第三章 大鷦鷯β

第四節 去来紗別(笥飯大神)β

雌鳥皇女の連座β

 仁徳紀が書紀のなかでも際立って異彩を放つのは、そのテーマである仁愛・徳行にほかならないが、その主旨のもとで、人物像の極度の歪曲と治世係年の長大化がはかられた。簡単には治世六年が八七年にひきのばされ、王位にこだわらぬ謙譲の美徳と、自ら質素を励行して三年にわたる大減税を行なう名君の像が焼きこまれた。おそらく現実の仁徳は、そのいずれもあてはまらぬ権謀術策の人物であったと思う。
 その仁徳の立場、とくに応神に対する立場は、ちょうど神武に対する綏靖、崇神に対する垂仁などと同様なスタンスにあった。さらには天智に対する天武の立場でもあったと思う。ある程度類似する状況にある人と事件は、時代をとわず、伝承のなかで更に似た挿話に収斂していくのである。
 天智に対する天武の相克というのも、そう荒唐無稽な話なのではない。夏の滅亡のきっかけとなった妹喜と殷の滅亡を導いた妲己とは、挿話ばかりでなく名前まで酷似する。伝承というものはそういうものである。
 さて、応神の没後、仁徳でなく菟道稚郎子でもなく、太山守が即位して治世三年を経たという前提の下で先に進むが、その前に一つ解決しておかなければならないことがある。空白の三年間は延べの三年間であるが、太山守は踰年元年にもとづけば四三〇年践祚、四三一年即位元年、没年を四三二年として実際の治世は二年になる。
 しかしながらその大山守の没が弑逆によったとすれば、その直後に仁徳が践祚するとき、書紀の編者は通例の踰年元年をとらず、その践祚年を元年とする方式をとった筈である。度々でる践祚元年である。
 仁徳の即位元年は四三三に違いないから、これは大山守の没が、実は四三二年でなく四三三年であったことになる。その場合大山守の治世も三年ということになる。これが正しかるべき理由は、仁徳四〇年二月条の「隼別と雌鳥の誅殺」という挿話にある。
 仁徳四〇年は、仲哀四〇年とみられ事実上四三三年、仁徳即位元年の出来事にあたる。主旨は「斎宮連座」であり、これは書紀の文法から、当王の弑逆があった事実を示唆するものとみられる。
 その挿話はつぎのようであった。八田の同母の妹に雌鳥皇女があったが、仁徳はこれを娶すために隼別に遣いを頼んだ。隼別は雌鳥に手をつけて口を拭っていたが、仁徳がついに怒ると、連れ立って伊勢へ逃げついに殺されたという。この時、「皇后」がこう言っている。

 爰に天皇、隼別皇子逃走げたりと聞こしめて、「追いて逮かむ所に即ち殺せ」とのたまふ。
 爰に皇后、奏して言したまはく、「雌鳥皇女、寔に重き罪に当たれり。然れども其の殺さむ日に、皇女の身を露にせまほしみせず」とまうしたまふ。

 そこで「皇女の足玉手玉をな取りそ」という命令を発したが、吉備品遅部雄鮒・佐伯直阿我能胡という追討使がこれを盗み、「若し皇女の玉を見きや」と問われて、「見ず」と答えている。後日、新嘗の宴にて、佐伯直阿我能胡の親族がこの玉を着けているところを見とがめられ、殺されるところを私の地を献上して死罪をまぬがれたという。
 この話は雄略紀の根臣のそれとよく似ている。根臣が大草香皇子が妹の入台の時安康に贈った家伝の玉を横領し、これを隠すために皇子を讒言する。このために皇子の家は滅びるのだが、雄略の時代、呉使の接待の場で根臣がこの玉飾を身につけていたために、横領が発覚し、攻められて滅んでいる。
 似ているのは伝承というものの伝わる本質というべきで、事実はまったく別のそれであろう。それでもこの挿話は、書紀の文法のなかでは基本的に「伊勢斎宮の連座」である。雌鳥の近親の大王が弑逆にあったことをいう。雌鳥の同母兄である菟道稚郎子の弑逆とみることもできるが、そうではなく、大山守の弑逆を指すであろう。
 「近親」の度合の意味合いは、雄略紀における木梨の弑逆が、異母妹である栲幡皇女の連座記事に象徴されるのと同様であるが、このことは、雌鳥がもともと菟道稚の妹ではなかった可能性を、つよく示唆するものである。要するに雌鳥は隼別の名前に近い。菟道稚郎子や八田とは離れすぎている。
 さて、大山守の弑逆による没年は四三三年、すなわち仁徳はその年を践祚即位元年としたとしよう。弑逆は譲位とおなじく践祚元年となる。大山守は応神没年の翌四三一年に即位、まぎれもなく治世三年を経ていたことになるが、まったく手研耳の挿話と同様である。さて、仁徳即位前紀年に確かな存在感をもつ、菟道稚郎子の去就に進んでいこう。
 応神の子である筈がなく、それでなお応神の寵愛を一身にうけ、王仁を師と仰ぎ、高麗の文書の非礼を憤ったというゆたかな挿話をもつこの人物は、果して何者であろうか。その謙譲の美徳は仁徳のそれと対のものであるから、修辞・作為があるであろう。それでも大山守が即位している以上、これだけの挿話を「太子として」もついわれがない。
 この矛盾は論理的に解決されなければならないが、間違いない事実は、彼が仁徳の即位を実現する時、これをたすけた重要な協力者であったということである。すなわち一連の出来事は、仁徳と菟道稚郎子の合作によって行われた。その仁徳と菟道稚の連携は、実は菟道稚の妹八田皇女を媒介することで成ったと思う。
 仁徳紀の八田皇女の記事は、書紀の記述と異なって意外に早くあらわれる。

