第三章 大鷦鷯β

第三節 大鷦鷯β

空白の三年間β

 応神は治世九年で西紀四三〇年に没する。その後(三年を経た後)を仁徳が襲うが、その仁徳の即位事情は尋常なものではなかった。
 応神は菟道稚郎子を太子に立てていたが、菟道稚郎子は応神の没後、践祚することなく王位を大雀命に譲ろうとする。大鷦鷯も先王の遺訓を楯に拒みつづけるが、間隙を突いて異母兄大山守が王位を狙って挙兵する。菟道稚郎子は菟道に迎え撃ってこれを退けるが、ふたたび菟道宮に逼塞してしまう。
 大王位はかくして空白のまま三年を経たが、菟道稚郎子はついに自ら命を絶って、いやおうなく仁徳を践祚させることになる。
 書紀はこれをこう語る。

 四一年の春二月、誉田天皇崩りましぬ。時に太子菟道稚郎子、位を大鷦鷯尊に譲りまして、未だ即帝位さず。仍りて大鷦鷯尊に諮したまはく、「(略)願はくは王、疑ひたまはず、即帝位せ。我は臣として、助けまつらまくのみ」とのたまふ。

 大鷦鷯尊、固く辞びたまひて承けたまわずして、各相譲りたまふ。是の時、額田大中彦皇子、将に倭の屯田及び屯倉を掌らむとして、謂りて曰はく、「是の屯田は、本より山守の地なり。是を以て、今吾、将に治らむとす」

 大鷦鷯、倭吾子籠に問ひたまふ。吾子籠対へて言さく、「凡そ倭の屯田は、毎に御宇す帝皇の屯田なり。其れ帝の子と雖も掌ることを得じ」とのたまひき。大中彦、更に如何にといふことなし。

 然して後に、大山守皇子、毎に先帝の廃てて立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨み有り。即ち謀して曰はく、「我、太子を殺して、遂に帝位に登らむ」といふ。  (略)時に太子(菟道稚郎子)、兵を設けて待つ。大山守皇子、其の兵の備へたることを知らずして、夜半に発ちて曙に菟道に詣る。(略)伏兵多に起りて、岸に著くを得ず。遂に沈みて死せぬ。

 乃ち(大山守を)那羅山に葬る。既にして宮室を菟道に興てて居します。(略)爰に皇位空しくして、既に三載を経ぬ。
 (略)太子の曰はく、「我、兄王の志を奪うべからざることを知れり。豈久しく生きて、天下を煩さむや」とのたまひて、乃ち自ら死りたまひぬ。(略)大鷦鷯尊、驚きて、難波より馳せて、菟道宮に到ります。乃ち太子、同母妹八田皇女を進りて曰はく、「納采ふるに足らずと雖も。僅かに掖庭の数に充ひたまへ」とのたまふ。乃ち、且棺に伏して薨りましぬ。仍りて菟道の山の上に葬りまつる。元年の春正月、大鷦鷯尊、即天皇位す。

 応神は治世九年で西紀四三〇年に没する。その後(三年を経た後)を仁徳が襲うが、その仁徳の即位事情は尋常なものではなかった。
 応神は菟道稚郎子を太子に立てていたが、菟道稚郎子は応神の没後、践祚することなく王位を大雀命に譲ろうとする。大鷦鷯も先王の遺訓を楯に拒みつづけるが、間隙を突いて異母兄大山守が王位を狙って挙兵する。菟道稚郎子は菟道に迎え撃ってこれを退けるが、ふたたび菟道宮に逼塞してしまう。
 大王位はかくして空白のまま三年を経たが、菟道稚はついに自ら命を絶って、いやおうなく仁徳を践祚させることになる。
 書紀はこれをこう語る。

 四一年の春二月、誉田天皇崩りましぬ。時に太子菟道稚郎子、位を大鷦鷯尊に譲りまして、未だ即帝位さず。仍りて大鷦鷯尊に諮したまはく、「(略)願はくは王、疑ひたまはず、即帝位せ。我は臣として、助けまつらまくのみ」とのたまふ。

 大鷦鷯尊、固く辞びたまひて承けたまわずして、各相譲りたまふ。是の時、額田大中彦皇子、将に倭の屯田及び屯倉を掌らむとして、謂りて曰はく、「是の屯田は、本より山守の地なり。是を以て、今吾、将に治らむとす」

 大鷦鷯、倭吾子籠に問ひたまふ。吾子籠対へて言さく、「凡そ倭の屯田は、毎に御宇す帝皇の屯田なり。其れ帝の子と雖も掌ることを得じ」とのたまひき。大中彦、更に如何にといふことなし。

 然して後に、大山守皇子、毎に先帝の廃てて立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨み有り。即ち謀して曰はく、「我、太子を殺して、遂に帝位に登らむ」といふ。  (略)時に太子(菟道稚郎子)、兵を設けて待つ。大山守皇子、其の兵の備へたることを知らずして、夜半に発ちて曙に菟道に詣る。(略)伏兵多に起りて、岸に著くを得ず。遂に沈みて死せぬ。

 乃ち(大山守を)那羅山に葬る。既にして宮室を菟道に興てて居します。(略)爰に皇位空しくして、既に三載を経ぬ。(略)

