第一章 気長足姫β

第四節 神功紀β

神功の時代β

 神功紀の画期はむろんその摂政称制前紀年にあった。その後の神功紀はおおまかに大和への帰還と、応神の立太子ならびにその敦賀参拝記事に尽きている。突然とぶ神功三九年からその没の六九年までの記録は魏使倭人伝の仮託、またとくに半島の事績については前編にみたように景行の事績の仮託であった。
 そこに入る前に、同時代と思われる書紀の神功紀と応神紀を併記してみよう。この場合表示の係年は仮ではない。気長足姫の存在と、存在するその時代はいつかというあらためての確認である。

 成務紀・仲哀紀・神功紀・応神紀年譜
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 干 支 西暦  成務
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 庚 寅 390     1                     成務元年             
 辛 卯 391     2     仲哀            襲津彦伐新羅(神功62) 
 壬 辰 392     3       1            辰斯没、阿花立       
 癸 巳 393     4 *     2   仲哀敦賀 成務没               
 甲 午 394     5       3   1                              
 乙 未 395     6       4   2         百済人来朝           
 丙 申 396     7       5   3         武内宿禰行筑紫       
 丁 酉 397     8       6   4                              
 戊 戌 398     9       7   5                              
 己 亥 399    10       8   6        仲哀儺県、伐熊襲     
 庚 子 400    11       9   7 * 神功  仲哀没、神功伐新羅   
 辛 丑 401    12                   1 神功伐二王子         
 壬 寅 402    13                   2                      
 癸 卯 403    14                   3 遣襲津彦加羅         
 甲 辰 404    15                   4                      
 乙 巳 405    16                   5 襲津彦帰新羅王子逃亡 
 丙 午 406    17                   6                      
 丁 未 407    18                   7                    
 戊 申 408    19                   8                   
 己 酉 409    20         神功没  9 某倭王            
 庚 戌 410    21                  10   1                  
 辛 亥 411    22                  11   2                  
 壬 子 412    23                  12   3                  
 癸 丑 413    24                  13   4 敦賀参拝         
 甲 寅 414    25                  14   5                  
 乙 卯 415    26                  15   6                  
 丙 辰 416    27                  16   7                  
 丁 巳 417    28                  17   8                  
 戊 午 418    29                  18   9                  
 己 未 419    30                  19  10                  
 庚 申 420    31                  20  11 日向            
 辛 酉 421    32                  21  12         応神  
 壬 戌 422    33 難波大隅         22  13 髪長姫        1  
 癸 亥 423    34         秦氏渡来 23  14 百済送縫女    2  
 甲 子 424    35                  24  15 阿直支来      3  
 乙 丑 425    36                  25  16 王仁来        4  
 丙 寅 426    37                  26  17               5  
 丁 卯 427    38                  27  18               6  
 戊 辰 428    39 新斎都媛来       28  19 麗済羅使来    7  
 己 巳 429    40 立太子           29  20 阿知都加来    8  
 庚 午 430    41 応神没、阿知帰還 30  21             * 9  
 辛 未 431    42                                     10  
 壬 申 432    43                     仁徳             11  
 癸 酉 433    44                       1              12  
 甲 戌 434    45                       2              13  
 乙 亥 435    46                       3              14  
 丙 子 436    47                       4              15  
 丁 丑 437    48                       5              16  
 戊 寅 438    49                       6 *            17  
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 神功紀はもともと、その元年を異にする三つの係年があった。
 その一は西紀三二一年を元年(愨徳元年)としてその六九年(景行没年)に至る第一紀、成務元年(三九〇)を元年とする第二紀、四〇一年を元年(事実上の神功摂政称制元年)とする第三紀である。
 神功の事実上の係年はむろん第三紀にほかならない。ただし、この神功の紀年は、当然のことながら表のように、成務・応神、その他の大王の紀年と重複し、輻湊しあう。
 事実は書紀の編者が、書紀の原典にあったに違いない年譜から、ひとつひとつの項目を各大王の治世に案分して割りふった。それだけではなく、割りふる際に、その大王の紀年そのものにも、多重な先王の係年を使用した。応神の紀年がその典型である。
 神功紀の具体的な例が、つとに問題になる神功六二年条である。結局この年は、西紀三八二の壬午年でなく、一部木羅斤資を指示する西紀三四二年の壬午年を仮託しつつ、なおそれすらも主目的ではなく、神功第二紀すなわち葛城襲津彦が新羅侵略する成務二年(三九一年)の辛卯の年を示唆するのである。
 神功紀が成務紀に仮託したのは、この六二年条と、神功三年立太子の記事の二条である。立太子没はその四年、すなわち成務紀の四年で成務の没年をいう。
 仲哀紀も先に触れたように、事実条三九四年を元年とする治世七年であるが、書紀では治世九年であった。元年は三九二年ということになるが、これも神功の立后の年(三九三)を二年とする、仲哀の論理的元年であった。
 表においてひとつ、明示せずには済まなかった案件がある。一人の某倭王の存在である。係年と応神の治世の開始を勘案すると、論理的に存在がみこまれるのだが、実は神功紀の文脈からしても、その存在を積極的に仮定すべき事情がある。
 神功がどのような状況をもって大和に帰還できたのかという問題にからむ。
 いくつかの課題があるが、就中、神功を迎えた大和の勢力がどういう存在であったかという点が、第一の焦点になる。敵対するそれは香坂・忍熊王にほかならないが、大和にあったのはむろん敵対勢力ばかりではなかった筈である。
 そうでなければ、神功は完全な武力のみで大和に帰還したことになる。そういう事態はすでに王位の継承ではない。纂奪ですらない。纂奪というのは、それをとりあえず支持する在地勢力がなければ不可能なのである。つまり武力のみというのなら全くの王朝交替ということになる。
 そうではない。神功の帰還にともなう争乱は王位継承者同士の争いであって、神功がこれに勝利した。文脈をみるかぎりこれが妥当な解釈である。

