第一章 気長足姫β

第三節 舒弗邯・昔于老β

于老伝承β

  三国史記「列伝」から、于老伝承(概略)を引用する。

  沾解七年、癸酉、倭国使臣葛那古在館、于老主之。与客戯言。早晩以汝王為塩奴、王妃爨婦。         
  倭王聞之怒。遣将軍于道朱君討我。大王出居于柚村。
  于老曰、茲之患、由吾言之不慎。我其当之。
       
  遂抵倭軍謂曰、前日之言戯之耳。豈意輿師、至於此耶。
  倭人不答。執之、積柴置其上、焼殺之乃去。  
                 
  味鄒王時、倭国大臣来聘。于老妻請於国王、私饗倭使臣。及其泥酔、使壮士曳下庭焚之。以報前怨。         
  倭人忿来攻金城。不克引帰。

 于老ははじめ伊干于老といい、これは新羅第二等官を意味する。のちに舒弗邯于老となるが、これは伊伐干や角干と同じく第一等である。倭や高句麗と戦いよくこれを撃退した。
 あるとき倭国の使臣が来たとき、戯言に倭王と王妃を侮蔑することがあった。倭王は激怒し将軍于道朱君を派遣してこれを問責した。于老は礼をつくしてなだめたが、倭人は聞きいれず、于老を捕らえて柴を積んでその上におき、焼き殺して去った。
 後日談に倭国の大臣が来たとき、于老の妻が欺いて泥酔させ、庭に曳きだしてこれを焚き殺した。倭人は憤って金城を攻めたが、克ずにひき帰したという。
 于老がかかわった戦闘はいくつもあるが、順を追ってみれば、まず奈解一四年の浦上八国乱である。これは弁韓の倭人の邑らしい八国が、加羅を侵略しようとしたので、加羅が新羅に救援をもとめ、これを受けた新羅王が、「太子于老與利音」に命じて、加羅を援け八国を討伐したという。列伝では「王孫奈音」に命じたと書く。
 つぎに助賁四年で、倭人と沙道に戦うという記事、さらに助賁一六年には、高句麗と戦いこれを退けている。
 この間助賁二年には「大将軍」となり、助賁一五年には、舒弗邯(第一等官)となり兵馬の知を兼ねた。
 列伝の于老の記事は上につきるが、三国史記「本紀」の記事は概略つぎのようである。


   奈解立  (196)  伐休13                         奈解1*376
        4年      *済侵境                              *379
        6年(201)  加耶講和                            *381
        9年(204) *済来、命王子利貴伐済                *384
       12年(207)  王子利音伊伐干                      *387
*       13年(208) 倭人犯境                            *388
*       14年(209)  浦上八国乱(于老太子)                *389
       17年(212)  加羅王子来質                        *392
       25年(220)  利音卒、忠萱為伊伐干   伐休25 *388
       27年      *済来侵                        *390
       29年      *大破済                        *392
   助賁立  (230)  奈解35                       利音1  *387
        2年       以于老為大将軍                   2  *388
**       3年(232) 倭人犯至囲金城。王親出戦     于老1  *389
*        4年(233) 于老伝承(伊食于老与倭人戦沙道) 2  *390
       11年      *済侵西辺                     奈解11 *386
       15年(244)  于老舒弗邯                   奈解15 *390
       16年(245)  麗侵于老戦                       16 *391
   沾解立  (247)  助賁18                       于老1  *389
***      3年(249) 倭人殺舒弗邯于老             于老3  *391
***      7年(253)  于老伝承(于老与倭国使臣葛那古戯言。
             倭王怒遣于道朱君討伐、焼殺于老乃去
                                    利音7 *393 -2*391

