第一章 斯麻宿禰β

第三節 大和の進出β

斯摩宿禰の登場β

  「おもしろそう紀」と名づけるこの書を、斯摩の宿禰からはじめるのは、ごく個人的な思いいれのためである。書紀を通読したことのある人なら、たぶん分かってくれると思うが、神功紀に突如として登場し、なんの挨拶もなく退場してしまうこの人物は、その舞台での役柄の割には、出自もその後の動静も不祥である。その舞台はもちろん半島なのであるが、文脈からすればこの時、神武以来の大和の朝廷がはじめて半島と交渉をもった、その嚆矢であった。
 これはむろん同時に倭のその後の、半島また大陸との交渉の複雑に輻湊していく端緒でもあるが、いうなれば叙事におけるプロローグがない。こだわってしかるべき注がない。いきなり記述だけが放りだされて無為に浮いている。書紀としては異常である。
 通常書紀は初出の人物についてはその係累を記述する習いである。書紀にそれがないわずかな例においても、古事記においてわかることが多い。狭穂姫や葛城高額媛などがそれである。古事記でも分からない特殊な例がこの斯摩宿禰であり、出自の片鱗すら語られない。
 時代は文字通り画期の時代なのである。書紀の文脈にしたがえば、大和に生まれた倭の王権が悠久の時をかけてようやく日本列島の西端にとどき、いままさに東アジアの歴史に参画しようとしていた。時代に区分を必要とするなら、これをもって書紀の第二章が始まるべきであった。
 斯摩宿禰は書紀の神功紀に登場する。
 この間の経緯を把握するために、まず神功紀の年譜を一覧してみよう。
 神功紀は辛巳の年を元年とし、摂政治世六九年を経て己丑の年に没したという。干支を適当に西暦に当てはめれば、元年は辛巳(三二一年)または辛巳(三八一年)である。没年はそれぞれ己丑(三八九年)または己丑(四四九年)である。
 どちらかということになれば、応神元年(事実上成務元年)が庚寅(三九〇年)であるから、書紀の表記上も、神功没年は辛巳(三八九年)でなければならない。するとこれは神功紀の三〇年代以上が、成務以前の大王のそれを仮託したという状況を示唆する。成務の父にして一代前のそれはすなわち景行であろう。神功没年はまずは景行没年を指示するものであったと思う。
 神功紀はこのため事実上の即位前記ならびに元年から一三年までは実神功紀であり、むろん辛巳(三二一年)に始まるのではない。応神紀治世四一年のなかのどこかから始まるのである。
 以下記事の存在しない神功一四年から三七年までは、これを省略した。   

                                   
                                    
     神功紀年譜
     ======================================================
     干支 西紀 紀年          記        事
     ======================================================
     庚辰  320     | 仲哀没  熊襲を伐  新羅を伐つ  応神生る
     辛巳  321  元 | 大和帰還  忍熊・籠坂を伐つ  この年太歳
     壬午  322   2 | 仲哀陵葬 
     癸未  323   3 | 応神立太子 
     甲申  324   4 | 
     乙酉  325   5 | 新羅の使毛麻利を殺す 
     丙戌  326   6 |  
     丁亥  327   7 |  
     戊子  328   8 |  
     己丑  329   9 |  
     庚寅  330  10 |  
     辛卯  331  11 |  
     壬辰  332  12 |  
     癸巳  333  13 | 応神の敦賀儀礼 
     甲午  334  14 |   
     ------------------------------------------------------
     戊午  358  38 |   
     己未  359  39 | 卑彌呼朝貢(二運前) この年太歳
     庚申  360  40 | 親魏倭王(二運前) 
     辛酉  361  41 |  
     壬戌  362  42 |  
     癸亥  363  43 | 卑彌呼没(二運前) 
     甲子  364  44 |  
     乙丑  365  45 |  
     丙寅  366  46 | 斯摩宿禰卓淳に至る 
     丁卯  367  47 |   
     戊辰  368  48 |   
     己巳  369  49 |   
     庚午  370  50 |   
     辛未  371  51 |   
     壬申  372  52 |   
     癸酉  373  53 |   
     甲戌  374  54 |   
     乙亥  375  55 | 百済肖古王没・貴須王立
     丙子  376  56 |  
     丁丑  377  57 |  
     戊寅  378  58 |  
     己卯  379  59 |  
     庚辰  380  60 |  
     辛巳  381  61 |  
     壬午  382  62 | 襲津彦新羅を伐つ
     癸未  383  63 |  
     甲申  384  64 | 百済貴須王没・枕流立
     乙酉  385  65 | 百済枕流王没・辰斯立 
     丙戌  386  66 | 臺与朝貢(二運前) 
     丁亥  387  67 |  
     戊子  388  68 |  
     己丑  389  69 | 神功没・陵葬 この年太歳
     ======================================================
   