仲哀の一妃・大中姫β

 神功とその子誉田別が大和に帰還するにあたって、仲哀の遺児香坂・忍熊王が迎え撃ったという挿話は、本質的な点で疑義がおおくある。
 まず香坂・忍熊王の母という大中姫(大中津比売)である。書紀によれば仲哀の叔父彦人大兄の女というが、その出典は景行紀にはない。古事記の方は、景行と播磨稲日の弟稲日若郎女子として日子人大兄を記録するから、書紀のいう仲哀の叔父たる人物はこれをいうであろう。すると大中姫は仲哀の従姉妹にほかならない。
 しかしながら古事記の本文はこれと大きく異なる。大中津比売は景行が倭建の曽孫訶具漏比売を娶って生んだという。その系譜はよく知られているように混乱の極みといっていい。


    倭建--------仲哀                       景行
                若建------須売伊呂大中日子   +---大中津比売
                稲依別         |             |
                建貝兒         +------------訶具漏比売
                足鏡別         |
                息長田別--飯野真黒比売
                          息長真若中比売
                          弟比売

 むろんこうした系譜を作為したについは、歴とした理由があるであろう。後代、允恭の后忍坂大中姫とその一族が試みた作為のひとつとみるべき理由がある。
 ともあれこの二王子の属する世代は、実は仲哀・神功と同じ世代である。即位前後から周防ついで筑紫に渡って、熊襲、事実上は新羅を攻めていたこの大王夫妻は、応神の生誕に先立つ九年前に結婚している。熊襲征伐(三七六年)の時「男具那」と記録された倭建の子であれば、その時点(三九二年)で仲哀もまた男具那であった。斯摩宿禰の半島での活躍時期(三七〇年前後)からすれば、神功も仲哀と同年齢か、神功が若干年上かというところである。
 すると仲哀が大和で神功以外に子を生したとしても、この大和帰還の年(西紀四〇一年)には、その年齢はむろん一〇歳に満たない。後の応神にいたっては一歳なのである。
 香坂・忍熊は、仲哀の子でなく、景行や倭建の時代と同世代に生きた人物の子に違いない。
 その母たる大中津姫は、時の書紀・古事記の記述から離れて、客観的な視点から求めるべきであろう。だが苦心して捜す必要はない。
 その時代に大中津姫と呼ばれた人物は、唯一人しかいない。景行の同母の姉で、五十瓊敷の妹と伝える大中津姫こそその人である。
 五十瓊敷とその妹大中津姫の挿話は、垂仁紀三九年ならびに八七年に詳しい。