 記録上の係年は数十年にわたっているが、事実は数年の間の出来事であろう。大将軍でありながら、伊C(第二等官)と記録されるとか、おそらく兄とみられる利音の事績と混同がありそうなのも気になるが、係年があきらかになれば、解消することかも知れない。
 奈解紀がこの時代、穏当な係年をもつと仮定すれば、浦上八国の乱のあった奈解一四年は三八九年、奈解の後という助賁・沾解の治世下になる、于老の戯言と殺害の年は、おそらくその数年後であろう。その間に、于老が倭人と沙道で戦うという記事、また高句麗との戦闘記事が入ることになる。
 于老の妻の復讐は于老の死の直後で、復讐の結果「倭囲金城」の記事があらわれるから、これと助賁三年の「倭囲金城」の記事は一見同一記事かと思ってしまうが、于老の死と金城記事の順が逆になるから、別の二つの記事であろう。
 ただ「倭囲金城」という重大事がそう度々起こったというのは、疑念が残る。
 事件の大まかな流れは、つぎのような経過をたどたと思う。

  ○○○年    倭囲金城 
  三八九年   浦上八国乱 
   ○○○年  于老与倭国使臣葛那古戯言。倭王
               怒遣于道朱君討伐、焼殺于老乃去 
    ○○○年  于老妻騙倭国大臣以焚殺之倭人犯至囲金城 
   ○○○年    倭囲金城 

 これ以上は、係年の体系的な復元が必要になるが、これら全体の記事が、三八〇年代後半から三九〇年代前半までの出来事であるとすれば、この時期の新羅は、北は高句麗を伐ち、西は百済と争い、南は倭と衝突しつつ、一時期はすべてを呑み込んでしまうほどの勢いがあったことになる。
 新羅はすでに領域国家であった。そして昔氏新羅のこの勢威を代表する人物が、ほかならぬ昔于老であった思う。

宇流助富利智干β

 昔于老については書紀も語っている。
 神功摂政称制前紀年(三九九)における「新羅征討記事」、その「一書(別伝)」である。

 即ち皇后、男の束装して新羅を征ちたまふ。時に神留り導きたまふ。是によりて随船浪、遠く新羅国の中に及ちぬ。是に、新羅の王、宇流助富利智干、参迎へて跪きて、王船を取へて即ち叩頭みて曰さく、「臣、今より以後、日本国に所居します神の御子に、内官家として、絶ゆることなく朝貢らむ」とまうす。  一に云はく、新羅の王を禽獲にして、海辺に詣りて、王の臑筋を抜きて、石の上に匍匐はしむ。俄ありて斬りて、沙の中に埋みつ。即ち一人を留めて、新羅の宰(使臣)として還したまふ。  然して後、新羅の王妻、夫の屍を埋みし地を知らずして、乃ち宰に誂へて曰はく、「汝、当に王の屍を埋みし処を識らしめば、必ずあつく報いせむ。且吾、汝が妻と為らむ」といふ。  是に、宰埋みし処を告ぐ。即ち王の妻と国人と、共に議りて宰を殺しつ。更に王の屍を出して、他所の葬る。  是に、天皇聞こしめして、重発震忿りたまひて、大きに軍衆を起したまひ、頓に新羅を滅ぼさむとす。(略)是の時に、新羅の国人悉に懼りて、不知所如。即ち相集ひて共に議りて、王の妻を殺して罪を謝ひにき。

 この一書の記事が、新羅城入城などの内容を含まないことに、留意しておきたい。これを留めてあらためて神功紀をみると、神功の新羅征討で語られるべき新羅王は、書紀神功即位前紀(四〇〇年)「本文」の「波沙寐錦」にほかならない。書紀は波沙寐錦とは異なる伝承であった宇留助富利智干の事件をもまた、神功の事績に仮託した。そのために宇留助富利智干も新羅王と記すことになった。
 于老が王か臣かという点を捨象すれば、書紀と三国史記の書紀の于老の記事は酷似する。  宇留助富利智干の挿話は、この時代の対新羅関係事項のなかで、四〇〇年の次ぐ、重要かつ巷間に流布した事件であった。幾度も述べるが、半島の事績をすべて神功に収斂させた書紀の編者にあっては、この記事は一書・別伝で挿入されなければない記事であった。
 その時代は神功の少し前なのである。この背景を明らかにすれば、この一連の文脈もまたよく理解できる筈である。
 三国史記の書く于老の讒言は、根拠があるであろう。建国してまもない新羅にして、倭も百済も一挙に制覇してしまおうという気迫があった。ただそのとき新羅にあった倭の使臣が、どういう立場で何の目的でそこにいたかという理由が問われなければならない。
 その鍵が「浦上(からさし)八国の乱」である。
 奈解一三年条の「倭人犯境」という記事の後、同一四年条に次のような記事がある。列伝にも同様な記事がある。