 卑彌呼と臺与に関係する記事は、当然のことながら、二運(一二〇年)前をここに仮託している。百済王関係の記事はこの係年のままで順当である。これは百済滅亡後に日本で書かれたといういわゆる「百済三書」からの参照記事に違いないが、朝鮮の「三国史記」でも保証される。
 景行あるいはその前王垂仁に関るかも知れない記事は、したがって神功四六年条から始まる。
 その四六年条にはこう書かれている。     

 
       ---------------------------------------------------
       神功四六年条  |   斯摩宿禰至卓淳、斯摩遣従者百済
                     |   斯摩帰還
       ---------------------------------------------------
       神功四七年条  |  百済使久低来倭、遣千熊長彦新羅
       ---------------------------------------------------
       神功四八年条  |
       ---------------------------------------------------
       神功四九年条 |  荒田別・鹿我別・木羅斤資・沙沙
                     |   奴跪、伐新羅、百済王と交歓
               |   千熊長彦、百済王と交歓
       ---------------------------------------------------
       神功五十年条 |  荒田別等帰還、千熊帰還(久低同行)
       ---------------------------------------------------
       神功五一年条 |  百済使久低来倭、遣千熊百済(久低
                     |   同行)
       ---------------------------------------------------
       神功五二年条 |  千熊帰還(久低同行)、百済王贈倭
                     |   七枝刀
       ---------------------------------------------------
 

   まとめてしまったが、概略をいっておこう。

 まず神功四六年に、大王(神功)は突然、斯摩宿禰という人物を北加羅の卓淳国に派遣する。するとその卓淳王が、斯摩宿禰に「二年前の甲子年(神功四四年)に、百済の使久低(等三人が来て、百済王(肖古)が倭国に朝貢したいが、道を知らぬ。もし倭国の使人が来たら知らせて欲しいと言いつかった」という。
 斯摩宿禰はすぐ従者を百済に派遣したが、百済王はおおいに悦び珍宝を奉った。斯摩宿禰と従者はそれを持って倭に帰還した。
 その翌年の神功四七年、道を知った百済は、改めて久低を使者とし朝貢してきた。このとき新羅の使者も何故か同行したが、貢物が貧しく百済のそれと強引に取り替えて奉った。これを知った大王(神功)は、新羅を責めるため兵を派遣することを決め、天神に占う。
 天神はこう言った。「武内宿禰をして議を行なはしめよ。因りて千熊長彦を以って使者とせば、当に所願の如くならむ」  ここに千熊長彦を新羅に派遣しこれを問責した。
 次いで二年後の神功四九年、突然、荒田別・鹿我別を将軍とし、卓淳に至って、さらに木羅斤資と沙沙奴跪を強力につけ、新羅を攻める。七国を平定してこれを百済に賜い、百済王と交歓する。千熊長彦もまた別の場所で交歓する。
 神功五〇年、荒田別等が帰還。次いで千熊長彦が帰還するが、これに久低がついてくる。大王は「今何事ありてか頻に復来る」ときいている。
 翌五一年再び久低が使者として来朝。これを受けてまた千熊長彦を久低に付けて百済へやった。久低も千熊も何をしたのか不明だが、滞在一年後に二人が連れ立って帰還。
 久低はこの時、百済王の特注品「七枝刀」を倭王に贈った。神功五二年のことである。
 

 批判にはいりたい。
 この神功四六年条から五二年条の七年間の記事において、文脈にどうしても矛盾が見られるのは、つとに指摘される四九年条の荒田別・鹿我別・木羅斤資・沙沙奴跪の四人の活動である。新羅との戦に勝って、百済王肖古および王子貴須と交歓する話しは、同年のすぐ後の記述に、千熊長彦と百済王とが戦勝の交歓をする話しがあり、記事内容自体が重複する。この重複は書紀の基本的性格のひとつである。
 そもそも木羅斤資は書紀が百済記を引用するところ、木満智の父といい、その活動年代はすくなくとも五世紀代と見られる。荒田別・鹿我別にしても、その出身が新田・足利と比定され、書紀の伝承でも、崇神の子にして初代東国都督であった豊城入彦の五代の後といい、王代を勘案してもまず五世紀をさかのぼることはない。
 したがってこの四名の存在と活動とは、そこのところのみ、例えば一運(六十年)または二運(百二十年)ばかり意図的にさかのぼりがあるであろう。
 事実は一運であると思う。この意図的な作為は、大王の治世年代のそれと同じく、おそらくは木満智をとおして曽我氏の祖であった木羅斤資を、遠き故に貴き悠久の彼方へ追いやったために違いない。聖徳と曽我馬子が書紀に先だって「天皇記・国記等」を編纂したことを思いだせばよい。
 ちなみに木羅斤資は百済の将軍ではないと思う。これを大和の派遣官であると明確に述べたのは、池内宏氏であるが、氏の見解は証拠の提出をともなわなかった。書紀の文脈からして、そうなのだといっているように見える。そのとおりであろう。要は木羅氏はのちの紀氏であり、斤資は「こにし」また「こにしき」であり、百済語の「国主」の類を意味するであろう。字(あざな)である。
 この四名の存在と活動を削除すると、神功紀の一連の条には、斯摩宿禰と千熊長彦の二人の存在だけが残る。
 これが第一の関門だが、複雑に考える必要はない。
 千熊長彦について書紀は注して「百済記に識麻那那加比跪と云えるは蓋し是か」という。しかし、識麻那那加比跪は要するに「斯摩之中彦」であろう。これを書紀編纂の原典であった「百済記」に忠実たるべく、千熊長彦と訳したからには、中彦でなく長彦であったかも知れない。
 いまはこの辺をさらりと言っておくが、書紀の編者は結局、斯摩宿禰長彦が百済記で識麻那那加比跪と表記されていたことを知っていた。しかし斯摩宿禰の名は倭の記録によっていた。この二者の関連は、編纂の方針としてはあえて説明すべからざるものであった。そのために識麻那那加比跪をして千熊長彦と訳しておいた。
 神功紀四七年条に「竹内宿禰をして議を行わしめよ。因りて千熊長彦をたて使者とせば、當に願う所の如くならん」とある。思うにこの竹内宿禰との関りもあって、書紀は千熊長彦なる人物をあえて登場させたのであろう。

