第一章 気長足姫β

第一節 英雄伝説β

倭建伝説β

 神功すなわち気長足姫の話に入る前に、倭建命について語っておかなければならない。
 書紀・古事記の記述は、おおまかに倭建と気長足姫という二人の英雄を軸に展開されているようにみえる。義理の父娘になるが、この血縁につながる濃い縦の系統が、この後、大王家の嫡流とみなされた形跡がある。
 景行や成務の然るべき事績を、ひたすら倭建と気長足姫に収斂させていったのもこの思い入れによる。無理な仮託や過度の修辞が多くほどこされて、本来の史実を歪めていくことにもなった。
 さて、「倭建命(古事記)」は、書紀では日本武尊と書き、風土記では倭武(天皇)ともいう。諱は小碓といい、双生児の兄大碓がいた。
 大足彦忍代別(景行)とその嫡后、播磨稲日の子とされているが、系譜の示唆する真実は、垂仁とその后妃、播磨稲日の子である。母后は変わらない。景行は垂仁と日葉酢媛の子であるから、倭建は景行の異母弟にあたることになる。
 景行元年条の倭建子孫系譜が初出だが、記事としての登場は景行紀二七年条のことである。
 景行紀二七年(崇神二七年)二月条、時に東国に派遣されていた武内宿禰が、二年にわたる視察をおえて大和に帰還、東国の状況をつぶさに報告した。

 二七年春二月、武内宿禰東国より還て奏して言さく、「東夷の中に、日高見国有り。其の国人為人勇み悍し。是を統べて蝦夷と曰ふ。亦土地沃壌えて曠し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 この記事はなぜか唐突につぎのように展開する。

 秋八月に、熊襲亦反きて、辺境を侵すこと止まず。
 冬十月に、日本武尊を遣して熊襲を撃たしむ。(略)

 一連の記事のなかで、春二月と秋八月のつながりが奇異である。「撃ちて取るべし」と武内宿禰が奏上した対手は東国であるにもかかわらず、これに続く記事が、西国熊襲の騒乱とこれにともなう倭建の西征派遣へと転ずるからである。
 文脈からすれば、東国征討記事がここに入るのが自然であった。だからたとえば係年の造作の関係で、西国征討の方が先に入ってしまった疑いがある。
 しかし事実はそういう事情ではなかった。
 復元できる倭建の西征は、景行紀(崇神)二七年(三七八)、東征は景行紀(考霊)四九年(三八二)である。文脈通り西征が先、東征が後である。むろんこの間の期間は書紀のいう二二年でなく、わずか三年後のことである。順番と全体の筋道に遺漏はみられない。
 倭建の西征と東征の関係について、古事記がつぎのように書いているのが、一連の挿話がニュアンスもふくめてむしろ的確な伝えられたという証拠になる。

 「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西方から返り参上り来し間、未だ幾時も経らねば、今更に東方を平けに遣はすらむ。これによりて思惟へば、なお吾既に死ねと思ほしめすなり」

 「未だ幾時も経らねば」という表現は、足掛三年という時期ならよく合う。ひるがえって英雄にかかわるこういう伝承は、時間的な隔てや先後関係にそう狂いがある筈がない。
 すると先の東国からすっと西国へと話が飛ぶ奇妙さはなんであろうか。要するに、武内宿禰の出立(景行紀(崇神)二五年)と帰還(景行紀(崇神)二七年)の目的地が、「東国」なのではなかった。本来は「西国」であって、なにかの理由で東国にすりかえられたと思う。これについては傍証があるが、とりあえず後にしよう。
 倭建は、その年一〇月出立、一二月に熊襲の地に入り、女装して川上梟帥亦名取石鹿文を討ちとった。その敵手から名を贈られて、日本武尊と名乗るようになった。
 この辺は書紀・古事記とも大同異曲である。強いていえば書紀は、帰途、吉備と難波の悪神を討伐したと書くが、古事記は穴戸神と出雲建を討って帰還している。
 さてつぎの問題だが、倭建の一連の西国征討の中身の方は、真実の伝承であろうか。疑問が生ずるのは、そもそも景行の西征がその一四年前にあって、倭建と類似の挿話が伝えられるからである。一四年前というのは書紀の正規の表記でも同一である。
 景行紀によると、熊襲の首長は厚鹿文・乍鹿文の二人で、熊襲八十梟帥といった。その娘に市乾鹿文・市鹿文の姉妹がいたが、その姉を説き、刺客に仕立てて熊襲梟帥を殺した。
 景行が放った女の刺客と、女装した倭建というモチーフの違いは、大きな差異のようでそうでもない。熊襲梟帥を刺したのが女服の人物であったという骨子がかわらない。
 真の主人公がどちらかという点では、景行の挿話の方が自然な話であるだけに分があるが、前編でも指摘したように、景行の西征が筑紫にまで至っていたかという点に疑いがあった。おそらく周芳娑麼(周防佐波)ならびに対岸の豊前長峡までで、そこを拠点に半島に触手を伸ばしていたのである。
 後の仲哀紀にも、津守氏祖をもって周防穴門に住吉三神を祀らせたとある。住吉の神は、更名から「半島との間を行き来する」航海神とみられる。景行が娑麼に止まったのは要するに偶然なのではない。景行紀の碩田(大分)以降、熊襲・火の国・筑紫などの挿話は、おそらく後世からの仮託であろう。
 熊襲征伐の挿話はかならず倭建のものである。あえて重複しつつさかのぼって景行に仮託した。意図的で隠そうともしていないこの作為は、おそらく景行の事績を再三倭建ならびにその一族に仮託していった後ろめたさに対する、書紀の編者の代償行為なのではないかと思う。
 ちなみに書紀は景行の半島における事績を、すべて神功に仮託する。古事記はさらに応神にも仮託する。古事記応神記における「横刀」・「大鏡」は、書紀神功紀の「七支刀」にほかならない。いずれも景行の事績である。
 要するに編者が景行をあえて軽んじた悔いが、逆に倭建の事績の一部を景行に仮託することで償おうとしているのであろう。
 ついでに倭建の東征とその後の景行の東国巡幸という挿話も、これと似た構文であるかも知れない。景行がすでに没した倭建の足跡を辿って東国巡幸に出かけたという記録であるが、倭建没後の景行紀(考霊)五三年(三八六)のことで、この記事はとってつけたような感じがする。  