    
   (羅紀本紀) 
    時浦上八国謀侵加羅。加羅王子来請救。王命太子于老与
    伊伐干利音、将六部兵往救之。撃殺八国将軍、奪所虜六
    千人還之。    

      (羅紀列伝)勿稽子伝承
       (略)時八浦上国同謀伐阿羅国。阿羅使来請救。尼師今
       使王孫奈音率近郡及六部軍往救、遂敗八国兵。

 浦上八国とは、のちの任那の地に独立していた都邑国家の連合で、書紀には推古八年(六〇〇)の記事に、この年浦上八国が既に新羅領となっていた加羅を攻め、新羅と攻防に入ったとあり、これを機に大和では任那援助のための半島出兵が計画された。三国史記もこれを記録する。
 奈解一四年(三八九)の加羅救援のための出兵が、やはり浦上八国乱というのは、六〇〇年のそれと関係があるであろうか。直接的なかかわりはなかったと思う。後世のこの記録から、似たような状況で起こったこの戦闘をこう言い習わした。前後する時代において、浦上八国に関する記事はほかに見ることがないから、これは別の事件に違いない。後世からは参照なのであって仮託ではないと思う。数一〇〇年をさかのぼって史実を仮託することは不自然である。
 この任那の独立勢力については、すぐには決めつけないでおくが、ある程度の輪郭は抑えておきたい。  たぶん斯摩宿禰以来、半島に初めてかかわりをもった倭人たちが、四世紀のたぶん七〇年代から、ぽつぽつと土着していった。その現実的な理由は、いわゆる弁辰の鉄の交易のためであったと思う。またその先頭を走ったのは、斯摩宿禰すなわち武内宿禰の家の子郎党、および一族・同族の類であろう。古代の東征・西征の例がらして、切り取ったものがその土地を宰領するのである。大王家には直接的な権限がない。
 しかしながらこれも任那の全貌の一部で、一部に過ぎないと思う。以外に斯摩宿禰の半島進出にかかわった、周防や北九州の倭人がいたであろう。対馬海峡を舞台とする倭寇の流れも加わっていたかも知れない。
 一方、倭人の登場に触発された加羅人のなかからも、組織的な芽生えがあった筈である。交易の拡大にともなって、これらの倭人と現地の加羅人の交流が、定住・雑居というかたちで新しい都邑をつくっていった。混血児も生まれる。倭からは韓子と呼ばれるが、加羅からは倭子と呼ばれたであろう。
 それらの総体が任那、あるいは加羅南端・臨海の地一帯に播拠したのだと思う。
 ところでこの時、これら新参の都邑の首長においては、その権利の根源は、便宜上氏族でなく現地の実力者でもなく、倭国という国家に預けておくことが得策である。従来の権威とは異なる新組織は、加羅の地のみならず隣接する新羅や百済とも競合しざるを得ない。
 つまり倭国ないし大和が、半島・任那に対して継続的な権利の主張をしたきた経緯には、任那の誕生にともないその端緒をつけたという事実と、支配は直接することはないが、宗主権は形式的かつ伝統的にもつと主張する立場があったためである。
 浦上八国乱の伝承は、つまるところ加羅地方に興った、倭人・加羅人の新興の都邑(便宜上任那と呼ぶ)と、丁度膨張しはじめた新羅とのあいだで、ここで初めて衝突が起こったことをいう。任那が周辺領域ばかりでなく、新羅国境にまで進出しつつあったかも知れない。加羅国が新羅の救援を求めたというのは、本来の加羅諸国のことに違いないが、その盟主であった金官国がこれを収拾できず、新羅に救いを求めたのである。金官国でなく弱小の加羅諸国が、急激に勢威の高めていた新羅に頼ったという文脈もありえる。
 新羅はこれをてひどく叩いた。その自信のあらわれが倭の使臣の新羅訪問と、これをあしらう于老の戯言であろう。この戯言は「早晩以汝王(倭王)為塩奴、王妃為黶奴」という、自負の迸るものであり、新羅がときに勢威と実力に強い矜持をもっていた実情を示唆する。