  神功紀の復元β

 改めて神功四六年から五二年までの記述を整理し、これに関りあるその前記を加えてまとめてみよう。()内は西紀である。    

 
   ===================================================
   甲子(三六四)神功四四年 | 百済使来加羅卓淳 
   乙丑(三六五)神功四五年 |
   丙寅(三六六)神功四六年 | 斯摩宿禰訪卓淳
   丁卯(三六七)神功四七年 | 百済使来倭、遣千熊新羅
   戊辰(三六八)神功四八年 |
   己巳(三六九)神功四九年 | 百済王与千熊交歓
   庚午(三七〇)神功五十年 | 千熊帰還、百済使来
   辛未(三七一)神功五一年 | 百済使再来、遣千熊百済
   壬申(三七二)神功五二年 | 千熊帰還、百済贈七枝刀
   ====================================================
  

      三国史記(史記)の百済紀(済紀)・新羅紀(羅紀)・高句麗紀(麗紀)から並行した紀年の事項を取りだしてみる。主体は百済とする。史料は東史年表から採った。   

      ===================================================
   甲子(三六四)近肖古一九年 | 加羅諸国と和親 
   乙丑(三六五)近肖古二十年 |
   丙寅(三六六)近肖古二一年 | 遣使羅、遣使麗
   丁卯(三六七)近肖古二二年 | 
   戊辰(三六八)近肖古二三年 | 送馬羅、送馬麗
   己巳(三六九)近肖古二四年 | 麗来侵、太子破麗
   庚午(三七〇)近肖古二五年 | 
   辛未(三七一)近肖古二六年 | 麗兵来、伏兵撃破、王
   壬申(三七二)近肖古二七年 | 輿太子攻麗平壌、射中
                 | 麗王 遣使晋
   ===================================================
 

 甲子年(三六四)については、史記に「この年加羅諸国と和親」とあり、書紀の欽明紀にも百済聖明王の言として「昔我が先祖速古(肖古)王・貴首(貴須)王の世に、安羅・加羅・卓淳と厚く親交を結べり」という記事があるから事実であろう。
 これは神功四六年(三六六)条の「二年前(甲子年)に百済使が卓淳に来て倭への道を尋ねた」というのとも機を一にする。尋ねたというのはむろん道でなく紹介の意であろう。
 その後の記事はまったく一致しない。しかし百済使の来朝記事が三六七年・三七一年・三七二年であったとするのが、もともと倭に残る「百済記」にあった記述であるとすれば、この間の史記と百済記を援用した書紀との記述の内容は、ある共通の係年によることが推測できる。
 三国史記と書紀の記事を併せてみよう。  

 
     ====================================================
   甲子(三六四)神功四四年 | 百済使至卓淳(加羅和親)
   乙丑(三六五)神功四五年 |
   丙寅(三六六)神功四六年 | 斯摩宿禰至卓淳
   丁卯(三六七)神功四七年 | 百済使来倭、遣千熊新羅
   戊辰(三六八)神功四八年 |
   己巳(三六九)神功四九年 | 百済王千熊交歓、(麗来侵
                | 太子破麗)
   庚午(三七十)神功五十年 | 千熊帰還、百済使来
   辛未(三七一)神功五一年 | 百済使再来、遣千熊百済
                | (麗兵来、伏兵撃破、王輿
                | 太子攻麗平壌、射中麗王)
   壬申(三七二)神功五二年 | 千熊帰還、百済贈七枝刀
                | (百済遣使晋)
      ====================================================
   

