五王の諱β
倭の五王、讃・珍・済・興・武については、すでに検証したが、武は雄略(わかたけ)の「たけ」で、武・建から武を選んだ。讃は「誉む」を意味する誉・讃から讃を選んだ。興・済・珍は、異なる文法によるが、興は穴穂の穴( あな)を意味する孔・穴からを孔を選び、さらに雅字を求め孔を興に転じた。安康(あなほ)である。
済もまた、雄朝津間稚子宿禰の語根の朝津間を、朝妻ついで語根を妻とし、音通の雅字から「済」を選んだ。允恭(おあさづま)である。
珍は後者の例に近いとしても、朕・鎮・沈・椿・枕・珎・鴆などとなって選びようがないが、簡単な前者とすれば、珍(うづ)にほかならない。菟道すなわち宇治の意である。
「倭隋」という名もでてくる。宋書文帝紀元嘉二年に、「珍また倭隋等一三人を平西・西虜・冠軍・輔国将軍に号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す」とある。
この倭隋の「隋」は、漢音で「すい」、呉音で「ずい」である。「すい」または「ずい」と訓む漢字は、帥・水・衰・穂・垂・粋・推・錘・出などから、髄・瑞・蘂・蕋・隧・惴などがあるが、このうち瑞歯別(反正)の「瑞」と、去来穂別(履中)の「穂」のどりらかが、雅字たる「隋」にあてられたと思う。
珍が仁徳とすると、仁徳が自分の嫡子の叙正を求めたことになるから、大兄の名称を冠する去来穂別(履中)とみなすべきであろう。
ちなみに履中の「履」の意は、「履く、踏む」などの意から、「履祚(即位)・履行・履方(正道を行なう)」の意味ももつ。「剣太刀太子」とも呼ばれた履中は、時にもっとも正統な後継者とみられた。
ひるがえって珍が「うづ」で、菟道・宇治・宇豆の意であれば、大鷦鷯という仁徳の諱とは食い違う。菟道稚郎子の諱がこれに該当するようにみえる。
ところが書紀の大王紀年の復元するところは、倭王珍の朝貢する西紀四三八年が、仁徳の治世であることを指示する。そればかりでなく、書紀も古事記も、讃(応神)の後を襲ったのは、応神の望んだ菟道稚郎子でなく、仁徳であったと書く。太子であった菟道稚郎子が遣使を派遣したとみるのは、書紀・古事記の文脈からは余程かけ離れている。
これらの矛盾は、視点を九〇度変えることで解消するが、とりあえず一つの仮定をもちこもう。
仁徳の諱が珍彦(うづひこ)つまり菟道彦・宇治彦であったのだと思う。
ちなみに菟道稚郎子は「稚」の名を負いながら一人で登場する。「菟道大郎子」の存在が語られない。謚でなく諱における「稚・若」の謂は「弟王」をいうのが通例である。ひるがえって仁徳の諱は大鷦鷯とだけ知られているが、実はそうではない。
仁徳紀元年条につぎのような記事がある。初め天皇生れます日に、木莵、産殿に入れり。明旦に、誉田天皇、大臣武内宿禰を喚して語りて曰はく、「是、何の瑞ぞ」とのたまふ。
大臣対へて言さく、「吉祥なり。復昨日、臣が妻の産む時に当りて、鷦鷯、産屋に入れり。是、亦異し」とまうす。
爰に天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表なり、以為ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉の契とせむ」とのたまふ。
即ち鷦鷯の名を取りて、太子に名けて、大鷦鷯皇子と曰へり。木莵に名を取りて、大臣の子に号けて、木莵宿禰と曰へり。是、平群臣が始祖なり。仁徳は大鷦鷯のほかに「木莵(つく)」なる諱をもっていたことになる。「つく」は筑紫の意味であろう。そして筑紫の地名を冠するなら、仁徳もまた筑紫で生まれたか、そこに育った経緯をもつのである。
仁徳が応神の子という書紀・古事記の主張をうのみにすれば、仁徳が筑紫にかかわることは理解しがたいが、宋書の「讃の弟珍立つ」とある記事を無理に援用するまでもなく、書紀・古事記の文脈から応神・仁徳が父子でなく兄弟であることが分かる。
書紀も古事記も、応神が妾にするために呼んだ髪長媛を、仁徳が切望するために与えたという。父子が一女を争うのは、書紀の文法のなかではかならず兄弟であった。景行と大碓がそうであった。
