第一章 気長足姫β

第五節 五百城入彦β

紀武内の系譜β

  神功紀元年条をみよう。

 (神功元年)春二月、皇后、群卿及び百寮を領ゐて、穴門豊浦宮に移りたまふ.即ち天皇の喪を収めて、海路よりして京に向す.時に香坂王・忍熊王、天皇崩りましぬ、亦皇后西を征ちたまひ、併せて皇子生れませりと聞きて、密に謀りて曰く、「今皇后、子有します。群臣皆従へり。必ず共に議りて幼き主を立てむ。吾等何ぞ兄を以て弟に従はむ」といふ。
 乃ち詐りて天皇の為に陵を作るまねして、播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る。即ち人毎に兵を取らしめて、皇后を待つ。

 是に犬上君の祖倉見別と吉師の祖五十狭茅宿禰と、共に香坂王に隷きぬ。因りて、将軍として東国の兵を興さしむ。
 時に香坂王・忍熊王、共に兎餓野に出て祈狩す。(略)赤き猪忽ち出て、香坂王を咋ひて殺しつ。(略)忍熊王、即ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。(略)復軍を引きて退き、菟道に至りて軍す。
 (略)
 三月、皇后、武内宿禰・和珥臣の祖武振熊に命して、数万の衆を率いて忍熊王を撃たしむ。爰に武内宿禰等、精兵を選びて、山背より出づ。菟道に至りて河の北に屯む。

 この後、武内宿禰は恭順を装って忍熊王の軍を騙し、ついに「瀬田の済」に追い落す。屍は数日後に菟道河に上がった。
 古事記は明石の山陵について述べず、最初の戦闘を斗賀野(摂津)としている。また山代へと後退し、近江に追い詰められて琵琶湖に入水して死んだという。双方の将軍も、忍熊王側は「難波吉師部の祖伊佐比宿禰」、神功の側は「丸邇臣の祖難波根子建振熊」である
 神功の大和帰還はこれだけのものである。戦闘で打ち勝って大和に入るという、単純かつ明快なストーリーであるが、それだけにその背景に纂奪の匂いをつよく感じるが、先のように輿論が割れていたのも事実であろう。
 それにしてもこの戦闘は、従来からいろいろとりざたされることが多くあった。まずこれが同族同士の戦闘になってしまうのではないかという側面である。
 神功すなわち気長足姫の出自は、その名称が語るように気長氏とみられ、香坂・忍熊王もまたその本拠地が、その地名がのこる添上であった。また最後に神功軍を迎え撃ったのも、南山城の地であった。南山城が丹波道主やその女日葉酢媛以来の気長氏の本拠であることは、周知のことである。
 香坂・忍熊王が、景行と姻族の嫡系大仲津姫の子であるとすれば、この二王が気長氏を背景にもつことは疑問の余地がない。
 今一つの疑問は、神功と行動をともにしていたとみられる武内宿禰がこの討伐戦に出陣しながら、最後の詰めをしていないことである。
 武内宿禰が前編のように、事実上気長足姫の父であれば、自らの女たる王后と、外孫たる太子を庇護する戦闘である。香坂・忍熊王を追い詰める将軍が、和珥氏の祖建振熊であるのは、不自然である。書紀はまだましとしても、古事記には武内宿禰の出陣さえ記さない。
 この二つの疑問は、結局一つの理由に収斂するであろう。
 気長氏と紀氏、そして葛城氏の発祥とその後の分岐という視点である。これらの氏族は源流を一にしていたと思う。しかしそのスタンスは発祥の時点から違っていた。ひとえに武内宿禰の登場に遠因があった。
 前編で述べたように、武内宿禰はおそらく葛城の首長と、十市氏につながる山城内氏たる姻族の女との間に生まれた。そのためにこの最初の葛城氏は自らを「内」氏と称した。母の産土たる栄光の氏族の血を誇ったのである。のみならず衰退していくこの氏族の、母系からの復興もはかった筈である。父系からの派生の先には、新興の姻族葛城氏の登場があった。
 したがって武内宿禰の嫡流は、かならず後の葛城氏であって、ほかの氏族ではない。その証左に、武内宿禰の墓は室大墓(室宮山古墳)と呼ばれ、葛城の地にある。また付近に「有智」郡の地名もある。この有智こそ山城の内に由来するものであろう。
 ところが、武内宿禰の後裔は記録されるだけでも、多くの氏族があった。弟と記録される味師内宿禰も、世代的な観点から武内宿禰の子とみられる。その子孫系譜も多く問題がある。
 ひるがえって武内宿禰のオフィシャルな名称は、武内宿禰だけではない。内宿禰はむろんだが、「紀武内」という呼称がある。これは「宋史日本伝(宋書ではない)」が日本の「王年代記」から抜き書きしたなかに、歴代の天皇系譜と並んで、「大臣あり、紀武内と号す」と記している。
 紀は磯城、ついで山城の瀛(奥磯城)に由来し、内は山城の内・宇治に地名に由来し、またその地名を負った姻族椎根津彦(珍彦)に由来する。
 武内宿禰の氏姓が、内氏・紀氏であった証左である。
 葛城襲津彦をその嫡子とするために、葛城氏の祖であったが、葛城宿禰とはいわれない。葛城氏は、他のおおくの後裔氏族と同様、子の世代である襲津彦から始まるのである。
 その後裔氏族はつぎのように伝えられる。