 太子の曰はく、「我、兄王の志を奪うべからざることを知れり。豈久しく生きて、天下を煩さむや」とのたまひて、乃ち自ら死りたまひぬ。(略)大鷦鷯尊、驚きて、難波より馳せて、菟道宮に到ります。乃ち太子、同母妹八田皇女を進りて曰はく、「納采ふるに足らずと雖も。僅かに掖庭の数に充ひたまへ」とのたまふ。乃ち、且棺に伏して薨りましぬ。仍りて菟道の山の上に葬りまつる。元年の春正月、大鷦鷯尊、即天皇位す。

 古事記も基本的に似た記事だが、菟道稚郎子の自刃については述べない。「然るに宇遅能和紀郎子は早く崩りましき。故、大雀命、天の下治らしめしき」と書く。
 さて、一連のこの記事についてだが、どの程度まで信用できるものであろうか。客観的にみると、ほとんど信頼できないといっていい。もともと仁徳の仁政・徳行をいうためにできている。そこへ全ての挿話が、転がりこんでいくかのようにみえる。虚妄の極みである。
 ところが子細に検討を重ねていくと、この虚妄は一に践祚における仁徳の謙譲の美徳について言いたかったという、ごく単純な理由だけだったのではないかという気もしてくる。虚妄なのはつまりその点だけと割りきると、以外の事柄は多く事実であったのかも知れない。
 ひるがえって空白の三年間というものはそもそも存在しない。書紀の編者が承知の上でそう言っている。神武の後を襲った綏靖の挿話がよく似ている。
 神武と綏靖の間に明瞭な三年間の空位があるにもかかわらず、編者は神武没年が綏靖践祚年であると書いている。意図的に示唆するこの三年間は、むろん手研耳の治世三年にほかならない。
 応神と仁徳の間にある三年もまた事実であろう。文脈から苦も無く推定できるのは、菟道稚郎子の治世三年であるが、応神四〇年条にある菟道稚・大山守・仁徳の三人に対する立太子記事のような遺詔をみれば、大山守の治世三年もありうる。
 菟道稚か大山守かという二者択一は、仁徳の即位事情に決定的な影響を与える。菟道稚であれば、書紀の係年は基本的に順当とみなせるが、大山守であれば、大山守の弑殺が、書紀のいう応神没年でなく仁徳即位前紀年の出来事でないかという疑義がでてくる。
 あえて順当な手順を避け、大山守の弑殺の年代を特定するというアプローチを試みていこう。理由はいくつもあるが、大山守は同母兄の額田大中彦の挿話と深くかかわっていて、かつそこに文脈上の明らかな齟齬があるからである。
 額田大中彦の挿話は、応神没年、菟道稚郎子と大鷦鷯が大王位を譲りあう話と、大山守が菟道稚に対して挙兵する記事との間に挟まれている。

 大鷦鷯尊、固く辞びたまひて承けたまわずして、各相譲りたまふ。  是の時、額田大中彦皇子、将に倭の屯田及び屯倉を掌らむとして、謂りて曰はく、「是の屯田は、本より山守の地なり。是を以て、今吾、将に治らむとす」  (略)
 大鷦鷯、倭吾子籠に問ひたまふ。吾子籠対へて言さく、「凡そ倭の屯田は、毎に御宇す帝皇の屯田なり。其れ帝の子と雖も掌ることを得じ」とのたまひき。大中彦、更に如何にといふことなし。
 然して後に、大山守皇子、毎に先帝の廃てて立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨み有り。即ち謀して曰はく、「我、太子を殺して、遂に帝位に登らむ」といふ。

 大山守の兄額田大中彦は、倭の屯田・屯倉が「山守の地」であるという伝えを踏まえ、自らその管掌を望んだ。要求は管理者から菟道稚郎子ついで大鷦鷯に上げられたが、真実は韓にいる倭吾子籠が知ると知って、吾子籠を呼び戻して諮問すると、倭吾子籠は「倭の屯田は、山守の地ではない」と語った。

 「伝に聞る。活目天皇の世に、太子大足彦尊に命せて、倭の屯田を定めしむ。是の時に勅旨は、『凡そ倭の屯田は、毎に御宇す帝皇の屯田なり。其れ、帝皇の子と雖も、御宇すに非は、掌ること得じ』とのたまひき。是を山守の地といふは、非ず」

 吾子籠の話の骨子は、倭の屯田が大王の専管するものという絶対性である。だから山守の地とはいわないという。山守の地の具体的な意味は「大山守の宰領地」である。
 いくつもの齟齬があるが、まず倭の屯田が「山守の地」でなかったのなら、応神没年のこの時、なぜ当然のように「山守の地」と呼ばれたのかという疑問である。額田はそういっている。
 疑問の唯一の解は、考える余地なく大山守の大王位にあるであろう。応神四〇年(没年前年)、大山守が「山川林野の管掌」に任じられたのは事実上の立太子で、翌年(応神没年)すなわち践祚、翌々年が大山守即位元年であったのである。
 すると額田が倭の屯田を望んだのは、事実上大山守の後を継ぐことを主張したことになる。時系列的には、「倭の屯田は、山守の地」といえる状態である以上、大山守がすでに弑殺にあった後の出来事となる。
 その証拠に、額田の要求が退けられた直後、