書紀の編者は百も承知で父子と書いているのだが、事実はこれをかならず示唆しておくのを忘れていない。兄弟であれば、応神が筑紫で生れているから、仁徳もという可能性がある。古事記が仲哀と神功の子を二人と書くのが、注意をひく。帯中日子天皇、息長帯比売命を娶して、生みませる御子、品夜和気命。次に大鞆和気命、亦の名は品陀和気命。二柱。
この太子の御名、大鞆和気命と負はせる所以は、初めて生れましし時、鞆の如き宍、御腕に生りき。故、その名を著けき。ここをもちて、腹に坐して国に中りたまひしを知りぬ書紀にはなく、古事記にもこの後、品夜和気命は登場しないから、この実在は疑われる。古事記の修辞の一つかも知れない。ただ仁徳の伝承のひとつに品夜和気命があったのなら、仁徳は大鷦鷯・筑紫にくわえて品夜という名ももっていたことになる。
仁徳と平群木莵が同年同日に生まれたという伝承は、成務(実は景行)と武内宿禰が同年同日といっていることとおなじ文脈にみえるが、仁徳が応神と同世代なら倭建の孫となり、平群木莵も武内宿禰の孫とみられるから、これは同世代で食違いはない。
仁徳の即位元年は、後に検証するように、西紀四三三年とみられる。平群木莵の活躍年代は先に提示した表から、木莵だけを取り出したものをみてみよう。応神(応神)三年 百済阿花王立 (424) 宿禰 羽田矢代 石川 木莵 応神(某王)一六年 襲津彦援助 (425 ) 木莵 戸田 履中元年 即位 (438) 木莵木莵の活躍年代は、三二〇年代の後半から、三三〇年代の後半までの一〇年間である。生れは四〇〇年以降とみられるから、応神・仁徳ともまぎれもなく同世代である。ついでだが、応神も諱を複数もつ。誉田別が正規のそれだが、先の古事記は大鞆といったという。馬具であるから、腹のなかで駆け回っていたというイメージが、胎中天皇の伝承をつくったのであろう。その意味では大鞆和気の方が、誉田・品陀よりオリジナリティーがある。
さらに応神は、神功一三年の敦賀参拝時に、笥飯大神と名を替えたという伝承もある。笥飯大神は去来紗別(伊奢沙和気)というから、応神は去来紗(伊奢沙)という名ももっていたことになる。
この点について、書紀は応神即位前紀にわざわざ疑問を呈している。一に云はく、初め天皇、太子と為りて、越国に行して、角鹿の笥飯大神を拝祭みたてまつりたまふ。時に大神と太子と、名を相易へたまふ。
故、大神を号けて、去来紗別神と曰す。太子をば誉田別尊と名づくといふ。然らば大神の本の名を誉田別神、太子の元の名をが、去来紗別尊と謂すべし。然れども見ゆる所無くして、未だ詳ならず。理屈を言っているようにみえるが、名を替えるという行為は、むしろ互いの名を持ち合うことであろう。書紀がわざわざこういう指摘をするのは、別の理由があってのことであると思う。その詳細はこれから順次あきらかにしていくとして、ここでは応神が去来紗別の諱ももっていたとしておく。
仁徳と珍(うづ)のかかわりは、このままでは分からない。課題に棚上げしておいて、とりあえず応神紀と仁徳紀の復元から入っていこう。
両者の係年については、これまで点では捉え指摘もしてきたが、全貌については不備であった。
応神紀の復元β
応神紀系譜 ------------------------------------------------------------ 己丑 389 0 神功没(4) 庚寅 390 1 応神即位(1) 応神-------+ 辛卯 391 2 立后(3) | 壬辰 392 3 蝦夷朝貢(10) *辰斯王没阿花王立 癸巳 393 4 | 甲午 394 5 海人部・山守部(8) | 乙未 395 6 宇治行幸(2) | 丙申 396 7 高麗・百済・任那・新羅朝貢(9) | 丁酉 397 8 *百済人直支来朝(3) 戊戌 398 9 武内宿禰筑紫(4) | 己亥 399 10 五百城-----+ 庚子 400 11 髪長媛の噂 | 辛丑 401 12 | 壬寅 402 13 髪長媛来(9) | 癸卯 403 14 百済縫衣工女来(2) 弓月君の噂 襲津彦征新羅 | 甲辰 404 15 阿直支来(8) | 乙巳 405 16 王仁来(2) 襲津彦帰 弓月来 *阿花王没直支王立 丙午 406 17 | 丁未 407 18 | 戊申 408 19 吉野宮(10) | 己酉 409 20 