 
 建内宿禰--+---波多八代宿禰(波多・林・波美・星川・淡海臣
   |       |                  長谷部君祖)
   |       +-- 許勢小柄宿禰(許勢・雀部・輕部臣祖)
   |       +-- 蘇賀石河宿禰(蘇賀・川邉・田中・高向・小治田
   |       |                 櫻井・岸田臣祖 )
   |       +-- 平群都久宿禰(平群・佐和良臣・馬御機連祖)
   |       +-- 木角宿禰(木。都奴・坂本臣祖)
   |       +-- 久米摩伊刀比売
   |       +-- 怒能伊呂比売
   |       +-- 葛城長江曾都毘古(玉手・的・生江・阿藝那臣祖)
   |       +-- 若子宿禰(江野財臣祖)
   |
 味師内宿禰(山代内臣祖)

 世代の整理をすれば、これはさらに次のようになる。

 建内宿禰--+---葛城長江曾都毘古---+----波多八代宿禰
            |                      +    許勢小柄宿禰
            |                      +    蘇賀石河宿禰
            |                      +    平群都久宿禰
            |                      +    木角宿禰
            |                      +--- 若子宿禰
            |                           
            +----味師内宿禰                        
                                        

 書紀の屋主忍男武雄心(武猪心)は、忍と忍、心と信が等しいから、彦太忍信と同一人物であろう。古事記では比古布都押之信と書く。
 比古布都押之信が木国造宇豆比古の妹山下影比売(紀直遠祖菟道彦の女影比売)を娶って武内宿禰を生み、葛城高千那媛を娶って味師内宿禰を生んだという。このために武内宿禰と味師内は兄弟とするのだが、味師内の母という葛城高千那毘売というのは、神功の母という葛城高額比売とほとんど同工異曲である。
 その父息長宿禰王が武内宿禰の仮託であるために、これは武内宿禰が葛城高額媛を娶って、神功を生んでいるのである。襲津彦はその兄弟である。
 すると葛城高千那媛は、高額媛と同一人物かまたは姉妹とみるべきであろう。ひとえに葛城の氏姓が加羅の地に由来するためである。この二人の葛城の名称を負う女は、要するに加羅の王族の女であった。味師内が伝承に反して、武内宿禰の子であると思う理由である。
 ここで武内宿禰後裔氏族の適切な分類ができる。
 おおまかに二つの幹ができた。葛城氏と紀(木)氏である。襲津彦を祖とする葛城氏・戸田的氏が、味師内を祖とする紀(木)氏から木氏・平群氏・紀氏・坂本氏ができた。
 注目すべきは紀(木)氏である。ながく謎の氏族といわれてきた。

甘美内宿禰β

 紀氏については多くの議論があった。一つところに収斂することがない、典型的な謎の氏族である。
 基本的な前提はあった。紀氏にもともと二流、または三流があったとする視点である。紀直(紀国造)家、そして紀臣家である。前者はさらに地祇系(名草戸畔)と天神系(天道根)に分れ、後者は大和の大族として、後世まで名を馳せた紀氏の主流である。
 紀氏が紀伊の国に発生したという説は、前者をとくに意識するためで、紀氏の本拠地を大和西部(平群)に求める説は、後者の足跡を重視するためである。後者はとくに、その祖木角宿禰を紀氏の源流とする。
 しかしながら、これらの議論はつねに矛盾を孕んで、全体をうまく描きだせなかった。その理由は明らかであると思う。紀氏の出自を、紀伊国あるいは平群郡と思い込んできたからである。
 紀氏の「紀・木」の縁起は、紀伊にも平群にもあるのでない。すべて南山城の紀伊郡にあったと思う。
 山城の紀伊は、もと「木」とも書かれた。綴喜・木津・木幡などの地名は古来からのもので、それぞれ津の木・木の津・木の幡であろう。そこには山城の「内」の地名もあり、さらに木津川をさかのぼった宇治の地も、「元の名は、木の国」という伝承が残る。
 木・紀の発祥はひたすら南山城にあり、紀伊を木・紀というのも、かなり後世的なことでなかったかと思う。ちなみに葛城の有智郷の名称もまた、山城の有智(内)からきた。葛城を宰領した武内宿禰が、その母方の血に由来する「内」の諱を地名にもちこんだのであろう。
 してみれば紀・木の語源もあきらかである。磯城の「城」の意であろう。瀛・奥磯城の意味であった南山城、「内の地」がそう呼ばれたのは、大和と磯城氏・十市氏がほろびて後のことであった。オリジナルは「内(珍)」にほかならない。大倭国造、椎根津彦の諱である。気長氏の発生もまたこれと不可分な関係にあった。
 すなわち紀氏は、山城の内の地に本拠をもち、木津川から淀川にいたる水運を管掌していた筈である。
 最近の考古学的な知見も、紀氏の淀川から木津川沿いにあった勢力を指摘している。後世の紀氏が結果的に大和西部と紀伊一帯に地盤をもつにいたったのは、ひとえに勢力の膨張によるであろう。
 その紀伊の地も、神武以来の名草戸畔あるいは天道根の上に、紀氏が重なっていったと思われる。名草戸畔など紀伊の豪族が、大和の磯城氏と同族であった可能性も比定できない。その地はつまり「城」と呼ばれていたかも知れない。書紀は、紀(木)氏と紀国造家・紀直家について書きわけることをしない。要するに混在するままに放ってある。
 四世紀前葉から後世にかけて紀(木)氏をいう時、おそらくこれは統一的に、一つの幹から発する紀(木)氏そのものであったとみるべきであろう。
 すると紀氏の膨張のプロセスも想像がつく。前編で検証しておいた、大和の前方後円墳の発達過程が、紀氏のそれに適合するであろう。その時点での一つの結論は、南山城に佇立した椿井大塚山古墳の正当な後継者が、その副葬品から、馬見古墳群とりわけ佐味田宝塚古墳の主であったとみられた。
 それは姻族山城内氏の正当な後継者でもあった。

