β NEXT隅田八幡社画像鏡の解読β
斯摩宿禰は書紀に「何姓の人か知らず」と注がある。これを見るとこの注はいつの時代のそれかと迷う。ひょっとして原典にあり、書紀の編者は知っていてとぼけているような気がしてならない。斯摩宿禰はむろん斯摩と宿禰とに分けられる。斯摩が姓である。
そもそも斯摩という名称は、表記の仕方は別として書紀にも何ヶ所か出てくるが、ここに得難い金石文が一つあった。隅田八幡社人物画像鏡である。
隅田八幡社画像鏡に刻まれる全文は以下の通りである。
癸未年八月日十大王年乎弟王在意柴沙加宮時斯麻念長 奉遣開中費直穢人今州利二人等所白上同二百悍所此鏡
文字の解釈に異論があるのは、乎(孚)字、等(尊)字、所(作)字などである。文脈からすれば乎字は乎で男の意であろう。等が尊であれば「たっとびて」と読めばいいが、文脈に合わない。所の字は作の誤字であろう。癸や弟などの字が誤字に近く字体に修飾があることをみれば、総じてこの銘文には線の過剰がある。所も取、また作と見たい。 癸未の年は五六三年・五〇三年・四四三年・三八三年が考えられる。
関連を問うべき第一の人物、まず六世紀百済の武寧王一名斯麻王である。この人物は近来武寧王陵の発掘によって、百済の高度な文化とともに知られている。陵誌石文もあり、これによっても史記・書紀のこの辺の記述がほぼ正確であることが分かる。書紀は雄略紀に記録される。
雄略紀によれば、斯麻は蓋鹵王の子で、蓋鹵王が弟昆支を倭に送るとき姙んだ妻をこれにつけたが、筑紫の加羅島に至って男子を産みおとした。故にこれを嶋(斯麻)君といい、その島を主島というという。斯麻はただちに百済に送還され、後王位を継いで謚も武寧王といった。ちなみにこの話は書紀のなかでも奇妙な話である。ここでは直接関りがないから省略するが、要は倭に生まれた王子をもって王とする意図が百済にあったことを示唆する。
この斯麻王は書紀によっても武寧王の碑文によっても、その誕生は四六一年であり、治世は五〇一年から五二三年であった。該当すべき五〇三年の時四三歳。贈り主として問題はないが、贈り先も含めて百済王がそうする理由が推測できない。五〇三年に倭王であったのは書紀によれば武烈である。
斯麻即位三年目であるから、斯麻自身の即位に比重のかかる贈答ととれないことはないが、それにしては文面が食違う。だいたいこれが斯麻王であるならどうあっても「百済王斯麻」でなければならない。
同じく五〇三年として、この男弟王を継体とみる説もある。書紀によれば継体は五〇七年に河内に即位している。その即位前に忍坂宮にいた可能性を考えるのである。
かっては三八三年として、男弟王を応神の子菟道稚郎子に比定する説もあった。詳細は繁雑だから避けるが、この文脈から受けるところはいずれも適切ではない。男弟王と忍坂宮、そして河内直と癸未年、これらが整合的に関連づかなければならない。しかし文脈は単純である。贈主は姓名を記さねばならないし、贈先はその地位の呼称を記す。贈先はまた唯一人でなければならない。こういうものの基本的礼儀であろう。
問題は大王と男弟王の二人に数える点であった。従って大王の存在が分からなくなる。むろん特定もできない。これはしかしその必要がないのだろう。
大王と男弟王はこの場合同格であり、言い替えに過ぎないのだと思う。
従ってこの文はこう読む。癸未(四四三年)八月日は十日、(すぐさき)大王(たるべき)年の男弟王、忍坂宮にある時、斯麻の念長、奉つるに河内直と穢人(西漢)今州利二人等を遣わし、白上銅二百悍を取りて此の鏡を作る
四四三年はすなわち書紀の允恭紀を復元するに、允恭元年にあたる。この点<允恭紀年譜>を参照されたい。
前年の四四二年に反正が没し、翌四四三年一二月に允恭が即位する。允恭は仁徳の子で履中、反正の弟であり、男弟王と呼ばれて問題がない。またその后は忍坂大中姫で、忍坂に宰領をもっていた。允恭の名は雄朝津間稚子宿禰で朝津間は葛城の地だから、出身は葛城だが、王子のとき妃を立てて忍坂に移ったという見解は分かりやすい。