阿知・都加来(9) 神功-----| 庚戌 410 21 | 辛亥 411 22 難波大隅宮(3) 淡路巡狩(9) | 壬子 412 23 | 癸丑 413 24 | 甲寅 414 25 *直支王没久爾辛立 乙卯 415 26 | 丙辰 416 27 | 丁巳 417 28 高麗使来 | 戊午 418 29 | 己未 419 30 成務----+ 庚申 420 31 官船枯野(8) | 辛酉 421 32 | 壬戌 422 33 | 癸亥 423 34 | 甲子 424 35 | 乙丑 425 36 | 丙寅 426 37 派遣阿知呉(2) | 丁卯 427 38 | 戊辰 428 39 百済新斉津媛来(2) | 己巳 429 40 立太子(1) | 庚午 430 41 没(2) 阿知帰(2) 成務 ------+ ------------------------------------------------------------*印を付した百済王の代替記事は、百済記によったとみられ、紀年の基準値を指示する意図があったとされている。実際これは三国史記においてもきちんと一致するから、基本的に記録にあった係年なのであろう。
唯一、甲寅(四一三)「直支王没、久爾辛王立」の記事だけは、三国史記では庚申(四二〇)となり、あきらかな齟齬がある。これについては先にふれた。どちらも誤謬である。 以外の応神紀の年譜は、その成り立ちが成務紀の援用であるために、成務のそれのみならず、すべからく成務以降の大王の係年も仮託する。これを精査する方法論もすでにこれまでの検討であきらかである。
すなわち応神紀は、成務・神功・某倭王(五百城)・応神自身の四王からできている。仲哀がなぜ仮託されないかという問題もここでは棚上げしておく。この章を通じてあきらかになるであろう。
一部の百済紀由来の記事をのぞいては、一〇年未満が実応神紀、二〇年未満が実五百城紀、三〇年未満が実神功紀、三〇年以降没年の四一年にかけてが実成務紀である。 シンプルで分かりやすい。応神と雄略のそれが書紀の記述する係年のなかで、とくに典型的なスタイルをとることが、然るべき文法の存在をあきらかにすることであった。 これを単純に整理かつ再構成すれば、つぎのような係年譜を得る。
それぞれの大王元年については、成務はむろん庚寅年(三九〇)、神功も疑問の余地なく辛丑年(四〇一)、その没は神功九年己酉年(四〇九)で、翌庚戌年(四一〇)五百城が立った。治世は一二年、辛酉年(四二一)に没したとみられ、その年応神が践祚、翌壬戌年(四二二)を即位元年とした。
応神の元年が壬戌年(四二二)であるべき理由は、即位前紀年から元年にかけてかならずあるべき立宮(遷宮)記事が、応神にかぎって存在しないためである。応神の宮城については、応神紀二二年の「難波大隅宮」が初出となる。つまりこの唐突に出現する宮城記事こそ、応神の事実上の即位元年なのである。書紀の典型的な文法である「遷宮元年」である。
ひるがえって伝承通り、応神が神功の新羅征討の庚子年(四〇〇)に誕生していれば、難波大隅宮記事の四二二年には、応神は当年とって二三歳になる筈である。神功三年に立太子したという応神が、二〇歳を超えるまで即位しなかった理由についても、別章にのべることとしたい。ただここで指摘しておきたいのは、すくなくとも嘱望された王子なら、一七、八歳で直ちに即位して然るべきであるという客観的な事情である。実応神紀年譜(成務・神功・五百城・応神) ------------------------------------------------------------ 成務 神功 五百城 応神 ------------------------------------------------------------ 己丑 389 0 庚寅 390 1 辛卯 391 2 壬辰 392 3 辰斯王没阿花王立 癸巳 393 4 甲午 394 5 乙未 395 6 丙申 396 7 丁酉 397 8 百済人(直支)来朝 戊戌 398 9 武内宿禰筑紫 己亥 399 10 庚子 400 11 0 仲哀7 辛丑 401 12 1 壬寅 402 13 2 癸卯 403 14 3 