 
 
252.3------------------------------------------------------
                                          |          |
266.7-------------------------------------|  纒向1式 |石塚 
                                          |          |
280.9------------------------------------------------------
                                          |          |
295.2-------------------------------------|  纒向2式 |黒塚 
                                          |          |
309.4------------------------------------------------------
  愨徳|         |箸墓 葛本弁天塚 中山大塚 馬口山     |
323.7 | 埴輪0期 |---------------| 布留0式 |  纒向3式 |     
  考霊|         |西殿塚 桜井茶臼山 椿井大塚山        |
338.0------------------------------------------------------
  考元|         |               |         |          |
352.3 | 埴輪1期 |東殿塚 メスリ山| 布留1式 |  纒向4式 |     
  崇神|         |               |         |          |
366.7------------------------------------------------------
  垂仁|         |行灯山 櫛山 東大寺山 佐紀陵山       |
380.9 | 埴輪2期 |---------------| 布留2式 |  纒向5式 |     
  景行|         |渋谷向山 巣山 佐味田宝塚 津堂城山   |
395.2------------------------------------------------------
  仲哀|         |室宮山         |         |                
409.4 | 埴輪3期 |---------------| 布留3式 |----------------
      |         |               |         |               
423.7---須恵器---------------------------------------------

   三角縁神獣鏡の、椿井大塚山古墳に次ぐ大量の埋納は、すこし時代を降った馬見古墳群の佐味田宝塚古墳である。
 全長一〇〇メートルの前期後半(四世紀後半)の築造とみられるこの古墳から、一二面の舶載の三角縁神獣鏡と家屋文鏡などのH製 鏡が出土している。椿井大塚山古墳との同笵鏡の分有もある。周辺の新山古墳にも類似の出土がある。
 椿井大塚山古墳の被葬者は、大和の古墳群と関りをもたず、 その後わずかに遅れる、馬見古墳群の被葬者と密接であることが明らかである。
 気長氏ではない。紀(木)氏である。
 たぶん気長氏が姻族内氏の血統の後継者であるとすれば、紀(木)氏はその勢威の後継者であった。そして紀(木)氏は、添から南山城にあった本拠を、ある時、平群を含む大和西部一帯に移したのである。
 その南西にすぐ馬見丘陵がある。
 そしてそのさらに南方に、広大な葛城の地がある。
 ここに至って、ようやく紀(木)氏の祖の特定ができる。同時に武内宿禰後裔氏族を咀嚼することにもなる。
 味師内宿禰である。
 記事紀は「山代内臣祖」と書く。書紀はこれを記録しないが、応神九年条にこういう記事がある。

 九年夏四月、武内宿禰を筑紫に遣して、百姓を監察しむ。時に武内宿禰の弟甘美内宿禰、兄を廃てむとして、則ち天皇に讒し言さく、「武内宿禰、常に天下を望ふ情有り。今聞く、筑紫に在りて、密に謀りて曰ふならく、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』というなり」とまうす。是に天皇、則ち使を遣して、武内宿禰を殺さしむ。時に武内宿禰、歎きて曰はく、「吾、元より弐心無くして、忠を以て君に事めつ。今何の禍そも、罪無くして死らむや」といふ。
 (略)
 時に武内宿禰、窃に筑紫を避りて、浮海よりして南海より廻りて、紀水門に泊る。僅に朝に逮ること得て、乃ち罪無きことを弁む。
 (略)
 天皇勅して、神祇の請して探湯せしむ。是を以て、武内宿禰と甘美内宿禰と、共に磯城川の滸に出でて、探湯す。武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀を執りて、甘美内宿禰を殴ち仆して、遂に殺さむとす。
 天皇、勅して釈さしめたまふ。仍りて紀直等の祖に賜ふ。