 五三年、秋八月、天皇群卿に詔して曰はく、「朕愛みし子を顧ぶこと、何の日にか止まむ。冀はくは、小碓王の平けし国を巡狩むと欲ふ」とのたまふ。

 競争者であった景行と倭建の関係からすれば、肯定的な感情面はむろん作為にちがいないが、巡幸の事実そのものもも虚構であったと思う。
 景行は巡幸のその年のうちに帰途につき、伊勢に入ってしばらく滞在した後、翌五四年に大和に帰った。その後五五年には彦狭嶋を東国都督に任命するが、彦狭嶋は赴任前に死亡、翌五六年にあらためて彦狭嶋の子御諸別を任命する。御諸別は東国に行き、騒いだ蝦夷足振辺・大羽振辺・遠津闇男辺を討伐する。
 この最後の東国争乱もどことなく疑問符がつく。
 話を戻そう。倭建の二回目の登場はいうまでもなく東征であった。先のように西征から帰って三年目の、景行紀(考元)四〇年(三八二)である。征討にあたって、特に「将軍の位を賜った」とある。
 倭建を大王に準じる存在とみなした書紀は、この年をもって倭建元年とした。
 書紀のなかに将軍は多く登場するが、実は正式な「将軍の位」をもらった人物は多くない。物部麁鹿火も、継体から「将軍の位」を賜ったが、その時、「筑紫以西は汝がみよ、朕は東をみるであろう」といわれている。切り取った者がその地を宰領するという、当時の基本的な観念がそこにある。
 東国の大地の民が、倭建を大王(天皇)と呼んだのは、粉飾でなく事実であったと思う。景行が尾張から西を統べる大王で、倭建は東を統べる大王であったという認識があったのであろう。
 さて倭建の将軍称制元年は、先のように東征開始の景行紀(考霊)四九年(三八二)である。称制前紀年(三八一)については、崇神紀(開化)二九年(立太子没年・三八〇)が別途に指示しているが、事実は三八一年であるからなぜか一年の齟齬がある。
 また倭建の没年は、おなじく景行紀(考霊)五二年(立太子没年)が指示する年である。西紀三八五年、倭建が東征の三年後に没したという書紀の記事にも符合している。
 倭建は記録上大王ではなかったが、大王なみの係年の記録が残っていることになる。主として景行の係年を利用して示唆しているが、その景行紀は、別途に三紀の係年をもつ神功紀がその第一紀としてこれを仮託しているから、基本的に困ることがない。


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 西紀 神功紀(第1紀)  考霊紀(垂仁紀)  崇神紀(景行紀) 
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 358       38                25 倭姫            7
 359        39 卑彌呼太歳  1  26       垂仁元年  8         
 360        40             2  27 敦賀  立后     9         
 361 考元   41 倭彦没      3  28 日矛           10         
 362  20    42             4  29                11         
 363  21    43 狭穂彦の乱  5  30 兄弟試験      12 景行征西
 364  22    44             6  31                13 伐熊襲  
 365  23    45 日葉酢媛没  7  32 野見宿禰       14         
 366  24    46 斯摩卓淳    8  33                15         
 367  25    47 斯摩派遣    9  34                16        
 368  26    48            10  35 (誉津別)     17         
 369  27    49 斯摩帰還   11  36                18 筑紫   
 370  28    50   諸隅出雲 12  37 立太子 十千根  19 大和帰還
 371  29    51 斯摩派遣   13  38   十千根出雲   20 五百野姫
 372  30    52 七支刀     14  39 石上   武器占  21         
 373  31    53            15  40 但馬神宝    3  22         
 374  32    54            16  41             4  23         
 375  33    55            17  42             5  24         
 376  34    56            18  43             6  25 武内東国
 377  35    57            19  44             7  26         
 378  36    58            20  45 倭建熊襲    8  27 帰還    
 379  37    59            21  46 帰還        9  28         
 380  38    60            22  47            10  29         
 381  39    61            23  48 (誉津別) 11  30         
 382  40    62  倭建東国  24  49            12  31         
 383  41    63            25  50            13  32         
 384  42    64            26  51            14  33         
 385  43    65  倭建没    27  52            15  34         
 386  44    66            28  53 景行東国   16  35         
 387  45    67            29  54 景行帰還   17  36         
 388  46    68            30  55            18  37         
 389  47    69  神功没    31  56 景行没     19  38         
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 倭建は名実ともに巷間の英雄であった。その東征の途次で仆れるという悲劇性がなおこの想念をたかめた。書紀の編者は神武ついで神功を特別視する。とくに後者については、時代の近親感もあって直接的な英雄観をもったと思われる。書紀も古事記も神功を枢軸として、正系の王統という観念をつくりだした。
 履中紀にも履中を「剣刀太子」と称する特別な記述があるが、剣刀とは草薙剣をいいつまりは倭建を指すものである。
 この系統は、仲哀・応神・仁徳・履中とつづき、さらに市辺・顕宗・仁賢・武烈にまでいたるが、古事記はとくにこの履中の系を意識することがつよかった。たとえば、古事記の没年干支は、主要な大王にしか記録されていず、記載する場合は通常数代前のそれを仮託している。書紀と同様なのだが、おしなべてそうなのではではなく、雄略の没年干支などは、意図的に後世の王を仮託していて、その大王は仁賢である。
 編者は、仁賢・武烈までを正嫡の系統とみなした。一方倭建から先は、その父垂仁・考霊・綏靖・神武を正系の幹とした。この系列のなかに、とくに事績の顕著であったとみられる雄略・允恭・景行・崇神などの大王は含まれない。編纂物はむろん時の思想の産物だが、この場合、これを権力側の視点とするのはどうみても適当ではない。つまるところ、英雄を生みだすのは時の権力者ではなかった。巷間に生まれ、これを共有して育てていく民衆のエネルギーによったのである。
 書紀と古事記は伝承の質量の大きさに、できるだけ忠実であろうとしたらしく、この点においては、編纂の基本的姿勢は一貫して誠実なものであったのである。
 倭建は大和の勢威を東西に拡げていった最初の将軍であった。神功は半島に進出して足跡を刻んだ最初の指導者だった。この二人に対する想いが、書紀と古事記の全編を覆っている。