 この係年のみ一致するそれぞれの事項を、直裁に結びつけることはむろんできない。しかし書紀にあってこの時代の記録が不備であり、もっぱらのちの「百済記・百済新撰・百済本紀」のいわゆる百済三書に依存し、かつその記事に忠実であるとすれば、ここにある互いの記録の異同には疑問を抱いて然るべきであろう。一歩進んでその相関を復元すれば、過大な解釈になりかねない。しかしあえてやってみたい。
 三六九年に造られ三七二年に贈られた百済の七枝刀が、これを援けるよりどころとなるかも知れない。七枝刀は後述するように、百済が倭との結好の証しとして贈ったものと思われる。この結好の実態がなにかということが、前後の文脈のありうべき関連を示唆することになる。ちなみに七枝刀は金石文としては「七支刀」である。
 さて、百済使は三六七年・三七〇年・三七一年・三七二年の延べ四回倭王のもとに来ている。この密度のある訪問は史記の済紀がまったく記述していないからこそ、信憑性があるのだと思う。百済関係史料は、思うに七世紀に百済が滅びてのち倭に渡って編纂された「百済三書」により確かなものが残って、半島にはその滅亡とともにおおくを散逸したものとみなければならない。半島の最初の統一国家が新羅であったことも考慮すべきであろう。
 密度ある訪問とその結果としての七枝刀の贈与は、かなりただならぬ結好関係であると思う。すなわち書紀の記述に反して、また史記の記録にも反して、この結好の意味は結局政治的な同盟の意味をもち、これにともなった軍事の行動すらあったのだと思う。一連の文脈はしたがって次のように展開するであろう。
 

 三六六年、斯摩宿禰は卓淳に至り、百済の意向を聞いて、従者の爾波移を百済に使いさせた。百済王はよろこび倭へ遣使したいといい、爾波移を帰した。斯摩宿禰と爾波移は卓淳から帰還した。
 三六七年、百済王は久低を遣わし倭に至り貢物を献じた。倭王はよろこび、千熊長彦すなわち斯摩宿禰を遣わし、久低を送らした。(新羅の記事は略、またこの年斯摩宿禰の帰還は述べていないから、斯摩はそのまま半島にいたことになる)
 三六九年、前燕の内紛により、ようやく後方の脅威から解きはなたれた高句麗が、一気に南下する。国力は高句麗に及ばない百済は、しかし王と太子が善戦してこれを撃ち破った。百済王は近肖古、太子は貴須である。
 その翌年の三七〇年、千熊(斯摩)は久低を連れて倭に帰還し、倭王はこのとき「何事があってまた来たのか」と久低に問うている。(この文脈は注意を要する)果たして翌三七一年百済王はまた久低を遣わした。倭王は歓待し、再び千熊(斯摩)をつけて久低を百済に送らせた。
 三七二年、高句麗は雪辱を濯ぐべく南下を図る。百済は計を案じ、伏兵を置いて高句麗を破り、さらに平壌を攻めて高句麗の故国原王を射殺した。(これが百済にとっていかに栄光の勝利であったかということについて、後の百済の蓋鹵王四七二年に北魏に送った上表文に「祖の須(太子貴須)は剣(故国原王)の首を梟斬す」としてこれを誇っている)
 そしてこの年久低はまた千熊(斯摩)と連れだって倭に到り、七枝刀と七子鏡を倭王に贈った。百済はまたこの年晋に遣使し、晋から「鎮東将軍百済王、領楽浪太守」の称号をもらっている。

 これを要するに、百済はこの時期すでに高句麗との衝突を予想し、計画的に兵力の増強を図るべく、周辺諸国に接触をはじめた。それが甲子年である。人口はすなわち兵力であり、百済のそれは明らかに高句麗に劣っていた。百済が加羅諸国に和親を求めたという伝承も、百済が倭への道を尋ねたという書紀の記述も、要は兵力を頼んだのに違いない。
 したがって三六六年から三七二年にいたる一連の百済と倭との交渉は、対高句麗援兵の要請(百済)と応諾の派兵(倭)の経緯と読める。
 斯摩宿禰は三六七年から三六九年の間百済または加羅に留まった。その後三七一年から三七二年まで、再び半島に留まった。このすべての往還には百済の使者久低が同行している。ひるがえって百済はこの時代加羅や新羅と争乱はない。加羅とは和親と言い、新羅とは倭への貢物のことで争ったと書紀にあるが、大勢に影響はない。従って百済は当時その東辺・南辺ともに後慮をもたなかった。
 要するにこのとき斯摩宿禰が百済に強力するためには、いくばくかの兵をもって百済軍に合流するしかなんらの意味をもたない。かくして百済は三六九年と三七一年の対高句麗戦に、倭の援兵をともなって出撃した。それが事実であったのだと思う。
 ちなみにその兵の規模はもとより大きなものではない。このケースにもっとも近い、後の七世紀の新羅真興王が百済に救援して高句麗を撃ち破ったときの派遣兵力は三〇〇名であった。歴代の半島における軍事行動が千人を超えるのは希であったといっていい。
 斯摩宿禰の軍勢は、国家のそれでなく斯摩宿禰のいわば家の子郎党であったであろう。
 書紀の参照した百済記にはたぶんそのことが書かれていた。あるいは結果を予想できるように断片的に記述されていた。書紀がこれを改竄した。あるいは事実関係を復元するには、倭の側の史料が寡少に過ぎて、断片のみこれを記載して後世にゆだねた。
 書紀の思想の問題もあったかもしれない。百済記に示唆されていたことの主筋は明らかであり、百済の栄光の勝利にほかならない。その勝利に付帯して倭との同盟があった。倭の朝廷はすでに五世紀には、百済をして倭の従属国とみなした形跡がある。これはむろん事実と相違するが、従属国とみなすものの栄光のために、倭が付帯的に援軍を出した事実は、書紀の基本的方針にもとった可能性がある。しかもその兵は国家のそれではなかったかも知れないのである。
 いまひとつの問題は、この一連の書紀の記述がもっぱら新羅とのみ関っていることである。その趣旨が単純に高句麗の仮託であったとは思えない。斯摩宿禰がその二度の対高句麗共同戦の合間に、加羅諸国や新羅に干渉したことはあったかも知れない。木羅斤資などの記事を削除すると、加羅や新羅との関りも消えてしまうが、この記事を後代からもってきたとき、そこに加羅・新羅についての伝承があれば、その後代の記事をもって吸収されてしまうであろう。
 この記事がそもそも百済との同盟あるいは対高句麗戦などの趣意を、髪の毛一筋すらもたないのは、ひとえに木羅斤資を後代からここに仮託した、無謀な結果のもたらしたものに違いない。
 したがってここではこれ以上状況を推測できる余地はない。斯摩宿禰がなぜこのとき半島に進出したのか、という問題を問わなければならない。その背景の一端もまたこれを七支刀が語ってくれる。