 応神九年条は成務九年、西紀三九八年にあたる。仲哀が筑紫を討伐して儺県に入る前年である。
 紀直の祖に与えられたという甘美内(味師内)宿禰は、すなわち紀直の祖となったという意味なのであろう。武内宿禰と競り合う勢力をもっていたというこの伝承は、「三韓の王」という意味をいうほど、とくに半島に対する権威が、武内宿禰と拮抗していたことを示唆する。
 甘美内宿禰は、葛城襲津彦とおなじく、武内宿禰と半島の女から生まれた韓子にちがいない。葛城襲津彦が斯摩すなわち後の葛城氏の祖となったように、甘美内宿禰は、紀(木)氏の祖となったと思う。武内宿禰の後裔はこの葛城氏と紀氏との二大血統があった。そしてそれぞれの枝葉がさらに分岐・発達していった。
 こうした背景からすると、甘美内宿禰の後裔は、紀(木)氏だけではない。

                     +---葦田宿禰(葛城氏)
                     |
    武内宿禰--------葛城襲津彦-----+---的戸田宿禰
     |               |   
     |                +---巨勢小柄宿禰   
     |                       |
     |                       +---羽田矢代
          |
     (味師内宿禰)-----味師内宿禰-----+---紀角宿禰
                                   +---平群木莵
                                   +--(曽我石川宿禰)
    
                                +---木羅斤資---木満致
                                
                                
                      荒田別
                      鹿我別

 もし曽我氏の祖が木羅斤資であるとすれば(そうに違いない)、ここに曽我石川宿禰と記録されるのは、木羅斤資の仮託にほかならない。その父は、紀(木)氏の名を担った筈だから、葛城襲津彦でなく味師内宿禰であろう。
 その韓子のうち、半島に土着したのが木羅(木)氏で、倭・大和に本拠を置いたのが、紀(木)氏であったのであろう。
 紀(木)氏の正嫡が紀角宿禰とすれば、平群木莵宿禰はその同母弟のような関係であったと思う。後大臣になった平群一族の本拠地は平群にほかならないが、そこの宗社は、「平群坐紀氏神社」という。平群に播拠した紀(木)氏の一族が平群氏を名乗ったのに過ぎないが、紀氏の最初の本拠地が、平群の地であったことを示唆する。
 するとここに、武内宿禰後裔氏族のうち、本拠地が特定できず、正体不明である羽田矢代(波多八代)宿禰の出自も、推定できそうである。羽田(波多)は「幡・秦」の意である。韓語の「海(ぱた)」に由来するという。武内宿禰でなく、新羅と戦った葛城襲津彦が、新羅の女を娶って生んだものであろう。
 羽田氏のその後は、履中紀の即位前紀年に、「羽田矢代宿禰の女黒媛」が現れるが、その一条のみである。ちなみにこの黒媛は、履中が娶るまえに同母弟住吉仲皇子に取られたと記されるが、即位後皇妃に立てた葦田宿禰の女も黒媛という。同名であるが、後者の黒媛は正嫡の子市辺押羽を生んだ。別人であろう。
 その後裔が伝わらないのは、応神紀の秦氏など渡来の氏族と合流したからかも知れない。紀(木)氏に半島と大和との二流の子孫があったとすれば、羽田氏にも二流があって、秦氏がその半島在の氏族から発したという推測もできる。もっとも羽田氏はただ一、二代で消滅しただけのことかも知れない。
 残った巨勢小柄宿禰と的戸田宿禰については、葛城襲津彦の子とみておきたい。巨勢(居勢・許勢)の地も葛城に隣接する。襲津彦でなく武内宿禰の子とすれば、古事記にある若子宿禰と同一人物かも知れない。
 的戸田宿禰は、仁徳紀一二年に、高麗(高句麗)の貢る楯と的の話に登場する。これをよく射たために「的」の名をもらったというが、葛城襲津彦の子は葦田宿禰のほか今一人別人がいて、この知られぬ人物の子が允恭の時の玉田宿禰であったというから、その人物こそ的戸田宿禰だったかも知れない。
 武内宿禰後裔氏族については、従来から渡来人説が有力であった。葛城氏のみならず、紀の川流域の紀氏の墳墓が、著しい高句麗形式をもつことなどが、大きな根拠であった。むろん紀(木)氏の一族は、この後も仁徳・雄略などの時代に半島へ渡っている。一種、半島将軍の趣がある。
 書紀・古事記からすれば、渡来人ではないがもれなく韓子ではあったであろう。そしてこの出自はこの時代、広く尊重されたのだと思う。気長足姫がその最たるサンプルである。
 ちなみに本来武内宿禰の子であった甘美内宿禰が武内宿禰の弟としたのは、「天皇記・国記等」の作為であろう。甘美内の後裔である曽我氏が管掌したこの史書は、記録には残さなかったが、あきらかに紀(木)氏の系統で、始祖木羅斤資を武内宿禰の時代に対峙させたのである。おそらく同祖の葛城氏に対する対抗意識がそうさせたのである。
 話を戻そう。葛城氏たる神功が大和に帰還する時、戦った相手が気長氏出の王族であり、王位を継承する資格も十分あったというのが、この項の話の発端であった。
 理解のための背景はなお不足すると思う。これが事実上王朝の交替でなかったのは、大和のある在地の勢力が神功に荷担することがあったためであろう。武内宿禰が香坂・忍熊王を追い落とすところまで参画していないのは、おそらく重要な外交、たとえば王位の継承・認知につき了解を得るべき勢力と、交渉していたのではないかと思う。
 この折衝は上首尾に終わった。神功は乳飲み子の応神のために、摂政称制というはじめての試みを行なった。この背景勢力の実態に迫らなければならない。