襲津彦征新羅 甲辰 404 15 4 乙巳 405 16 5 襲津彦帰 阿花王没直支王立 丙午 406 17 6 丁未 407 18 7 戊申 408 19 8 己酉 409 20 9 0 庚戌 410 21 10 1 辛亥 411 22 11 2 壬子 412 23 12 3 癸丑 413 24 13 4 甲寅 414 25 14 5 *直支王没久爾辛立 乙卯 415 26 15 6 丙辰 416 27 16 7 丁巳 417 28 17 8 戊午 418 29 18 9 己未 419 30 19 10 庚申 420 31枯野 20 11 髪長媛の噂 阿知・都加来 辛酉 421 五百城没 21 12 0 壬戌 422 33 髪長媛来 淡路巡狩 1 応神即位(1) 大隅宮 癸亥 423 34百済縫工女来 14 2 立后(3) 弓月君来 甲子 424 35阿直支来 15 3 乙丑 425 36 王仁来 16 4 秦一族来 丙寅 426 37 26 17 5 遣使阿知呉 丁卯 427 38 27 18 6 宇治行幸 戊辰 428 39 新斉津媛来 19 7 高麗使来(百済・新羅) 己巳 429 40 29 20 8 庚午 430 41 30 21 9 応神没 阿知帰 ------------------------------------------------------------いくつかのジャンル分けて、これらの項目をみていくことにしよう。
まず遣呉使(遣宋使)と呉使(宋冊使)、除授の有無などの記事の整理と宋書との整合性である。
阿直支の渡来β
呉関連記事は、まず応神三七年条の「阿知使主・都加使主を呉に派遣、縫工女を求めしむ」という記事である。阿知・都加は高麗(高句麗)に至って道を聞くと、高麗王が案内人を立ててくれ、無事呉に着いた。この時の高句麗王もむろん長寿王である。呉王は工女兄媛・弟媛、呉織・穴織を与えた。
応神四一年に帰還するが、応神の没(二月)にまにあわず、胸形大神に奉った兄媛をのぞいて、三女を大鷦鷯に献じたという。四一年春二月、天皇、明宮に崩りましぬ。一に云はく、大隅宮に崩りましぬといふ。 是の月に、阿知使主等。呉より筑紫に至る。時に胸形大神、工女等を乞はすこと有り。故、兄媛を以て、胸形大神に奉る。是即ち、今筑紫の国に在る、御使君の祖なり。 既にして其の三の婦女を率いて、津国に至り、武庫に及りて、天皇崩りましぬ。及はず。即ち大鷦鷯尊に献る。
阿知・都加の帰還である応神没年の四一年、すなわち西紀四三〇年は、宋書のいう、宋文帝の元嘉七年(四三〇)「倭国王(讃)朝貢」の記事に対応するであろう。
五世紀中国史書倭国関係記事 ----------------------------------------------------------- 四一三 東晋安帝 義煕九年 倭国朝貢(晋書) *安帝時有倭王賛、賛死立弟弥、弥死 立子済、済死立子興、興死立弟武 (梁書) *安帝時倭王讃朝貢(南史) 四二一 宋武帝 永初二年 倭讃万里修貢、除授賜う可(宋書) 四二五 宋文帝 元嘉二年 太祖元嘉二年、讃また司馬曹達を遣 わして表を奉り方物を献ず(宋書) 四三〇 宋文帝 元嘉七年 倭国王貢献(宋書) 四三八 宋文帝 元嘉一五年 讃死し弟珍立つ。遣使貢献して 自ら使持節都督倭・百済・新羅・任 那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将 軍倭国王と称し、表して除正せられ んことを求む。詔して安東将軍倭国 王に除す。珍また倭隋等一三人を平 西・西虜・冠軍・輔国将軍に号に除 正せんことを求む。詔して並びに聴 す。(宋書) 四四三 宋文帝 元嘉二〇年 倭国王済、遣使奉献、また以て安東 将軍倭国王となす。(宋書) 四五一 宋文帝 元嘉二八年 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・ 秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東 将軍は故の如く、並びに上る所の二 三人を軍郡に除す。 (宋書) ------------------------------------------------------------つづいて応神紀二二年条に「淡路巡狩」の記事がある。