八田皇女β

 先に復元した仁徳紀を再度みてみよう。

実仁徳紀年譜
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             倭建   仲哀    神功  五百城  応神  仁徳 
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 辛未  431    50   八田皇女 皇后不和  構造宮室  
 壬申  432 白鳥陵    39      32    新羅人朝貢  菟道稚郎子没
 癸酉  433   即位  隼別乱 高津宮   24 高麗貢上鉄楯的
 甲戌  434 紀角百済 百済酒君無礼 新羅不調 13     磐之姫立后
 乙亥  435    54            皇后没    作大道・大溝
 丙子  436    55 蝦夷叛      36           15    詔三年除課役
 丁丑  437    56            皇后陵葬      16    5
 戊寅  438    57 (履中即位) 八田立后  新羅不調  遣戸田
 己卯  439    58 呉国・高麗朝貢   陵地百舌鳥耳原    遠望烟気
 庚辰  440    59     3       40           19    8
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 書紀の八田皇女の初出は仁徳紀二二年である。

 二二年春正月、天皇、皇后(磐之媛)に語りて曰はく、「八田皇女を納れて将に妃とせむ」とのたまふ。時に皇后聴さず。爰に天皇、歌して皇后に乞ひて曰はく、(略)皇后、遂に聴さじと謂して、故、黙して亦答言したまはず。

 仁徳紀二〇年代の記事はこの二二年条のみがあり、五百城紀とみられる。西紀四三一年である。応神没の翌年、おそらく大山守元年である。ところが仁徳紀の二二年の次の記事は三〇年まで飛ぶ。おなじく八田皇女と皇后磐之媛の記事である。

 三〇年秋九月、皇后紀国に遊行でまして、熊野岬に到りて、即ち其の処の御綱葉(神酒器とする葉)を取りて還りませり。是に天皇、皇后の不在を伺ひて、八田皇女を娶して、宮の中に納れたまふ。
 時に皇后、難波の済に到りて、聞こしめして、大きに恨みたまふ。即ち其の採れる御綱葉を海に投れて、著岸りたまはず。爰に天皇皇后の忿りて著岸りたまはぬことを知ろしめさず。親ら大津(難波津)に幸して、皇后の船を待ちたまふ。(略)時に皇后、大津に泊りたまはずして、更に引きて泝江りて、山背より廻りて倭に向でます。明日、天皇、舎人鳥山を遣して、皇后を還したてまつらしむ。

 (略)皇后還りたまはずして猶行でます。山背河(木津川)に至り、(略)即ち那羅山を越えて、葛城を望みて曰はく、 つぎなふ、山背河を、宮泝り、我が泝れば、青丹よし、那羅を過ぎ、小楯、倭を過ぎ、我が見が欲し国は、葛城高宮、我家のあたり 、更に山背に還りて、宮室を筒城岡の南に興りて居します。
 冬一〇月、的臣が祖口持臣を遣して皇后を喚したまふ。(略)時に皇后、口持臣の妹国依媛に謂りて曰はく、「汝が兄に告げて速に還らしめよ。吾は遂に返らじ」とのたまふ。一一月、天皇、浮江より山背に幸す。(略)明日、乗輿(天皇)、筒城宮に詣りて、皇后を喚したまふ。皇后参見ひたまはず。(略)

 時に皇后、奏さしめたまひて言したまはく、「陛下、八田皇女を納れて妃としたまふ。其れ皇女に副ひて后たらまく欲せじ」とまうしたまひて、遂に奉見ひたまはず。乃ち車駕(天皇)、宮に還りたまふ。天皇、是に皇后の大きに忿りたまふことを恨みたまふ。而して猶恋び思ほすこと有します。

 仁徳紀三〇年は神功三〇年、西紀四三〇年とみられる。実は先の仁徳紀二二年(四三一)の前年である。この後の記事は、

 
 仁徳紀三五年条   「春正月、皇后磐之媛筒城宮に薨りましぬ」
       三七年条   「冬一一月、皇后を那羅山に葬りまつる」
       三八年条   「春正月、八田皇女を立てて皇后としたまふ」

 これはそれぞれ四三五年、四三七年、四三八年に該当する。  さて、仁徳三〇年(四三〇)九月から一一月の記事は、「八田皇女を納れて将に妃とせむ」という仁徳紀二二年(四三一)正月の記事との整合性がない。記事の流れからすれば、いずれも同年の記事であるべきだと思う。仁徳が春に意思表示をして拒否されたために、秋に磐之媛の留守のあいだに八田を娶れてしまったという記事になる。
 五百城紀が四一〇年を元年とすることは、五百城紀でできている応神紀一〇年代の検証であきらかである。髪長媛の招聘・来朝、百済縫工女・阿直支・王仁・弓月(秦)氏の渡来など、先に試みた係年は動かないであろう。すると仁徳紀に唯一条しかあらわれない二二年条の記事は、あえて応神紀における五百城紀とは異なるのかも知れない。
 すなわち五百城の即位元年を神功没年の四〇九年であったとするのである。践祚元年ということになる。そしてこの場合仁徳紀における五百城二二年は、西紀四三〇年の出来事となる。とりあえずそうしておこう。つまり八田の登場はいづれも四三〇年のことであったとする。応神没年である。
 応神は同年二月に、明宮または大隅宮に没した。先のようにその弟王大山守がこれを襲って践祚するが、この践祚・即位はまったく問題なく行われたことになる。  仁徳が動くのは、その直後である。
 秋九月、菟道稚郎子の妹八田皇女を娶った。嫡后磐之媛の反対を押しきって宮中に入れた事情について、書紀があえて、「而して猶(磐之媛を)恋び思ほすこと有します」と書くのは、恐妻家であったからではない。磐之媛の背景である葛城の勢力に気をつかったことを示唆する。もっとも恐妻家であることは、妻の実家が強盛である事実事実とも矛盾することはない。
 政治的な戦略に違いない。仁徳と菟道稚郎子の同盟がこの時成ったのであろう。
 ちなみに磐之媛の没は仁徳紀三五年(四三五)、仁徳と離別して六年後に死んだことになるが、この間の仁徳二年に立后の記事がある。これは「立后二年」たるべき文法によるから検討の余地はないが、別居の後に八田皇女があったにもかかわらず、立后が磐之媛であることに留意したい。その嫡子にして太子であったのも、磐之媛の子履中なのである。  すでに、時は仁徳の即位前紀年、事実上践祚元年条である。
 同盟の成った仁徳と菟道稚郎子は、互いに語らって、大王位の纂奪を計画する。
 太山守の弑逆、額田大中彦の挿話は、その直後の話である。仁徳にはそれを可とすべき理由があった。血統的な優位を主張できる根拠があった。
 それはまた、菟道稚郎子が仁徳に荷担する理由でもあった。