 「然して後に、大山守皇子、毎に先帝の廃てて立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨み有り。即ち謀して曰はく、『我、太子を殺して、遂に帝位に登らむ』といふ」

   という記事が、意味深長にして的を射ている。
 「重ねて是の怨み有り」という「是」は額田の事件をいうが、とってつけた感は免れえない。「毎に先帝の廃てて立てたまはざることを恨みて」という理由が本貫であろう。  するとこの記事は、もともと別のところからここに挿入された。有体にいえば、額田の挿話の前に起きている事件であった。いずれも仁徳即位前紀年(四三二年)、すなわち大山守二年のことで、記事としては太山守が先、額田が後である。
 ここで初めて額田の挿話が一貫した話になる。額田には大王位を要求する正当な権利もあった。
 系譜における主要な登場人物を整理してみる。応神の子というが、いずれも兄弟姉妹あるいは従兄弟である。


              (高城入姫)
 誉田別--+---- 額田大中彦
         |     大山守
          |
          |   (仲姫)
          +---- 大鷦鷯
          |     根鳥皇子
          |
          |   (弟姫)
          +---- 阿倍皇女
          |     
          |   (宮主宅媛)
          +---- 菟道稚郎子
                矢田皇女

 余談だが、応神は四二二年即位して、四三〇年に没している。二〇歳前後に即位および婚姻があったとすると、その没年の頃、応神の子は一〇歳に満たない。応神の子があったとしても、応神没の時点では政争に参加できない。系譜に出る人物が、すべて応神の兄弟・従兄弟であると思う理由である。
 応神の子でないとすると父王は誰かという問題だが、これは仲哀と同世代の大王である筈であるから、まずは五百城入彦であろう。五百城と高城入姫の子が額田と太山守、仲姫の子が大鷦鷯と根鳥皇子、弟姫の子が阿倍皇女、和珥宮主屋宅媛の子が菟道稚郎子と矢田皇女である。
 書紀はこの高城入姫・仲姫・弟姫を五百城入彦の孫といっている。古事記は五百木入日子の子品陀真若王媛の子という。いずれも五百城の系統を載せるが、むろんその筈はない。世代を勘案すれば五百城と同世代になるから、出自もさらに一世代さかのぼる必要がある。
 書紀景行紀にこれにかかわるべき貴重な記事がある。
 これによると、景行と八坂入姫の第一二子に高城入姫がいる。第一三子の「弟姫」もいる。いずれも成務や五百城の妹にあたる。古事記も景行と一妾の子で、「高木比売命、次に弟比売命」と書く。「一妻」という古事記の記事が正確なのであろう。
 この高城入姫・弟姫こそ五百城の后妃であり、額田・太山守・阿倍を生んだ。
 大山守はむろん額田にも、大王位を要求する十分な資格があったことになる。
 ちなみにここに仲姫はいない。なぜいないのかという問題は、この章のテーマである大鷦鷯に、直接かかわる問題であるから、しばらく後のこととする。

              (気長足姫) 
     仲哀+-----誉田別(応神)
         

              (高城入姫)
    五百城+---- 額田大中彦
         |     大山守
         |
          |   (弟姫)
          +---- 阿倍皇女
          
              (仲姫)
      ○○+---- 大鷦鷯(仁徳)
                根鳥皇子
          
          
          