幻の任那派遣β

 さて、この于老伝承に登場する倭人は二名である。倭国使臣という葛那古と問責のために派遣された将軍于道朱君である。ここから倭の当時の背景が紐とける。于道朱君の于道は簡単で、要するに「宇治」であろう。「朱君」の意はこれをふつうに解いた場合、結構大きな影響を及ぼす。
 朱君は「しゅくん」と訓むであろう。しかし朱は「す」とも訓み、漢代古音ではこのほうが適切ではないかと思う。藤堂明保氏の漢和大字典を参照されたいが、「すくん」である。そこから宿禰(すくね)へ至るのはほとんど一歩である。于道朱君は宇治宿禰であり、あとさきなくいってしまえば斯摩宿禰すなわち内宿禰(武内宿禰)その人であろう。
 葛那古は葛那子である。葛那はかや・から・あや・あら、と書かれる加耶・加羅・安耶・安羅の意であろうから、葛那子はさらに葛耶子となる。大和語でいえば加羅津彦ということになろうか。のちの韓子であり、倭人と加羅の女から生まれた子をいうが、要は加羅の地に武威をはった人の意である。
 もし于老の死後、その妻の復讐物語に出てくる倭の大臣もまた葛那古であれば、この人物は大和が浦上問題で在半島の実力者をそれに任命した、いわば副官のような存在にちがいない。任那に土着した土豪たちの代表であったであろう。
 書紀の記録はこの時代の半島について語らないが、示唆するところはいくつかある。武内宿禰の半島派遣がそれである。
 時代は景行紀の中である。斯摩宿禰の四世紀中葉以降、その亦名である武内宿禰の足跡は十分に追ってこなかった。ここで改めてみていこう。
 景行の時代、武内宿禰はとくにめだって活躍していないが、すこし疑念をもってみなければならない一連の記事がある。先に問題にした、景行二五年の二月一二日、武内宿禰をして東国に派遣したという記事である。武内宿禰はのべ三年東国を踏査して、二七年二月一二日に大和に帰還して景行に複命した。
 出立と帰還が同月同日である。先に指摘しておいたように、この「東国」には不審なものがあった。
 武内宿禰はおそらく西国に行った。そして西国はさらにまたその先に仮託され、つまりは半島に渡った。書紀が半島をして熊襲に仮託した例は、仲哀などほかにも前科がある。
 この場合景行二五年は、事実上崇神二五年すなわち西紀三七六年であった。その三年後の三七八年まで、武内宿禰は半島にいたと思われる。倭建もまたその二七年から熊襲の地に遠征し、翌二八年帰還している。三七八年から三八七年にかけてのことになる。三国史記にはっこれに該当する記事をみつけることはできない。
 できないが、この三七六年が昔氏の始祖王とみられる奈解の即位と記録される年である。そして翌三七七年、新羅の無名の王が中国に遣使している。三八二年に再び新羅王「楼寒」として朝貢している。いずれの新羅王も奈解のことであろう。
 一方倭建の東征は、景行四〇年から四三年にわたる。これは事実上考元紀であると思われるから、西紀三八二年から三八五年までである。ちなみに考元紀をもちいた他の例としては、成務紀に成務の立太子が景行の四六年であったと記録されることがある。これは景行紀ではその五一年と記録され、真っ向から食い違うが、前者の立太子没年(立太子の翌年)は考元紀四七年で、これは西紀三八九年にあたる。後者は考霊紀(垂仁紀)五二年で、西紀三八二年になる。この三八二年こそかならず倭建の没年であろう。
 そもそも景行紀には、事実上の景行没年が記述されていない。神功六九年(三八九)、すなわち神功紀に仮託されて記録されるのである。景行没という景行六〇年すら成務の没年を仮託したものである。
 さらにその後に、問題の景行東国巡行がある。
 景行五三年から五四年、つまり三八六年から三八七年である。そして五五年、景行は彦狭島を東国都督に任命するが、彦狭島は赴任せずして没し、翌五六年その子御諸別をたてて東国へ遣った。その年東国が騒いだが兵を送ってこれを討った。東国は恭順し、その領地を献じた。
 これらを一覧にする。 