  菟道稚郎子β

 菟道稚郎子は応神紀二年条に、「次妃、和珥臣の祖日触使主の女宮主宅媛、菟道稚郎子・矢田皇女・雌鳥皇女を生めり。次妃、宅媛の弟小甌媛、菟道稚郎姫皇女を生めり」とある。
 また一五年(四二四)、阿直支が渡来するとこれを師と仰ぎ、さらに翌年渡来した王仁にも師事したとあり、二八年(四二八)には、高麗使の表の無礼を見てこれを破ったとある。古事記は宇遅能和紀郎子と書き、その母宮主矢河枝比売と応神との聖婚を語る。

 一時、天皇近淡海国に幸でましし時、(略)木幡村に到りましし時、麗美しき媛女、その道衢に遇ひき。ここに天皇その媛女に問ひて曰りたまはく、「汝は誰が子ぞ」とのりたまへば、応へて白ししく、「丸邇の比布禮能意富美の女、名は宮主矢河枝比売ぞ」とまおしき。(略)
 故、矢河枝比売、委曲にその父に語りき。ここに父答へて曰ふけらく、「こは天皇にますなり。恐し、我が子仕へ奉れ」と云ひて、その家を厳餝りて待てば、明日入りましき。故、大御饗を献いし時、その女矢河枝比売に、大御酒盞を取らしめて献りき。(略)かく御合したまひて、生みませる御子は、宇遅能和紀郎子なり。

 途中に歌がある。著名な「この蟹や、何処の蟹、百伝ふ角鹿の蟹」である。
 書紀にはないこの挿話は、おそらく天孫降臨の時の猿田毘古とおなじく、氏族口伝の家伝であろう。和珥氏である。ただこの記事が意味するところは、この時期の和珥氏がすでに、山城を本拠地に近江から楽浪道(さざなみち)を経て敦賀にいたる、古代の貿易ルートを管掌していたことをいうのである。
 山城は本来、山城内氏ならびに気長氏の本拠地であった。それが和珥氏の替わったのには、しかるべき理由がある。三世紀後半、彦国葺が武埴安を南山城に攻略したことがあるが、それが和珥氏の進出の契機になったかも知れない。ただその後も山城内氏と気長氏の拠点であったとみられるから、和珥氏のそれはもっと後であった筈である。
 つまりその勢威の確立は、神功摂政称制元年(四〇〇)の香坂・忍熊王討伐の時であろう。この時討伐の将軍であった難波根子武振熊こそ、南山城に本拠をかまえて姻族和珥氏の中枢となった人物に違いない。気長氏はそのためか北へ遷進、近江一帯に播拠することになった。
 その視点であらためてこれをみると、菟道稚郎子を生んだ宮主宅媛(宮主矢河枝比売)は武振熊と同世代にあたる。もし宅媛が娘でなく妹であるとすれば、その父という日触使主(比布禮能意富美)もまた、武振熊とおなじ世代の人物ということになる。要するに、「触」と「振」が通音であることからすれば、武振熊こそ日触使主その人であると思う。
 神功の摂政称制のために、香坂・忍熊をその本拠地、宇治あるいは南山城に討った武振熊は、そこを播拠しつつ気長氏の血脈を交えながら、勢威ある姻族へと変貌していった。
 さて菟道稚郎子の出自である。仁徳に位を譲ったというこの王子は、むらん応神の子ではない。四二二年におそらく一八歳前後で即位したにちがいない応神には、その没年の三三〇年に一〇歳を超える王子があった筈はない。菟道稚は異母の兄弟であった。
 しかしながら書紀にはなく、古事記にある宮主矢河枝比売との聖婚は、それなりの伝承にちがいない。そして宮主宅媛が大王氏に嫁ぐべきは、その討伐の後、日触使主の勢威が拡大していく過程のなかでなければならないから、これを娶った大王があるとすれば、成務でも仲哀でもない。すなわち五百城入彦その人にほかならない。
 ひるがえって菟道稚郎子は、綏靖即位の時の神八井に類似する。綏靖が仁徳のスタンスにあれば、手研耳が大山守に当たる。ここで注目すべきは、神八井が綏靖の同母の兄とする記述が、実は作為であって、事実は姻族太(大)氏たる椎根津彦その人の仮託であったことである。

神吾田津媛 | +------- 神武 | +------- 神八井(椎根津彦) | +------- 綏靖 吾平津媛 | +------- 手研耳

 これに倣って応神の系譜を書いてみよう。

気長足姫 | +------- 応神 | +------- 仁徳 高城入姫 | +------- 額田大中彦 | +------- 大山守 宮主宅媛 | +------- 菟道稚郎子 | +------- 八田皇女 | +------- 雌鳥皇女

