第三章 大鷦鷯β

第二節 髪長媛β

百済一九代久爾辛王β

 久爾辛については前章にふれたが、あらためて三国史記と対照しながらみてみよう。


三国史記年譜
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 干支 西暦|( 新  羅 )|  高句麗   |  百  済   |    倭     |
-----------広開土王碑-------------------------------------
 庚寅 390 |          |済侵麗     |伐麗       |           |
 辛卯 391 |倭渡破三韓|談徳即位   |           |襲津彦新羅 |
 壬辰 392 |(実聖麗質)|送使羅修好 |麗侵王没   |阿花立     |
 癸巳 393 |(倭囲金城)|済来撃破   |伐麗       |           |
 甲午 394 |          |済来侵撃破 |輿麗戦敗   |           |
 乙未 395 |          |           |輿麗戦敗   |           |
 丙申 396 |伐済及人質|           |           |           |
 丁酉 397 |          |           |腆支倭質   |百済人来   |
 戊戌 398 |          |遣使燕     |欲伐麗     |武内筑紫   |
 己亥 399 |倭満羅国境|           |欲伐麗     |           |
 庚子 400 |救羅城中倭|攻燕       |           |(神功新羅) |
 辛丑 401 |(実聖帰還)|侵燕       |           |           |
 壬寅 402 |(未斯欣質)|燕攻麗     |遣使倭球   |           |
 癸卯 403 |済侵辺    |燕襲麗     |倭使来     |           |
 甲辰 404 |          |           |           |           |
 乙巳 405 |倭攻明活城|           |腆支立王   |           |
 丙午 406 |          |           |           |           |
 丁未 407 |倭来侵    |           |           |           |
 戊申 408 |王欲襲対馬|           |           |           |
 己酉 409 |          |           |倭使求明珠 |           |
 庚戌 410 |          |           |           |           |
 辛亥 411 |          |           |           |           |
 壬子 412 |          |談徳没     |           |           |
 癸丑 413 |          |長寿元年   |           |久爾辛立   |
 甲寅 414 |          |           |           |           |
 乙卯 415 |          |           |           |           |
 丙辰 416 |          |           |晋冊使来   |           |
 丁巳 417 |訥祇立    |           |           |           |
 戊午 418 |(王弟帰還)|           |送倭白綿   |           |
 己未 419 |          |           |           |           |
 庚申 420 |          |           |久爾辛立   |枯野・阿知来|
 辛酉 421 |          |           |           |           |
 壬戌 422 |          |           |           |応神立・髪長|
 癸亥 423 |          |           |           |百済縫工女 |
 甲子 424 |遣使麗    |羅使来     |           |阿直支来   |
 乙丑 425 |          |           |           |王仁来     |
 丙寅 426 |          |           |           |遣阿知呉   |
 丁卯 427 |          |           |眦有立     |           |
 戊辰 428 |          |           |倭使来     |高麗・百済女|
 己巳 429 |          |           |遣使宋     |           |
 庚午 430 |          |           |宋使来     |応神没     |
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 応神紀のなかで久爾辛記事だけが、阿花・腆支・眦有と異なった係年、つまり実成務紀年でなく実神功紀年で表記されていることについては、先のように特別な理由があった。腆支と倭人の女から生まれたこの王が、東晋の義煕九年(三一三)に百済に送還され、翌年(三一四)即位したという伝承があったためにほかならない。
 その父腆支も、倭に人質にあった西紀四〇五年、阿花王の没にともなって、護衛つきで倭から百済に送還され、直ちに即位しているから、同様な文脈を久爾辛にもあてはめたのである。
 書紀のこの文法によれば、倭から送還する百済人は直ちに王となるべきであった。
 後の百済第二一代蓋鹵王は、臨月の愛妾をわざわざ、人質に出す弟昆支につけて倭に送った。わが子が生れたら、すぐ送り返せという条件つきである。分かりにくい話なのだが、なにかしら倭で生まれた王子が然るべく百済王になるというような認識が敷衍されていたように思える。その嚆矢にしてよきサンプルであったのが腆支であった。久爾辛がもう一つのサンプルになった。
 書紀が久爾辛の即位を応神紀二五年(四一四)とするのは、ひたすらこれによるが、今一つこの二五年条が事実上神功二五年(四二五)に相当し、正確な腆支没年すなわち久爾辛即位元年であったためにほかならない。もし一年ずれていれば、迷うこと無く応神紀二四年(四一三)とみなして、久爾辛帰還の年に合わせたであろう。
 別の理由もあったかも知れない。応神紀一四年(四〇三)に「百済縫衣工女来」という記事がある。倭の側の記事であるから、これはかならず五百城一四年(四二三)のことであろう。
 この百済から倭への贈答が、もし腆支でなく久爾辛の意向であるとすれば、時に久爾辛が太子であろうと、書紀が「王」とこれを記すことが大いにあり得る。この傍証となるのが、久爾辛の仮託とみられる古爾王の記事であった。