              (宮主宅媛)
    五百城+---- 菟道稚郎子
                矢田皇女

   大山守と額田については、いますこし背景を明らかにできる手段がある。
 倭直吾子籠という人物である。

倭直吾子籠β

 倭直吾子籠は神武以来の大倭国造、椎根津彦の後裔である。椎根津彦は前編にでるように、姻族太(大)氏・十市氏・山城内氏の祖であるが、オフィシャルな記録ではひたすら大倭氏の祖ということになっている。後に滅んで、市磯長尾市が磐余から長柄の地に入って、倭大国魂神を奉ったが、一族は大和盆地一帯にひろく播拠していったらしい。
 もともと姻族の出であるから、衰退しつつあったといってもある程度の勢威を保っていたであろう。雄略の時代に大家の趣を譴責された志紀大県主も、太(大)氏の後裔であった。  額田大中彦の挿話に出る吾子籠は、「倭直祖、麻呂」の弟というが、はじめ仁徳は「倭の屯田」の本義を麻呂に訊ねている。時に韓国にあった吾子籠を召還したのは、麻呂が「そのことを知るのは吾子籠だけである」といったからである。
 倭直家の兄が知らず、なぜ弟の吾子籠が知っているのかという不審があるが、要するに倭直家が、宗家の責務として倭の屯田に関っていたのではないからであろう。
 倭の屯田は朝廷の直轄地ではあったが、ひたすら大王一人に帰属するものであった。そのために例えば代替りの度に、司たる管掌者も替わる慣わしであったとみたい。交替のもたらす間隙の間は、現場の実務者が代行する。
 額田が倭の屯田の管掌を求めたのは、同母弟大山守が没したために違いないから、時に倭の屯田の司も退任していた。実務の代行をしていたのが出雲臣の祖淤宇宿禰であった。
 淤宇宿禰はこの難題を菟道稚郎子、ついで大鷦鷯にもちこんだが、仁徳はさらに倭直麻呂に訊ね、ついで淤宇をして韓国まで倭吾子籠を迎えに行かせた。この文脈の示唆するところは、すなわち吾子籠が屯田の司の前任者であったためにほかならない。つまり治世三年とみられる大山守の時代に、吾子籠が屯田を管掌していたのである。
 すると太山守と吾子籠の前、すなわち応神の時に倭の屯田の司であったのが、吾子籠の兄の麻呂であったと思う。大鷦鷯がまず麻呂に尋ねたという文脈にもあう。応神・大山守の二代にわたって倭直家が司であったなら、これは倭直家はもちろん応神と大山守の近さも示唆するものである。応神・大山守と菟道稚郎子・大鷦鷯との間が遠いことも示唆する。
 倭直家が応神・太山守と近いという事実が、額田の挿話の立脚点になる。額田のよりどころがそこにあり、額田は太倭氏を頼んで大王位を望んだのであろう。
 この背景は、もっと拡大して考えるべきかも知れない。倭直家が応神・太山守に止まらずその前代である五百城の時代に、すでに倭の屯田の司であれば、倭直の一族の勢威は、大王氏の後見を自認するほどが強盛であったかも知れない。その場合。倭の屯田は、五百城の一族と倭直の一族の既得権のような存在になっていた可能性がある。
 しかし結果として吾子籠は大鷦鷯に屈するかたちになった。「是を山守の地といふは、非ず」という吾子籠の弁は、既得権を放棄して元に戻すという意味であろう。
 屈するかたちになったが、吾子籠は大鷦鷯とその後裔に服従したのではない。倭、すなわち大和の地に隠然たる勢力をもちつづけた。
 倭直吾子籠は、仁徳即位前紀年の額田の挿話の時にだけ出るのでなく、仁徳六二年(二年)条に「倭直吾子籠を遠江国に遣わし、船を造らしむ」とある。また履中即位前紀年にも登場し、叛乱した住吉仲皇子と「好を通じ」ていたという。時に履中に寝返って妹日之媛を履中に奉ったが、これが「倭直が采女を奉る」倣いの始りであったという。
 話はすこし飛ぶが、この時、はっきり住吉仲皇子に荷担して履中を追ったのは、「淡路の野嶋の海人」阿曇連浜子であった。捕らえられて刺青の刑の処せられたが、後、許されて郎党とも屯倉の役人となった。吾子籠が倭直として椎根津彦以来の勢威をもつものなら、椎根津彦の拠点のひとつであった明石と淡路に手下をもつことは想像に難くない。すなわち倭直の家は、この頃まで依然として仁徳の系統の大王に対立する勢力であったのである。
 履中に寝返ってから、恒常的に采女を出す近畿の豪族の一となったが、采女でも近畿にあるからには姻族に近い地位にある。和珥氏のようなポジションではなかったかと思う。  吾子籠はさらに、允恭紀七年(四三三)に、允恭の愛妾藤原郎女を一時自宅に預るほか、雄略紀(木梨)二年(四三八)にも采女を貢いでいる。雄略紀二年条に記録される吾子籠は、大倭国造吾子籠宿禰といった。椎根津彦の権威と同等のものである。
 ちなみに履中の時、住吉仲皇子に荷担していることも、この延長線上にあると思う。
 住吉仲皇子は、書紀・古事記とも履中の同母弟というが、大兄であり太子でもあった履中と後継を争うことがあった。仁徳と争った大山守・額田大中彦・隼別別は、いずれも異母あるいは異父の従兄弟たちであるから、ここに住吉仲皇子の出自にも疑義がうまれる。
 住吉仲皇子が仁徳と磐之媛との子ではなく、仁徳と一妻の子か、もっといえば仁徳でなく応神の一子であったのではないかと思う。応神の子という系譜がすべて兄弟・従兄弟であるとき、本来の子孫が履中の時代に、王位を争うべく登場するのは当然である。仁徳と並立する巨大な像であった応神の子が、黙って歴史に埋もれるというのは考えにくい。
 住吉は摂津住吉の地名だが、そこに宮をもったために住吉仲皇子というのである。住吉大社は航海の神であった。表筒男・中筒男・底筒男の三神で、神功に新羅を伐てという神託を下した。更名を「向櫃男聞襲大歴」といい、これは「向い津(新羅の津)を押し覆う「の意であるというから、とくに半島と行き来する神を指示する。
 三神は、神功摂政称制前紀年に「日向の橘の小門」にいたといい、新羅征伐の直後にその荒魂を「穴門の山田」にまつったといい、称制元年には和魂を「大津淳名倉長狭(摂津住吉)」の奉じたという。ちなみに住吉の三神を祀ったのは津守氏である。その祖は周芳穴門直の裳見宿禰というから、景行が周芳娑麼に入ったという伝承と、仲哀・神功が周芳穴門豊浦宮にあったという伝承は、土着の海族津守氏との連携があったために違いない。
 筑紫儺の津の香椎宮は仲哀・神功を祀るが、住吉神代記には部類宮として「橿日廟宮」の名称が載るという。香椎宮もまた津守氏の祀ったものであろう。
 住吉仲皇子の名前は「住吉」と「仲」からできている。住吉が摂津住吉の意なら、仲はやはり筑紫儺の津の意であろう。いずれも津守氏とのかかわりである。大王氏にとって同盟者ではあるが姻族ではなかったから、おそらく住吉仲皇子の産土が津守氏なのではない。養育にたずさわった氏族であったのであろう。
 すると、倭直吾子籠が「韓国に派遣されていた」という仁徳即位前紀年の記事と、「素より仲皇子に好し」という履中即位前紀年の記事は、いずれも意味深長にみえてくる。前者は吾子籠が海族の一であることを指示し、後者は仲皇子との親交は「当然、周知のことながら」という明瞭な意味が含まれる。
 淡路の海女を手下におく吾子籠が、津守氏とも深いかかわりがあるとすれば、たとえば大倭氏・津守氏連合体が擁立する王子が住吉仲皇子であったのである。麻呂・吾子籠が応神・大山守の「屯田の司」であったという前歴からすれば、かなり永い歴史を経る、五百城・応神一族に荷担する連合体であった。
 話が外れ過ぎたが、戻すと、応神・太山守・額田と倭直・倭国造は、強いかかわりがあったという結論がでる。これは応神の系統と仁徳の系統に基から対立があったことを意味することでもある。
 菟道稚郎子・大鷦鷯の背景が問われなければならないが、この二人の血縁はどちらかといえば遠い。親密さからすると自然なものではない。出自はいずれも記録とは異なるものなのであろう。
 多様な角度からアプローチが必要であるが、とりあえず系譜にまだ不明瞭な点がある。先にみたように、どこの系譜にも出ない仁徳の母たる仲姫(中比売)である。
 応神の嫡后ではないから、たぶん仲哀か五百城の后妃であろうが、ここでの問題は、仁徳の母后たる人物が然るべき出典に載らないという異常な事態なのである。