 三九年冬一〇月、五十瓊敷命、茅淳の菟砥川上宮に居しまして、剣一千口を作る。因りて其の剣を名けて川上部と謂ふ。亦の名は裸伴と曰ふ。石上神宮に蔵む。是の後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。
   八七年春二月、五十瓊敷命、妹大中姫に謂りて曰く、「我は老いたり。神宝を掌ること能はず。今より後は、必ず汝主れ」といふ。大中姫辞びて曰さく、「吾は手弱女なり。何ぞ能く天神庫に登らむ」とまうす。(略)
   然して遂に大中姫命、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまでに石上の神宝を治むるは、是其の縁なり。

 この垂仁紀三九年は、すでに指摘してきたように考霊三九年すなわち西紀三七二年である。垂仁紀八七年もまた開化二七年すなわち西紀三七二年である。つまりいずれも同年の記事で、また景行即位の翌年(景行二年)の出来事であった。
 すでに垂仁の治世下でなく、そのためにこの二条の記事には、これを命じた「天皇」とあるべき語がまったくあらわれない。垂仁紀の条であるために景行の名を出せなかったのである。
 また五十瓊敷については、景行との兄弟試験の挿話がよく知られている。これは垂仁紀三〇年のことである。

 三〇年春正月、天皇、五十瓊敷命・大足彦尊に詔して曰はく、「汝等、各情願しき物を言せ」とのたまふ。兄王諮さく、「弓矢を得むと欲ふ」とまうす。
   弟王諮はく、「皇位を得むと欲ふ」とまうしたまふ。是に天皇、詔して曰はく、「各情の随にすべし」とのたまふ。即ち弓矢を五十瓊敷命に賜ふ仍りて大足彦尊に詔して曰はく、「汝は必ず朕の位を継げ」とのたまふ。

 さて、ここで一つ思い出すべきことがある。
 そもそもこの挿話は崇神の時代に、垂仁と豊城入彦が互いに王位を争ったという挿話と酷似する。文脈からすると争ったのではなく、ともに立って一方が他方に譲ったのである。

   (崇神)四八年春正月、天皇、豊城命・活目尊に勅して曰はく、「汝等二の子、慈愛共に斉し。知らず、いづれをか嗣とせむ。各夢みるべし。朕夢を以て占へむ」とのたまふ。二の皇子、是に命を被りて、浄沐して祈みて寐たり。各夢を得つ。
 豊城命は「自ら御諸山に登りて東に向きて、八廻奔槍し、八廻撃刀す」とまうす。活目尊は「自ら御諸山の嶺に登りて、縄を四方にGへて、粟を食む雀を逐る」とまうす。
 即ち天皇相夢して、「兄は一片に東に向けり。当に東国を治らむ。弟は是悉く四方に臨えり。朕が位を継げ」とのたまふ。