 ここに当然の帰結がある。
 神八井ばかりではない。豊城入彦・五十瓊敷などもそうであった。王子をたすけて王位につけることに尽くした姻族は、すなわち王族に昇華するのである。仁徳をたすけ王位を捧げてゆずらなかった菟道稚郎子もまた、姻族の宗家の出であったであろう。
 そうならば事の次第がはっきりしてくる。
 姻族は前代の姻族からそれをひきつぐものであるから、和珥の日触臣あるいはその子宅媛こそ、気長氏の血統をひく和珥氏なのであろう。山城における勢威の拡張と、名族たる気長氏の血を奉ずることは、和珥氏にあっては同一の観念の所作であったに違いない。
 留意すべきはその「菟道彦」なる名前である。
 菟道稚郎子は宇治(菟道)の名を負うのであるから、当然「山城内」氏との関連も問わなければならない。時代的な視点からすれば、気長氏がこれを標榜したすぐ後のことになる。景行と同世代であった五十瓊敷の子の世代に、この移行が起こった。とすると神功帰還における香坂・忍熊の滅亡とかかわりがあるであろう。
 山城で戦い菟道川に沈んだこの王家の一族に荷担した姻族こそ、その母妃(大中姫)の出でもあった、嫡流の気長氏であろう。ちなみにこれを攻めた気長足姫は、気長氏を冠するものの本来の気長氏ではなかった。出自はあくまで南山城「内」の地で、内の地がすでに気長氏の版図にふくまれるために 気長氏を称するのみである。事実上内氏で、なお母方の血は半島に由来した。
 和珥氏がこの地をくまなく管掌するのはその直後であったに違いない。気長氏につながる一族は押しだされ近江へと待避していった。後世の気長氏が、胡東・胡西から日本海にかけて広がるのはこのためである。
 繰り返すが、応神没年(四三〇)、菟道稚郎子の妹八田が仁徳の後宮に入ることから、二人の連携が始まった。応神の没が二月、その直後に大山守が践祚するが、同年九月、磐之媛の不在をねらって八田を宮中に入れた。
 この間に菟道稚は菟道(宇治)の宮を興して入るが、仁徳は難波にいるかのようである。
 三年後の仁徳践祚即位年(四三三年)、菟道稚は大山守を「菟道の渡」で討ち殺す。菟道に行幸する大山守を待ち伏せて伐ったのであるから、弑逆そのものである。
 ここに仁徳が不在だがその筈はむろんない。弑逆の主体が仁徳であれば、仁徳は大和で兵を挙げている。あるいはあえて書かなかったが、菟道の戦いに仁徳も参画していたかも知れない。その場合は「菟道の宮」の存在が微妙になる。この宮は仁徳のそれであった可能性もあるであろう。
 菟道稚郎子は自刃または病没したが、戦闘がこの仁徳即位前記年のことであれば戦死であろう。
 文脈にわずかなためらいを感じるのはこの点である。菟道稚郎子の不自然な死は、もっと異なる事情があったかも知れない。その妹八田は、磐之媛不在の数年間仁徳とともにあったとみられ、磐之媛の陵葬の翌、仁徳三八年に立后している。同盟者の妹に最上の処遇をしたのだから、記述通りにみて差し支えないと思うが、いくつか不審なところも残る。
 先にみたが、もう一度雌鳥の挿話を振り返ってみよう。
 隼別別と雌鳥の挿話は、雄略紀の栲幡皇女のみならず、履中紀の住吉仲皇子と黒媛の挿話ともよく似ている。いずれも即位年の出来事で、骨子は即位にあたって競合った王子があったという伝承である。オリジナルはおそらく履中紀にあったのであろう。仁徳紀のオリジナルは争った隼別別の存在だけで、雌鳥の挿話は大山守の弑逆を、文法に従って再構成するための修辞であったと思う。
 要するに創作である。書紀にはそう例が多い事では決してない。
 つまり雌鳥の話が「斎宮践祚」にかかわる以上、雌鳥は八田の同母妹でなく、もともと大山守に近い血縁をもつ人物であった筈である。少なくとも八田の同母妹ではなかった。  雌鳥の出自は後から作為されたものだと思う。
 大山守に近い出自であったものを、大山守を大王と記録せず、かつ菟道稚を太子としてクローズアップした時、斎宮連座の女主人公も、菟道稚の妹に移動したのである。すると一連の疑問も氷解していく。菟道稚郎子のスタンスは、これを記述するに当たって、はじめから相当な無理があったのである。存在そのものが、恣意的に後から放りこまれたような気がする。
 菟道稚郎子のオリジナルは、やはり姻族の首長であろう。それを応神の寵愛の太子にまで高めてしまった。それほどまでの作為的な拡張は、一に仁徳の「仁愛・徳行」のつじつまを合わせるためであったに違いない。書紀・古事記のもっとも虚妄、かつ無謀な創作記事というべきである。
 関連していくつかポイントを確認しておく必要がある。
 菟道稚郎子の事実が、仁徳の即位に功のあった姻族であるとして、書紀・古事記における創作的な本質は、仁徳の全的な分身であったかも知れない。
 たとえば、仁徳は応神の時代に太子か、太子に準ずる立場にあったかも知れない。すくなくとも応神の即位前には、髪長媛を応神と取合った。それだけの立場にあって、応神の治世下では相対的に立場の後退をみたとすれば、仁徳のこの間の実情を、書紀は描けない。その代りを菟道稚に仮託したのではないかという気がする。
 菟道稚郎子という人物は、一度当時の朝廷から外してみると、いくつもの記述がそれぞれの登場人物のところへ収斂していく。
 王子・太子というスタンス、阿直支や王仁、高句麗の表を破り棄てるという挿話は、菟道稚のものではなく、もともと仁徳のものであってもいい。そして応神が「稚き」ゆえに菟道稚を太子としたのは、「稚き」ゆえに(仁徳を差置いて)、大山守を指名したことをいうのであろう。
 応神が宮主矢河枝比売を娶る挿話も、五百城の時代のものである。五百城と宮主矢河枝比売のあいだに、事実一王子があったかも知れない。が、それが菟道稚郎子ではなかった。別の無名の王子であろう。
 ちなみに和珥氏の女は、後々までも寵妃であっても嫡后になることがなく、その生む王子も大王になることがなかった。嫡流の姻族とは認められなかった可能性がある。
 菟道稚は姻族の首長としての、菟道(宇治)にかかわる名称をもっていた。その存在は、仁徳に即位に力があった以上に、仁徳自身を仮託するとしよう。すると菟道稚郎子の「稚」があらためて焦点になる。「菟道大郎子」が存在するのでなければならない。
 仁徳紀の背景については、概略整理ができたと思う。ここからは、仁徳という人物の出自をさらに掘り下げていきたい。すでにクリアされているのではない。彼にはいまだ多くの疑義が残されている。
 謎の人物なのである。
 さらに一つ課題を立てる。解りきったように過ごしてきた応神への疑義である。仁徳の疑義は、菟道稚郎子の疑義であり、さかのぼっては応神の疑義でもある。  試行錯誤をしているのは、書紀・古事記の編者がそうしているためであるので、了解されたい。

