第一章 気長足姫β

第二節 新羅侵略β

新羅征討の真実β

 書紀と古事記が英雄として記録するのは、あきらかに神武と倭建(日本武尊)、気長足姫の三人である。それぞれスタンスは微妙に違うが、とくに後の二者については、広く巷間に流布された匂いが強く、連続した二世代ということもあって、つねに一体で語り継がれてきた感じがする。
 その気長足姫の話そのものは、いかにも典型的な古代英雄潭に過ぎない。仲哀の后として熊襲征伐に向かったが、熊襲にかかわらず黄金の国新羅を攻めよという神託があり、仲哀はこれを信じず神霊にうたれて死んだ。気長足姫は神託を信じて、仲哀の喪を秘して熊襲を平らげ、その足で新羅に攻め入った。王城を落とし新羅王を降伏させて、その王子を人質にして筑紫に凱旋した。
 この文脈に唯一動機が語られるとすれば、神託しかないが、むろんそうなのではない。新羅城まで攻めこむという神功のエネルギーは、前後の文脈からして常軌を逸しているようにみえる。行動に異常がみられる。だからこれに史実がふくまれるとすれば、必ず然るべき理由がなければならない。
 黄金の国は鉄を出す国であり、気長足姫の動機はその交易の権益を奪うことにあった。その権益は世々筑紫にあり、時の大和の政権にあっては、間接的なものでしかなかった。ようやく懐柔しつつあった九州の倭人を通じてする、いわば部外者のそれに過ぎなかった。
 だから気長足姫の行動は、これとは一線を画すであろう。ありうべき唯一の動機は、すなわちその母の血に由来した。斯摩宿禰が娶り、気長足姫の母となった弁辰の血筋であり、気長足姫はこの血筋の故に、新羅の弁辰の地における專往に対して強固な権利の主張ができたのである。それが神功の、不可解にして異常なエネルギーについての解であると思う。
 したがってこの、古代においてもっとも人気の高かったに違いない英雄潭が史実であったのかどうかを、批判してみなければならない。
 史実であったと思う。
 文脈というものは、結局は関連事項で構成される一括りの方向性をいうであろう。この点で気長足姫が例えば後の斉明の仮託であるというような場合、そこにはっきりした段階的な類似があれば迷う必要もない。しかしそうではない。斉明は新羅征討を指揮したが、そこに乗りこみはしなかった。
 気長足姫の特異性は、敵地を踏むのみならず、その城内に入って倉を封じたと記録されている点である。まぎれもない侵略である。景行と成務、そしておそらく仲哀の治世における半島の事績を、一身に神功に収斂させた書紀の編纂の趣意は、したがってこの嚆矢にして、二度は数えることのなかった対外侵略の画期性に由来するのでなければならない。
 いいかえれば、景行以下応神にいたる諸王たちのなかで、神功にまさる半島への事績は誰もこれをもたなかった。あわせて「足」の和風謚をもつ大王は、神功ほどではないが何らか半島へかかわりをもった王であったと言いきれる。景行・成務・仲哀・神功の四王である。
 うちこの謚をもちかつ半島の事績が語られないのは、景行・成務・仲哀の三王にのぼる。書紀の編者の意図が、徹底性にここに反映するとみなすべきであろう。
 うち景行が如何に半島に深く関ったかについては、すでに述べてきた。成務と仲哀についても強い可能性を述べてきた。過不足はあるやも知れないが、すくなくとも書紀の編者が熟知していた内容は、その全貌を復元できたと思える。
 これらを含め、その実態を、半島の史料をもって検証してみよう。
 この時代の史料としては、むろん三国史記があり、加えて特異な高句麗の広開土王碑文というものがある。

広開土王碑β

 この碑文は、諱を談徳といい、在位中(三九一〜四一二)永楽の年号を用いたために永楽大王といい、没後謚されて広開土王あるいは好太王といった高句麗王を顕章するもので、その没二年後の四一四年に、後を継いだ長寿王によって建てられた。
 まったくの同時代史料であり、その価値は他の追従を許さない。碑文は三段に分かれ、一段は高句麗の始祖および碑の由来、二段は広開土王の事績、三段は守墓人についてであり、史料として注目すべきは第二段である。
 うち百済、新羅および倭にかかわる記事としては、次の六条がある。