  仲姫の疑義β

 仲姫の名については、これまでいろいろ議論があった。そのうち長女高城姫と弟姫のあいだにある次女をそういうという見解が一般的で、このために景行の子孫系譜とは比べられなかった。それが品陀真若王の子という記事を了とし、さらにこれを発展的に解釈していくことになった。
 拡大解釈の最たるものは、応神が五百城の系統である既存王朝に入婿したというものである。その場合品陀真若王という人物こそ、王統につながる大和の豪族で、ここに縁組むことによって応神が河内に新王朝をひらくことができたという。
 この種の王朝交替論は、書紀の基本的文法にもとづくかぎり、考慮の余地はほとんどない。ただそういう方向にいかざるを得ない論理はよくわかる。ひとえに仲姫なる名称に囚われるからである。
 そもそも書紀・古事記の系譜では、真若比売・弟比売などの名称は普通につかわれるが、これに中比売・中津比売なる名が一緒に組み込まれることはない。大中津比売(大中姫)などの名称は単独で使われるのが倣いである。五十瓊敷の妹の大中姫、香坂・忍熊王の母大中姫、允恭の后忍坂大中姫などいずれもそうである。忍坂大中姫にいたっては一族の嫡女(長女)とみられる。
 「中」の意味は、おそらく一部の地名や「長」の転、すなわち長女という意味がふくまれるであろう。地名では例えば「気長」の意であったものも、相当数ふくまれると思う。中大兄王子(天智)がなぜ「中」を冠するのかという問題も、今日議論にあがることはないが、おそらく長兄の転かあるいは気長の意味をふくむのではないかと思う。もともとは葛城王子というのが天智の名であったのである。後継を争った古人(石上布留)大兄との対比からすれば、天智のそれは気長大兄と言われて相応しいものがある。
 一方「仲」の名称は、まちがいなく筑紫儺の津の地名に由来する。その嚆矢とみられるのが、ほかならぬ仲哀であった。仲哀の和風謚「足仲彦」の「仲」は儺の津を制覇した事績をたたえるのである。
 「仲」の字は多くは使われない。この時代には特別な意味があったとみるべきであろう。
 結論に入っていこう。仁徳の母后たる仲姫は、仲姫・中姫のうち、仲哀の「足仲彦」と同一の字をつかう。古来同一の名をもつ男女は、兄妹か夫婦である。夫婦である事例の方が多い。仲姫の本来の名称は「足仲姫」に違いない。
 いうまでもなく神功すなわち気長足姫のことである。  あたりまえの論理というかも知れない。それでもこれはあたりまえの結論ではない。仁徳が神功の子で応神の弟であった可能性がかいまみられるからである。「讃死し、弟珍立つ」という宋書の記事を髣髴とする。
 今後の推論のベースとなる一つの仮定をここに置くことにする。
 応神・仁徳がともに仲哀と神功の子とすれば、まず仁徳の即位のありように違った光があたることになる。応神の即位まで戻って全容を見直してみたい。
 応神と仁徳が神功から生まれた兄弟であるなら、さしあたって焦眉の問題は、その父もまた同じくするのかどうかという点である。書紀・古事記の文脈からは単純にそうにはならない。応神の胎中天皇という伝承が事実であるとすれば、応神は仲哀を失ってから生まれているのである。
 すると仁徳が神功の子でなおかつ仲哀の子であるためには、いわゆる新羅征討(四〇〇)を数年さかのぼる時期に生まれていなければならないことになる。
 この点、書紀は仲哀と神功の子として応神一人を記録するが、古事記は品夜和気と品陀和気(大鞆和気)の二王子を載せる。これに従えば、仁徳は「品夜和気」という諱をもつ応神の兄ということになる。
 これが真相であろうか。そうばかりとは思えない。確かに仲哀紀は、二年の穴門豊浦宮から八年の香椎宮までの記事を欠き、足掛七年間が空白である。復元する実仲哀でも、即位前紀年から同六年までの七年間ということになる。仲哀と神功がこの間に大和に帰っていたとすれば、品夜和氣がこの時期に生れた可能性は考えられる。
 考えられるが、この議論は書紀・古事記の基本的な文脈を大きく損なう。
 書紀・古事記とも応神の生誕をきめ細かく書く。応神を一個の特別な存在とする。この文脈のなかに、応神にとって同父同母の兄が存在感をもって推定される余地はまったくない。仮に仁徳がそうであって、かつこれを応神の子という極端な位置に挿入した結果、書くべき機会を逸したというなら、書紀の編者らしくない。古事記もむろん同様である。
 本来がそうであったら、編者は仁徳を応神の子に仮託することはなかった。きちんと兄弟としたであろう。後世の例だが、多面的な疑義がある天武の出自ですら、書紀は舒明・皇極の子として動かない。天智の同父同母弟である。
 とりあえず解がないが、書紀・古事記にはつねにどこかしらに示唆的な記事がある。すなわち応神紀と仁徳紀には、名前を換える、つまり誰かと名を交換するという、きわめて特殊な挿話がある。他には出ないこの記事を、「特殊諱交換記事」と言うことにしておく。
 このアプローチも容易ではないが、さらに議論を進めるに当って、とりいそぎ仁徳紀の全容を覗いてみたい。それからふらたびここに戻る。