すでに指摘したように、この「淡路巡狩」の記事は、冊使ではないが、叙正を携えた遣呉使の帰還を、手厚く迎えるための「巡狩」であった。
応神紀二二年は神功二二年(四二二)とみられるから、これは宋書の武帝の永初二年(四二一)、「倭讃万里修貢、除授賜う可」の記事に該当する。
この記事は「九月、天皇淡路嶋に狩りしたまふ」という簡単なものだが、応神一三年条に、「髪長媛を徴さむ」という挿話のなかで、一書がつきのようにいっている。日向諸県君牛、即ち己が女髪長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇、淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。
髪長媛を迎えるための「淡路巡狩」であったかもしれないが、この応神紀一三年は、五百城一三年、つまりやはり西紀四二二年とみられるのである。
さて応神すなわち倭王讃にまつわる呉(宋)との交渉は、四三〇年のそれが叙正にかかわりないながら、呉使の發遣・帰還が記録されていた。「倭国王」の叙正であった四二一年のそれは、「淡路巡狩」にかこつけて記録していた。文脈からすれば、冊使はいずれもやってこなかったのである。
すると宋書に残り、書紀にみえない倭王讃の記録はといえば、元嘉二年(四二五)の「讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず」という記事だけである。
おそらく後世の国家的矜持のせいで、記録上遣呉使はみとめるが朝貢はみとめず、呉使来とはいうが冊使はこれをみとめぬ文法のため、こうした遣使の発遣がもっとも無視されやすかった記事であったに違いない。記事がなくても当然なのだが、たまたまここにその元嘉二年(四二五)の朝貢を類推できる挿話がある。
阿直支の渡来である。
阿直支は王仁に先立って、百済から渡来したという。一五年秋八月、百済王、阿直支を遣して、良馬二匹を貢る。即ち軽の坂上の厩に養はしむ。因りて阿直支を以て掌り、飼はしむ。 故、其の馬養ひし処を号けて、厩坂といふ。 阿直支、亦能く、経典を読めり。即ち太子菟道稚郎子、師としたまふ。 其れ、阿直支は、阿直支史の始祖なり。
古事記にも同様な話がある。
阿直支渡来の応神紀一五年は、五百城一五年すなわち西紀四二四年である。漢文を読み書きできる半島の文化人が入った嚆矢であった。「文をよくする」点が重要である。 宋に深い興味があった応神が、時に彼を利用するのは当然のなりゆきであったのであろう。
翌応神紀一六年(四二五)、阿直支は宋へ派遣された。
宋書が記録する元嘉二年(四二五)の倭使が阿直支であった証拠は、記録上の二つの特異な記事のなかにある。一つは始めて「上表」があったということである。もう一つは使者が「司馬曹達」と姓名を名乗っていることである。
文をよくする阿直支の独壇場であったであろう。この百済渡来の人物は、おそらく楽浪官人の末裔で、姓が曹名が達であり、あまつさえ司馬の官名を名乗った。司馬は軍団の司令官をいうが、語源は馬飼いである。阿直支はこれを洒落のつもりで言ったのであろうが、まんざら嘘でもなかったのである。
ちなみに宋の武帝(劉裕)が纂奪した東晋の皇帝は、むろん司馬氏であった。その晋の事実上の建国者は、司馬懿仲達といった。曹達の曹は、その晋が纂奪した魏の皇帝曹氏と同じだが、これもむろん偶然洒落になった。
渡来人β
応神の治世下のこの時期、阿直支を初め多くの渡来人があった。とりわけ後の倭漢(東漢)氏と秦氏が著名である。
倭漢氏の祖の阿知使主・都加使主は父子というが、応神紀二〇年(神功二〇年)、党類一七県を率いて渡来してきた。応神即位二年前の、西紀四二〇年である。
阿知・都加は、上記にあったように応神紀三七年(成務三七)、西紀四二六年、呉に派遣され、四年後の応神紀四一年(四三〇)帰還している。
秦氏は応神紀一四年に首長の弓月君が、一六年にその人夫が渡来している。五百城一四年(四二三)から一六年(四二五)のことである。雄族秦氏の渡来だが、武内宿禰の子という羽田矢代宿禰との関係があるであろう。羽田矢代は武内宿禰の子でなく葛城襲津彦の子と思うが、いずれにしても新羅や加羅との韓子であると思う。