 その豊城入彦は、実は崇神の子でなく、さらには大王氏ですらなく、姻族太(大)氏の宗家であった。この詳細については前編でのべた。
 姻族の首長に対する、書紀・古事記の基本的な尊重と扱いかたは、文脈をよくみる上でつねに重要なポイントであると思わなければならない。
 すなわち豊城入彦の挿話は、綏靖と神八井の挿話と連動している。神八井は姻族椎根津彦その人であったから、そもそも大王氏の兄弟が試練ないし試験によって選ばれるという状況を描く記事というものは、おしなべて姻族の協力があって王位を継いだという事情をいうのに違いない。いずれも弟王がこれを継ぐという文脈も一緒である。
 すると五十瓊敷と景行の場合も、あきらかにこれと同様な状況とみられる。類似という程度ではない、同一の文法で書かれているとみるべきであろう。
 五十瓊敷は日葉酢媛の子ではなく、日葉酢媛の一族の宗家の嫡系の子であった筈である。
 彦立丹波道主の気長氏であると思う。
 大中津姫はむろんその五十瓊敷の妹たる、気長氏嫡系の女ということになる。
 ひるがえって、五十瓊敷の名称もこの時代に特徴的であった。五十瓊敷の五十瓊は、淳名城(十市)、あるいは淳名城と磯城の両者の地を意味するであろう。十市氏宗家の豊城が滅びた後、その後裔は八綱田・彦狭島・御諸別を祖とする上毛野氏となったが、その後十市の地の権益を襲ったのは、後の気長氏の祖丹波道主の後裔であったのではないかと思う。
 あるいは日葉酢媛の兄弟にあたる気長氏宗家の人物があって、すでにその父丹波道主も道主の異母兄彦坐も亡き後、十市宗家の後たる豊城に対峙して新興の気長氏の宗家を担った人物があったかも知れない。
 丹波道主の名がその二代にわたって仮託されたか、あるいは朝廷別という丹波道主の子と記録される人物がそれかも知れない。
世代を勘案すれば、そのさらに宗家の孫にあたる人物こそ、五十瓊敷その人であったのであろう。



        日子坐-------- 大俣------------曙立
                |      小俣            菟上
                |      志夫美宿禰
                |
                +------(豊城入彦)---(彦狭島)
                |      (八綱田)     (御諸別)
                |  
                |______狭本毘古
                       狭本毘売亦名佐波遅比売
                       袁邪本
                       室毘古
                       山代大筒木真若
                       比古意須
                       伊理泥
                       山代大筒木真若
                       比古意須
                       伊理泥
 
       美知能宇斯------比婆須比売
                       真砥野比売
                       弟比売
                       朝廷別---------(五十瓊敷)
                                       (大中姫)
                       
        水穂真若
       近淡海安直祖----近淡海安国造祖意富多牟和気
       
       神大根
       
        山代大筒木真若--迦邇米雷--------息長宿禰
 

 ここにおいて大中姫を娶って、香坂・忍熊王を生んだ大王もまたあきらかであろう。景行にほかならない。即位に功のあった姻族の女は、大后として迎えるのが倣いであった。
 五十瓊敷の妹という大中津姫もまた、その嫡系たる出自から本来嫡后たるべき后妃であったと思う。事実はなぜかそうはならなかった。景行の嫡后は美濃の、たぶん尾張氏の系統である八坂入媛であった。そして自ら後継者に指名したのも、八坂入媛の子成務であった。
 景行の諱とみられる忍代別(淤斯呂和気)が、あきらかに山城の気長氏を産土とするにもかかわらず、気長氏そのものは正嫡の立場に置くことをしなかった。景行の父垂仁もまた狭穂姫亡き後、日葉酢媛を嫡后としながらこれを疎んじたが、この時の垂仁の意向は、狭穂姫の子誉津別と播磨稲日の子倭建にあったらしい。その子景行もまた垂仁に倣って嫡后を疎んじたことになる。
 香坂・忍熊に戻ろう。香坂・忍熊王が景行と姻族気長氏の女大中姫との間に生まれていれば、この二王は、仲哀の没どころか成務の没にあたって、すでに後継者の有力候補であった。先に述べたように、成務は叔父倭建に対する尊重のためにその一子仲哀を後継に立てたと思われるから、仲哀朝の間、大和には嫡系の王子とこれを擁する勢力が温存されていたことになる。後継争いが起こるのは必然であった。
 ところでこの辺の文脈は、いくつか違った視点でみることもできる。香坂・忍熊は仲哀の子ではないが、この二王が拠って立った仲哀の大和における王子がいたかも知れない可能性である。
 仲哀がその即位前記年(西紀三九三)から敦賀、ついで穴門に入って、その後仲哀七年没まで延べ八年間西国にあったという記録は、どこかしら疑義があった。この空白の期間のうちの数年間が、仲哀の大和における治世であったとすれば、応神より年長の王子があっておかしくはない。
 その王子は記録されない大和の貴種の女の子かもしれないが、意外に気長足姫のもう一人の子かも知れない。
 香坂・忍熊の出自、また仲哀の大和における遺児の存在、そのどちらも、父王を失った神功と応神を大和が排除する動きをみせる理由になる。

