プロローグβ

倭王の条件β

 倭の五王についての研究は、早く江戸時代からある。跡絶えることなく今日までつづくが、議論は多くその比定にのみ費やされている。比定が最終の目的としても、ものには順序というものがあり、議論を進めるまえに最低一つの確認作業がぜひとも必要である。
 「倭王」の具体的な意味である。倭王の要件といってもいい。というのは、倭王が自称か他称かという点すらきちんとは検討されてこなかった。ここが不明瞭だとそもそも倭王の権威の所在すら分からなくなる。
 倭王は疑いなく他称である。倭といい、倭人というのも他称である。大陸から倭を臨んで名づけた。その確認と表明がいわゆる叙正という行為であった。
 したがって倭王は、三世紀の「親魏倭王」を嚆矢とする。一、二西紀の倭奴国王・倭面土国王は倭王ではない。その後が五世紀の「倭讃」である。
 倭讃は「倭国王讃」ではない点が気になるが、宋書は冒頭で「倭国、世々貢職を修む」といっているから、まちがいなく倭国王である。叙正の文言も記録にはないが「倭国王讃」であったであろう。珍も同じである。ちなみに宋書の記事中で明確に「倭国王」と記されたのは済が最初である。
 叙正の中身についてもしばしば誤解があるが、中国の叙正の比類なき格式は疑うべくもない。この格式は、朝貢国の王の権威をきちんと確認することで保証されるものであるから、叙正は本来冊使の発遣と不可分であった。正史への記録も、おそらく冊使の帰還を待って正式に筆耕したのである。進号叙正の場合は、朝貢国の王一代につき複数の冊使の派遣があることになる。
 冊使の意義はまずこの確認と保証であり、然る後朝貢国へ恩沢と権威を与えることで、その国家たる存立を内外にあきらかにしたのである。
 例外は、つとに問題になる建国宣言のための叙正であるが、これもすでに前王朝で除授が確認されているから、ためらいなく行える。化外の王が健在かどうかが不明だけで、前提となる権威・恩沢・承認は崩れない。
 例を百済にとろう。宋書百済国伝はそのよき典型である。

 晋書・宋書百済国伝                        三国史記百済本紀
 
 義煕一二年(四一六) 餘映為鎮東将軍百済王    *晋冊使来
 永初一年 (四二〇) 餘映進号鎮東大将軍
 景平二年 (四二四) 映貢献
 元嘉二年 (四二五) 映貢献
           (四二九)                            遣使宋
 元嘉七年 (四三〇) 餘眦貢献、為映爵号      *宋使来
 元嘉一七年(四四〇) 百済貢献                  遣使宋
 元嘉二七年(四五〇) 眦貢献、許易林式占・腰弩
 大明一年 (四五七) 慶任官
 大明二年 (四五八) 慶上表、許臣下任官
 泰始三年 (四六七) 百済国貢献
 泰始七年 (四七一) 百済国貢献