------------------------------------------------------------
 西紀 神功紀(第1紀)  考霊紀(垂仁紀)  崇神紀(景行紀) 
 370        50                37 立太子         19 大和帰還
 371        51 斯摩派遣       38                20 五百野姫
 372        52 七支刀         39 石上           21         
 373        53                40                22         
 374        54                41                23         
 375        55                42                24         
 376*奈解1  56  考元          43                25 武内東国
 377 朝貢   57   35           44                26         
 378        58   36           45      倭建熊襲  27 武内帰還
 379        59   37           46      倭建帰還  28         
 380        60   38           47                29         
 381        61   39           48                30         
 382 朝貢   62   40  倭建東国 49                31         
 383        63   41           50                32         
 384        64   42           51      立太子    33         
 385        65   43  倭建没   52                34         
 386        66   44(成務元年) 53   景行東国巡幸 35         
 387 倭犯辺 67   45           54          帰還 36         
 388*       68   46 (武内大臣)55         彦狭島 37 東国都督
 389*浦上八国乱 神功没        56 景行没  御諸別 38 東国騒乱
 390 倭囲金城        成務元年 57 (田部・屯倉)(国造・稲城)
 391*于老 倭囲金城2 襲津彦新羅  近江高穴穂宮 (神功62年条)
 392             3           59
 393              4           60
------------------------------------------------------------
 