  七支刀の由来β

 百済王が三七二年に久低を遣して倭王に贈った七支刀は、間違いなく現在も石上神宮の神宝として祀られている、いわゆる七枝刀(書紀の表記)に違いない。久低の言葉に「百済の河の水源である谷那の鉄山の鉄を採って作る」とあり、その制作の年も七支刀の銘文によって三六九年と見られる。
 七支刀はその刀にこう刻まれている。
   

 泰和四年*月一*日丙午正陽、造百練鋼七支刀。*辟百兵宣供供侯王、****作。
 先世以来未有此刀。百済王世子奇生聖晋、故為倭王旨造。伝示後世。
 

 字の解釈については異論がいくつかあった。作の字は宮崎一定氏がこれを祥と読んだ。吉祥の祥である。その文字までが片側の文章であるので、氏の見解は正しい。作者等はその裏面にあるべきである。
 泰和の和が読解できず、前秦の太初四年(三八九)や北魏の太和四年(四八十)の可能性も検討されてきたが、時代の文脈からして、東晋の太和(泰和)四年であろう。西紀三六九年である。
 また奇生聖晋に晋は「音」と読める。しかし全文をして鳥瞰すると、この銘文の文字はどれも縦線がよく消えているらしい。音でな晋と読むべきであろう。そもそも東晋の年号を用いて、侯王という言葉を使う文のなかでは、晋と読まざるをえない。侯王という言葉はよく百済王の権威を上として、倭の王をこう呼ぶというが、侯王の意味は文脈からして「百済王も倭王も同じく晋の侯王たるべき立場にて」という意である。
 また百済王世子の後は中国風を順守すればかならず一字の名がくるべきである。反対に倭王については、倭王としてその名があってはならない。贈り手は名を明記しなければならないが、贈り先に実名を入れるのはそもそも礼を逸することになろう。
 従ってこの銘文はこう読む。

 泰和四年(東晋年号・世紀三六九年)...百練鋼の七支刀を造る。百兵を辟く...宣しく侯王に....吉祥
 先世以来、未だこの刀有らず。百済王世子奇、聖晋に生まれ、故、倭王の為に旨して造る。後世に伝示せよ。
    

 この後半の文に飾りルビを付れば、次のようになる。

 先世以来、未だ此の(如き)刀有らず。百済王世子奇(貴須)(奇しくも)(倭王と時を同じくして)(世界の盟主にして)聖なる晋(の世に)生まれ、(かく倭王と出会った今日がある)故、(いま好みを通じ、共に晋の侯王たる)倭王の為に、(工人に)旨して造らしめる。(来るべき)後世に(この結好の証しを)伝示せよ。
   

 ちなみにここに贈り手が肖古王(句または余句)でなく太子貴須(奇)であるのは、貴須がすでに百済軍の実質的な指揮者であって、かつ高句麗撃退の英雄であったためであろう。もっといえば父王を陵駕する声明をもち、倭との同盟にあたってもその当事者であったかも知れない。
 この文は基本的に倭王を対等に扱っている。対等な同盟者として扱っている。強いていえば、文明を知らぬ倭王に教え諭す意味が含まれているかも知れない。すでに独自の文化をもち人口の少ない百済が、文化度は低く兵力は巨大な倭に礼を尽しているのである。時に倭王が大和の朝廷にあって九州近くまで(すなわち列島の半ば)その威を広げていたとして、列島がつねに半島の三倍の人口を擁したとすれば、半島の一国の百済に対して、優に四倍の人口を有していたに違いない。
 この人口は観念的にしろ潜在兵力として強い意味をもつであろう。しかしここに登場する倭王は神功ではない。
 倭の大和の朝廷が斯摩宿禰をもって半島に介入した、時の半島側の状況であった。斯摩宿禰がなぜこの時期半島に入ったかという倭の側の背景は、これを違った側面で明らかにしなければならない。