倭建の生涯β

 倭建の物語のなかでは、熊襲征伐と姨倭姫との別離の場面は、とくに観賞するに価値がある。歴史によるばかりでなく文学のためでもある。一五〇〇年前の古代人の感性が、現代人のそれと本質的な差異があると思うべきではない。日本的な感覚という点でも多くあてはまるものがある。
 いずれも古事記のそれが香り高い。狭穂姫の物語と双璧である。熊襲征伐の挿話からみてみよう。

 その弟建、見畏みて逃げ出でき。すなはち追いてその室のはしの本に至りて、その背皮を取りて、剣を尻より刺し通したまひき。ここに熊襲建白言しつらく、「その刀な動かしたまひそ。僕(あれ)白言すことあり」とまをしき。ここに暫し許して押し伏せたまひき。ここに「汝(いまし)命は誰ぞ」と白言しき。ここに詔りたまひつらく、「吾は纒向の日代宮に坐しまして、大八島国知らしめす、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王ぞ。おれ熊襲建二人、伏はず礼無しと聞こしめして、おれを取殺れと詔りたまひて遣わせり」とのりたまひき。

 ここにその熊襲建白しつらく、「信に然ならむ。西の方に吾二人を除きて、建く強き人無し。然るに大倭国に、吾二人に益りて建き男は坐しけり。ここをもちて、吾御名を獻らむ。今より後は、『倭建御子」と称ふべし」とまをしき。
 この事白し訖へつれば、すなわち熟瓜の如振り折ちて殺したまひき。故、その時より御名を称へて、倭建命と謂ふ。

 書紀となると次のような散文である。    

 是に日本武尊、剣を抽して、川上梟帥が胸を刺したまふ。未だ及之死なぬに、川上梟帥 叩頭みて曰さく、「且待ちたまへ。吾有所言さむ」おまうす。時に日本武尊、剣を留めて待ちたまふ。川上梟帥啓して曰さく、「汝尊は誰人ぞ」とまうす。対へて曰はく、「吾は是、大足彦天皇の子なり、名は日本童男と曰ふ」とのたまふ。(略)

 川上梟帥即ち啓して曰さく、「今より以降、皇子を号けたてまつりて日本武尊と称すべし」とまうす。言訖りて乃ち胸を通して殺したまひつ。

 古事記の、倭建の熊襲建に対する「名乗り」について、一言いっておきたい。形式をふみ格調をたもつこの名乗りは、いったい江戸時代までひきつづく日本的な感性のたまものである。完結かつ包括的に含まれるのは、自分の名と身分と、使命と目的、さらには命じた主人の名と国家と、国家のいわば矜持をもいい表わすのである。最後の点については、よって立つ王権の思想に基づくが、それだけでは納まりきれない個人の矜持が香ってくる。
 背景には、つまり一つの倫理がある。すでに古代から存在するこの倫理が、どんな摂理にもとづくのかと考えることは、ほとんど日本の文化の基層をつきつめることに近い。思想をまたず倫理がさきにあったという可能性すら認められるであろう。
 次に倭姫との別離の会話である。古事記ではつよいリアリティーがあった。

 倭建命、故、命を受けて罷り行でましし時、伊勢の大御神宮に参入りて、神の朝廷を拝みて、すなはちその姨倭比売命に白したまひけらくは、「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経らねば、軍衆を賜わずて、今東の方十二道の悪しき人等を平けむに遣わすらむ。これによりて思惟へば、なお吾既に死ねと思ほしめすなり」とまをしたまひて、患ひ泣きて罷ります時に、倭比売命、草薙剣を賜ひ、また御嚢を賜ひて、「もし急の事あらば、この嚢の口を解きたまへ」と詔りたまひき。

 書紀では語るに落ちている。

 日本武尊、発路したまふ。戊午に、道をよぎりて伊勢神宮を拝む。仍りて倭姫命に辞して曰はく、「今天皇が命を被りて、東に征きて諸の叛く者どもを誅へむとす。故、辞す」とのたまふ。是に、倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰はく、「慎め、な怠りそ」とのたまふ。