 
    永楽元年(三九一)
      百済新羅舊是属民、由来朝貢。而倭以辛卯年来渡海
      破百残**新羅、以為臣民      
      
    永楽六年(三九六)
      伐百済。為質王弟並大臣一〇人
      
    永楽九年(三九九)
      百済違誓輿倭和通、王巡下平穣。而新羅遣使曰王云
      倭人満其国境
      
    永楽一〇年(四〇〇)
      教遣歩騎五万、往救新羅。至新羅城、倭其中満
      昔新羅*錦未有身来朝** 僕勾****朝貢
      
    永楽一四年(四〇四)
      倭不軌侵入帯方界。***倭寇大敗
      
    永楽一七年(四〇七)
      教遣歩騎五万、***(百済)合戦

 有名な「辛卯の年」は、来って海を渡り、というのではない。先学が指摘するように、「辛卯の年来、海を渡って」という意味であろう。従って、倭が百済(加羅)新羅を破った歴史的な事件は、辛卯年とその後の数年のあいだに起こった。
 この一連の記事をまず史記と対照してみよう。<広開土王碑・三国史記年譜>である。結果的には著しく相違する。史料の価値からして、この違いはひとえに史記の側にあると思う。

 

広開土王碑文・三国史記年譜
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干 支 西暦    広開土王碑  高句麗本紀  新羅本紀    百済本紀
  
庚 寅 390            済侵麗                  伐麗
辛 卯 391     倭渡破三韓  談徳即位
壬 辰 392                 送使羅修好  以実聖麗質  麗侵王没
癸 巳 393                 済侵南辺    倭囲金城    伐麗
甲 午 394                 済来撃破                輿麗戦敗
乙 未 395                 済来侵撃破              輿麗戦敗
丙 申 396     伐済及人質
丁 酉 397                                         腆支倭質
戊 戌 398                                         欲伐麗
己 亥 399     倭満羅国境                          欲伐麗
庚 子 400     救羅城中倭  遣使燕                           
辛 丑 401                             実聖帰還             
壬 寅 402                 攻燕        未斯欣倭質  遣使倭球
癸 卯 403                             済侵辺      倭使来   
甲 辰 404     倭侵帯方    侵燕                             
乙 巳 405                 燕攻麗      倭攻明活城  腆支立王 
丙 午 406                 燕襲麗                           
丁 未 407     伐百済                  倭来侵               
戊 申 408                             王欲襲対馬           
己 酉 409                                                  
庚 戌 410                                                  
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 この年譜にあらわれる事項のうち、特に戦闘の面に注目すれば、パターンは高句麗対百済、新羅対倭、高句麗対倭の三パターンしかないことが分かる。要は高句麗と新羅は友好関係、百済と倭も友好関係ということになり、高句麗・新羅対百済・倭という図式が成りたつ。
 一方戦闘の結果は、戦後処理の仕方ではかることができる。この点でもっとも明瞭な秤は人質の扱いかたである。質には二種あり、戦闘によって決定的に敗れ拉致される場合がひとつ、友好つまり援軍を求めるにあたってそれを入れる場合がひとつである。  前者の例としては、三九六年の高句麗の百済侵略がある。
 広開土王碑によれば、この時の高句麗の戦果は徹底的なもので、時の百済王阿華を降し、「王弟および大臣十人を捕虜」にして凱旋したという。
 しかしこの戦闘について百済紀はなにも書かない。無視している。

三国史記の編纂方針β

 百済紀は三九五年までは、毎年のように高句麗との戦いを記録しているから、この三五六年条と広開土王碑文との相違はきわめて極端なものである。同時代史料を尊重する立場から、これは碑文を了とすべきであろう。史記は理由あってこの歴史の流れを改竄した。矜持にもとる敗北はあえて記さないという、強い意志をもってそうしたのだと思う。
 してみるとこの丙申(三九六)の戦役は、高句麗の侵略による、百済の大敗であり、そしてその翌年の丁酉(三九七)条に百済紀が「腆支倭質」という倭への百済太子腆支の入質は、前年の役の結果、高句麗に対する報復のため倭に援軍を求めた事実をいうのである。
 百済紀はただ改竄したのではない。結果はきちんと記しながら、因果関係だけを作為したのである。そのために「王輿倭国結好、以太子腆支為質」とあるのだが、前後の事項とはむろん関連性をたもつことはできなかった。そもそも質という政治行為は歴とした動機がなければならないから、この辺りの史記の修辞のありようが分かる。
 資料は重複するが、わかりやすいように質をともなう史記の記事を括弧つきであげてみよう。