半島からみる仲哀紀β

 仲哀が一時は大和にいたと思うべき理由は、なにかと齟齬を感じる仲哀紀の記述そのものに示唆がある。
 西国帯在の記事は、仲哀二年(三九三)の敦賀宮、または敦賀と穴門宮と、仲哀八年・九年の穴門ついで儺県の橿日宮の、のべ三年間に限られている。すなわち倭と半島とが緊張したのが、この期間であった筈である。
 成務元年(西紀三九〇年)から仲哀没年(西紀四〇〇年)の間について、改めて半島の情勢がどうであったかををみてみよう。仲哀の動向は、三国史記の記録する時の情勢と一致するのでなければならない。


干 支 西暦    広開土王碑  高句麗本紀  新羅本紀    百済本紀
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庚 寅 390                 済侵麗                  伐麗    
辛 卯 391     倭渡破三韓  談徳即位                        
壬 辰 392                 送使羅修好 (以実聖麗質) 麗侵済王没
癸 巳 393                 済侵南辺    倭囲金城    伐麗    
甲 午 394                 済来撃破                輿麗戦敗
乙 未 395                 済来侵撃破              輿麗戦大敗
丙 申 396    (伐済及人質)                                 
丁 酉 397                                        (腆支倭質)
戊 戌 398                                         欲伐麗   
己 亥 399     倭満羅国境                          欲伐麗   
庚 子 400     救羅城中倭  遣使燕                           
辛 丑 401                             実聖帰還             
壬 寅 402                 攻燕       (未斯欣倭質) 遣使倭求球
癸 卯 403                             済侵辺      倭使来   
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 前に出した人質など重要事項を中心にする半島の事項から、仲哀紀ならびにこの時期を通年で仮託する応神紀のそれを重ねてみよう。
 「倭囲金城」という記事は三国史記で三九三年と記録されるが、先のようにこれは二年繰りあがっているものとみなして、三九一年に復元する。

 干 支 西暦  成務
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 庚 寅 390     1                     成務元年             
 辛 卯 391(倭囲金城) 仲哀   成務近江 襲津彦伐新羅(神功62) 
 壬 辰 392     3       1            済辰斯没、阿花立       
 癸 巳 393     4 *     2     仲哀敦賀 成務没(済伐麗)     
 甲 午 394     5       3   1               (済輿麗戦敗)   
 乙 未 395     6       4   2               (済輿麗戦大敗)
 丙 申 396     7       5   3(伐済及人質)  
 丁 酉 397     8       6   4         (百済人来朝)       
 戊 戌 398     9       7   5         武内宿禰行筑紫       
 己 亥 399    10       8   6  仲哀儺県、伐熊襲     
 庚 子 400    11       9   7 * 神功  仲哀没、神功伐新羅   
 辛 丑 401    12                   1 神功伐二王子         
 壬 寅 402    13                   2                      
 癸 卯 403    14                   3 遣襲津彦加羅         
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   西紀三九〇年から三九三年までは成務の治世の時代である。その即位前紀年の三八九年、先のように半島で「浦上八国の乱」が起こり、翌三九〇年、この収拾に不服であった倭人が金城を囲んだが敗退、さらに翌三九一年、于老の事件が起ったのを契機に、成務は近江高穴穂宮に移って、そこから葛城襲津彦を半島に送り込んだ。襲津彦は新羅の金城を囲んで新羅に大きな打撃を与える。
 その結果翌三九二年、新羅は高句麗に実聖を質に送り、倭への対処と倭と同盟関係にあった百済の討伐を依頼する。王統が昔氏の奈解から金氏の奈勿に代わったのはこの年であろう。
 奈解は三九一年の戦闘で没したか、傷を負って仆れたにちがいない。奈勿紀には記録されないが、奈勿の父で金氏の始祖王に仮託される味鄒は、新羅本紀のなかでは唯一踰年元年即位をしたと伝える。これは事実上奈勿の即位事情とみられるから、奈勿の即位は三九一年でなく三九二年である可能性が高い。
 するとここで言えることは、倭と新羅の本格的な抗争は、三八九年から三九一年に及び、一段落したのである。これは事実上新羅とばかりでなく、倭と高句麗の衝突でもあった。
 翌三九二年から、今度は、高句麗と百済の衝突が始る。これもまた倭と高句麗のかたちを換えた抗争であった。
 百済と高句麗が戦闘常態に入る発端となった、三九二年の事件は、次のようなものである。
 百済ではその年(三九二)、百済本紀が「麗侵」と「王没」という二つの事件が起こった。事実は一つの事件で、高句麗との戦闘のさなかか、または戦時の責任を問われてか、時の辰斯王が弑逆されたのである。辰斯王の後は阿花王が立った。
 百済本紀の書きかたは婉曲である。「王猟狗原仍没」という。辰斯王は高句麗と事を構えたくなく、戦時に遊興にふけっていたというような記事もあるから、戦闘的な世論の狭間で弑逆にあったというのが事実かも知れない。
 書紀もこのことをつぎのように書いている。

