することの少ないそれであったに違いない。
その一応の完成が推古二八年だとすると、完成品はどうしたのであろうか。
むろん朝廷に奉献された。一部は聖徳が所持し斑鳩とともに山背大兄に伝えられたであろうが、斑鳩の滅亡とともに散逸した。つまり後世に伝わって書紀・古事記が参照したそれが、朝廷に残るオリジナルであった保証はない。オリジナルは推古の時代に散逸した可能性すらある。
書紀がわざわざ船史恵尺の挿話を記録するのはそのためではなかろうか。すなわち書紀と古事記の編者が原点とした「天皇記・国記等」は曽我毛人の家から持ち出したそれであった可能性がある。すると曽我氏の私蔵によったために、曽我氏がこれを少なからず改竄した可能性もある。私家において私蔵するに、勅令からする使命感はこれが薄くなるであろう。
大王の紀年のみならず、とくに曽我氏の祖である木羅斤資や葛城一族の活躍を悠久の過去に溯らせて、書紀・古事記の記事全体に、不可解なクローズアップがみえているのはこのためである。
考安の即位もまたこのためであったと思うが、大勢には影響がない。考安でなくすでに考昭の時代から磯城氏の明らかな衰退が始まっているのである。
さて磯城氏の背景には驚くべき多くの同族の地方展開、またこれにともなう地方豪族の親族にして力量ある勢威が控えていた。それらの氏族から瀛津世襲氏が生まれ、姻族の交替が始まっていく。十市氏さらに穂積氏や和珥氏が登場してくる。
しかしながら磯城氏に取って代わった姻族は、なによりまず十市氏であった。その勢威も磯城氏に比肩する。