五百城入彦β

 応神紀は多様な記事が輻湊するが、一面シンプルな構造をもってもいる。成務・神功・某倭王・応神の四王の係年が、一度によどみなく流れるからである。
 応神の治世の詳細については第二章のこととするが、とりあえず一例をみておくことにする。たとえば応神紀はその元年からひとけた年までは応神、十年代は某倭王、二十年代は神功、三十年代と四十年代は成務の係年を使っている。
 また応神の事実上の即位元年は、その二二年(成務紀でなく神功紀の二二年)、すなわち四二二年とみられる。宮での即位を記さない応神紀だが、ここで初めて「難波大隅宮」が現れるからである。こういう象徴的な記事が、事実を示唆する書紀の常套手段であった。


 応神紀系譜
------------------------------------------------------------
 己丑  389   0   神功没(4)
 庚寅  390   1   応神即位(1)
 辛卯  391   2   立后(3)
 壬辰  392   3   蝦夷朝貢(10)              *辰斯王没阿花王立
 癸巳  393   4      
 甲午  394   5   海人部・山守部(8)   
 乙未  395   6   宇治行幸(2)   
 丙申  396   7   高麗・百済・任那・新羅朝貢(9)   
 丁酉  397   8                            *百済人直支来朝(3)
 戊戌  398   9   武内宿禰筑紫(4)   
 己亥  399  10      
 庚子  400  11   髪長媛の噂         
 辛丑  401  12                      
 壬寅  402  13   髪長媛来(9)         
 癸卯  403  14   百済縫衣工女来(2) 弓月君の噂 襲津彦征新羅
 甲辰  404  15   阿直支来(8)                              
 乙巳  405  16   王仁来(2) 襲津彦帰 弓月来 *阿花王没直支王立
 丙午  406  17                                              
 丁未  407  18                      
 戊申  408  19   吉野宮(10)                                
 己酉  409  20   阿知・都加来(9)   
 庚戌  410  21                    
 辛亥  411  22   難波大隅宮(3) 淡路巡狩(9)                 
 壬子  412  23                    
 癸丑  413  24                    
 甲寅  414  25                             *直支王没久爾辛立
 乙卯  415  26                    
 丙辰  416  27                    
 丁巳  417  28   高麗使来                 
 戊午  418  29                    
 己未  419  30                    
 庚申  420  31   官船枯野(8)                 
 辛酉  421  32                           
 壬戌  422  33                           
 癸亥  423  34                           
 甲子  424  35                           
 乙丑  425  36                           
 丙寅  426  37   派遣阿知呉(2)                        
 丁卯  427  38                           
 戊辰  428  39   百済新斉津媛来(2)                        
 己巳  429  40   立太子(1)                        
 庚午  430  41   没(2) 阿知帰(2)                        
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 *印を付した記事は、百済記によるとみられ、紀年の基準値を示す意図があったといわれている。実際三国史記とも基本的に一致するために、百済王のこれらの継承記事の係年は事実であろう。
 ただ「直支王没、久爾辛王立」の記事だけは、三国史記では庚申(四二〇)と記録され、互いに齟齬がある。これについても後に延べることにしたい。
 基本的な認識のために、具体例を一つ検討する。まず応神紀(応神)七年にある、「高麗、百済、任那、新羅が遣使」という記事と、応神紀(神功)二八年に高麗使が来たという記事ならびに、応神紀(成務)三九年に「百済王その妹新斉都媛を倭王に遣わす」という記事であるが、これは同一の年の史実をいうであろう。
 いずれも西紀四二八年であり、任那と新羅はようすが分からないが、百済はその前年(四二七)に眦有王が立ち、翌年すなわち四二八年当年に、「倭使来」と記されている。この倭使は新斉都媛を迎えるためである。