百済第八代古爾王β

 すなわち三国史記百済本紀の「古爾王紀(西紀二三四〜二八六)」五〇年条ならびに五二年条にこうある。


         古爾五〇年    送縫衣女日本、日本服色始此
         古爾五一年
         古爾五二年    送博士王仁日本、仁斎論語及千文字
         古爾五三年    古爾王没

 ちなみに古爾王の即位年は、三運降らしてみるとちょうど西紀四一四年にあたる。応神紀二五年条、「直支王没、久爾辛王立」と書く西紀三一四年である。
 これまでの検討であきらかなように、これは実成務紀二五年ではなく、実神功紀二五年(四二五)の記事にほかならないが、それでなお、史記「済紀」が、久爾辛の仮託たる古爾王の即位を、西紀二三四(四一四)年に仮託するのは、この辺の済紀がそもそも(滅亡によって)記録の残ることがなかったため、書紀の記事を無造作に援用したことによるであろう。
 さて、送縫衣女日本とある古爾五〇年は二八三年、送博士王仁日本とある五二年は二八五年にあたるが、この干支をたとえば二運あるいは三運降らせても意味がない。四〇三年、四〇五年である。
 そうでなくて古爾の五三年没年すなわち二八六年との関係の方が重要である。倭に衣縫工女を送った古爾王は、二年後にまた王仁を送り、さらにその翌年没しているのである。  書紀の復元からする百済縫工女の渡来は四二三年、阿直支のそれが四二四年、王仁の渡来が四二五年であった。古爾に仮託される久爾辛は、四二六年に没していることになる。
 おおまかには事実に即すのではないかと思うが、書紀はさきのように応神二五年条に、「直支王没、久爾辛王立」と述べている。これはあくまで神功紀二五年で、西紀四二五年のことであるから、古爾五〇年条と五二年条の記事は、事実上腆支王の治世下での太子久爾辛の事績ということになる。
 そしてその古爾五二年に、腆支が没し久爾辛が即位する。西紀四二五年である。古爾はその五三年に没しているから、ここに焦点を当てれば、久爾辛は四二六年に没していることになる。治世わずか二年である。一方、眦有が立つ四二七年がそのまま久爾辛の没年とすれば、久爾辛は四二七年没、治世三年ということになる。
 久爾辛の没年は、二通りの解をもつことになる。
 応神紀三九年条に、「百済直支王が、妹新斉津媛をおくってきた」という記事がある。前後関係(応神二五年に直支没)に大きな齟齬があり、おそらく直支でなく眦有の間違いであろうといわれきた。その通りであろう。
 応神紀三九年は成務三九年(西紀四二八)と見られる。眦有は西紀四二七年即位と記録されるから、これは眦有二年の記事ということになる。済紀の眦有二年条にもこれに該当する「倭使来」という記事があるから、これは史記百済本紀が久爾辛を疎外するのに対し、書紀が眦有王という存在をあえて無視してかかるするのである。双方の立場の違いが鮮明にでている。
 腆支の嫡子は久爾辛で、眦有は庶子であった。三国史記が百済本紀で眦有は久爾辛の嫡子と書くのは、正統性の確保のためか、でなければ倭に対する外交的な修辞であった。百済国内ではいたって眦有こそ腆支の嫡子で、久爾辛が庶子の扱いであったのではないかと想う。
 関連する宋書百済伝の記事は、つぎの通りである。