干 支 西暦    広開土王碑  高句麗本紀  新羅本紀    百済本紀
-----------------------------------------------------------
庚 寅 390                 済侵麗                  伐麗    
辛 卯 391     倭渡破三韓  談徳即位                        
壬 辰 392                 送使羅修好 (以実聖麗質) 麗侵済王没
癸 巳 393                 済侵南辺    倭囲金城    伐麗    
甲 午 394                 済来撃破                輿麗戦敗
乙 未 395                 済来侵撃破              輿麗戦大敗
丙 申 396    (伐済及人質)                                 
丁 酉 397                                        (腆支倭質)
戊 戌 398                                         欲伐麗   
己 亥 399     倭満羅国境                          欲伐麗   
庚 子 400     救羅城中倭  遣使燕                           
辛 丑 401                             実聖帰還             
壬 寅 402                 攻燕       (未斯欣倭質) 遣使倭求球
癸 卯 403                             済侵辺      倭使来   
-----------------------------------------------------------

 壬辰(三九二)の新羅本紀の実聖は、「高句麗王以強盛」のために質に出されたと記されているが、これもむろん事実の糊塗である。好開土王碑に「辛卯(三九一)年倭渡海、破百残新羅」とあるのが史実なら、この質は、辛卯の年倭の侵入にあった新羅がその翌年、高句麗の庇護または援軍をたのんで入れたものである。
 すると新羅の王子未斯欣と朴好の兄弟も同様である。未斯欣は新羅本紀では、四〇二年に倭に行った。朴好は実に四一二年に高句麗に行ったという。しかし広開土王碑文の記述は違っている。庚子(四〇〇)「倭は新羅城の中に満ちていた」といい、その直後高句麗は一帯を開放し、読解しにくいながら「新羅王実聖**僕勾」と実聖ならびに僕勾二人にふれている。僕勾は朴好のことである。
 四〇〇年の記録の後は四〇四年であるから、確実に言えることは、実聖ならびに朴好についてのそれは、四〇〇年から四〇三年の出来事である。しかし前後の文脈からすれば、そこまで考える必要はない。不祥の文字のなかに、四〇二年ないし四〇三年の干支が書かれていた筈はない。干支は広開土王の事績の順を追って記されるのであって、新羅の動向のためにあえてこれを記すことはない。核心は実聖と朴好の二人に言及しているという点である。
 高句麗にとってこの二人は旧い駒と新しい駒であった。
 つまりこの年(四〇〇年)に、実聖と朴好についての一連の処置があった。実聖は帰還し、倭に敗れた新羅王(奈勿)にとって代わって即位、朴好は実聖に代わって高句麗の質となったのである。ともに庚子年(四〇〇)。つまり実聖の即位は、事実上史記の記述より二年さかのぼる。
 そして「倭は新羅城の中に満ちていた」という状況は、高句麗の救援に先だって、新羅がすでに倭に決定的な敗北を喫していたことを示している。未斯欣の入質もまた庚子(四〇〇)のことであった筈である。事実上倭が未斯欣を拉致して凱旋したことになる。高句麗が三九六年に百済を破り「王弟等」を質にとって凱旋したのと同様である。
 ここに至って書紀の神功紀の適切な批判ができる。
 書紀はこう語っている。