 高句麗は倭が半島に登場する三六〇年代から、倭に対する認識があったと思うが、敵対関係に入ったのは広開土王の登場する三九〇年代からであろう。敵対すると同時に倭・百済対高句麗・新羅という図式ができたとみられるから、この時期のみならず、その後の世紀後半までは、高句麗使や倭使が互いに往来する可能性は、極めてすくないとみられてきた。
 それでなお、高句麗からの遣使があり得るとすれば、唯一この時期にかぎられると思う。すなわちその前年の四二七年、高句麗の長寿王が、重代の王都集安を捨てて平壌に遷都した。時に中国北部は北魏の勢いが強く、高句麗は中国東北制覇の野心を捨てて、半島に根を下ろすこととしたのである。
 帯方界すなわち百済の地は、これをいずれは併呑するつもりとして、とりあえずその先の倭を見ておきたかったのであろう。応神七年・神功二八年・成務三九年が全くの同年である理由でもある。
 応神紀は基本的にそうした複合紀年からできている。しかも雄略紀と同様極めてシンプルで、基本に忠実に書かれている。
 さてこの章の本題だが、成務・仲哀・神功・応神の四王をカバーする応神紀のなかで、その一部を占める神功紀を並行してみる時、ここに神功と応神の治世が連続しないという事態が出現する。
 その詳細をみてみよう。神功紀は、西紀三二一年を摂政元年として始まり、治世六九年を経て西紀三八九年に没する第一紀と、成務元年(三九〇)を元年とする第二紀、事実上の摂政元年である西紀四〇〇年に始まり、治世九年を経て西紀四〇九年に没する第三紀の、三つの紀年が存在した。
 第一紀は愨徳から考昭・考安・考霊・考元・開化・崇神・垂仁・景行にいたる九王の治世をカバーし、うちその三九年(西紀三五九年)等の一部は二運一二〇年を遡って、倭女王卑彌呼に仮託されている。
 第二紀は成務の立太子没年と神功六二年(三九一)条のためで、成務紀を仮託している。第三紀が実質の神功紀で、その摂政前記年(四〇〇年)から、元年・二年・三年・五年の記事で終わっている。記事はその後神功一三年にとび、つづいて三九年にとぶ。問題はこの一三年だが、第三紀に属することは異論の余地がない。内容は王子誉田別の敦賀訪問である。
 しかしながら、神功の治世は九年(六九年)であった。この種の文法に異を唱えることはできない。神功は摂政九年に没し、その一三年にはいなかった筈である。
 一方、神功紀の第一紀の終末西紀三八九年の後は、再びこれを三九〇年からはじまる応神紀がカバーしている。このあたりは実に緊密にできているというほかはない。応神紀は三九〇年の成務元年から、仲哀・神功・応神の四王の治世を記録するが、神功紀(第三紀)とは、当然のことながら西紀四〇〇年から同四〇九年までが重複することになる。
 すると当面の問題となるのが、応神の即位元年が西紀四二二年とみられる事実である。応神紀(神功)二二年三月、「難波大隅宮」と書かれている。遷宮を記録することがない応神紀に、この年はじめて宮城があらわれる以上、遷宮元年という書紀の文法から、この年がかならず応神即位元年でなければならない。
 すると神功没年の西紀四〇九年から、応神元年の四二二年までの二四年間は一体誰の時代であったであろうか。三〇九年に一〇歳であった応神が太子のまま親政することはありえない。
 いくつか疑問があるが、第一の疑問は、応神が嘱望された太子であって、その即位が成年を待ってのことであるなら、すくなくとも一八歳で即位するのが当然であろう。書紀の記録する応神の誕生は新羅征討の年、西紀四〇〇年である。応神即位とみられる四二二年には、応神はすでに二三歳になっている。嘱望された太子として王位を継ぐなら遅すぎる。
 応神の即位が書紀の編者の記録に反して、応神紀二二年でなかったか、応神紀二二年が神功二二年でなく、成務二二年、あるいは仲哀二二年であったかという議論になるが、成務二二年は西紀四一一年(応神一二歳)、仲哀二二年は四一三年(応神一五歳)または四一五年(応神一七歳)である。
 応神二二年が実仲哀紀に該当するとすれば、文脈は穏当になろうが、応神二〇年代が実神功紀でできているという、基本的文法にもとることになる。
 応神が四〇〇年に生まれていず、もっと遅かったのかという反問もありえる。もっともこの場合は応神の胎中天皇という伝承そのものの疑義につながる。
 第二の疑問は、摂政称制というのは、前提に大王の存在がなければならないのではないかという疑問である。摂政は天智や聖徳の例をみるまでもなく、大王同等の大権に違いないが、いずれもこれを委ねる大王がいた。
 また大和の大王氏はそれまで一四代を経るが、女王を立てることも、幼少の王子を立てることもなかった。それでなお、神功の背後には太子たる応神しかいず、くわえて神功亡き後に王位の不在という事態があったのなら、これらは現実には起こり得ることではない。
 すなわち神功の摂政と応神の親政という文脈はくつがえり、論理的な結論は一つに収斂する。神功と応神の栄光のために、あえて記録されなかった大王が一人いた。彼が神功の不確定な摂政を補い、かつ神功と応神治世の間にある空白を埋める。
 この謎の大王を特定したい。
 候補はいくつかの条件から類推するしかないが、おそらくは成務・仲哀・神功と同世代でかつ王位を継げる条件をもつ人物は、大王であった景行か倭建の王子である筈である。そのうち景行と大中姫の子である香坂・忍熊はすでに滅びている。
 景行か倭建の王子で、香坂・忍熊とは異なった母系の血をもち、なおかつ神功が香坂・忍熊を攻めた時、これに中立でなくむしろ荷担した某王子がいた。たぶんその互いの協定によって神功と応神が大和に入ることができた。
 候補ははおそらく唯一人しかいない。五百城入彦である。