 晋義煕一二年(四一六)百済王餘映を鎮東将軍百済王
 宋永初元年(四二〇)  餘映を鎮東大将軍百済王
   景平二年(四二四)  映貢献
   元嘉二年(四二五)  鎮東大将軍百済王、毎年方献
   元嘉七年(四三〇)  餘眦貢職、亦鎮東大将軍
   元嘉一七年(四四〇)百済国、遣使献物
   元嘉二七年(四五〇)眦、上書献物
   大明元年(四五七)  慶を任官

   ここで餘映というのは腆支のことで、三国史記も注でそう述べている。
 その映は西紀四一六年から四二五年まで朝貢しているから、すくなくとも四二五年までは映の治世であった。史記が腆支が四二〇年に没し久爾辛が即位したと書くのが誤りで、書紀が腆支の没を応神紀(神功)二五年(四二五)としているのが正解であることが、これで分かる。宋書百済国伝の保証つきである。
 さて久爾辛の没年には、古爾の没の四二六年と、久爾辛の没の四二七年の二つの解があった。この一年の差は不審である。
 不審であるが、これは史記の古爾の記録が正確なのではないかと思う。書紀はあえて久爾辛の没と眦有の即位を書かないが、記録があったとすれば、古爾として書かれた内容の方であった可能性が高い。肖古・仇首の記事が近肖古・近仇首のそれより実態に近いのと同じである。
 要するに久爾辛は四二七年ならぬ一年前の四二六年に没したが、その後継にあたって騒乱があった。その騒乱の一端を伝えるのが、応神紀(神功)二五年条の久爾辛即位にともなう「木満致、国政を執る。王母と相婬けて、多に無礼す」という記事である。
 先のように、時代的に木満致でなく木羅斤資が、久爾辛即位時でなくその治世の途次または没にあたって、王母を籠絡して後継に口出すことがあったのである。一時期、久爾辛の幼児か誰かが即位した可能性もある。
 ひるがえって倭国なり現地の韓子なりが、この時期の百済に干渉したのは事実なのであろう。
 百済は西紀三九六年の大敗以来、高句麗に対する復讐に一念を懸けていた。そのために倭と結び、腆支を入質(三六七)、腆支の帰還・即位(四〇五)、腆支と倭人の子久爾辛の即位(四二五)と、倭との連携を心掛けた。
 久爾辛の没と、腆支と百済の女との子である眦有の即位は、この連携を危うくする可能性があった。眦有二年すなわち応神紀(成務)三九年(四二八)の「妹新斉津媛」の贈答は、この修復のためであろう。後に眦有の子蓋鹵王が弟昆支を入質させる時、昆支に孕んだ愛妾を伴わせたのも、この文脈の延長線上にあるであろう。
 広開土王以来、敵国高句麗との圧倒的な兵威の差を思い知らされていた百済の、基本的な外交路線であったのである。
 さて話を先に進めよう。応神の時代における倭と百済の関係が以上のようなものであったとすると、倭と新羅のそれはこれとは相当異なっていた。
 この時期の新羅については、書紀は具体的に書いていない。史記もこの時代、「倭侵略」をいくどか記録することはあるが、やはり具体的には書いていない。記事がない筈はない。
 結局、双方ともこの時代ををねじ曲げて記述していることになるが、実は意外な視点で別途これを描いていると思う。つまり新羅と倭とは継続的かつ親密な交流があった。その証左をみていこう。