 宋書の叙正が二度あり、二度とも冊使を発遣していることが百済紀の記事で知られる。また四二〇年の進号が建国宣言である事も分かる。百済の朝貢がこの年の前後にないからである。
 さて中国からいう倭国王は、もとより倭を一つの国家とみなした上でこれをいう。中国の王朝のように統一された領域国家である必要はない。一つであるという要件は、ひろく文明的な均一性をもつ領域に、唯一の求心力および拡散性をもつ国家があればそれでいい。
 その唯一の高文化の国が倭国なのである。邪馬臺国の場合がそうであった。大和の場合もそうである。
 これからすると、倭の五王が北九州の王とする説は考慮の余地がまるでない。
 五世紀に北九州に強盛な国家があったとすれば、すでに大山古墳(伝仁徳陵)を築いていた大和の巨大勢力と、勢威・文化の両面で拮抗したであろう。拮抗するほど対峙する勢力同士の片方は、すでに倭王を名乗れない。互いに別々の国名をもつ二つの国家でなければならない。さらに宗主権の及ぶ範囲の交錯など、勢威・文化の大小・差異にだけの問題ではないから、事はもっと複雑になる。
 この辺の実態を中国がまちがえる筈はない。中国はその地域内で唯一の高文化国家を「国」といった。倭が列島をいうかぎり、列島の唯一の宗主的代表者でなければならない。二つの対峙する国があれば、宋書はその一方を倭国と書くことはない。この厳密さが中国史書の格式である。
 すなわち「倭国」は古来一つであった。倭の一部でしかない国は「倭奴国」などと言ったのである。  ひるがえって新羅・百済・高句麗は、当初から三国であった。中国は唯の一度も韓国・韓王・韓国王と書かなかった。むろん朝鮮国・朝鮮王・朝鮮国王もなかった。  王化というこの意味の必要十分な認識が、どんな議論の上でも必要である。基本的な前提といっていい。
 この前提に立てば、支配や版図という真の概念も明確になる。
 大和がすなわち倭であり、大和の王者が倭王であったのは、一に王都を中心とする近畿を保持し、さらに広大な化内の地域に恩沢を及ぼし、くわえて化外の列島にくまなく影響を与えつづける機能・構造をいうのである。
 その場合、大和の直接支配の及んだのはたかだか近畿一円であってよかった。版図あるいはなんらかの附庸関係にあったのも、東海から中国地方までで十分であった。
 それでなお化外の東国は、ひたすら押寄せてくる大和の高文化の一方的な享受者であった。高文化発祥の地である北九州も、矜持をもちつつもおそらく小国に分立していて、東へ向かうエネルギーをもたなかった。かえって大和からの不断の圧力を受けつづけていたのである。
 北九州の勢力が、倭の中でつねに独自であったという見解は、この視点とすこしも矛盾しない。独特の文化はすくなくとも、六世紀の継体の磐井の乱の時までつづいていた。それでも列島という鳥瞰的な視点のもとでは、一地方国家にすぎなかった。
 一二世紀まで真の意味で独自性を保持していたのは、東国の先奥羽一帯である。しかし五世紀にはいまだ未開であり、その後の経緯からすれば、やはり独立国であったとは言いがたい。
 すなわち時の九州から東北にいたる地方国家は、濃淡はあれいずれも大和の宗主権を認めつつ存在しつづけたのである。この宗主権こそ、大和の発生から千数百年に亘って、唯一一系で継承された王権にほかならない。
 ひるがえって王化の真の意味も、この強固な王権の思想に由来する。それは姻族の概念をもち、天上から降った天孫の矜持をともなっていた。
 大和の支配が問題なのでなく、版図が意味あるのでなく、独立的な国の存在が権威を否定するのでもない。大和の大王が倭王であったのは、自他ともに認めるこの宗主権にあった。「大八嶋国(列島)を知らしめす」王権であった。
 四世紀後半、景行・成務・仲哀が相次いで筑紫の勢力と対峙した時、武力でこれを服属させたことはなかった。神武が大和に入った時、大和の王者であった磯城氏を姻族として取りこんだのと、よく似た経緯を辿ったにちがいない。
 唯一天孫の正統性にもとづく宗主権を主張することで、諸々の化外の族が降ったのである。
 古事記の、倭建が熊襲梟帥に向かって言って「名乗り」は、その事情をよく伝えている。

 その弟建、見畏みて逃げ出でき。すなはち追いてその室のはしの本に至りて、その背皮を取りて。剣を尻より刺し通したまひき。ここに熊襲建白言しつらく、「その刀な動かしたまひそ。僕(あれ)白言すことあり」とまをしき。ここに暫し許して押し伏せたまひき。ここに「汝(いまし)命は誰ぞ」と白言しき。

 ここに詔りたまひつらく、「吾は纒向の日代宮に坐しまして、大八島国知らしめす、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王ぞ。おれ熊襲建二人、伏はず礼無しと聞こしめして、おれを取殺れと詔りたまひて遣わせり」とのりたまひき。

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