 冬十月の己亥年朔辛丑に和珥津より発ちたまふ。(略)即ち大風順に吹きて、帆舶波に随ふ。梶楫を労がずして、便ち新羅に到る。時に随船潮浪、遠く国中に逮ぶ。(略)新羅王、是に戦戦慄慄きて惜身所無し。即ち諸人を集へて曰く、「新羅の国を建しより以来、未だ嘗も海水の国に凌ることを聞かず。若し天運尽きて、国、海と為らむとするか」
 即ち新羅王素組して面縛り、王船の前に降り、因りて曰さく「今より以後、伏ひて飼部と為り、春秋に馬梳及び馬鞭、また毎年男女の調を貢らむ」とまうす。
 皇后乃ち其の縛を解きて飼部としたまふ。遂にその国中に入りまして、重宝の府庫を封め図籍文書を収む。即ち皇后の所杖ける矛を以て、新羅の王の門に樹て、後葉の印としたまふ。故、其れの矛、今猶新羅の王の門に樹てり。
 爰に新羅王波沙寐錦、微叱己知波珍干岐を以て質として、乃りて官軍に従はしむ。是を以て、新羅王、常に八十船の調を以て日本国に貢る、其れ是の縁なり。

   古事記はこう語っている。  

 故、息長帯日売命、軍を整え船隻めて度り幸でましし時、海原の魚、大小を問わず悉に御船を負いて渡りき。ここに順大風起こりて、御船浪の従にゆきき。故、その御船の波瀾、新羅の国に押し騰りて、既に国半に到りき。  ここにその国主、畏惶みて奏言しけらく、「今より以後は、天皇の命の随に、御馬甘と定め、年毎に船を隻めて、退むこと無く仕え奉らむ」とまをしき。  故、ここをもちて、新羅国は御馬甘と定め、百済国は渡の屯家と定めたまひき。ここにその御杖を、新羅の国主の門に衝き立てて、すなわち墨江大神の荒御魂を、国守ります神として祭り鎮めて還り渡りたまひき。

 書紀は神功が「新羅城に入ってその倉を封じ、王門に杖矛を樹てた」という劇的な事件を語っている。書紀を通じてここだけにある首都開城の記事である。古事記も「王門に杖を衝き立てた」という。
 いずれも新羅城を陥落させたという記事である。あまつさえその城のなかに入ったという記事である。
 すなわち仲哀九年、神功摂政称制前記年(四〇〇)の新羅征討の記事は、広開土王碑の庚子(四〇〇)年の「倭満新羅城」という記述と一致する。どちらも特異な事態を語っている点でも、同一の史実とみるべきであろう。

新羅王子未斯欣(神功紀五年条)β

 また神功紀はその新羅から凱旋するとき、新羅王子「微叱己知波珍干岐」を質として連れかえったという。
 これは神功摂政称制前紀年(四〇〇)のことで、微叱己知は未斯欣にほかならない。広開土王碑が永楽一〇年(四〇〇)に「*錦・僕好」と記録する年である。
 三国史記新羅本紀がこれを西紀四〇二年のこととするのは、あきらかな改竄であるが、史記には未斯欣に対してもう一つ作為することがあった。その後の未斯欣の倭からの帰還である。
 朴提上がここに登場する。史記の英雄譚の一つとしてよく知られている朴提上伝承は、未斯欣と朴好(僕勾)の人質王子を倭と高句麗から救いだす英雄の挿話である。
 史記によれば、新羅王実聖の後を襲った訥祇の二年(四一八)、朴提上はまず高句麗に行き「高句麗は信義の国」なるをもって王を説き、朴好の解放を勝ちとったが、倭に対しては「禽獣の国」なるがために一計を図り、「罪をえて国を追われ、倭王の庇護を求める」体をとって、倭に入った。囚われた未斯欣と出会うと、「倭軍とともに新羅を攻める」と偽って対馬に至り、ひそかに王子を海から逃した。時を稼ぐために島に残った朴提上は、倭王の激怒をかって焼き殺されたという。
 書紀はこの話を神功五年(四〇五)に記録する。未斯欣に対馬で逃亡され、怒って朴提上を焼き殺すという文脈も一致している。係年は訥祇二年(四一八)と書く史記と一三年も相違するのである。
 事実は神功五年が正しい。ほかならぬ史記の記事にこういうことが記されている。

 
 
   実聖四(四〇五) 倭兵来攻明活城、不克而帰
     五(四〇六)
     六(四〇七) 倭人侵南辺、夏又侵南辺
     七(四〇八) 王聞倭人於対馬島置営。我欲、練精兵
            撃破兵所。舒弗邯未斯品曰、不若。王
            従之。