 古事記が、「天皇既に吾死ねと思ほす所以か」という一文が、倭建の悲劇の生涯を髣髴とさせる。太安萬侶が史家であるまえに文学者であった証左でもある。義経に対する巷間の愛着と同質のものがここにある。後の「天皇は神にしませば」という修辞感覚からすれば、本来記録されるべき言葉ではなかろう。それが許される余地があったということは、為政者の側もまた巷間の伝承を退けることがなかったということなのである。
 さて、書紀・古事記とも、熊襲建に向かって自ら「倭の男具那(童男)」と言っていることに注目したい。
 倭建が熊襲征伐に発った景行紀二七年は、崇神二七年すなわち実垂仁紀二〇年(西紀三七八)である。垂仁と播磨稲日の子たる倭建が垂仁二年立后(狭穂姫)の後、狭穂彦の乱(垂仁五年)に前後する時期に生まれていれば、誉津別と同じくこの時若干一六、七歳である。童男(男具那)という所以である。
 東征は、二年目の熊襲帰還の年からさらに三年後ということになるから、この時はようやく二〇から二一歳になっていたとみられる。
 「天皇、吾に死ねとおぼすか」と慨嘆する倭建の言葉は、むろん真実のそれである。父子ではないが異母の兄に対する思慕と憤懣のあらわれにちがいない。文脈からする一連の背景は眼にみえるような気がする。景行は父たる垂仁に疎まれた王子であった。そのために景行は自らの半島における画期の事績をもって、垂仁を追い王位を奪った。倭建はおそらく誉津別とともに垂仁の寵愛する王子であった。景行の治世下では、すでに競争相手ではなかったものの、景行からは嫉妬とともに、疎まれずには済まない存在であった。王位を子の成務に伝えるためには、真っ先に排除すべき存在でもあった。
 すると倭建が東征から帰還する時、伊吹山で負傷し、伊勢の能褒野に至って死んだという伝承も、文字通りには受けとれない。
「東に王たれ」として倭建を追いやった景行にしてみれば、その帰還は意図にも約定にも反するものであった。伊吹山は大和に入るべきバイパスの関ヶ原・美濃ルートで、能褒野は鈴鹿を経由する正規の伊勢ルートであった。
 景行はおそらくあらかじめ、伊勢の国境のみならず美濃の国境にも兵を派遣していたのであろう。倭建が大和への通常のルートをとらずに、わざわざ先に伊吹に入っているのは、伊吹の荒ぶる神の討伐のためなのではない、伊勢に駐留軍があることを知っていたために、美濃ルートから迂回しようとしたのであろう。
 古事記の文脈からは、倭建の目的が大和への侵攻であったとはとても思えない。単なる望郷のためにちがいない。古事記には「倭は、国のまほろば。たたなづく、青垣。山隠れる、倭しうるはし」という倭建の有名な歌が載っている。景行はそう考えなかった。あるいは知っていてあえて考えることをしなかった。状況は利用すべき段階にあった。
 伊吹で傷を負った倭建は、かくして再び伊勢へ戻り半ばやぶれかぶれで正面突破を図った。大和への帰還を希求しながら果たせずに仆れた。その遺体は白鳥になって飛び立ち、書紀は大和の琴弾原に一度停ったが、更に飛んで河内に降り立ったという。河内古市の白鳥陵の縁起でもある。古事記は直接河内に飛んで、大和に立ち寄ったことを書かない。
 その倭建の没年は、景行五二年(考霊五二年)、すなわち西紀三八五年であった。二三、四歳での夭折であった。

景行の晩年β

 重複するが、倭建没年(景行紀五二年)の翌景行五三年、景行は東国巡幸に旅立つ。伊賀から上総・安房を巡ってその年のうちに伊勢へ戻り、伊勢で越年、翌五四年大和に帰還する。これを踏まえて翌五五年、彦狭嶋を東国都督に任ずるが病没したため、またその翌五六年その子御諸別を東国都督として赴任させる。
 景行紀にはあからさまには記載されないが、その景行紀五六年こそ景行の事実上の没年である。理由は景行の「立太子没年」が倭建の将軍位前紀年とみられ、また景行紀五七年からの記事が景行のもののように書かれながら、その実成務の治世であったとみられるためである。
 書紀と古事記の記録のあきらかな差違とみられるもののうち、この近江高穴穂の記録は典型的である。書紀は景行がその五八年、高穴穂宮にあって治世を続けたと書き、成務の宮城はあえて省いているが、古事記ははっきり成務が高穴穂宮で治世したと書く。
 これは古事記の記録が正確であろう。そもそも書紀の成務紀治世六〇年は考霊六〇年に該当する。すなわち景行紀六〇年に当たる。つまり成務の治世は、一運(六〇年)を捨象すると〇年ということになる。
 書紀の編者は、倭建の将軍位就任年と没年を指示するために景行紀を利用した。代わりに景行の没年を示唆するために、神功紀(第一紀)を使ったが、これは景行紀になかには出せない。そのため成務の治世を別途に指示しながら、成務の没年に仮託したのである。
 すなわち成務は、景行紀五六年践祚、翌五七年即位、治世四年を経て景行六〇年に没した。成務治世が六〇年である理由である。
 さてその成務紀である。仮託される神功紀の立太子記事が「三年」、すなわち立太子没年は「四年」となるが、実際の治世記事は五年分ある。
 この意味はシンプルで、倭建没年の翌年を成務元年に仮託するからである。書紀の基本的な文法に準拠するが、編者が成務を景行ほど疎んじなかったことを示唆する。 

 
 西紀 神功紀(第1紀)  考霊紀(垂仁紀)  崇神紀(景行紀) 
-----------------------------------------------------------
 376        56            18  43             6  25 武内東国
 377        57            19  44             7  26         
 378        58            20  45 倭建熊襲    8  27 帰還    
 379        59            21  46 帰還        9  28         
 380        60            22  47            10  29         
 381        61            23  48 (誉津別) 11  30         
 382  40    62  倭建東国  24  49            12  31         
 383        63            25  50            13  32         
 384        64            26  51            14  33         
 385  43    65  倭建没    27  52            15  34         
 386        66            28  53  (成務元)1 16  35         
 387        67            29  54          2 17  36         
 388        68            30  55          3 18  37         
 389  47    69  神功没    31  56 景行没   4 19  38         
 390        70  田部 屯倉 32  57 成務元年 5 20  39 国造 稲城
 391        71            33  58        2 6 21  40 
 392        72            34  59        3 7 22  41 
 393        73            35  60 成務没 4 8 23  42 
 394        74            36  61            24  43    2
 395        75            37  62            25  44  
-----------------------------------------------------------

 景行紀五七年の「田部・屯倉」設置の記事と、成務紀五年の「国造・稲城」設置の記事は、いずれも成務の事績であろう。内容は異なるが、とみに境界を定める意味では共通の施策とみなせる。もともと一つかみの記事であったのではないかと思う。大安萬侶の記す古事記の序(第一段)にも次のような記事がある。