前九年の役との類似β

 五百城入彦は景行の時代、景行がともに立太子した三人の王子の一人であった。倭建だけは景行の異母弟であるから、全体の文脈には微妙なものがあるが、三立太子の伝承するところは意味深長である。
 倭建は王位につかなかった。しかしながら前に述べたように、とくに「東国将軍」の位をもった云々は、独立国の王を示唆するのである。
 成務は正しく王位を継いだ。わずか治世四年で没したが、その二年(西紀三九一)、半島に出兵して新羅を攻めた大王こそ成務で、そのために稚足彦と謚される。ちなみに開化がその父考元(大日本根子彦)の王子として稚日本根子彦と謚されているのと似る。
 五百城入彦はその成務の同母弟であった。


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  書紀                        古事記 
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  景行                        景行
   |                           |
   +------------稚足彦         +------------若帯日子
  八坂入媛      五百城入彦    八坂入日売    五百木入日子
   |            忍之別         |            押別
   |            稚倭根子       +            五百木入日売
   |            大酢別        一妾
   |            淳熨斗皇女     +------------豊戸別
   |            淳名城皇女     +            沼代郎女
   |            篭依姫皇女    一妾
   |            五十狭城入彦   +------------沼名木郎女
   |            吉備兄彦       |            香余理比売
   |            高城入姫       |            若木入日子
   +            弟姫           |            吉備兄日子
   水歯郎媛                    |            高木比売
   +------------五百野姫       +            弟比売
                              訶具漏比売
                               +------------大兄

 五百城入彦が、この某倭王であるという証拠はない。ひたすら帰納的な推論にすぎない。
 それでもこの某倭王については、そう推測すべき余地が多々ある。たとえば河内にもっとも早くに出現する、津堂城山古墳はこの王のそれではないかと思う。これは河内の草創者ということにもなる。応神から後の王との血縁的なつながりが考えられる。
 五百城入彦の名称の意味という問題もある。治世のなかばにあたる応神の敦賀参拝という謎の記事と、おそらくもかかわりがある。


 成務紀・仲哀紀・神功紀・応神紀年譜
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 干 支 西暦  成務
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 庚 寅 390     1                     成務元年             
 辛 卯 391     2     仲哀            襲津彦伐新羅(神功62) 
 壬 辰 392     3       1            辰斯没、阿花立       
 癸 巳 393     4 *     2   仲哀敦賀 成務没               
 甲 午 394     5       3   1                              
 乙 未 395     6       4   2         百済人来朝           
 丙 申 396     7       5   3         武内宿禰行筑紫       
 丁 酉 397     8       6   4                              
 戊 戌 398     9       7   5                              
 己 亥 399    10       8   6        仲哀儺県、伐熊襲     
 庚 子 400    11       9   7 * 神功  仲哀没、神功伐新羅   
 辛 丑 401    12                   1 神功伐二王子         
 壬 寅 402    13                   2                      
 癸 卯 403    14                   3 遣襲津彦加羅         
 甲 辰 404    15                   4                      
 乙 巳 405    16                   5 襲津彦帰新羅王子逃亡 
 丙 午 406    17                   6                      
 丁 未 407    18                   7                    
 戊 申 408    19                   8                   
 己 酉 409    20         神功没  9 某倭王            
 庚 戌 410    21                  10   1                  
 辛 亥 411    22                  11   2                  
 壬 子 412    23                  12   3                  
 癸 丑 413    24                  13   4 敦賀参拝         
 甲 寅 414    25                  14   5                  
 乙 卯 415    26                  15   6                  
 丙 辰 416    27                  16   7                  
 丁 巳 417    28                  17   8                  
 戊 午 418    29                  18   9                  
 己 未 419    30                  19  10                  
 庚 申 420    31                  20  11 日向            
 辛 酉 421    32                  21  12         応神  
 壬 戌 422    33 難波大隅         22  13 髪長姫        1  
 癸 亥 423    34         秦氏渡来 23  14 百済送縫女    2  
 甲 子 424    35                  24  15 阿直支来      3  
 乙 丑 425    36                  25  16 王仁来        4  
 丙 寅 426    37                  26  17               5  
------------------------------------------------------------