日向髪長媛β

 渡来人と並んで応神紀を彩るのは、髪長媛の挿話である。
 書紀はこう語っている。

 一一年、人有りて奏して曰さく、「日向国に媛子有り。名は髪長媛。即ち諸県君牛諸井の女なり。是、国色之秀者なり」とまうす。  天皇、悦ぼて、心の裏に徴さむと欲す。
   一三年春三月、天皇専使を遣して、髪長媛を徴さしむ。秋九月中、髪長媛、日向より至れり。便ち桑津邑に安置らしむ。爰に皇子大鷦鷯尊、髪長媛を見たまふに及りて、其の形の美麗に感でて、常に恋ぶ情有します。
 是に天皇、大鷦鷯尊の髪長媛を感づるを知しめして配せむと欲す。是を以て、天皇、後宮に宴きこします日に、始めて髪長媛を喚して、因りて、宴の席に坐らしむ。時に大鷦鷯をめして、髪長媛を指したまひて、乃ち歌して曰はく、(略)
 是に大鷦鷯尊、御歌を蒙りて、便ち髪長媛を賜ふこと得ることを知りて、大きに悦びて、報歌たてまつりて曰はく、(略)大鷦鷯尊、髪長媛と既に得交すること慇懃なり。独髪長媛に対ふて歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女を、神の如、聞えしかど、相枕枕く」、又、歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女、争はず、寝しくをぞ、愛しみ思ふ」

   書紀一書はこう書いている。  

 一に曰く、日向の諸県君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふる能はず。即ち己が女髪長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇、淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。是に天皇、西を望すに、数十の大鹿、海に浮きて来たれり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。
 天皇、左右に語りて曰はく、「其、何なる大鹿ぞ。巨海に泛びて多に来る」とのたまふ。爰に左右共に視て奇びて、即ち使を遣して察しむ。皆人なり。唯角著ける皮を以て、衣服とせらくのみ。
 対へて曰さく、「諸県君牛、己が女髪長媛を以て貢上る」とまうす。天皇悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。

 古事記はこう語っている。

 天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使いたまはむとして喚上げたまふし時、その太子大雀命、その媛女の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正しきに感でて、すなわち建内宿禰大臣に誂へて告りたまひけらく、「この日向より喚上げたまひし髪長比売は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。

 ここに建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇すなわち髪長比売をその御子に賜ひき。賜ひし状は、天皇豊明聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、その太子に賜ひき。

 (略)故、その媛女を賜はりて後、太子歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕くとうたひたまひき。また歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女は、争わず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふとうたひたまひき。

 髪長媛は、応神が招いたにもかかわらず、応神の子仁徳が娶っている。この一言だけでも、仁徳が応神の子でなく弟であろうとみなすことができる。書紀・古事記の文法のなかで、互いに妾を争う父子はかならず兄弟であった。
 仁徳が応神をさしおいて横からさらったような書きかたは、互いに怨念が残りそうな危うさがあるが、応神はあえてこれ文句をいわず、仁徳は当然という顔で髪長媛を娶っているのである。父子でなく兄弟であることからすれば、なにか別の背景がありそうな気がする。
 髪長媛は日向諸県君牛の女というが、まずこの出自には決定的な疑義がある。筑紫日向の地は景行紀が初出であるが、その後はどこにも登場しない。突然あらわれる諸県君牛という日向の豪族は、いったい何者であろうか。
 この点について、筑紫と日向にかかわる考証は省略したい。仲哀の時代、熊襲が新羅の仮託であったことからすれば、この日向もまた筑紫の日向ではない。
 結論を先に言ってしまうと、新羅であると思う。
 髪長媛が日向でなく新羅からきたという証左はいくつもある。その最たる証左は、髪長媛をえた仁徳が、髪長媛を「古破儷嬢女」と呼びかけていることである。
 古破儷嬢女(書紀)・子波陀媛女(古事記)である。
 破儷・波陀は秦・幡と同じであろう。羽田(波田)も同様かも知れない。秦氏の秦は「波陀」と訓むと注もある。
 新羅語の海を意味する「ぱた」であろう。于柚に属する地名で新羅東岸に二ヵ所ある。
 書紀一書のいう、角つきの鹿皮をまとった人も、垂仁紀の意富加羅の人「都怒我阿羅斯等」によく似ている。新羅の貴人は加羅とおなじく冠を被った。角である。  髪長媛の子が大草香皇子と幡梭皇女であるが、大草香皇子は幡梭皇子ともいったのである。その語根は「幡」であり、そもそも忍穂耳の妃で瓊々杵の母である人は、「豊幡」といった。半島の出自を意味する。
 だから髪長媛の渡来(四二二年)と、秦氏の祖弓月君の渡来(四二三)は無関係ではなかった。つまり髪長媛が来た翌年に秦氏祖弓月君が渡来している。その一族郎党はさらにその二年後(四二五)にやってきた。
 その新羅王家につながる一家は、仁徳後裔として幡梭一族になる。新羅王家に仕えた弓月君の一族が、大和に入って秦氏になる。さらに幹の一部が日向に入って土着し、後に諸県君牛と呼ばれる豪族になる。
 最後の件については証拠が不足するから、想像の域を脱しないが、古墳時代中期後半以降、突如、巨大な前方後円墳が日向のに発生するのは、それなりの根拠がなければならない。