 「境を定め、邦を開きて、近淡海に制め」

   成務の国造・稲城の設置をいっていないが、主旨はこちらの方が的確であろう。ここ「序第一段」に神武・崇神・仁徳・允恭と並んで、とくに成務に言及するのは、おそらく政体論理を通すためであった。徹底的に国(内)史を編んだ安萬侶としては、建国・神祇・仁政・法制のそれぞれの基となった人物を選んだつもりなのであろう。
 いずれにしても、田部・屯倉の創設もまた成務の事績にふさわしい。景行五七年は景行の治世ではない。成務のそれであった。景行はその五六年(西紀三八九)没し、翌五七年(西紀三九〇年)成務が即位していたのである。
 繰り返すが、その景行没年に自らの没年を仮託した大王こそ神功であった。そのために神功の王子応神の即位もまた成務の即位元年に仮託される道理である。応神元年が西紀三九〇年と記録される所以がこれである。
 さて、成務の近江高穴穂宮の治世に入る前に、尾張氏についてふれておきたい。
 倭建と尾張の美夜受比売との有名な挿話は、古事記のなかでとくに意味深長なものがあった。この挿話は一度美夜受比売の家に入ったが、「婚ひせず、期りだけ定め」て東征に向い、帰ってから「婚ひするも、月経顕きたりき」というのである。そしてその後、倭建は「草薙剣を美夜受比売の許に置きて」伊吹山に登る。
 吉田敦彦氏によればこの伝承もギリシャ神話に類例があるという。そうした背景もあると思うが、この骨子は、先に指摘したように時の尾張氏の存在が、景行と近しく倭建とは疎遠であったことを示唆するのである。
 尾張氏はもと葛城の高尾張の地にあって、大和盆地の東西に交易していたが、崇神の時その勢威の急激な拡大があった。崇神が墨坂と大坂の道の神を祀ったというのはこの事情を言うであろう。尾張氏の東海・尾張の地への進出もそれ以降であったとみられる。
 景行は垂仁の子であるが、垂仁に疎んじられ、父を追って自ら立った。おそらくそのために景行は、父垂仁より亦叔父の崇神を継いだという意識があったと思う。景行が嫡后としたのは八坂入媛であるが、この八坂入媛は崇神と尾張大海媛との女である。このかかわりでは、崇神は景行の岳父にもあたるのである。
 景行紀が考霊・垂仁紀をつかいながら、考元・崇神紀も援用するのもこれと無関係ではない。
 ひるがえって、書紀は一書で(注の場所に誤りがあるが)、大海媛を八坂振天某辺とも書いている。八坂の地は美濃であるという。葛城地方に発する尾張氏の勢力範囲が、この時点ですでに、大和高尾張から尾張・美濃にまで伸びていたことを示唆する。
 景行は崇神を範とするばかりでなく、崇神がもっていた係累と勢威を収めることで力量を高めていった。尾張と美濃へ対する大和の勢威は、景行がはじめて確立したものであったものであろう。
 倭建の負傷と死も、景行の意を挺した尾張氏の謀略であった可能性がある。東国制圧の象徴とみられる草薙の剣も、倭建が置き忘れたものでなく、尾張氏が奪ったものかも知れない。
 大和の朝廷は、神武から開化まではもとより、崇神・垂仁の時代に至っても、なお後の近畿一帯の地方政権に過ぎなかった。景行の登場があってその版図は、初めて西は周防・豊前まで、東は房総・常陸まで拡張したことになる。その主体的な意欲的な意志と行動は、ひとえに景行に帰すべきものである。
 その手足となって東西に奔走した倭建と、これを企図かつ命じて動くことのなかった景行の関係は、後世の義経と頼朝のそれによく似ている。巷間の偶像と実像という点もよく似ている。頼朝が義経とは比肩すべくもない巨大な政治家であったとすれば、景行もまた倭建に勝った巨像であった。
 大和の大王氏が、卑彌呼以来の倭国王に昇華する第一歩であったのである。
 以上が成務の登場するいわば背景であった。ちなみに成務が、景行紀五七年(考霊五七)に歳一八前後で即位するためには、景行四〇年すなわち実景行紀三年(三七三)頃に生まれていなければならない。景行はその即位前後に八坂入媛を娶っているのことになる。
 景行の大きな足跡を、その子成務がついでさらに一歩を踏みだす。

近江高穴穂宮β

 成務の即位が景行紀五七年(考霊五七年)であることは、実は景行紀でなく成務紀自身の記事でも分かる。
 成務紀はその即位前紀で、景行四六年に立太子があったと書く。立太子没年はその翌四七年にあたる。景行紀ではその立太子が五一年、立太子没年は五二年であったから、これは真っ向から矛盾するのだが、景行紀のそれは先のように倭建の将軍位就任を示唆するためであった。成務紀の記事が正しいが、それも実は景行紀すなわち考霊四六年でなく考元四六年であったと思う。
 実考元紀四六年は西紀三八八年、翌三八九年が立太子没年になる。神功六九年没年すなわち景行没年とみられる景行五六年の年に一致する。書紀の編者の戯れである。
 成務紀は、先のように即位前記年から五年までの記事がある。実際は四八年の立太子記事、六〇年の没年記事もあるが、本質には何ら関係がない。治世はあくまで四年でかつ五年間の記事があるのは、その元年が成務自身でなく、その前王、この場合、倭建没年の翌年(景行紀五三年)から始めているからである。
 景行の「田部・屯倉設置」と「国造・稲城設置」の年が同年の事項とみなせたのも、このためであるが、事実上の職制がこの時すでに置かれたと理解する必要はない。これに類した施策が施されたとみておけばいい。
 わずか四年の治世下における成務の事績の最たるものは、むろん半島に対する進出であった。稚足彦と呼称される所以である。景行が大足彦に対して稚足彦と呼ばれるのは、考元が大日本根子彦といい、その子開化が稚日本根子彦といわれるのと同様である。謚のおける「稚」は「大」の子を意味する。
 神功に仮託された神功紀六二年の壬午年がそれである。一運(六〇年)捨象した神功紀二年条、事実上、広開土王碑の辛卯の年(三九一)にほかならない。その年、成務は葛城襲津彦を遣って新羅を伐った。倭と新羅の直接的な戦闘の嚆矢であった。
 半島派兵の理由も明確であった。後に検討を要する内容であるから、ここではアウトラインのみに止めておきたい。
 事件は三年前に萌芽があった。三国史記によれば、西紀三八九年、半島弁辰加羅の国で「浦上八国の乱」といわれる内紛が起きた。