神功紀に仮託された景行紀β

 書紀を紐解いていくと、それぞれの大王紀年はその元年がほぼその数代前の大王の即位元年から始まることが分かる。同時に当王の没年はまた当王のものか、あるいはその前後の数代の大王の没年である。その詳細は順次検証するとして、ここでは四世紀の後半に焦点をあてて、垂仁・景行・神功の三人の大王の紀年を、並行して例示してみよう。
 垂仁紀は二五年条に斎宮記事があるから、二六年が事実上の元年で、立太子没は三八年である。景行紀はその二〇年に斎宮記事があるが、七月特殊月即位であると同時に「その年、年号を代える」といっているから、祚年改元であろう。書紀にしたがってこれを辛未(三七一)とする。
 垂仁の没年も辛未とし、書紀の紀年は一年異同があるとみる。もっともこの垂仁没年イコール景行元年を庚午(三七〇)とみることも可能で、この点異論がありうるが、先おくりしてここでは辛未元年として話しをすすめる。
 <三王の紀年譜>を参照する。
 この係年で、垂仁紀はその元年を三三四年とし、事実上考霊紀であり、景行紀は元年を三五二年とし、事実上崇神紀である。
 神功紀はその即位前記から神功十三年までは、五世紀前半の記事(四〇〇年から四一三年まで)、その後から神功六九年まではそれを遥かにさかのぼる四世紀後半の記事の二つに分かれる。 

 
  