 
実応神紀年譜
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 庚申  420   阿知・都加来             枯野(船) (髪長媛の噂)
 辛酉  421          五百城没                   
 壬戌  422          応神即位・大隅宮 淡路巡狩     (髪長媛来)
 癸亥  423   百済縫工女来                         (弓月君来)
 甲子  424   阿直支来               
 乙丑  425   王仁来<腆支没久爾辛立>             (秦一族来)
 丙寅  426         <久爾辛没>      遣使阿知呉
 丁卯  427         <眦有立>        宇治行幸
 戊辰  428   百済新斉津媛来          高麗使来(百済・新羅)
 己巳  429                                             
 庚午  430          応神没           阿知帰
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羅紀訖解三年条β

 髪長媛のこの解釈が過不足ないのは、半島の史料がこれを補足するからである。すなわち、史記新羅本紀「基臨紀(訥祇)」三年条と「訖解紀(訥祇)」三年条・五年条に、こういう記事がある。


         基臨三年      與倭国交聘
         訖解三年      倭国王遣使為子求婚、以阿C急利女送之
         訖解五年      急利為伊C

         訖解三五年    倭国遣使請婚、辞以女既出嫁
         訖解三六年    倭国移書絶交
         訖解三七年    倭兵進囲金城、急攻

 事前に一部触れておいたが、基臨と訖解なる王は存在しない。基臨の一代前の王である儒礼という王も存在しない。新羅本紀で歴として存在したのは、それ以前の、奈解、助賁(利音)、沾解(于老)という三人の昔氏の王または王子である。奈解の兄に伐休がいたかも知れない。
 さらに存在しない基臨・訖解の後に、事実上の金氏の始祖王奈勿が登場するのである。
 したがって基臨・沾解は、後の王の仮託である。儒礼もまた後の王の仮託である。その即位を穏当な干支であてはめて、なお西暦に換算すると、基臨は西紀四一八年即位、訖解は西紀四三〇年即位、儒礼は四〇四年即位となる。
 するとそこに仮託した元の王はあきらかであろう。基臨は三国史記が西紀四一七年即位とする訥祇の仮託である。儒礼は西紀四〇二年即位とする実聖の仮託である。二王の間にある訖解は、論理的にもどちらかの王の二重の仮託でなければならない。これも訥祇であろう。
 したがって基臨・訖解はいずれも西紀四一八年即位として、その係年をあてはめればいい。儒礼はそのままあてはめればいい。儒礼は治世一五年であったが、一五年はその治世の後の方を前王に仮託する必要がない。基臨もまた治世一三年であるからそのままでいいであろう。訖解だけが治世四七年という長大なそれであった。その治世の後半部分は、儒礼のそれでなければならない。
 先の基臨・訖解の倭にかかわる記事は、そこでつぎのような係年に復元できる。
 前半の訖解五年条までをまず検討の対象にする。


 四二〇   基臨三年      與倭国交聘
 四二〇  訖解三年      倭国王遣使為子求婚、以阿C急利女送之
 四二二  訖解五年      急利為伊C
 

 これがなにを意味するかについては、応神紀とつきあわせれば、一目瞭然である。応神紀にはこうある。

 四二〇   応神一一年    髪長媛の噂
 四二二   応神一三年    髪長媛を招(3) 髪長媛来(9)
 