誉田別への疑義β

 仮説を一つ立てる。
 不明瞭な点が多くない応神紀のなかで、唯一、即位の年齢はなぜか疑問が残るという指摘をしておいた。
 これは応神が神功摂政称制前記年、西紀四〇〇年に生れているためで、即位年とみられる、応神紀(神功)二二年、すなわち西紀二二年には、二三歳になっている筈だからである。
 神功紀によれば、応神の立太子は神功三年であった。事実上成務の立太子没年を指示する記事であるから、応神に直接かかわるものではないが、神功が摂政称制するに当たっては、応神の成人を待って、大王位を継がせる予定であったと想定されるから、文脈に異同はない。要するに、応神はおそくとも一八歳を機に即位するのでなければならないことになる。
 ところが、そうではなかった。そうならなかったのは何故であろうか。
 神功没後の、西紀四一〇年(四〇九年もあり得る)を即位元年とする五百城の治世が、思いのほか強固なものであって、たとえばその没を待ったというようなことがあったかも知れない。
 一応首尾一貫するが、どことなく納得しがたい。五百城はその即位はおろか存在すら記録されなかった倭王である。神功の摂政という特殊な統治は、事実としてそれに近い状況があったと思う。神功の事績と名声、五百城の正統と勢威とは、拮抗しつつも神功の方に分があったと理解すべきである。
 神功が没して後、このバランスが大きく五百城の方へ傾いた、という事態はおこり得る。それでも輿論というものがある。神功は巷間に伝承された無二の英雄であった。英雄の遺詔は輿論のよって立つところでもある。輿論の期待を為政者が反故にすることは、容易なこととは思われない。
 すると応神の即位はやはり遅い。すくなくとも五年は遅い。
 視点を変えて、齟齬が五百城の側になく、応神の側にあるとすれば、帰結するところは一つである。応神の即位の年齢が、時に一八歳前後であったからである。応神が神功摂政前記年(四〇〇)に生まれているのではなかったためである。
 応神の存在がくつがえる。伝承そのものが破綻するが、それでなお、この視点が正しかるべき理由をのべよう。
 前章で、神功の大和帰還にあたって「前九年の役」を参考にすることがあった。いま一度これを参照してみたい。くわえて神功と対比する。



                              和珥女
                              |
                              +--------------菟道稚郎子4
                              |              八田
                              ?              雌鳥
                              |
 女                          景行女(高城姫)
 |                            |
 +-----------清原真衡1        +--------------額田大中彦
 |                            |              大山守1
 清原武貞                    五百城入彦
 |                            |
 +-----------清原家衡3        +--------------応神  3
 |                            |                  
 安倍頼時女                  気長足姫
 |                            |
 +-----------藤原清衡2        +--------------仁徳  2
 |                           |
 藤原経清                    足仲彦(仲哀)

 応神と仁徳の位置関係によく注意せられたい。想定しうる年齢の順もふった。仁徳の方が応神より年長である。ともに神功の子であるが、父が異なっている。すなわち父子でなく兄弟とみなされた応神と仁徳の立場は、入替わる。
 神功摂政称制前紀年(四〇〇)に、筑紫で生まれた王子は仁徳であろう。応神は、神功が大和帰還の後、五百城と生した王子である。応神は然るべき年齢に達してから即位した。二二年に一八歳であったとすれば、四〇五年に生まれている。
 応神と仁徳の、この輻湊する関係が事実であるべき根拠は、別にもある。応神と仁徳だけにある「名を換える」という記事が存在することである。「特殊諱交換記事」である。名を換えたばかりではない。出生の縁起まで換えた。諱の交換は全人格の交換であった。
 交換にともなう一連の関連記事を、あらためて検証してみたい。書紀・古事記とも詳細である。

 応神紀即位前紀年

 初め天皇在孕れたまひて、天神地祇、三韓を授けたまへり。既に産れませるときに、宍、腕の上に生ひたり。其の形、鞆の如し。(略)故、其の名を称へて、誉田天皇と謂す。一に云はく、初め天皇、太子と為りて、越国に行して、角鹿の笥飯大神を拝祭みたてまつりたまふ。時に大神と太子と、名を相易へたまふ。
 故、大神を号けて、去来紗別神と曰す。太子をば誉田別尊と名くといふ。然らば大神の本の名を誉田別神、太子の元の名をば、去来紗別尊と謂すべし。然れども見ゆる所無くして、未だ詳ならず。

 仁徳紀即位元年

 初め天皇生れます日に、木莵、産殿に入れり。明旦に、誉田天皇、大臣武内宿禰を喚して語りて曰はく、「是、何の瑞ぞ」とのたまふ。大臣、対へて言さく、「吉祥なり。復昨日、臣が妻の産む時に当りて、鷦鷯、産屋に入れり。是、亦異し」とまうす。
 爰に天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表なり。以為ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名づけて、後葉の契とせむ」とのたまふ。
 即ち鷦鷯の名を取りて、太子に名づけて、大鷦鷯皇子と曰へり。木莵の名を取りて、大臣の子に号けて、木莵宿禰と曰へり。是、平群臣が始祖なり。