詳細は後述するが、允恭紀は仁徳紀からなり、仁徳・履中・反正・允恭の四王の治世を一貫する。うち仁徳は四三三年を元年とし治世八年であった。履中紀も仁徳紀からできていて、履中治世は三年である(履中紀の治世六年が仁徳治世にあたる)。反正は同じく履中紀からなり、治世二年、その後に允恭の治世がある。允恭紀は先のように全体では仁徳紀からなり、細部では履中紀を援用する。<允恭紀年譜> =================================================== 西紀 成務紀(応神紀) =================================================== 庚午 430 応神没 辛未 431 42 壬申 432 43 癸酉 433 44 仁徳元年(允恭紀)(履中紀) 甲戌 434 45 2 乙亥 435 46 3 丙子 436 47 4 丁丑 437 48 5 戊寅 438 49 6 履中元年 仁徳没 己卯 439 50 7 2 庚辰 440 51 8 3 履中没 辛巳 441 52 9 4 壬午 442 53 10 5 反正没 癸未 443 54 (隅田八幡社画像鏡) 允恭元年 甲申 444 55 12 7 2 乙酉 445 56 13 8 3 丙戌 446 57 14 9 4 丁亥 447 58 15 10 5 戊子 448 59 16 11 6 己丑 449 60 17 12 7 庚寅 450 61 18 13 8 辛卯 451 62 19 14 9 壬辰 452 63 20 15 10 癸巳 453 64 21 16 11 甲午 454 65 22 17 12 乙未 455 66 23 18 13 丙申 456 67 23 允恭没 19 14 ===================================================允恭は特殊年即位であり、特殊月即位でもある。その理由を書紀は病による固持というが、妃であった忍坂大中姫がこれを説得してようやく王位についたのだという。特殊年即位は一年繰り上げるべきであるから即位は反正没の翌年であるが、十二月即位の伝承は然るべき事実であり、その八月はむろん即位していない。
ただこの変則的な継承は、要するに王位の争奪に伴うものであろう。允恭五年七月条に葛城襲津彦の孫玉田宿禰を討伐する話がある。允恭五年は事実上反正没年すなわち允恭即位前年にあたり、反正の没した月は一月と記しているから、この紛争は允恭が自ら立ちあがった傍証のひとつである。
ちなみに四四三年は倭王済が宋に朝貢して、安東将軍倭国王を除授された年である。済が允恭であり、允恭の即位が一二月なら、この朝貢は允恭の即位前に行われていることになる。即位前にして対外的にはすでに倭王であったとすれば、時の朝廷にあってその合意が存在したことを意味するであろう。
さらに玉田宿禰の討伐は、のちに述べるように極めて政治的な事件であったと思う。それは時に玉田宿禰の存在の重さによるが、允恭が即位するための条件のひとつであったと思う。
斯麻念長という人物はとりあえず不祥である。これが斯麻一字が贈主である可能性はない。斯麻だけでは分からない。というより、これが豪族であればなお、姓名の両方が必要である。
念だけ又は念長が官名であれば斯麻は姓だけでいい。読みかたは「斯麻、長く奉(つか)えんと念じ」と読めないことはないが、それでは人名は斯麻一字になってしまう。念が名という可能性もあるが「長奉」の意味が難しくなる。 もうひとつこうした文には贈るべき言葉自体が記載されなければならない。すなわち奉献である。奉献を意味する言葉は「奉」に違いない。「斯麻念長、奉るに遣して作る」と読む。要するに斯麻は地名に由来する豪族であり、この表記はあくまで斯麻念長なのである。
念長の念は根の意か。後の雄略の時代に根臣という人物も登場する。その出自は葛城氏の一系であり、後裔は坂本臣といった。長は長彦の意かも知れない。時の豪族としては、忍坂あるいは忍坂の出自らしい気長氏・葛城氏・平群氏・紀氏・巨勢氏また大伴氏・物部氏などがある。斯麻という氏族はいない。
ここに問題の焦点がある。