 うち実聖七年二月条の記事は、新羅王が対馬に駐留する倭軍を先手をうって攻撃したいと言い、未斯品なる人物が無謀として止めたというものである。
 対馬島に倭兵があることは特別のことではなく、この時代はむしろ常態といっていい。それでなお思いついたように対馬島を襲いたいという新羅王の衝動は不可解である。
 対馬島は一海を越える遠隔にある。そして新羅には海戦の記録がなく、むろん水軍のあったという事実もない。史記は別条で、百済の水軍と組んでば倭を撃とうという議論があったが信なき百済と同盟はできないとして退けられたという記事もある。海を渡って対馬を攻撃するという行為がいかに常軌を逸しているかがわかる。
 倭寇の時代から海峡の往来には季節があった。海の比較的穏やかな三月から六月に集中していたのである。その二月というのだから、新羅王のひきずっているのは、単に倭人というのでなく、時に対馬に駐留する倭兵に対しての強い衝動であったのであろう。
 それはおそらく前年に起きている事件の延長線上にあった。
 前年(実聖六年)、対馬島で朴提上が殉死している。未斯欣はかろうじて逃げかえったが、提上は倭王の怒りをかって無残な死に方をしていた。
 「未斯品」も「未斯欣」の意であろう。百済本紀に未斯品は実聖二年に「為舒弗邯委軍国事」とあり記述上は別人だが、人質にかかわる一連の記事とおなじく作為があるであろう。いずれにせよ新羅王の衝動のしかるべき理由は、功臣を惨殺された王の復讐の念にほかならない。
 ちなみに常軌を逸している新羅王実聖の実像は、羅紀に書かれたそれとは違っている。奈勿の子訥祇が王統を継いだとき、その正統性を標榜するために傍系の実聖を落しめることがあった。訥祇の践祚が実聖の弑逆であったら、このことは金氏の宗家が作為してしかるべき十分な理由であったことになる。
 ともあれこの実聖七年の記事は、書紀にしたがえば朴提上の事件(四〇五)の翌四〇六年の出来事でなければならない。三国史記によれば四〇八年である。この場合神功五年を四〇七年に換算するのは適当ではない。新羅城陥落と未斯欣人質の事実についての四〇〇年の記事については、史記より書紀に分があって、史記は二年繰り下がっていた。この実聖八年(四〇八)の対馬島の記事もまた、二年繰り上げ直して四〇六年と読み替えるべきであろう。その前年が西紀四〇五年、すなわち神功五年にほかならない。
 書紀にはこう書かれている。

 五年の春三月、新羅王、宇礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣して、朝貢る。仍りて先の質微叱己知伐旱を返したまふといふ情有り。是を以て己知伐旱に誂へて、欺かして曰さく、「使い宇礼斯伐・毛麻利叱智等、臣に告げて曰へらく『我が王、臣が久に還らざるに坐りて、悉に妻子を没めて奴とせり』といへり。冀はくは、暫く本土に還りて、虚実を知りて請さむ」とまうさしむ。
 皇太后。即ち聴したまふ。因りて葛城襲津彦を副えて遣わす。共に対馬に到りて、沙比の海(朝鮮海峡)の水門に宿る。時に新羅の使者毛麻利叱智、窃に船及び水手を分り、微叱己知旱岐を載せて、新羅に逃れしむ。乃ち艸霊を造り、微叱己知の床に置きて、詐りて病する者の為す。(略)
 襲津彦、即ち欺かれたることを知りて、新羅の使者三人を捉へて、檻中に納めて火を以て焚くき殺しつ。乃ち新羅に詣りて、蹈鞴津に次りて、草羅城を抜きて還る。