仁徳紀の復元β

 仁徳紀もまた虚妄である。書紀のなかでも八七年という長大な治世をもつこの大王は、実はわずか六年しか在位しなかった。あまりに極端な作為で驚くが、その実像がこれにみあうほど巨大であったのであろうと、ここでは解釈しておく。
 巷間の彼に対する思いが、強く大きかったのである。

 仁徳紀系譜
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  ー3    応神没(2) 額田大中彦 大山守乱 
  ー2                                    1
  ー1    菟道稚郎子没                    2
   1    即位(1) 難波高津宮              3      仁徳1 433
   2    磐之姫立后(3)                   4          2
   3                                    5          3
   4    詔三年除課役(3)                 6          4 436
   5                                    7          5
   6                                    8          6
   7    遠望烟気(4) 壬生部・葛城部(8)   9          7 439
   8                                               8
   9                                               9
  10    構造宮室(10)                          応神10 431
  11    新羅人朝貢 茨田堤(10)                        432
  12    高麗貢上鉄楯的(7) 高麗使歓待・的戸田(8)      433
  13    和珥池・横野堤(10)                           434
  14    作大道・大溝(11)                             435
  15                                                 
  16    玖賀媛(7)                                    437
  17    新羅不朝貢 遣戸田・賢遣(9)                   438
  18 
  19 
  20                                        五百城20 429
  21 
  22    八田皇女 皇后不和(1)                         431
  23                                                 
  〜 
  29 
  30    皇后紀国・筒城宮(9) 仁徳筒城(11)      神功30 430
  31    履中立太子(1)                                431
  32 
  33 
  34                                              
  35    皇后没(6)                                    435
  36 
  37    皇后陵葬(11)                                 437
  38    八田立后(1)                                  438
  39 
  40    隼別乱(2)                             仲哀40 433
  41    紀角百済 百済酒君無礼(3)                     434
  42 
  43    鷹甘部(9)                                    436
  44 
  〜 
  52 
  53    新羅不朝貢 竹葉瀬(5)                  倭建53 434
  54 
  55    蝦夷叛 田道蝦夷                              436
  56 
  57 
  58    呉国・高麗朝貢(10)                           439
  59 
  60    白鳥陵(10)                                   432
  61 
  62    額田大中彦闘鶏                               434
  63 
  64 
  65    武振熊飛騨                                   437
  66 
  67    陵地百舌鳥耳原(10)                           439
  68 
  〜 
  86 
  87    仁徳没(1) 陵葬(10)
------------------------------------------------------------

 例によって、即位前紀年から九年まで、また六〇年から六九年までは、実仁徳紀である。
 一〇年から一九年までは応神、二〇年から二九年までは五百城、三〇年から三九年までは神功、四〇年代は仲哀、五〇年代は倭建である。仮託する大王は六代にわたる。  書紀・古事記の意図するところでは、仁徳のこの王統こそ正統な系であった。
 以上の換算でこれを復元するが、仁徳紀はもとより応神紀と不可分であるから、応神紀・仁徳紀をあわせて一覧する。