 古事記神功記    

   故、建内宿禰命、その大志を率て、禊せむとして、淡海また若狭国を経歴し時、高志の前の角鹿に仮宮を造りて坐さしめき。ここに其地に坐す伊奢沙和氣大神命、夜の夢に見えて云りたまひしく、「吾が名を御子の御名に易へましく欲し」とのりたまひき。
 ここに言壽きて白ししく、「恐し、命の随に易へ奉らむ」とまをせば、またその神詔りたまひしく、「明日の旦、濱に幸でますべし。名を易へし幣献らむ」とのりたまひき。
 故、その旦濱に幸行でますしし時、鼻毀りし入鹿魚、既に一浦に依れり。ここに御子、神に白さしめて云りたまひしく、「我に御食の魚給へり」とのりたまひき。故、またその御名を称へて、御食津大神と号けき。
 故、今に氣比大神と謂ふ。またその入鹿魚の鼻の血腐かりき。故、その浦を血浦と謂ひき。今は都奴賀と謂ふ。

 古事記応神記

 帯中日子天皇、息長帯比売(大后)を娶して、生みませる御子、品夜和氣命、次に大鞆和氣命、亦の名は品陀和氣命。二柱。
 この太子の御名、大鞆和氣命と負はせる所以は、初めて生れましし時、鞆の如き宍、御腕に生りき。故、その御名に著けき。ここをもちて、腹に坐して国に中りたまいしを知りぬ。
 また吉野の国主等、大雀命の佩かせる御刀を矇て歌ひけらく、品陀の日の御子、大雀、大雀、佩せる太刀、本つるぎ、末ふゆ、冬木如す。からが下樹の、さやさや  とうたいき。

 応神の諱はあまり複雑に考える必要はない。大鞆別であろう。腕に鞆の如き宍あり、という伝承が本来のもので、多くの例にみられるように、身体に特徴ある生まれつきが諱になった。
 その鞆を古来「誉田」といったという記事は、いかにもおぼつかない。そういう事実はなかった。誉田が何に由来するのかが分かれば、この辺の事情がもっと明らかになる筈である。  誉田別に近い名称に、垂仁の王子誉津別がある。誉津別は「火(ほ)の貴(むち)」の意というが、「穂(ほ)の貴(むち)」の意であろう。狭穂姫の子であるからである。「火」の語は燃える稲城のなかで生まれたという伝承のためであるが、誉津別はそれ以前に生まれていると思われる。むしろ穂が火に転じたのである。
 留意すべきは「ほ・むち」が、書紀では「ほむ・ち(つ)」と表記されることである。古事記は凡牟都和希と書くから、この方がまだ的確な表わし方である。この点、誉田別(書紀)と品陀和氣(古事記)は、おなじ「ほむ・た(だ)」である。
 してみると誉田別のオリジナルもまた、「ほむ・た」であった可能性が高い。「其の形、鞆の如し。故、其の名を称へて、誉田天皇と謂す」という。このことから「称・誉(ほむ)鞆(とも)」の転と解釈できないこともないが、可能性はうすい。
 ところで品部は「ともべ」と訓む。「とものみやっこ」ともいう。本来は伴品の意であろうから、品をそのまま「とも」と訓むのではないが、連想するものはあったかも知れない。古事記のように品陀と書いて「ほむた」と訓むのは、言外に「鞆(とも)」が意識されていたということも考えられる。が、これも迂遠である。
 つまるところ誉田・品陀は、「鞆」たる応神の諱から派生したものとは思われない。応神の諱でオリジナルと思われるのは、唯一「大鞆別」なのである。原意はむろん出生時の身体的な特徴であった。
 誉田別の誉田は諱に由来するのでなく。むしろ謚的な呼称であったのではないかと思う。意味は「誉む・称える」にほかならない。これは「足(たらし)」の意味にちかい。応神のとくに対外的な事績を称えるのであろう。
 さらに進もう。応神と対になる仁徳の諱はどうであろうか。

去来紗別β

 仁徳は大鷦鷯というが、これが仁徳の諱のすべてなのではない。いくつもあるが、もっとも原点的な諱とみられるのは、胆狭浅(いささ)別である。
 胆狭浅は、天日槍が新羅からもってきたという神宝の一つで、類似のものに出石の刀子がある。天日槍にまつわる地名である出石・出浅なども、胆狭浅の転じたものと思われる。オリジナルの胆狭浅の意味は、要するに新羅のことであろうと思う。
 確実にこの胆狭浅の延長線上にあると思われるのが、敦賀の笥飯大神の名と伝える去来紗別である。
 古事記は伊奢沙和氣と書くが、伊は五十瓊や五十狭の「五十」で、つまりは美称の接頭語であろう。語根は「奢沙(ざさ・ささ)」ということになる。
 とりあえずここで一つ収斂するものがある。
 大鷦鷯もまた「鷦鷯(さざき)」で、「き」は「男」の意であろう。大陵墓(みささぎ)は、偶然音韻が一致しただけで、あくまでその転の妙を、後世から謚的に援用したのであろう。
 大鷦鷯はまた木莵と名を交換したという伝承がある。これは去来紗別がいま一つ木莵という諱をもっていたことを示唆する。この場合、木莵は「筑紫」を意味するであろう。
 これで仁徳はすくなくとも、新羅系の去来紗別、そして筑紫別の二つの諱をもっていたことになる。前者は弁辰の血をひき、かつ新羅を侵略したく神功に由来し、後者はおそらく産土の名称を仮冒する。
 ちなみに仁徳が去来紗別であれば、応神の敦賀参拝記事における、笥飯大神との名前の交換もまた、応神でなく仁徳のことでなければならない。笥飯大神の亦名が去来紗別というからである。おそらく敦賀参拝へは、応神と仁徳がともに同行したのであろう。ともに行って応神が名を換えたといい、その事実がない以上、仁徳が名を換えたのである。そのために「去来紗別」が笥飯に残った。
 それでなお、応神が名を換えたという根強い伝承は、別の背景を示唆すると思う。
 特殊諱交換記事は、つまるところ、名称ではなかったのではないかという疑義がわく。応神は名を換えていない。別のなにかを交換したのである。
 時に西紀四一三年。記事と異なって神功はすでにこの世にいない。敦賀へは、おそらく大王五百城入彦の指示のもと、武内宿禰がつれていった。応神はおよそ八歳、仁徳はおおよそ一四歳であったとみられる。
 結論はこうである。すなわち太子たるべき立場を、仁徳から応神へと換えた。神功亡き後、五百城からする正嫡の王子は、連れ子の仁徳でなく実子の応神であるべきであった。  さらにいま一つ、仁徳の更名があると思う。
 木莵(筑紫)の名がその生地を意味するなら、母なる神功をさらに直裁に指示する、産土の地名・氏族に由来するものがなければならない。
 神功は気長足姫という。もとは足仲姫といったと思う。仲哀(足仲彦)と対の名である。これも儺の津の制覇によった謚であるとすれば、その元なる諱があった筈である。一つは加羅媛である。去来紗媛であったかも知れない。さらにいま一つ、父たる紀武内に由来する諱があったと思う。
 「内媛」である。
 そして仁徳もまた、そこに由来する「紀内彦」の諱をもっていた。
 ひるがえって、仁徳は応神と大王位の継承順位を換え、笥飯大神と名を換え、木(紀)木莵と換えた。すると菟道稚郎子から大王位を譲られたという伝承も、王位の交換という意図があったかも知れない。王位とともに名も譲られた。
 とはいうものの、前後関係は逆にちがいない。本来仁徳の諱が内彦(宇治彦)といった。後、公式には使うことのなかった諱を、菟道稚の伝承がその一部で示唆するのである。そもそも和珥氏宅媛の嫡子たる菟道稚郎子が、「稚」なる語をふくむことが不審であった。「菟道大郎子」が別に存在するのでなければならない。論理上、菟道稚郎子が本来菟道彦(大郎子)であったとすれば、その名を仁徳に譲った時に、稚郎子となったのである。
  譲られた仁徳は菟道彦と名乗った。
 かくして即位の時の仁徳の諱は、菟道彦(宇治彦)、すなわち珍彦であったと思う。これは論理上の話だから、事実は最初から菟道彦であったであろう。
 宋書が倭王「珍」と書く理由でもある。
 書紀の珍彦は「うづひこ」であり、太(大)氏の祖椎根津彦の亦名であった。古事記は宇豆日子と書く。南山城の内の地の謂である。