鏡を作るという行為は莫大な経費を投ずることだという。允恭が王位につくことが明らかとなったその年八月、鏡をもって事実上践祚を祝った豪族は、書紀にも知られなかった氏族とは思われない。 話を戻し、書紀・古事記に散見する斯摩類似の名称をみてみよう。
一つは洲である。
秋津洲と嶋大臣β
斯麻や斯摩といってもこれは島や洲と同じであろう。洲という語ではすでに神武紀に現れる。秋津洲である。神武三一年掖上の丘に国見をし、蜻蛉(あきつ)の交尾のように山々が連なっている様を賛え、これより秋津洲と言うようになったという。地名説話である。
しかし神武紀を詳細に分析すると、神武三一年は考安元年であることがわかる。その詳細は後のこととするが、考安は尾張(高尾張)連の祖の妹世襲足媛を母とし、秋津洲宮に都したという。書紀・古事記にあって、母の血は后のそれよりも遥かに意味がある。王統の根幹をそれが保証するためであろう。
考安の和風謚名は日本足彦という。足(たらし)の名はその後景行に至るまであらわれず、神武以来の九代の大王の名は、大日本彦または大日本根子である。この特異性は、考安の母と同じく高尾張の地に因む。後の葛城の地である。景行以下、成務・仲哀・神功・応神そして舒明・斉明までの謚に「足」とつくのは、どうあっても半島とのかかわりであろう。すなわち葛城の地と半島は書紀にあってイメージ的に重複する。
神武の大王氏としての本居は畝傍から東の磐余までであった。磐余の先、三輪山山麓は磯城氏が領し、西は尾張氏・鴨氏・葛城氏がこれを本貫地としていたのである。したがって神武三一年条の記述は、この地の制覇を意味するかも知れない。もともと国見にはそういう主旨が含まれていた。
ちなみに大和の枕言葉を敷島という。三輪山山麓の磯城の宮からこの言葉が出来、大和の国号になったという。しかしこれはむしろ磯城と秋津洲、すなわち大和盆地の東西を指示して大和そのものを号したのではないかと思う。
さらに進む。一つは「嶋」である。
そのもっとも有名なのは、曽我馬子で、通称を嶋大臣といった。そのいわれは推古三四年条にこう記されている。(嶋大臣)は飛鳥川の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小さな嶋を池の中に興く。故れ時の人嶋大臣と曰う。
しかしこれは、大概の地名説話がそうであるように、まともな理由ではない。嶋の原義は別にあるだろう。呼び名はよく地名を冠することが普通だから、いま島之庄という飛鳥川の上流がそれかも知れない。
これに関係する記事がもうひとつある。推古三二年条の次の記事である。
大臣(曽我馬子)阿雲連阿部臣摩侶二臣を遣わして、天皇に奏さしめて曰、「葛城県は元臣の本居なり。故れその県によりて姓名をなす。ここをもて冀(こいねが)わくは、常にその県を得(たまわ)りて、臣の封県となさんと欲す」と
葛城はもと臣の本居(うぶすな)という馬子は、曽我稲目の子で、その母は葛木(葛城の宗家後裔)の出である。馬子・境部臣摩理勢・堅塩媛・小姉君を生んだとみられる。子は原則として母のもとで育つ。あるいは大王氏また母の所管する、氏族の勢力のなかの養育氏のもとで育つ。馬子が自分の本居と言って指した葛城は、その母の血筋によっているが、その血筋を誇って言っているように見える。
そもそも大王家に后として入る家柄は決して多くはなかった。神武以来の磯城氏そして葛城氏である。これに加わるのは気長氏であろう。以外は原則として后ではなかった。一時代威勢のあった和珥氏も、その出した女は妃であった。この点は曽我氏にもあてはまる。曽我氏は稲目の時欽明に対して二人の妃を出したが、后はあくまで宣化の女石姫であった。
その堅塩媛と小姉君はそれぞれ用明と推古また穴穂部と崇峻を生んだ。三人が大王となったのである。しかしその大王たちの后はいずれも王族から出て、曽我氏は妃すら出していない。馬子の女刀自古郎女は聖徳の、法提郎媛は舒明の妃となったが、いずれも太子の時でその子は王位を継ぐことがなかった。結果論かも知れないが、馬子と物部守屋の妹との間に生まれた血筋が、稲目と葛木の女との間の血統より低く見られた可能性がある。