実応神紀・仁徳紀年譜
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 応神係年     成務  神功  五百城  応神             
------------------------------------------------------------
 庚申  420    31枯野 20      11  髪長媛の噂    阿知・都加来
 辛酉  421 五百城没  21      12      0
 壬戌  422    33  髪長媛来  淡路巡狩 1  応神即位(1) 大隅宮
 癸亥  423    34百済縫工女来 14      2  立后(3) 弓月君来
 甲子  424    35阿直支来     15      3
 乙丑  425    36  王仁来     16 <久爾辛立>    秦一族来
 丙寅  426    37     26      17      5         遣使阿知呉
 丁卯  427    38     27   <眦有立> 6  宇治行幸
 戊辰  428    39  新斉津媛来 19      7  高麗使来(百済・新羅)
 己巳  429    40     29      20      8                 
 庚午  430    41     30      21      9  応神没     阿知帰
------------------------------------------------------------
 仁徳係年    倭建   仲哀    神功  五百城  応神  仁徳 
------------------------------------------------------------
 辛未  431    50   八田皇女 皇后不和  構造宮室  
 壬申  432 白鳥陵    39      32    新羅人朝貢  菟道稚郎子没
 癸酉  433   即位  隼別乱 高津宮   24 高麗貢上鉄楯的
 甲戌  434 紀角百済 百済酒君無礼 新羅不調 13     磐之姫立后
 乙亥  435    54            皇后没    作大道・大溝
 丙子  436    55 蝦夷叛      36           15    詔三年除課役
 丁丑  437    56            皇后陵葬      16    5
 戊寅  438    57 (履中即位) 八田立后  新羅不調  遣戸田
 己卯  439    58 呉国・高麗朝貢   陵地百舌鳥耳原    遠望烟気
 庚辰  440    59     3       40           19    8
------------------------------------------------------------

 重複するが、注目すべき点が二つある。
 応神の係年に仮託される大王が成務・神功・五百城・応神の四代で、そのなかに仲哀がいないことである。一方、仁徳のそれは倭建・仲哀・神功・五百城・応神・仁徳の六代である。うち五百城については仮託される記事がわずかであった。

仁徳紀の外国交渉β

 ところで対外的な記事の多いのが、仁徳紀の特色の一つである。新羅・百済・高麗(高句麗)・呉(何宋)に対する外交記事が豊富である。
 まず新羅・百済・高句麗について、仁徳紀と史記とを対照してみる。

三国史記・書紀五世紀前半・対照表
-----------------------------------------------------------
              新  羅     高句麗      百  済        倭
-----------------------------------------------------------
 庚子  400 |          |遣使燕     |           |神功伐新羅 |
 辛丑  401 |実聖還    |           |           |神功摂政元 |
 壬寅  402 |未斯欣質  |攻燕       |遣使倭求珠 |           |
 癸卯  403 |済侵辺    |           |倭使来・侵麗|襲津彦伐羅 |
 甲辰  404 |          |侵燕       |           |           |
 乙巳  405 |倭攻明活城|燕来攻遼東 |腆支立     |未斯欣逃亡 |
 丙午  406 |          |           |遣使晋     |           |
 丁未  407 |倭来侵    |           |           |           |
 戊申  408 |欲襲対馬島|高雲為燕王 |           |           |
 己酉  409 |          |           |倭使致明珠 |           |
 庚戌  410 |          |           |           |           |
 辛亥  411 |          |           |           |           |
 壬子  412 |朴好質    |広開土王没 |           |           |
 癸丑  413 |          |長寿立     |           |敦賀       |
 甲寅  414 |          |           |           |           |
 乙卯  415 |戦風島倭  |           |           |           |
 丙辰  416 |          |           |晋冊使来   |           |
 丁巳  417 |訥祇立    |           |           |           |
 戊午  418 |二王子還  |           |遣使倭送綿 |           |
 己未  419 |          |           |           |           |
 庚申  420 |          |           |久爾辛立   |阿知都加来 |
 辛酉  421 |          |           |           |           |
 壬戌  422 |          |           |           |応神立・髪長|
 癸亥  423 |          |           |           |済縫女来   |
 甲子  424 |遣使聘麗  |羅使来聘   |           |阿直支来   |
 乙丑  425 |          |遣使魏     |           |久爾辛立   |
 丙寅  426 |          |           |           |遣使呉     |
 丁卯  427 |          |移都平壌   |眦有立     |           |
 戊辰  428 |          |           |倭使来     |麗使・済女来|
 己巳  429 |          |           |遣使宋     |           |
 庚午  430 |          |           |宋使来     |応神没     |
 辛未  431 |倭囲明活城|           |           |           |
 壬申  432 |          |           |           |新羅人朝貢 |
-----------------------------------------------------------
 癸酉  433 |済講和    |           |遣使羅講和 |仁徳立 高麗|
 甲戌  434 |済送馬鷹  |           |送羅馬鷹   |済酒君無礼 |
 乙亥  435 |          |遣使魏     |           |           |
 丙子  436 |          |與魏伐燕   |           |           |
 丁丑  437 |          |遣使魏     |           |           |
 戊寅  438 |          |           |           |履中 新羅不|
 己卯  439 |          |遣使魏     |           |呉高麗来   |
 庚辰  440 |倭侵東辺  |羅人殺麗将 |遣使宋     |           |
-----------------------------------------------------------