 西紀四二〇年の書紀の「髪長媛の噂」と、羅紀の「與倭国交聘」ならびに「倭国王遣使為子求婚」が一致する。付帯して、「以阿C急利女送之」という記事があるが、これはその二年後、羅紀が「急利為伊C」とあるのと連動するであろう。阿C(新羅第六等官)が伊C(同二等官)に昇進したことをいうが、女を出した論功のためとみられ、このとき「以阿C急利女送之」、つまり女が無事に倭に着いたいう事実があったのである。
 西紀四二二年、すなわち応神の即位元年であった。
 さて髪長媛を招いたのは応神であったが、これを娶ったのは仁徳であった。そのために四三八年、羅紀が「倭国遣使請婚、辞以女既出嫁」と記録する倭からの再度の求婚の意味もわかる。
 この年は事実上仁徳没年、嫡子履中が践祚するべき年であった。これを新羅は蹴った。そのために二年後、倭兵が王都金城を囲むことになる。
 三国史記がなぜこうした五世紀の史実を、悠久の過去までさかのぼらせたのかは、わからない。わからないが、三国史記の編者は、書紀が認めなかった事実はあえて書かないという姿勢をもっていたかのようにみえる。
 事実は書紀のせいでなく、書紀・古事記の原典であった天皇記・国記等にも先立って、確固として存在していた新羅真興王の史書のためであろう。三国史記は、はるか悠久の過去に発する編纂方針をもっていたことになる。
 ちなみに倭の新羅に対する意識は、百済に対するそれとは驚くほど違う。
 百済とは対高句麗という視点で、四世紀後葉以来、同盟の関係にあったが、広開土王の出現で百済が高句麗に圧され始めてからは、倭の立場が相対的に強まることになったらしい。高句麗との力量差を、倭のバックアップで埋めるという百済の方針が、たぶんこの関係を恒常化していった。
 百済にしてみれば倭の巨大な人口とこれにみあう兵力は、つねに期待するところとなり、倭の方はこれをもって驕慢になったのであろう。もてるもの、与えるものの傲慢である。腆支や久爾辛は人質時代や王位につくにあたって倭に恩義があり、この反対給付が調とみなされる根拠にもなった。
 実態はおそらく倭の発言権が若干ある程度の、単なる同盟であったにちがいない。百済は期待するあまり持をを低くし、倭は必要以上に尊大になったというのが穏当なところであろう。
 新羅はこれとははっきり違った。
 ひとつには加羅も含むいわゆる弁辰の地に対する、歴史的かつ神話的な尊厳があった。瓊々杵の貴種性である。  これはどの時代においても恒常的にそうであったらしく、神功の新羅侵略のような事件を経てもなお、その本質的な視点は変わることがなかった気がする。すなわち倭は、新羅につねに畏怖と憧憬の念をもちつづけた。
 景行・成務・仲哀の時代から、応神・仁徳の時代にとどまらず、曽我馬子・聖徳、さらには天智・天武の時代まで、かわらぬ思いがあったと思う。聖徳が祖父欽明と、欽明の時代の新羅真興王につよい憧憬を抱いていたのは周知のことである。聖徳にとってはこの二人が英雄であったのだろうが、真に目標としたのはほかならぬ真興王一人であったといっていい。この果敢な事績をもつ新羅王は、その父法興王の遺志を継いで仏教徒でもあった。史書の編纂を始めた嚆矢でもあり、倭国が最初に生んだ文明人であった聖徳にとっては、かけがいのない先達であった。
 百済からも幾度か王家の女が贈られたが、それらの女から生れた王子は嫡流にも貴種の王族にもならなかった。仁徳と新羅髪長媛から生れた幡梭の一族は、つねに大王氏の貴種なる王家であり、大王位を允恭と競い(大草香皇子)、また雄略の時代の幡梭皇女にいたっては、まぎれもなく雄略の嫡后であった。

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