品陀の日の御子、大雀β

 仁徳紀は三三三年から三三八年にいたる治世六年であった。
 書紀はこれを治世七八年にまでひきのばしたが、意味なくそうしたのではない。途方もなく膨大な作為のさなかには、書紀の編者の強い想い入れが垣間みられる。仁徳が、応神に勝る巨大な像であって欲しいというのが、書紀の編者の偽らざる気持であった。ひとえに神功への憧憬と、さらには倭建への愛着に由来するであろう。
 そのために仁徳紀には、仁政と徳行の記事がある。半島との毅然たる外交記事がある。先に述べた、仁徳の即位事情を語る即位前紀年記事や、磐之媛・八田皇女との交歓を描く記事を別とすれば、仁徳紀のテーマは、この内政と外交という大きな二軸に絞られている。
 外交についてはすでに言った。内政については史実であろうか。仁徳紀の〇年代はいわゆる「実」仁徳紀であり、即位前紀年から二年までの記事は、仁徳のそれのとして遺漏はない。三年・五年・六年・八年・九年の記事はなく、四年条と七年条が有名な仁政の記事である。

 四年春三月、群臣に詔して曰はく、「今より以後、三年に至るまでに、悉に課役を除めて、百姓の苦を息へよ」
 七年夏四月、天皇台の上に居しまして、遠に望みたまふに、烟気多に起つ。「朕、既に富めり。更に愁無し」とのたまふ。

 この後、秋九月に、諸国人が悉に「税調貢りて、宮室を脩理ふに非じは」と奏じるが、なお忍んで聴さなかったという。宮室をつくるのはその一〇年である。
 一〇年代は応神紀によるから、仁徳紀(応神)一〇年、すなわち四三一年になる。話の前後関係が違うが、一四年(四三五)に「難波京に大道、河内に大溝を作る」とあるから、仁政の挿話は宮室のことでなく、大道・大溝のことであろう。ちなみに一〇年宮室の年は、大山守元年である。
 すると四年条から七年条までの仁政、、延べ三年間は、実仁徳紀でなく、(践祚元年制をとる)大山守紀の四年(四三三)から、七年(四三六)までの意味になる。延べ三年を順守すれば、その六年(四三五)になる。
 四三三年は仁徳元年にほかならないから、仁政は仁徳即位年から始っていることになる。もっとも書紀に大山守紀があったのではなく、事実は菟道稚紀を立てていたのであろう。  すると仁政記事が事実かどうかは定かでない。修辞・作為が多い仁徳紀であるから、論理的には疑いたくなる。かといってまったくの創作かといえば、そうではなかろうと思う。仁徳は五百城と応神の治世に比べて、これを上回る業績を望んだのであろう。
 輿論のためであった。仁政の本質は、今日でいう大減税であったであろうから、それらしき為政が行われたことはあったかも知れない。
 先の仁徳の外交については、事実上倭の半島への干渉で、はっきり侵略の企図があったと思われる。これは応神にはなかった野心である。
 仁徳の半島関係の記事は、仁徳紀(仲哀)四一年(四三四)の百済の問責と新羅へ侵攻の仁徳(倭建)五三年(四三四)、すなわち同年の記事と、これも新羅侵攻の仁徳(応神)一七年(四三八)の三条であった。
 応神の治世にはなかった、百済・新羅を威嚇する強引な半島出兵が、倭王珍の「六国諸軍事」を自称する理由であった。
 咀嚼のために、あらためて実仁徳紀を復元しておく。