≪神功・垂仁・景行の紀年譜≫
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     西紀   神功紀         考霊紀(垂仁紀) 崇神紀(景行紀)
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 戊午 358   38             25 倭姫         7
 己未 359   39 卑彌呼太歳  26              8         
 庚申 360   40             27 敦賀         9         
 辛酉 361   41             28 日矛        10         
 壬戌 362   42             29             11         
 癸亥 363   43             30 兄弟試験   12 景行征西
 甲子 364   44             31             13 伐熊襲  
 乙丑 365   45             32             14         
 丙寅 366   46 斯摩卓淳    33             15         
 丁卯 367   47 斯摩派遣    34             16         
 戊辰 368   48             35             17         
 己巳 369   49 斯摩帰還    36             18 筑紫    
 庚午 370   50             37 立太子      19 大和帰還
 辛未 371   51 斯摩派遣    38             20 五百野姫
 壬申 372   52 七支刀      39 石上        21         
 癸酉 373   53             40             22         
 甲戌 374   54             41             23         
 乙亥 375   55             42             24         
 丙子 376   56             43             25         
 丁丑 377   57             44             26         
 戊寅 378   58             45             27         
 己卯 379   59             46             28         
 庚辰 380   60             47             29         
 辛巳 381   61             48             30         
 壬午 382   62             49             31         
 癸未 383   63             50             32         
 甲申 384   64             51             33         
 乙酉 385   65             52             34         
 丙戌 386   66             53             35         
 丁亥 387   67             54             36         
 戊子 388   68             55             37         
 己丑 389   69  神功没     56 景行没      38         
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 重ねていうが、神功紀は書記の係年によれば西紀二〇一年を元年とする。事実上干支二運さかのぼっているから、書紀にあってもオリジナルは三二一年元年である。その四六年は三六六年、五二年は三七二年である。
 一方垂仁紀は考霊紀でできている。以下重複するが、考霊二五年はすなわち垂仁二五年で、この年伊勢の祭祀を倭姫をして豊鋤入姫と替えた、とある。斎宮記事は書紀において践祚の儀礼のひとつとみなされている。(第一節参照)従ってその年が垂仁の践祚の年で、翌二六年が垂仁元年である。
 この垂仁二六年は<三王の紀年譜>のとおり、並行する神功紀の神功三九年に相当するが、これは神功紀が(二運をさかのぼって)卑彌呼の魏への最初の朝貢とする年である。すなわち景初三年(二三九年)で、事実上三五九年である。垂仁紀二六年条にはないが、神功三九年条には「この年太歳己未」とある。太歳記事は原則大王の即位にともなう。例外が神武と神功で即位と没年の両方に、この太歳が記されている。例外中の例外がこの神功三九年条の太歳である。
 書紀の基本的姿勢からすると、この太歳記事が「親魏倭王」の除授に係るのは、倭の五王の朝貢という史実をまったく無視した編者の記述としては意外である。要するにここでは述べない(述べられない)垂仁の即位元年太歳をここに仮託したのであろう。ちなみに倭の五王に関して書紀はその貢献についてはまったく述べないが、その除授にともなう宋の使者の来朝は、これを倭への朝貢として記録しているようだ。(仁徳紀・雄略紀)
 ここからが重要だが、そのすぐ後の垂仁三〇年の条に、垂仁が五十瓊敷と景行に欲しいものを問う話しがある。兄王は弓矢を、弟王は王位を求めて、垂仁が景行に「必ずわが後を継げ」と言ったというが、この話しは立太子記事のようにも見える。
 しかし書紀の立太子記事は事実上没年を仮託しているため、立太子記事そのものはまっすぐ書けない。王位を継ぐべき話しは、後に景行が継いだからこうなっているだけで、実際は反対に五十瓊敷が王位を、景行が弓矢をもらったのかも知れない。要はこの時、景行の将来についてある重大な決定がなされたことを特に示唆するのであろう。
 西征である。
 景行は垂仁から西国都督としてその出征・統帥を命じられた。そう読みとれるのは、並行する崇神紀がそれを示唆するからである。
 景行紀は崇神紀からできている。すなわち崇神二〇年が景行二〇年であり、この年「五百野姫を伊勢斎宮とした」という記事がある。従って景行二〇年が景行践祚の年であり、翌二一年が即位元年の筈であるが、景行の場合は特殊な例として祚年改元をとった。これが譲位による祚年改元であったことは、「倭姫につけて」という意味にとれる記事(事実上触れていない)と「その年元号を改めた」という特別な記事があることで分かる。触れていないということは豊鋤入姫を更迭しなかったことを意味し、その父垂仁が没していない、または罪せられてもいないということを説明しているのであろう。
 六世紀の欽明は、百済本紀のいう継体二五年辛亥(五三一年)に世子として実権を奪ったのだと思う。しかし即位はこれをしなかった。安閑・宣化と即位して欽明は伝承通り五四〇年に即位したのであろう。しかし、実権を握ったのは、時の半島との関りであった。継体はその半島政策を失敗した。これに代わるべき強力な求心力が欽明に集まったらしい。