書紀はその成立までの間、あるいは成立して後も、幾度か大王並びに氏族のありようを改竄した。曽我氏については毛人と鞍作を蝦夷と入鹿に書き換えた。書き換えたのは天武・持統朝の史官であろう。さらにその後天智の曽我石川氏出の妃をあえて嬪と書き換えているらしい。
それでも上宮聖徳法王帝説(以下帝説)には、堅塩媛は大后であったらしい記述がある。書紀にも堅塩媛に対する尊重が反映されたらしいいくつかの記事もあるから、この方が事実に近い。そしてその後に大后らしき曽我氏出身の妃はいないから、堅塩媛の独自性はやはりその母なる葛木の血に求めるべきであろう。
いずれにせよ曽我氏は新興の氏族であった。稲目と馬子の二代は大臣として朝政に威を張り、大和の国家規模の脱皮に巨大な足跡を残したが、その子の毛人と鞍作の二代はその栄光の残照を曳いて大臣になった。曽我という氏族名もそう古いものではないかも知れない。
嶋の地はどこにβ
曽我馬子は後の記録に、宗我馬背宿禰・馬子宿禰・明子宿禰・故蓮公・嶋大臣・還活大臣などとある。曽我毛人は、喇加大臣・蘇我大臣・豊浦大臣などである。
地名に由来すると見られるのは嶋や豊浦であるが、そもそも曽我も地名であり、曽我川の流域のそれ(橿原市曽我町)で飛鳥とは距離がある。翻って豊浦もまたその発祥は現在の飛鳥の豊浦ではない。河内の豊浦で毛人の母たる物部の裁量する土地であった。毛人はそこから世に出て豊浦大臣と呼ばれたのである。従って飛鳥の豊浦は毛人がそこに第(邸宅)を構えて、かく称されたのであろう。
皇極二年条にこういう記事がある。
曽我大臣蝦夷、病に縁りて朝(つかえまつ)らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬(なずら)う。復たその弟(第)を呼びて、物部大臣と曰う。大臣の祖母は物部弓削大連の妹なり。故れ母が財に因りて、威を世に取れり。
弟の字は第の元字という。第は邸宅をいう。この文はその邸宅が物部の差配地にあり、かつ物部の血筋をもつがために、物部大臣といったのであろう。入鹿のことである。
ともあれここにひとつの推論が立てられる。曽我馬子が嶋大臣といったのは、毛人の豊浦と同じく、そこから世に出た嶋という地名を被ったのであろう。島之庄はそこに第を建てて後そう言われるようになった。
すなわち嶋の地の所在は明らかであろう。
馬子が「元臣の本居」と言ってその領有を望んだ葛城の地である。
いくつか収斂するものがある。
顕宗は諱を弘計(をけ)といい、嶋稚子ともいった。その父は市辺押磐、母は葛城蟻臣の女A媛である。顕宗が嶋の名をもつのは、その母の地に由来するかも知れない。
葛城が嶋すなわち斯摩なら、隅田八幡社画像鏡の斯麻念長なる人物もまた、葛城の一族であろう。そして神功紀に「その何姓の人かを知らず」という斯摩宿禰は必ず葛城宿禰に違いない。
神功紀にあり、実は時に太子であった景行に随行して戦い、その後更なる利権を求めて半島に渡った人物は、要するに葛城の豪族、あるいは豪族とならんとした氏族の突出した最初の一人であったと思う。 葛城の姓はおおくの氏族の姓と同じく、後世の付会なのであろう。
それがいつごろなのかは分からない。もと斯摩で、その後葛城と称し、或はこれを並行して呼称してきたのなら、その由来も明らかに思える。すなわち加羅城の意味であり、その始めも半島に交渉をもった斯摩宿禰に由来するのであろう。加羅はもと弁韓また弁羅といい、弁はカルと訓む。カルラであろう。カルラギのギは新羅をシラギと訓むのに等しい。
葛城の一族は知られている限り葛城襲津彦を始祖とする。それ以前には前後の関連なく、気長足姫の母という葛城高額媛と、古事記の開化記にいう葛城垂水宿禰、そしてもうひとり、武内宿禰の弟とする甘美内宿禰の母、葛城高千那毘売がある。書紀の襲津彦は古事記には葛城長江襲津彦とある。その女磐之媛は仁徳の后であり、履中・反正・允恭を生んだ。
古代その地は斯摩(嶋)と呼ばれてきた。神武が大和に入った時から、その本拠とした畝傍周辺から見て、東に磯城、西に斯摩の勢力があったのである。