 ここに出る東国関係記事、とくに景行の東国巡業から東国騒乱までの記事は、特別に半島・任那にかかわることであった可能性がある。たとえば景行のそれは近江への出陣、たとえば東国の騒乱はすなわち任那の地に勃発した事件である。
 成務紀は三九〇年を元年とする治世四年であったが、その元年から五年までの記事はそのままではない。例示したように三八六年を元年とする記述になっている。これは景行が成務の治世もこれを景行が治世したように書くことと軌を一にするが、直接的には倭建没年の翌年を市的に元年としているのであろう。
 その示唆が成務の国造・稲置の設置と、景行の田部・屯倉の設置で、これは同一事項をいった。すると成務三年に武内宿禰を大臣としたという記事が眼をひく。彦狭島が東国都督となった年である。この成務三年は西紀三八八年か三九二年のどちらかであるが、むろん三八八年であろう。
 西紀三八八年、成務が武内宿禰を大臣とする理由はなんであろうか。成務の治世下ではないから、これは事実上景行が任命していることになる。彦狭嶋を東国都督に任命したのと同一時期である。
 そしてその翌年の三八九年、東国争乱が起こった。
 半島では浦上八国乱が起こった。
 ごく間接的かつおぼろげながら、三八九年から三九一年に至る三国史記と書紀との連動が見えてくる。
 解釈をさらに拡大すれば、そもそも成務の宮城がその二年(三九一)、近江高穴穂宮に移ったことに注目すべきであろう。遷宮は基本的に元年である。そうでなければ、践祚・即位がままならない。したがって成務はどこか、おそらく大和の添の佐紀の地にあって、この時半島に及ぼすべき決意をもって近江に移った。その理由が成務が「稚足彦」と謚される所以でもある。この文脈の正否は、要するにその宮城と謚の二つの相互関係に依存する。
 大和の勢威が高まりつつあった倭国は、すでに半島の権益を握っていた。直接でなくとも弁辰の鉄を交易するに足る権限である。それは斯摩宿禰以来、すでに二〇数年にわたる漸次の進出が生みだしてきたものである。  時に、新羅の急激な膨張があった。慶州の都邑国家でしかなかった新羅が領域国家として、弁辰の地と衝突しはじめたのである。
 浦上八国乱(三八九)に先立つ倭関係の記事が、奈解一三年(三八七)条に唐突に出る。
 「倭人犯境、遣伊伐C利音、将兵拒之」
 この浦上八国乱の二年前に記録されるこの記事が、この時期の倭と新羅との係争の嚆矢であった。ちなみに書紀では景行が東国巡幸へ立つ年である。
 先のように奈解紀にはこれ以前の倭関係記事がない。奈解の前王と記録する伐休治世の一〇年(三六九)、「倭人大飢、来求食千余人」という記事があるばかりである。つまり倭と、おそらくすでに朴氏の慶州ではない「領域国家新羅」とは、間違いなくこの時(三八七年)、初めて衝突したのである。

新羅の勃興β

 古代新羅の王家は朴氏・昔氏・金氏があったが、都邑国家とは峻別される領域国家新羅の初代の王は昔氏の奈解であった。史記の記録から推測されるその即位は西紀三七六年である。史記の王統系譜と係年がそれを示唆している。

<三国史記新羅本紀係年表>                     
============================================================
           |  三国史記新羅本紀          |  修正没年  
------------------------------------------------------------
  氏 王    |  即位西暦 |  係年 干支西暦 |  干支西暦 
           |  元年     |  没年 没年     | (修正即位)
============================================================
  朴 赫居世|  甲子 -57 |    61 甲子   4 |  +360 304 *324 
  朴 南解  |  甲子   4 |    21 甲申  24 |  +300 304 *364
  朴 儒理  |  甲申  24 |    34 丁巳  57 |  +300 324 *324
  昔 脱解  |  丁巳  57 |    24 庚辰  80 |  +300 357 *357
  朴 婆娑  |  庚辰  80 |    33 壬子 112 |  +240 320  
  朴 祇摩  |  壬子 112 |    23 庚戌 134 |  +240 352  
  朴 逸聖  |  庚戌 134 |    21 甲午 154 |  +240 374 
  朴 阿達羅|  甲午 154 |    31 甲子 184 |  +180 334 *334
  昔 伐休  |  甲子 184 |    13 丙子 196 |  +180 364 *364
  昔 奈解  |  丙子 196 |    35 庚戌 230 |  +180 376 *376
  昔 助賁  |  庚戌 230 |    18 丁卯 247 |  +120 350  386
  昔 沾解  |  丁卯 247 |    15 辛巳 261 |  +120 367  388
  金 味鄒  |  壬午 262 |    23 甲辰 285 |  +120 382 *382
  昔 儒礼  |  甲辰 285 |    15 戊午 298 |  +120 405 
  昔 基臨  |  戊午 298 |    13 庚午 310 |  +120 418  418
  昔 訖解  |  庚午 310 |    47 丙辰 356 |  +120 430  418
  金 奈勿  |  丙辰 356 |    47 壬寅 402 |       356**392
  金 実聖  |  壬寅 402 |    16 丁巳 417 |       402**400
  金 訥祇  |  丁巳 417 |    42 戊戌 458 |       417 *417
  金 慈悲  |  戊戌 458 |    22 己未 479 |       458 *458
  金 B知  |  己未 479 |    22 庚申 500 |       479 *479
  金 智證  |  庚申 500 |    15 甲午 514 |       500 *500
============================================================