実仁徳紀年譜
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             倭建   仲哀    神功  五百城  応神  仁徳  菟道
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 庚午  430          応神没           菟道稚郎子践祚 宇治宮
 辛未  431    50   八田皇女 皇后不和  構造宮室         2
 壬申  432 白鳥陵    39      32    新羅人朝貢          3
 癸酉  433 即位  隼別乱 高津宮 (詔三年除課役) 菟道稚没 4
 甲戌  434 紀角百済 百済酒君無礼 新羅不調 13    2      5
 乙亥  435    54            皇后没    作大道・大溝     6
 丙子  436    55 蝦夷叛      36           15 (遠望烟気)7  
 丁丑  437    56            皇后陵葬      16    5 
 戊寅  438    57 (履中即位) 八田立后  新羅不調  遣戸田
 己卯  439    58 呉国・高麗朝貢   陵地百舌鳥耳原7    
 庚辰  440    59     3       40           19    8
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 宋書は珍をこう記録する。


 四三八 宋文帝 元嘉一五年  讃死し弟珍立つ。遣使貢献して
                           自ら使持節都督倭・百済・新羅・任
                           那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将
                           軍倭国王と称し、表して除正せられ
                           んことを求む。詔して安東将軍倭国
                           王に除す。珍また倭隋等一三人を平
                           西・西虜・冠軍・輔国将軍に号に除
                           正せんことを求む。詔して並びに聴
                           す。(宋書)

 讃にはない珍の半島への強固な思い入れこそ、神功とおなじく、珍の濃い半島の血筋と、それに立つ正統性の信念によったであろう。その后妃の一人も新羅の出自をもつ髪長媛であった。
 髪長媛の子が大草香皇子と幡梭皇女の兄妹である。古事記は大日下王亦名波多眦能大郎子、また波多眦能若娘女、亦名若日下部、亦名長日比売と書く。草香・日下は封地の地名であるから、本来の名は幡梭皇子・幡梭皇女であったのであろう。「長日」の名は髪長媛に由来するが、これが長田(名形)と転じて、履中紀以降、允恭紀・安康紀・雄略紀に登場する。
 仁徳の名声は、その貴種なる出自と半島への事績の誉れにもとづく。大山古墳(伝仁徳陵)の、誉田御廟山古墳(伝応神陵)を陵駕する巨大さは、巷間のこの大王の対する想いに比例するのだと思う。
 古事記の歌謡に、大鷦鷯を称える次のような一節がある。

 また吉野の国主等、大雀命の佩かせる御刀を矇て歌ひけらく、  品陀の日の御子、大雀、大雀、佩せる太刀、本つるぎ、末ふゆ、冬木如す。からが下樹の、さやさや  とうたいき。

   「品陀の日の御子」というのは吉野国主が大雀へ呼かけた言葉である。解釈の一つは「応神の子、大雀」とみなすことである。いま一つは品陀すなわち大雀とみること、あるいは品陀を何らかの尊称とみることである。
 前者についてだが、これは書紀・古事記の系譜をそのまま認めるなら何ら不思議はない。後者の視点からは、応神と仁徳はもともと同一人物、説話上の理由から分岐していったたのだという見解が出てくる。
 筆者は応神と仁徳が兄弟であるとみるべきことをいっているが、その視点でみると、「大雀(大鷦鷯)」という名称が不審である。大陵(みささぎ)の意にちがいないが、そう呼称される由縁は要するに仁徳陵が巨大であったためであろう。いうなら後世的な謚である。もっとも「大去来紗(おおいざさ)」であったものを後から直したとみれば、謚としては納得がいく。
 つぎに太刀であるが、「本つるぎ」・「末ふゆ」・「さやさや」と、いかにも見事な太刀であるかのように歌われている。履中が「剣太刀太子」と呼ばれていることと一対をなす挿話なのである。「剣太刀」は「草薙剣」を体現するもので、つまりは倭建の嫡流を象徴する。倭建・仲哀・仁徳・履中とつづくこの系譜を意識して、大雀のこの太刀を称えている。
 それだけにこの歌謡には真実味がある。別の時代の別の人物のそれをもってきたのではない。まぎれもなく吉野国主が大雀に捧げた歌なのである。
 「品陀の日の御子、大雀」の意味は、従前の解釈ではうまくない。「日の御子」といういいかたは、古事記に類例がいくつもある。大王あるいは大王の王子のことを特にいう。つまりこれは「品陀和氣の子」といっている訳ではない。「品陀」がつかなければ、ただ「王子、大雀」と呼ばわっているに過ぎない。
 そこで「品陀」の真の意味だが、文脈からすれば、大雀を修飾する美称の一つというのが穏当な解釈であろう。「品陀」すなわち「大雀」なのではない。
 「品陀」が品陀和氣(応神)の諱であることは周知のことであるから、ここにある矛盾は、先のおそらくオリジナルであった「去来紗」が後世「大雀」に書換えられたように、何か「褒め称える」言葉が「品陀」に転じたのである。「品陀和氣の日の御子」でなく、あくまで「品陀の日の御子」であった。
 ひるがえって誉田(品陀)のもとの義は、「誉れ」に違いない。すると田・陀は何であろうか。やはり「人(と)」であろう。 上宮記逸文は誉田別(応神)とみられる人物を凡牟都和希と書く。誉津別と混同するのである。誉津別は垂仁の子「本牟智和気(古事記)」で、火(ほ)貴(むち)別にほかならないから、書紀の誉津別と同様、適切な表現ではない。
 もっとも「と」と「つ」はよく通用するらしく、「つ」と「ち」も疎通するようであるから、いったん火貴が誉智・誉津と書き表された時から、誉津別は誉田別と混同していくことになった。
 要するに誉田はもともと「誉人」、すなわち誉まれの人という尊称であったのではないかと思う。誉田別は「誉(人)田の大鞆別」、大鷦鷯は「誉(人)田の鷦鷯」であったのであろう。 応神と仁徳は、その対外的な事績とくに半島や宋との輝かしい交流によって、いわば巨大な栄光と栄誉をえた。ともに「誉れ」を冠するしかるべき理由であった。
 立ったテーマは違っていた。応神は平和を、仁徳は侵略を旨としていたのである。

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