 仁徳紀(仲哀)四一年(四三四)の記事は、これまでにも引用しているが、前年(四三三)の百済紀の「遣使羅講和」という事件に対する、倭の譴責と百済の謝罪という綱引き記事である。書紀の筆法では「新羅無礼」となる。
 酒君なる人物は済羅講和の立役者で、百済が倭の強硬姿勢を和らげるためにスケープゴートに仕立てたものであろう。この記事自体ももうすこし違った内容であったかも知れないが、百済と新羅の講和は、文字通りこれが嚆矢の出来事であった。
 史記では眦有七年にあたる。その翌年には「送羅馬鷹」という記事もある。馬を贈るという行為は臣従の意味をもつともいうから、百済は倭を見限って新羅に乗り換えたといってもいい。史記にはとくに紛争があったとは書かれていないが、高句麗の圧迫が日増しに強くなってきていたのであろう。平壌遷都(四二七)の七年後に当たっている。
 ちなみに問責に派遣されたのは紀角宿禰であった。これが春三月である。同年とみられる仁徳紀(倭建)五三年(四三四)の夏五月には、新羅不朝貢のため、田道が新羅に出兵している。これはおそらく関連事項であろう。百済と新羅の講和という事態に、倭は百済を責め、ついで新羅に兵を向けたことになる。

新羅不朝貢β

 また、書紀の半島関係の記事にはよく「不朝貢」という言葉が出てくる。「不朝貢」という表現は、原因が新羅にあることをいうがむろん朝貢とは無関係で、倭の側が倭の都合で新羅に遣使するなど、要請また干渉を試みることをいう。  

 五三年(四三四)、新羅不朝貢。  夏五月、上毛野祖竹葉瀬を遣して、その闕貢を問はしめたまふ。(略)また重ねて竹葉瀬の弟田道を遣す。

       これは仁徳紀(倭建)五三年(四三四)の記事だが、上毛野氏の祖豊城入彦五世の孫という竹葉瀬と弟田道は荒田別の子である。荒田別・鹿我別の兄弟は三二〇年代に活躍するから、一〇年と違わない。竹葉瀬・田道も、子というより同世代の兄弟従兄弟とみておきたい。
 ちなみにその二年前の仁徳紀(五百城)二三年(四三二年)の「新羅人朝貢、新羅人を以て茨田堤つくらしめる」という記事は、史記にもなく前後関係が不明であるが、一年前の仁徳紀(応神)一二年(四三三)には、「高麗貢上鉄楯的、高麗使歓待」の記事があるから、これは仁徳の践祚また即位にともなう賀使であったかも知れない。四三三年は仁徳の即位元年である。
 そして仁徳晩年とみられる仁徳紀(応神)一七年(四三八年)には、「新羅不朝貢 遣戸田」とういう記事がある。この記事が、仁徳紀のなかでもっとも重要な新羅記事であると思う。

 仁徳紀(応神)一七年、新羅朝貢らず。  秋九月に、的臣祖砥田宿禰・小泊瀬造祖賢遣臣を遣わして、闕貢らぬ事を問わしむ。是に、新羅人畏りて、乃ち貢献る。  調絹一千四百六十匹、及び種々雑物併せて八十艘

   例によって一方的な理由で新羅を問責するのだが、これが出兵を伴っていない点に留意したい。つまるところこれは親善の倭使であって、前章に述べた羅紀の基臨・訖解紀全六条のうち、後半の訖解三五年条・三六年条・三七年条の記事と連動するのだと思う。


 四二〇   基臨三年      與倭国交聘
 四二〇  訖解三年      倭国王遣使為子求婚、以阿C急利女送之
 四二二  訖解五年      急利為伊C
 
*四三八  訖解三五年    倭国遣使請婚、辞以女既出嫁
 四三九  訖解三六年    倭国移書絶交
 四四〇  訖解三七年    倭兵進囲金城、急攻

 仁徳が西紀四三八年に没し、太子履中がその年践祚元年即位(特殊月即位)をしているとみられるため、この請婚は履中のためのものである。
 訖解三七年(四四〇)の「倭兵進囲金城」については、羅紀訥祇二四年(四四〇)にも「倭侵東辺」という記事がある。同一事項とみられがちだが、ニュアンスが違い、またこの訥祇の時代の倭関係記事はもともと二年繰下がっていたから、先の四三八年の事であろう。あるいは過去の訖解に仮託された係年は、もとには残さなかったかも知れない。
 ちなみに、訥祇二八年(四四四)には「倭兵囲金城」に記事がある。これが二年さかのぼって四四二年になる。すでに仁徳紀ではないが、この年こそ、前章に議論しつくした神功紀六二年の壬午年にほかならない。神功六二年条のうち、とくに木羅斤資と沙至比跪が活躍するパートがここに該当する。允恭の時代である。
 すると書紀には訖解紀のつぎの二条、

 
 四三九  訖解三六年    倭国移書絶交
 四四〇  訖解三七年    倭兵進囲金城、急攻

  という記事にに該当するものが書紀にはないことになるが、そうであろうか。
 該当する記事はあったと思う。履中紀と允恭紀に入っていくから、これは次章に精査することとしよう。 対外的な仁徳紀の概要は以上である。
 一つだけ、仁徳紀(倭建)五八年の「冬一〇月に、呉国・高麗国並びに朝貢る」という記事が残るが、呉国朝貢はむろん文飾で、 宋文帝の元嘉一五年(四三八)の倭国王珍の叙正のための冊使がこの時到来した。

 讃死し弟珍立つ。遣使貢献して、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍また倭隋等一三人を平西・西虜・冠軍・輔国将軍に号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。(宋書)

 以上を前提として、いよいよ仁徳のただならぬ出自の開明にに入っていく。

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