 是歳(応神三年)、百済の辰斯王立ちて、貴国の天皇のみために失礼し。故、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木莵宿禰を遣して、其の礼无き状を責譲はしむ。是に由りて、百済国、辰斯王を殺して謝ひにき。紀角宿禰等、便に阿花を立てて王として帰れり。

 倭が百済王の交替に口を挟んだような書き方だが、むろん書紀の修辞である。後世、百済を属国とみなすというような無謀な文法が存在したが、その種の作為の一つがここに反映されるのであろう。
 ただここに出る「木角宿禰」等に仮託される倭人の存在と、一部の干渉は、何事か史実があったかも知れない。百済と高句麗が険悪になった時点で、倭が武人が率いる小部隊を百済に派遣していたというような可能性がある。
 ちなみに紀角宿禰は、後に述べる仁徳紀四一年に出てくる。百済に渡って国郡の疆場(境)を分けたとあるが、直後に百済の王族酒君に無礼があって、これを譴責したという。
 この「無礼」は、実は百済が新羅と和親を結んだことをいい、西紀四三八年の出来事で、事実上紀角宿禰の初出とみられる。したがって応神三年(三九二)の百済辰斯王・阿花王の挿話は、時代が異なる。父祖の代の事件でなければならない。するとここに複数書かれる、紀角・羽田・石川・木莵(平群)はいずれも本人ではない。例えば、かれらの唯一の祖が仮託されているのかも知れない。
 ひるがえって、三九二年の高句麗の百済侵略は、おそらく拡張策をとる広開土王の主体的な行動であろう。前年の倭の侵入で国体を揺るがされた新羅は、同年(三九二)王子実聖を質として、高句麗の庇護を求めた。新羅を傘下においた高句麗は、ひきつづいて百済に触手を伸ばしたことになる。
 ところが翌三九三年から、今度は百済の高句麗侵攻が始る。それは三年間つづく。
 ちなみに仲哀が敦賀笥飯宮に入ったのもこの年(三九三)のことであった。成務没年、仲哀践祚年でもある。
 そして三九三年から三九五までの三年間は、百済紀のなかでも特異ということになるが,ひたすら高句麗を侵しつづける期間である。報復のために違いないが、この時、三九二年以来阿花王の擁立に関係したという半島駐在の倭兵が、征高句麗百済軍に合力した可能性は考えられる。その場合その背後で、敦賀から周防穴門へ進んだ仲哀が指揮をとっていた可能性もある。
 百済の高句麗侵略は三年で終ったが、勝利は得なかった。のみならず広開土王碑によれば、三九六年、高句麗は反転大挙して百済に反撃した。百済はこの時、大臣・王弟を埒されるという大敗を喫したが、そのため翌三九七年、百済は質腆支を送って倭に援助を求めた。
 書紀によると武内宿禰が筑紫に入ったのは、三九八年である。翌三九九年に仲哀が筑紫儺の津に入っているから、これは仲哀の半島侵攻の先駆であろう。ちなみに百済本紀は、三九八年・三九九年と「王欲伐麗」という記事がある。