 書紀に従うべきである。実聖七年の未斯品の記事は、おそらく四〇八年でなく四〇六年のことであり、朴提上の事件はその前年、書紀のいう神功五年(四〇五)に起こっているのである。
 あらためて確認するが、この時代全体を通じ、三国史記就中とくに新羅本紀における倭関係記事は、おしなべて二年の繰り下がりがあった。対馬島の記事、実聖の即位、未斯欣の人質など一連の記事が事実上そうなっている。
 ひるがえってこの種の係年的な操作は、つねに恣意的なゆえの誤謬をはらんでいる。それでも史記におけるこの時代の記事だけは、これが許される事情があったと思う。そういう作為のしかるべき発端が、一に倭による新羅落城(四〇〇)という事件にもとめられるからである。
 そのとき新羅王奈勿は殺されたか、そうでなければそのあとすぐ新羅に入った高句麗王によって廃された。高句麗王は人質実聖を庇護していたから、直ちに実聖を位につけ、替りに新たな人質朴好を連れかえった。
 新羅本紀は朴好と未斯欣の質について奇妙な理由を書いている。、このふたりの王子はいずれも奈勿王の子で、これを質に出した新羅王実聖は、前王奈勿からは遠縁にあたる王族の子であったという。それが西紀四〇〇年のことであれば、その実聖はその九年前に当たる奈勿王の時、すでに高句麗に質に出されていた。西紀三九二年のことである。
 ここに実聖が未斯欣を質に出すときに、「その父が実聖を質と成したのを恨みて」奈勿の子の未斯欣をあえて(必要ではないのに)倭に出したという主旨の記事がある。
 その後に実聖を弑逆して後を襲った訥祇も、また奈勿の子であったから、この辺の修辞もあきらかである。
 三国史記はおおまかには信頼できる史書である。新羅本紀でも高句麗に敗退する、あるいは圧力に屈する記事などはいくらでもでてくる。倭のそれも、高句麗以上に多くの倭冦の侵入と敗退について記述している。
 だから、唯一この倭の新羅入城という局面だけは作為したのではないか、という推測がなりたつ。しかし単純に消去するのでなく、未斯欣人質を基準として合理的な記述をしてここに置き、二年だけ記事を一斉にくりあげた。
 するとここにもうひとつ決定的な可能性をみることができる。
 新羅本紀の三九三年条にある、「倭囲金城」という記事である。
 倭関係の四〇〇年を基準とする記事がこの辺まで影響するとすれば、この三九三年条もやはり二年くり下がっているかも知れない。復元すれば三九一年、すなわち広開土王碑のいう辛卯年にほかならない。
 さきに新羅が高句麗に「強盛なるをもって」実聖を人質としたという三九二年の記事は、やはりここにその理由を修正されるべきであろう。
 広開土王碑にある辛卯年こそ、新羅本紀の「倭囲金城」の記事と同一の事実をいうのであって、その翌年の実聖の入質は、新羅が倭を憎み高句麗に庇護を求めるための人質であった。
 議論は進んだが、改めて客観的これをみると二年の修正はとりあえず恣意的である。この手の修正は誰でもするから、論理的に議論をすすめるにあたってはやはり不本意なやりかたにちがいない。史記にそうした必然性や根拠が、確かにあったかどうかが問われなければならない。