 史記の王統譜のなかで実際の即位年が遡ることなく、記述通りまたは近似とみられるのは実聖からである。四〇二年、史実としては四〇〇年とみられる。
 実聖の前王は即位三五六年という奈勿であるが、この即位は新羅本紀の編年からするとあきらかに遠すぎる。奈勿の即位は実聖のそれをそう遡らない筈で、これも後に検証するが三九二年であったとみられる理由がある。
 奈勿以前に一運または二運を復元する係年のなかで、穏当な即位年をもつのは味鄒(三八二)と奈解(三七六)である。うち味鄒は奈勿の父といい金氏の初代王というのだが、史記の文脈からすれば金氏の初代は奈勿にちがいなく、味鄒はその父兄の一人として実在するとしても、即位した王ではなかったと思う。
 残る一人が奈解にほかならない。
 即位が三七六年というのも穏当な記録で、奈勿の前王の即位年にあてはめるにふさわしい。史記の編者は本来の記録から、まず実聖と奈解の即位年を基盤において、その間に味鄒以下昔氏の王の存在と治世を挿入したものと思われる。
 ちなみにこれも後に検証するが、奈解の後の助賁・沾解は奈解の子の利音・于老とみられ、儒礼・基臨・訖解は後の金氏の実聖・訥祇の仮託とみられる。
 さて奈解である。
 奈解以前に伐休・脱解などの昔氏の王が記録され、それぞれの即位は西紀三六四年・三五七年とみられるが、文脈からすればいずれも父兄にあたる存在で、おそらく即位したのではない。その係年も昔氏の前代である朴氏・金氏からの仮託ではないかと思う。
 すると昔氏が新羅に入った時期はいつかという問題があるが、それも特定できそうな根拠がいくつかある。とりあえず検証は後としたいが、これは西紀三七〇年前後のこととみなすべき理由がある。
 さて奈解は即位後のこの時期、中国に朝貢している。西紀三七七年と三八二年の二回である。うち記録に残されている三八二年の新羅王「楼寒」は奈解のことであった。
 奈解の「奈」は「利」と通音である。したがって奈解は利解ともいい、「解」は「干」にほかならないから、さらに「利干」ともいう。これが「楼寒」と訳されたのであろう。
 ひるがえって武内宿禰が東国に派遣された景行二五年は、奈解即位とみられる西紀三七六年である。武内宿禰はその三年後の景行二七年(三七八)に帰還した。  奈解以降の昔氏の系譜もある程度は把握できる。意図も汲める。王代は以下のように続いたとされるが、うち助賁・沾解・基臨・訖解は実在するが、即位はしなかった王族であろう。
 間に金氏の味鄒が入っているが、これも即位はなかったと思われる。金氏の始祖王は奈勿で、昔氏の奈解からこれをひき継いだ筈である。 

 
  昔 伐休  |  甲子 184 |    13 丙子 196 |  +180 364  *364
  昔 奈解  |  丙子 196 |    35 庚戌 230 |  +180 376  *376
  昔 助賁  |  庚戌 230 |    18 丁卯 247 |  +120 350 
  昔 沾解  |  丁卯 247 |    15 辛巳 261 |  +120 367 
  金 味鄒  |  壬午 262 |    23 甲辰 285 |  +120 382 
  昔 儒礼  |  甲辰 285 |    15 戊午 298 |  +120 405 
  昔 基臨  |  戊午 298 |    13 庚午 310 |  +120 418 
  昔 訖解  |  庚午 310 |    47 丙辰 356 |  +120 430 
  金 奈勿  |  丙辰 356 |    47 壬寅 402 |    +0 356  *392 

β  NEXT   
Copyright (C) 住吉十楽 . All rights reserved.