 まとめてみよう。四世紀末葉の半島と倭は、恒常的な戦闘状態にあった。成務没年(三九三)、践祚した仲哀は、高句麗に反撃を開始する百済に合力、敦賀笥飯宮から立ち周防穴門に進出するが、これは功を得なかった。仲哀はその年か遅くとも翌三九四年には、穴門をひき払って大和に帰ったであろう。この間先のように百済はなお翌三九四年・三九五年と高句麗を攻める。
 転機は三九六年、高句麗の大挙南下によってひきおこされる。百済は王弟・大臣を拉致される大敗を喫し、翌三九七年反攻を期して王子腆支の入質を対価に倭の援兵を求めた。
 西紀三九七年の百済王子腆支を迎えたのは、大和にあった仲哀にほかならない。百済の新たな援軍の要請に対し、仲哀は翌三九八年武内宿禰を送った。武内宿禰は周防から一歩進んで筑紫に入り、そこから半島に干渉をはじめた。軌を一にして、高句麗の庇護下にあった新羅がふたたび蠢動を始めていた。
 武内宿禰の地均しの結果を待って、仲哀は翌三九九年再び親征して、周防穴門に入り、時期をはかって筑紫に進出、儺県を平定して香椎宮に前線基地を置いた。「足仲彦」と謚される理由である。
 ふたたび半島に臨んだ仲哀が敵対する相手は、高句麗だけではなかった。膨張する新羅と高句麗の二国であった。
 翌四〇〇年、仲哀は儺の地で志半ばで没し、神功がその遺志を追行する。
 思うに仲哀の実像は、書紀・古事記に書かれるよりはるかに大きい。腆支の入質などの倭と百済の交渉は国家間のそれであり。仲哀が王族将軍に過ぎなかったら、これを担いだ武内宿禰やその子葛城襲津彦の活動も、もっと極地的にならざるを得ない。
 そうでないのは、それらの将軍を派遣している主体者が、国家の意志を体現しているのでなければならない。仲哀とその後の神功にあきらかに荷担している武内宿禰の行動は、その主体者が大和にある別の王権ではなく、仲哀そのものであったことを示唆するのである。
 ひるがえって時の大和の状況は、茫々としつつ姿を現わしてくる。仲哀が治世の多くを大和で費やしているなら、その王子はないか、あっても乳飲み子であったために、しかるべき年齢の後継者があった。成務が仲哀を指名したように、仲哀もまた成務の異母の弟たる王子を指名していたのである。
 香坂・忍熊の立場はあきらかである。四〇〇年の筑紫での仲哀の没を知っても、その陵葬を済ませるのでなければ践祚はできない。香坂・忍熊が明石に仲哀の陵をつくったという伝承は、この間の事情を物語る。おそらく書紀の文脈に作為はなく、筑紫にあって応神を擁した神功と、大和の香坂・忍熊とは、互いに正統性を争ったまま対峙して、誰もが直ちの践祚を行うことができなかった。
 対立する勢力がともに大和にあったら、践祚にともなう騒乱はすぐに発生するやたちまち終息したであろう。仲哀もそうやって即位したのである。
 神功と香坂・忍熊の勢力の衝突は、かくして神功の大和入りを待ってはじめて勃発した。結果は神功の勝利におわったが、書紀・古事記の記録は、ひたすら戦闘で決着がついたかのようである。論理的だがこれはそうではない。決着は戦闘だけでつけられたのではなかった。

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