 神功と応神の治世の間にある空白の二四年間は、五百城とみられる某倭王の存在の有無の問題だが、つまるところ神功の摂政称制のありかたの問題でもある。
 これを鳥瞰的に了解するために、後世の例を一つ挙げておきたい。奥州「前九年の役」である。
 一一世紀、奥六郡といわれた、衣川以北の岩手北上川流域一帯は、京の朝廷が任官する「奥六郡の司」安倍氏の支配の下にあった。半独立国だが、朝廷の機構の一部に組み込まれてはいた。その北方はいまだ蝦夷の播拠する地域であり、西方は、出羽の三郡といい、「山北の俘囚の主」清原氏の支配する地域であった。衣川以南はむろん朝廷の版図で、国府多賀城に陸奥守が在勤していた。
 前九年の役は、時の安倍氏の当主安倍頼時に専横があり、前陸奥守に替わって、源頼義が陸奥守兼鎮守府将軍として着任することからはじまる。
 安倍頼時の嫡男貞任が暴虐を理由に処罰されそうになって、安倍一族が反旗をひるがえし、源頼義は坂東の武士を糾合してこれを討とうするが、安倍頼時の女婿であった藤原経清が安倍に荷担するに及んで、戦線は膠着状態になった。
 この時登場する藤原経清が、後の奥州平泉藤原氏の開祖となるは藤原清衡の父である。国府多賀城の武官であったが、早くから土着することがあって、安倍頼時の女を娶っていた。
 時に安倍頼時は戦死するが、その子貞任がこれを継ぎ、いくどか源頼義の軍をうち破る。一〇六一年、業を煮やした頼義は、出羽「の俘囚の主」清原武則を甘言で味方に引き入れ、鎮守府将軍軍を圧倒する清原の武力で、翌一〇六二年、安倍氏の本拠厨川を陥し、ここに「六郡の司」安倍氏を完全に滅ぼし、安倍の同盟者藤原経清も殺害した。戦闘が九年にわたったため前九年の役という。
 論功により、出羽の清原氏は本拠地に加え「奥六郡」も併せ、いわゆる奥羽を統合する巨大な勢力となった。当主は清原武則、次いでその子武貞が地位を継ぎ、その後二〇年間、奥羽一帯は清原武貞の下で安定する。
 清原武貞は戦後、奥六郡の懐柔のため、生き残った藤原経清の妻で安倍頼時の女(安倍貞任の妹)を妻として娶った。
 ここから清原氏の複雑な内攻が起きてくる。
 清原武貞にはもともと一妻があり、長子真衡があった。安倍女からも一子家衡が生まれたが、安倍女にはすでに藤原経清とのあいだに一子清衡が在った。安倍女は連れ子で清原武貞に嫁いでいだのである。
 ともに清原武貞の子として育てられたが、年齢は、真衡・清衡・家衡の順であったと思われる。正嫡は真衡であったが、真衡没後は家衡が候補とみなされたのは、安倍女の「奥六郡」の正統の血の由縁であろう。ひるがえって、そこに後の藤原清衡の正統性もあった。

 女
 |
 +-----------清原真衡
 |
 清原武貞
 |
 +-----------清原家衡
 |
 安倍頼時女
 |
 +-----------藤原清衡
 | 
 藤原経清

 後三年の役は、この三人がすでに成長していた一〇八三年、源頼義の嫡子源義家が陸奥守として赴任することからはじまるが、直接的には清原氏の内部の腐敗と内攻が契機になった。
 またかっての清衡の父藤原経清への情誼があったために、源義家はその子藤原清衡に肩入れする。
 陸奥守義家は、このためまず清原真衡を滅ぼし、奥六郡を二分して清衡と家衡に配した。すでに清原一族の当主である家衡はこれを不服として挙兵、一〇八六年義家の猛攻のまえに陥落、清原一族はここに滅亡する。
 源義家のこの後三年の役は、結果として公には認められず、私戦ということになった。陸奥守の任期も切れ、源義家は失意とともに京に帰るが、出羽三郡・奥六郡の全てが、唯一人残された藤原清衡の手元に残された。奥州平泉藤原三代の栄華がここから始まる。
 長く引用したが、神功と応神の大和帰還における状況が、丁度この安倍女と清衡のそれと似ていると思う。
 とくに前九年の役において、安倍氏と清原氏がともに奥羽の王家として、かつ安倍女が安倍氏の一族と婚して清衡を生んでいれば、この二つの連れ子の話は、細部まで酷似するといっていい。
 神功は応神を連れ子に、このような状況の下、大和の継承権をもつ五百城入彦に嫁いだと思う。
 現実的な権力を握ったのがどちらかというのは、時の双方の世論の力関係によったであろう。書紀はあきらかに神功がこれを略取したとみなしている。そのために神功は摂政称制し、五百城は即位のみならず存在すら記録されなかった。
 客観的にみても状況は神功に有利であったと思う。画期の新羅侵略の事績が、神功を一代の英雄に押しあげていたであろう。その将軍武内宿禰も景行以来の元勲として、朝廷における発言権があった筈である。
 「五百城入彦」の謚もまた示唆的に思える。
 微妙なバランスの上に立ったこの大王は、実は全き正統な大王であった。おそらく神功摂政称制元年に即位したに違いなく、神功亡き後、なお二四年間の治世を経ながら、たぶん穏やかに神功の子応神に大王位を譲った。その事績も、おそらく直接伝えられないだけに、幾人かの大王の事績に加上されているのに違いない。
 それでも大王としてのスタンスは、神功に一歩を譲ったものであったと思う。すなわち五百城入彦の謚の現実的な意味は、「気長入彦」であろう。神功の後添えの夫としての立場が、そのまま後世からの謚となったのである。

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