    (三国史記・羅紀本紀) 
    時浦上八国謀侵加羅。加羅王子来請救。王命太子于老与
    伊伐C利音、将六部兵往救之。撃殺八国将軍、奪所虜六
    千人還之。

 斯摩宿禰以来、三七〇年代から半島に土着しつつあった倭の勢力が、およそ八ヵ所あった。これが加羅を攻めたので、救援を受けた新羅が兵をだした。将軍は新羅王の太子昔于老である。于老はこれを破って新羅の威信を内外に示したが、つぎの年にも倭人と沙道というところで戦って勝った。
 これが三九一年とみられる次の記事につながる。

 沾解七年、癸酉、倭国使臣葛那古在館、于老主之。与客
      戯言。早晩以汝王為塩奴、王妃爨婦。
 倭王聞之怒。遣将軍于道朱君討我。大王出居于柚村。
 于老曰、茲之患、由吾言之不慎。我其当之。

   遂抵倭軍謂曰、前日之言戯之耳。豈意輿師、至於此耶。
 倭人不答。執之、積柴置其上、焼殺之乃去。
 味鄒王時、倭国大臣来聘。于老妻請於国王、私饗倭使臣
      及其泥酔、使壮士曳下庭焚之。以報前怨。
 倭人忿来攻金城。不克引帰。

 骨子はつぎのようである。三九一年倭国の使が来た時、将軍于老は戯れに「倭王を降ろし、王妃を慰み者にしてやろう」といった。倭王は怒り、将軍于道朱君を派遣、謝辞する于老を焼き殺して去った。後日、倭の大臣がやってきた時、于老の妻が騙して捕らえ、焼き殺した。倭人は大挙、金城(王城)まで攻め込んだが、克たずに帰ったという。
 時系列でまとめると、つぎのようになる。

389(于老)14 沾解1 浦上八国乱 于老太子 倭囲金城
390 15 2 于老舒弗邯 于老与倭人戦沙道
391 奈勿 16 3 于老與麗戦 倭殺于老 復讐 (倭囲金城)

 三国史記に記録される事件である。ただし記事は相当する時代のものではなく、復元を試みた結果のものである。書紀にはない。これを髣髴とさせるどんな記事もない。
 それでも史記が「倭囲金城」と記録する、辛卯三九一年相当の記事こそ、倭と新羅の本格的な戦闘の最初のものであった。事件の実態がこのようであった保証はないが、近い事実はあったであろう。一に新羅の勃興と膨張によるのである。半島にほようやく橋頭堡を築きつつあった倭の土着人と、これと交易する大和との権益が、この時侵され始めたのである。
 ちなみに神功紀の新羅侵略の記事のなかに、別伝で記録される「宇留助富利智干」は、「舒弗邯于老」ともいう史記の昔于老にほかならない。この記事は四〇〇年相当の記事であるが、別伝の記事は一〇年をさかのぼるものである。書紀は「王」とするが、助富利智干は舒弗邯にちがいなく、これは新羅の第一等官である。
 ひるがえって成務は景行没年の翌年(三九〇)を踰年即位元年とする。その翌二年(三九一)に、近江高穴穂宮に遷宮している。これこそ、その年のうちに行なった襲津彦新羅出兵の事実と分かちがたくかかわるであろう。
 高穴穂宮は、偶然にそこに置かれたのではない。はじめて大和を離れて置かれたこの宮城は、要するに半島への前哨基地であった。そして新羅の王城まで攻め入ったらしいこの画期の事件が、成務の最大の事績でもあった。時に大和の朝廷にあって、半島におけるおそらくわずかな権益を維持することが、いわば国家的な事業であった証左でもある。
 二年後の成務四年(三九三)、成務は治世僅か四年で没し、仲哀がその後をつぐ。成務にはむろん半島への強い執着があり、仲哀はその後を継ぐのみならず、遺志もまた継いだのである。
 後の欽明は病床で、太子敏達につぎのような遺訓を残している。

 「朕、疾甚し。後の事を以て汝に属く。汝、新羅を打ちて、任那を封し建つべし。更夫婦と造りて、惟旧日の如くならば、死るとも恨むること無けむ」

 また(更)夫婦となりて、というのは倭と任那のことである。任那の復興を、欽明は強烈に望んでいた。景行が成務に伝えた思いも、これに近いものがあったと思う。
 成務の半島に対する事績は、書紀も古事記も何も伝えない。にもかかわらず、成務の和風謚が「稚足彦」といい、宮を大和から近江へすすめ、わずか治世四年で早世することからすると、ここに成務の、迅速果断に行動する人物像がうかびあがる。
 そして時代は仲哀の治世に入る。

仲哀の即位と治世β

 書紀・古事記における仲哀は、成務ほど寡黙な大王ではない。記事は即位前紀年から詳しく、とりわけ没年の記事は、神功摂政称制前紀年にあたるため詳細に記録される。
 それでなお、仲哀の像は不確かである。新羅の存在を信じなかった大王であるという。神功を奉ずるあまりに、あえて歪んだ人格に描いたのかも知れないが、むろんそんな筈はない。「足仲彦」という和風謚をもつこの大王は、筑紫の儺津を制覇するとともに、景行・成務とならんで半島に確たる足跡をしるた人物なのである。
 まず仲哀紀の概要をみよう。仲哀紀そのものも、仲哀の人物像と同様いくつか不自然なものをもつ。