羅紀(三国史記新羅本紀β

 あらためていうえば、三国史記は一二世紀高麗朝仁宗のときに金富軾によって撰された、朝鮮最古の史書である。別に一三世紀高麗朝忠烈のとき普覚国尊一然が撰した三国遺事という史書もあるが、後者は書紀にたいする古事記のような立場にあるので、紀年を議論するためには、もっぱら三国史記を中心に話をすすめていきたい。
 史記は新羅本紀・高句麗本紀・百済本紀・年表・雑志・列伝の六部からなる。(それぞれ羅紀・麗紀・済紀と略称する)
 編纂に恣意的な意図があるとすれば、統一新羅のよって立つ立場で書かれていることであろう。史書の宿命と言っていい。
 その新羅の半島統一は六七六年のことであった。高句麗はそれに先だつ九年前の六六八年に唐によって滅ぼされ、百済はさらにわずか前の六六〇年に、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされていた。ともに衆は四散して新羅がこれをとりこんだが、百済はその王統につながるいくばくかが、歴史的に同盟関係にあった倭に亡命した。
 記録をもって亡命したであろうから、三国史記の百済本紀とくにその古い時代が史料的に薄いのはこのために違いない。
 羅紀(新羅本紀)・麗紀(高句麗本紀)・済紀(百済本紀)は、それぞれ紀元前からその記録がはじまるが、高句麗をのぞいては、建国起源を悠久の過去にさかのぼらせるための作為とみられる。この辺の事情は書紀や古事記とまったく同様だが、ここに、六世紀半ばの真興王六年(五四五)条に、「命撰国史」という記事があることが注意をひく。
 原三国史記あるいは原新羅本紀である。
 「原新羅本紀」は、書紀・古事記の元である天皇記・国記の編纂、推古二八年(六二〇)からしても半世紀以上早い。さらにいえば骨格たる三国ごとの記録ということであれば、すなくとも四世紀後半から存在したことは間違いない。百済本紀は四世紀後葉とみられる近肖古王の時代に、「始得博士高興記事」と記している。文字の伝来である。
 すると係年をひきのばすという編纂方針は、書紀・古事記がオリジナルであったのではなく、原三国史記がそれを最初に試みた史書であったかも知れない。むろん後に三国史記が書紀・古事記に倣ったこともあるかも知れない。
 百済の建国の王は一三代近肖古とみられ、その先の肖古(五代)・仇首(六代)は仮託であった。四代の蓋婁は二一代蓋鹵を、八代古爾は一九代久爾辛を反映している。以外の王名は都邑国家である伯済のそれが伝承されたかも知れない。
 これに倣えば、新羅の建国の王もまた第一七代奈勿とみられ、それ以前の朴氏七代と昔氏八代と伝える王は斯廬の都邑のそれであったかにみえる。
 新羅の王統として伝える金氏は、初代を味鄒といい二代が奈勿である。以下実聖・訥祇・慈悲・B知と続く。またこれらの後代の王と、始源の朴氏・昔氏の王とは、なぜか名称の類似が茫洋とみられる。百済がそうであったように、新羅もまたこれらのたぶん実在の王に、奈勿以後の王とその事績を仮託したようにみえるのである。
 これはしかしそうとはいいいきれない。文脈からすれば、即位はしなかったが存在した王族をここに記録しているようにみえ、書紀・古事記と同様の手法がつかわれているように感じられる。
 たとえば奈勿が金氏の祖とすれば、記録上の始祖王たる味鄒は、存在はしたが即位はしなかった王とみなせる。すると味鄒は無視でき、その奈勿の即位の西紀三五六年が金氏の登場ということになる。百済の肖古王の即位は西紀三四六年と記録されるが、これが領域国家百済の建国とみなすことに倣えば、奈勿の登場がすなわち領域新羅の誕生ということになる。
 ところが事実はそうではない。
 いくつか傍証があるのだが、領域国家新羅の勃興は、はやく見積もっても、西紀三七〇年代のことではなくてはならない。倭や百済との衝突が、この時期から始まったとみられることと、新羅の中国への朝貢もこの時期から始まっているからである。
 朝貢は西紀三七七年と三八二年の二回ある。そして後者の新羅王は実は奈勿でなく奈解であった。
 奈解は金氏ではない。昔氏の王である。新羅には奈勿に先立って朴氏の王と昔氏の王があった。百済にも伯済の都邑国家であった頃には、夫餘氏ではない王があったから、都邑国家新羅にも数氏の王があって構わない。ただ朴氏は間違いなく都邑国家斯廬慶州の主であったが、昔氏はすでに領域新羅の王であった。
 昔氏は流浪して新羅に入ったらしく、その祖は脱解といい、「倭国東北一千里」の出身であるという。朴氏第二代南解の女を娶って、第四代王となり、その子孫は伐休(第九代)、奈解(第一〇代)へ王統をつなげていった。
 ここではとりあえず大まかなことだけ指摘しておくが、その奈解の子に利音と于老がいた。この二人の王子はとくに倭・高句麗・百済と抗争したと記録される王子である。半島におけるこういう国際的な抗争は、すでに都邑国家のそれではない。確実に領域国家としての歴史を刻みはじめていたとみなすべきである。
 そして奈勿の即位は昔氏の王の後にある。これが味鄒でも事情はかわらない。金氏の奈勿に先立って昔氏の新羅があり、その中国への朝貢が三七八年と三八二年であることは、金氏の登場がすくなくとも三八〇年代後半以降であったことを示唆する。
 この検証を、于老伝承をひもとくことからはじめよう。昔于老は高句麗や百済とも戦ったが、とくに倭との戦闘が多く記録される。戦ってつねに勝ち、ついに倭人に殺されたという人物である。

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