渡来の年代を順にたどれば、つぎのようになる。西紀四二〇年 *倭漢祖阿知・都加渡来 四二一年 叙正(淡路巡狩)(倭讃朝貢) 四二二年 四二三年 秦祖弓月君渡来 四二四年 *阿直支渡来 四二五年 王仁渡来 秦氏一族渡来 (倭讃遣司馬曹達) 四二六年 遣呉阿知・都加呉 四二七年 四二八年 四二九年 四三〇年 阿知・都加帰還 応神没 (倭国王朝貢)こうまとめてみると、推測のできなかった永初二年(四二二)の倭讃の朝貢と叙正も、阿知・都加の渡来の翌年であることが注目される。阿知・都加は「文はよく」しないが、国際人であった。
つまり、阿直支の渡来の翌年が、宋書の司馬曹達の年(四二五)であれば、阿知使主・都加使主の渡来の翌年(四二二)もまた、宋書の倭讃の朝貢と叙正の年とみなすべきなのである。
四二二年の倭使は阿知・都加であった。
阿知・都加の第二回目の呉派遣については、すでに触れたが、すくなからず不審な記事がみられた。応神紀三七(四二六)年に呉に派遣され、応神紀四一年(四三〇)に帰還するまで、この出張はのべ四年にわたる。例がないこともないが永すぎる。
くわえて、阿知・都加にとっては二度目の遣呉使であるのに、道を迷い、高句麗王に案内人をつけてもらって、ようやく呉へ渡ったというのである。先に指摘したように、ここでの高句麗王は長寿王にほかならない。三七年の春二月、阿知使主・都加使主を呉に遣して、縫工女を求めしむ。爰に阿知使主等、高麗国に渡りて、呉に達らむと欲ふ。即ち高麗に至れども、更に道路を知らず。道を知る者を高麗に乞ふ。 高麗の王、乃ち久礼波・久礼志二人を副えて、導者とする。是に由りて、呉に通ること得たり。
文脈から気づくことは、これが初めて呉使を派遣した時の状況にふさわしい記事ということである。ということは、これが応神三七年条(四二六年)から四〇年(四三〇)の記事ではなかったのではないかという疑問がわく。
さきのように、阿知・都加は五年前の四二一二年に呉へ行っている。発遣は渡来の年、四二〇年であろう。呉への道を知っている阿知が、高句麗王に案内人を乞うことはない。だからといってその四二一年の時の記事かといえば、そうではない。四二一年には叙正があった。書紀は同年に「淡路巡狩」記事をのせるから、阿知・都加は四二〇年に出立、翌四二一年に帰着しているのである。
旅程は二年で四年ではない。
ところでこの阿知・都加の発遣は、「呉に縫工女を求める」という理屈がつく。これは呉の武帝が縫工女を倭王に贈ったという事実から、逆に帰納されたものであろうが、伝承のより重要なポイントは、この贈答が応神の生存中には間に合わなかったドラマをいうのであろう。ために仁徳に献じたとあるのも、後からの付会に違いない。
すると阿知・都加の二回目の遣呉使は、帰着の年、応神四一年(四三〇)だけが正確にであって、派遣の年はその一年前の応神四〇年(四二九年)であったと思われる。
ここに高句麗王の協力と四年間の旅程という伝承が、文脈から浮く。別のものから採った可能性がある。
高句麗王の助力と、出立から帰着まで四年を要したというこの遣呉使の伝承は、きわめて特殊である。のみならず、高句麗は「久礼波・久礼志二人」の導人をつけたという。
導人ではあるまい。久礼波・久礼志二人も名前というより呉(くれ)に由来する官名であろう。つまり高句麗の遣呉使の名称を和風に翻訳したものである。
だから考えられる一つの可能性は、先に述べた「義煕九年(四一三年)」の倭使である。
高句麗王の挿話は、その特異な性質のためによく残った伝承なのであろう。高句麗王が領土内に入った倭の遣呉使を歓待して、あまつさえ導人をつけ呉まで送らせたというような出来事が、二度起こったとはとても考えられない。
「義煕九年(四一三年)」の倭使の挿話が、なぜ応神三七年の阿知・都加に仮託されたかという理由は、定かでない。帰途に四年を費やしたという伝承のためだけと割りきれば、さほど問題はなくなる。
帰途に四年かかったなら、義煕九年の倭使の帰還は、四一七年ということになる。
ひきつづいて応神紀の半島関係記事を、三国史記と対照しながらみてみよう。