  ======================================================    即位前記 仲哀立太子(48/3/1)成務没(60/6/11)      元年 即位(1/11)前王陵葬(9/6)白鳥献上(11/1)蒲見       別の乱(閏11/4)      二年 立后(1/11)敦賀気飯宮(2/6)紀伊(3/15)豊浦(6      /10)皇后豊浦(7/5)穴門豊浦(9)      三年      四年      五年      六年      七年      八年 筑紫(1/4)儺橿日宮(1/21)詔(9/5)熊襲征伐9()      九年 病(2/5)没(2/6)豊浦密葬武内帰還(2/29)        以下神功即位前記 ======================================================

 まず係年上の問題が二つある。
 一つは仲哀が特殊年即位であったことである。通常からすれば、成務の没の翌年が仲哀の即位元年(踰年元年)であるが、実際はその翌年になっている。書紀にわずかに例があった前王の践祚即位元年を、ここに引きずっているのである。
 仲哀の場合は、景行の践祚元年即位(三七一)を引きずっている。景行は父垂仁に譲位を迫って大王位を継いだとみられるが、践祚元年を踰年元年としたその一年の修正が、成務を飛びこえて仲哀の即位年にかかった。成務にかからなかったのは、景行紀六〇年がすなわち成務六〇年であったことに関係する。景行がその子成務の治世まで浸み出したためである。
 仲哀紀の即位元年は、一年をさかのぼって復元されなければならない。
 いま一つは、仲哀紀が仲哀の治世を九年とすることである。成務没年が三九三年、翌三九四年が仲哀元年であるとき、その治世九年は四〇二年になる。神功摂政称制元年が四〇一年であることは、多くの痕跡が保証するところであり、その前年すなわち新羅侵略ならびに仲哀没年が、四〇〇年であることも疑問の余地がない。
 つまり三九四年即位から四〇〇年没にいたる仲哀の治世は、七年である。九年ではない。
 これをあえて九年とするのは、神功の立妃が成務四年(没年)の西紀三九三年にあったためだと思う。立妃が仲哀践祚年(三九三)にあったために、その年を仲哀紀の係年の基準としたのであろう。「立后二年」という文法から、六九三年を立后年とする仲哀の即位元年は、三九二年ということになる。
 一連のこの作為の理由もまた、無二の英雄であった気長足姫の存在の大きさのためである。
 かくして仲哀紀は、オリジナルである三九四年即位元年という第一紀年と、三九二年元年とする第二紀年があった。第二紀年から治世九年は西紀四〇〇年になる。第一紀年(オリジナル)の仲哀七年もまた四〇〇年になる。広開土王碑が「倭満新羅城中」と書く年である。
 仲哀紀の中身に入っていこう。
 まず注意を要するのは、遷宮が二年敦賀気飯宮ということである。
 遷宮はふつう践祚年または元年である。成務の近江遷宮も二年であったが、その理由はすでに述べた。近江の重要性が圧倒的なため、即位の時の宮城が記録されなかっただけであろう。
 前王の成務が近江高穴穂宮にいたのであるから、仲哀の宮はそれよりさらに大和から離れている。成務が半島に干渉するために近江に出たのであれば、仲哀はまた一歩先に進んだことになる。
 大和の半島への前哨基地はときに日本海沿岸にあったから、これはある面当然だが、前後関係からするとこの敦賀への遷都は唐突に感じる。時代の背景もそうだが、そもそも即位事情がよくわからない。
 仲哀は成務の「甥」と記録されるが、これは成務が景行の子で、仲哀が景行の子の倭建の子、つまり景行の孫というためである。倭建の双生の兄に大碓がいて、古事記によれば父たる景行と嬪をあらそったというから、景行と倭建はかならず異母の兄弟でなければならない。
 すなわち仲哀は成務にとって甥ではなく、従兄弟にあたる。
 従兄弟であっても、成務の系統が切れているなら、仲哀の王位継承は不自然ではないが、事実はそうではなかった。成務には八坂入姫を母とする同母弟がひとりいた。五百城入彦という。
 景行のとき、小碓・成務・五百城の三人を立太子したという伝承があり、五百城はその一人である。成務が若くして死んだとき、第一の王位継承者は五百城である筈である。ところが五百城の記事はまったくない。不思議なほどまったくない。
 ちなみに立太子記事というのは、本来王位についた人物を指示する記事であると思う。大王でなく立太子記事だけある筈がないから、これは隠された大王の存在を示唆するのである。倭建と同様、五百城も王位につくか、それに準ずる立場にあった可能性を考えておかなければならない。
 次に問題になるのは、敦賀遷宮の年仲哀二年が、記録上の仲哀紀二年(三九三)か、それとも実仲哀紀二年(三九五)かという点である。敦賀笥飯宮が成務の勅令によるものか、成務没後の仲哀の主体的行動によるものかを明らかにすることでもある。疑義のある仲哀の即位の有無にも関ってくる。
 とりあえず前者の理解が自然な文脈に思える。垂仁が王子の景行にそうしたように、成務もまた王子の仲哀を半島の前哨基地たる敦賀へ派遣した。その先周防への進出まで予定していたかも知れない。その場合、仲哀二年条は、その即位前記つまり成務四年没年(三九三)に当たる。実仲哀紀の即位前紀年でもある。
 書紀によればその年一月であった。すでに立妃(一月一日)が済んだ気長足姫を伴っていた。
 そして三月、仲哀は脈絡のない行動をとる。気長足姫を敦賀に残して、南海道(紀伊)を巡幸する。紀伊が紀州でなく、気長の山城の紀伊とみなすと、事がかなりはっきりしてくる。仲哀の行動は成務の没にともなうものであったと思う。
 成務が三月に仲哀を立太子したという記事も背景を示唆する。六月没と記録するが、立太子没年をいう三月こそ成務が没した月であろう。成務の陵が狭城盾列にあると伝えることも、後背地たる山城の紀伊に関わる。
 すると仲哀が紀伊の後、神功と連絡をとりつつ、みずから紀伊を發って単独穴門をめざしたのは、とりあえず践祚直後にひきつづき成務の意向を体して、半島への親征を試みたということになる。
 成務の病床に仲哀のある姿を、欽明の傍らにある敏達と重ねてみてみたい。
 元年の蒲見別の話はそのまま元年、実際の即位前紀年のさらに一年前のことになる。三九二年である。仲哀が父倭建をしのぶために「白鳥を献ずべし」というと、蒲見別が嘲ったので、兵をやって誅したという。その蒲見別は仲哀の異母弟である。この事件を一一月と閏一一月といっているのは、この成務生前の時期にすでに、王位の継承または立太子にともなう騒乱があったことを示唆する。
 このときの書紀の記述は特殊なものである。