 半島との関りは倭王の出所進退を決めるのである。景行のもしかしたら一種の纂奪はこうした根拠によるかも知れない。  話しをもとに戻そう。その崇神(景行)紀一二年の条に、すなわち景行の西征開始の記事がある。先に述べた、景行と五十瓊敷の兄弟試験の記事のある考霊(垂仁)紀三〇年である。ともに西紀三六三年。
 その年「十二年秋七月、熊襲がそむいた。八月、天皇(景行)は筑紫に向かった」この後景行は九月には周防の佐麼ついで豊前長峡に、十月には碩田に、十一月に日向に入り、十二月から翌年の五月にかけて熊襲を討った。そこ日向高屋宮に一七年までの六年を滞在する。一八年三月、子湯から発って筑紫を巡幸し、熊県・火国・玉杵名・三毛・的を巡る。一九年九月にいたってようやく大和に帰還する。
 神功四六年(三六六年)は崇神(景行)一五年である。熊素を討った二年後、一七年までの六年間の意味不明の滞在の中間の年である。そしてその年斯摩宿禰が半島に現れた。
 これを要するに、大和の朝廷としてはじめて筑紫を攻め、そのもつ益権を、とくに半島への益権を握ったのは、まだ太子あるいは王子としての景行であった。
 景行は日向には入らなかった。筑紫を巡幸しなかった。おそらく周防佐麼にあって筑紫の勢力と対峙し、大和の勢力としてははじめてこれに打撃をあたえ、半島への既得権の一部を冒したのである。
 斯摩宿禰は周防にいすわった景行がこれを派遣した。
 その九州滞在最後の年という崇神(景行)一八年は、神功四九年(三六九年)、そして七支刀を贈られた神功五二年(三七二年)は、大和帰還の二年後、景行の受禅即位とみられる崇神(景行)二〇年(三七一年)の翌年、すなわち崇神(景行)二一年ならびに考霊(垂仁)紀三九年なのである。
 ちなみにこの年、垂仁紀にして三九年に一つの符合がある。この年の冬十月に、「五十瓊敷は茅淳の川上宮に行き、剣一千口を造らせ、石上に納めた。一説によると先に忍坂に納め、のち忍坂から移して石上に納めた」と書かれている。
 特徴的なことは、書紀のこの文が一読して大王の指示によるのでないことである。五十瓊敷は自ら単独に動いているように見える。しかしその動機も意図も語られていない。つまり書紀の文脈ではこの時垂仁の治世三九年であったが、事実はすでに景行がこれを襲っていて、発令はこれを景行から出ていたのである。
 書紀の月日を比較するのはほとんど無意味だが、たまたま神功紀五二年条の久低による七支刀の倭王への献上は、その年秋九月であった。五十瓊敷の話は冬十月である。要は神功五二年の七支刀と垂仁三九年の五十瓊敷の剣一千口の製造とは同年の関連事項(合祀などのため)であり、どちらも石上に納められた。
 七支刀のその後については書紀の記事になく、われわれはそれを現在、石上神宮の神宝としてそこに鎮座するのを知っている。半島に対する事績をして神功と応神に集約した書紀の編者の、なかば隠して隠しきらなかった実情がここにあるであろう。  もう一つ背景がみえる。
 景行が征西のため派遣されたのがこの時期であったことについては考慮が必要である。書紀の文脈では、大和の朝廷が崇神の四道将軍の派遣などから続く拡張政策のひとつとして、これを行っているようにみえる。それもひとつである。だがこのおなじ崇神の時代に、すでにおぼろげな半島との交流のはじまりがあった。
 すなわち崇神の治世の終りころ加羅の人蘇那曷叱智が来たと。これは思うに垂仁紀における都怒我阿羅斯等と同一人物であろう。都怒我阿羅斯等の伝承は天日矛のそれに酷似するが、文脈からすれば「加羅に帰った」と記されている点で、蘇那曷叱智のそれにさらに近い。いずれも加羅の出自で日矛が新羅の出としているのとは違っている。
 ついで翌年の垂仁三年にはその天日矛が来た。一連の記事は崇神五年(三五六年)または七年(三五八年)から垂仁二年(三六〇年、都怒我阿羅斯等の加羅帰還)、垂仁三年(三六一年、天日矛渡来)あたりに集中する。
 日矛は新羅の王子というが、時に新羅はまだ斯廬の都邑に過ぎず、新羅の建国の王と思われる奈勿王の即位は三五六年と伝えられる。そもそも新羅は、六世紀の真平王が隋に上表したなかに「王はもと百済人。海から逃げて新羅に入り、ついにその国に王となった」という記事がある。
 新羅は朴氏・昔氏・金氏と王統を継ぎ、真平王は金氏であるが、昔氏の神話には「海から逃げて(一時加羅に留まり、入れられず)新羅にはいった」ともある。真平王の二代前の法興王は慕秦と伝え慕姓(慕韓すなわち馬韓)を称したから、これらの記事は十分示唆的である。
 すなわちこの文脈は、百済の建国(三四二年から三四五年の間)にともなう新羅の祖の百済からの逃亡であろう。奈勿の先代が斯廬に入って、斯廬の王とその地位を争ったあたりとみられる。大和への加羅や斯廬からの渡来はまさにこの時期であり、天日矛の渡来も新羅建国前史の紛争の波及であった可能性がありえる。
 斯廬の王子という伝承が正しければ、この年のわずか前に斯廬は代々の朴氏から昔氏ないし慕氏(のち金氏に改称)に替わったのかも知れない。
 もうひとつ別の側面もある。
 加羅の人蘇那曷叱智は結局のところ、加羅の人というような意味に感じるし、その斯廬との争いは、時期的に加羅と斯廬との、時に羨望の的であった、弁辰の鉄を巡る衝突の始まりかも知れない。
 蛇足になるが、この蘇那曷叱智ないし都怒我阿羅斯等は、天日矛と類似の伝承をもつが、同じ一つの伝承になるのでは決してない。都怒我阿羅斯等と違って天日矛が天の称号を負っているのは、丁度神武が大和平定の際、降伏してきた饒速日を天孫とこれを認めたことに呼応している。日矛はすなわち天孫の伝承をもっていたのであろう。これを認めるにやぶさかではない点に、欽明あるいは聖徳以降の朝廷の基本的認識と異なるおおらかさを見てもいい。
 いずれにしても崇神から垂仁の治世のはじめ、大和の朝廷としてははじめて半島の情報に直接接した。たとえば弁辰の鉄も大和朝廷の直に採るところであった筈はない。山陽・山陰・九州のどこかの豪族をもってして、間接的にこの益権を享受していたであろう。
 その権利の糸がこの時脅かされそうになった。或はこの種の益権をもともと持たず、ただそれを有する筑紫の豪族の有利を、この時よく承知するところとなった。
 垂仁が景行をして西征に派遣した背景には、こうした現実的な理由があったのだと思う。
 景行の治世はその二〇年(垂仁三八年)から垂仁六〇年までに至る。この間景行紀はその係年を垂仁紀と並行し、あるときは景行紀年、別には垂仁紀年をつかって記述される。同様のことが垂仁紀にもある。垂仁三九年の五十瓊敷の記事の後、垂仁紀は八七年に飛び、石上の祭祀を物部連に授けた、とある。三九年条の五十瓊敷の話の後にも物部首に授けたとあるから、これは重複である。重複だが、先祖由来としては石上氏に二系統あったことを意味するのかも知れない。物部首氏は物部氏でなく春日氏の出であったともいう。この八七年は一運(六〇年)引いて二七年となる。景行二七年(三七八年)である。
 次の年八八年条の日矛の神宝を争う話があるが、これも景行二八年であろう。その後はまた九九年、一〇〇年に飛ぶ。田道守と常世国の話だが、これはまた垂仁紀に帰って、三九年(三七二年垂仁没)、四〇年(三七三)を意味する。垂仁は譲位のあと、一年生きて没したと思う。
 斯摩宿禰が神功四六年(三六六年)に半島に出現する大和の背景は、以上のようであった。半島は景行が自ら伐ち拓き、それをもって権勢を専らにして、王位を継いだ。そうだとすれば景行のよって立つ立場も明らかである。
 背景がみえてきてなお、斯摩宿禰が何者であるかは、依然として分かっていない。

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