時の人曰わく、「父はこれ天なり、兄また君(大王)なり。
それ天を慢り、君に違ひなば、何ぞ誅を免るること得む」とい  う。是年、太歳壬申。

 あたりまえのことを記するのは、その実あたりまえではないからである。仲哀はこのとき、出自が成務にとっては薄弱であったにもかかわらず、大王位を継ぐことがきまったのだと思う。成務の没する前年の一一月である。英雄倭建への巷間の想いが、時の朝廷にもまた存在していたという想像がわく。
 この文脈は、後の安興が雄略をさしおき履中の遺児市辺に王位を譲ろうとしたという挿話と、おなじ雰囲気をもっている。たとえば成務は、非業の最後をとげた倭建を民衆とともに奉じつつ、五百木や継承権のある王子たちを退けて、仲哀を指名したのであろう。仲哀の即位に変則的なものがあり、片方で纂奪の匂いや、即位のなかった王としたら不自然なはずの雰囲気が薄いのはこのためであろう。
 成務三年(三九二年)すなわち仲哀元年、事実上実仲哀即位前々紀年である。
 仲哀の治世七年をあえて九年とした書紀の意図は、その事実上の立太子年(三九二)から仲哀の治世がはじまることをいうと同時に、その翌年の敦賀遷宮こそ、神功が実際に仲哀の妃となって随行した年でもあったという二重の意味をもたせることにあった。
 仲哀紀を復元する。 

 仲哀紀年譜 
 =====================================================
 干支 西紀 紀年          記                 事
 =====================================================
 壬辰  392 元年      |  立太子 白鳥献上 蒲見別の乱
 癸巳  393 2年      |  敦賀 紀伊 成務没(践祚)穴門 神功合流
 甲午  394 3年 元年 |  (仲哀元年)
 乙未  395 4年 2年 |  
 丙申  396 5年 3年 |  
 丁酉  397 6年 4年 |  
 戊戌  398 7年 5年 |  
 己亥  399 8年 6年 |  筑紫 橿日 熊襲征伐
 庚子  400 9年 7年 |  病没 穴門帰還 密葬 神功新羅征
 辛丑  401 10年 8年 |  神功摂政元年
 ====================================================

 今一度まとめてみる。仲哀の敦賀笥飯宮は成務没年・仲哀即位前紀年の三九三年であった。一月に気長足姫の立后、二月に敦賀笥飯、三月に紀伊巡幸という順序である。この紀伊が荒河戸畔とおなじく山城の紀伊であり、成務の殯が近江を含める気長氏の版図のうちで行われたことを意味する。仲哀は三月の間そこに滞在、六月に周防穴門に入った。
 文脈として確かなことは、書紀が記録する「熊襲が騒いだ」ためなのではない。
 三九一年以来騒乱のいまだ止まぬ半島の、早急な収拾のために周防に渡った。その身分はすでに大王であり、別途に存在した大王に派遣された王族将軍であったのではない。半島の問題こそ、時の大和の朝廷の最大の関心事であった。仲哀は、大和を離れて近江に遷都した成務と同様な動きをしている。この時期、動いている方の王族こそ正当な後継者であるべきである。仲哀と別途の王権が大和にあったとする見解は、時代的な背景からも迂遠とみるべきであろう。
 後に神功と乳飲み子の応神を迎え撃った大和の籠坂・忍熊の二王子の出自が、この背景をさらにあきらかにする。世代的に仲哀の子ではなく、仲哀・神功と世代を同じくする大王氏の王子に違いない。
 ちなみに仲哀は仲哀紀二年に周防穴門に入って、その後八年に筑紫に入るまで記事が欠ける。延べ七年間である。この間、仲哀と神功がそのまま周防にあったかは疑問である。永すぎる。
 おそらく数年間は大和に帰っていたのであろう。前後関係からすれば、あらためて仲哀八年(三九九年)に周防に入った。仲哀二年の西征出立記事がこれと重複することがあれば、仲哀七年九月に穴門豊浦宮に入っているのである。景行と同様、周防から半島への干渉を行いつつ、いまだまつろわぬ筑紫の勢力を攻めていた。これにともなって、周防よりは半島に近い、博多湾沿岸のとくに儺県の首長を降ろすことが焦眉の目標であった。
 八年一月、仲哀は筑紫に降りついで橿日宮(香椎宮)に入った。この文意の明確な記事は、仲哀の儺国攻略がその時ようやく成就したことをいっている。
 足仲津彦という所以である。仲津彦の仲は「儺」の意にほかならない。儺征服王である。
 そして同年九月、熊襲征伐を勅令した。
 この熊襲もまた、文脈からして新羅の仮託でなければならない。仮に九州制覇の目標が仲哀にあったとしても、直接的な目的は新羅もしくは新羅の勢力下の加羅の地であった。これを征するにあたって、立地上も北九州の部族を懐柔しておく必要があった。従たる文脈を主たる文脈に替えているのである。
 そして、仲哀九年(四〇〇年)二月、仲哀は志なかばで筑紫橿日宮に仆れる。仲哀が黄金の国新羅を知らなかったという書紀の記事は、新羅の事績をすべて神功に仮託した編者の作為に過ぎないが、そのために仲哀の敵対する相手も統一的に熊襲としたのである。景行のそれが熊襲であったのも同じ理由によるであろう。
 その志を気長足姫が継いだ。

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