第一章 斯麻宿禰β

第一節 書紀の紀年β

書紀の編纂方針β

  日本の古代史は、旧式の写真機を扱うのに似ている。この種の機械は露出計がなかったりシャッター速度にばらつきがあったりで、めったにうまく動かない。いわゆる機械の癖をのみこみ、それなりに蓄えた知識を駆使してやっと思いに近い作画がいくつか出来る。その余はすべて実像であるが真実ではない。
 実像であって真実ではないものは、いくらでもある。古代史にあっては、金石文がそうである。ほとんど絶対的な存在に思えるが、解釈は、全く一つところに収斂していかない。不確定な要素が拭いきれない。いちど解釈を誤れば、際限のない自己撞着におちいる。
 それなら文献に頼る方がはるかにましであろう。文献はともかくも体系的に存在している。点でなく線であり、それも時間の経過のなかにある。虚像も多いが、実像も多くある。整理がつくものなら、そのなかから真実へ至る途もあるであろう。  もともとこうした事情は、われわれに遺されている古代の文献史料がきわめて数少なく、また内容が不備であるという点に起因する。日本書紀そして古事記である。その成立の時期と背景のために、この二書にすぐれて参考にすべき史料はほかにない。現在に残る、あるいは逸文として伝えるその他の史料(聖徳太子伝・旧事本紀など)も、要は日本書紀・古事記を、辛うじて補足するにたりるだけである。
 かといって同時代史料として価値のたかい、中国の史書(魏志倭人伝・宋書倭国伝など)を金科玉条とすることも適切ではない。視線も異なるし、それぞれかけ離れた時代を点で捉えて記述するために、これを連綿として理解することはできない。歴史の輪郭を把握することが不可能である。輪郭を描かずして歴史を繰ることは、つまりは枝葉を見て木を語ることに等しい。
 われわれが古代史をして知ろうとするなら、どれだけ不備であろうとひたすら日本書紀ついで古事記から始め、またそこへ帰っていかなければならない。これがものの道理であると思う。
 日本書紀をひらいてみよう。とりあえず輪郭を掴むためにはいちど全編を通読したい。そのためには現代語訳のほうがいいが、これは宇治谷孟氏の文庫本の訳が適当であると思う。細部は岩波の日本古典文学大系を参照すればいい。文庫版も出ている。
 史書としてこれを通読すると、むろんいくつもの疑念が湧いてくるが、そこからしだいに問題の焦点も絞られてくる。
 そもそも日本書記(以下書紀)は勅撰の正史であった。そしてながく虚妄の書といわれてきた。
 この見解はもちろん正しいが、異論がまったくないわけではない。いわゆる津田史学はそれに先だつ時代の非科学的な評価を徹底的に否定した。ひとつの時代の清算であり、その後の穏当で科学的な史料批判がここから始まったのであるからこれは了としたい。ただこの他者を圧倒する影響力のなかで、書紀はいっとき外国史料の補完的な引用物になりさがった。いま辛うじて復権がはかられようとしているが、動きは散発的でまとまった方向をもっていないように見える。
 こうした背景には、書紀の紀年は信じがたいが記事はいかほどか史実を反映しているだろうという、かなり曖昧な観念が存在すると思う。何によらず曖昧さというものは放っておいていいものではない。
 そもそも歴史書というものは、仮に正確無比な記述をもってしても、なお記述者も一部である時代の影響を受ける。まして国撰の史書であれば、さらに色濃く権力の影響を受ける。この受けかたに濃淡があったとして本質はすこしも変わらない。この点では書紀も同等であって、史書というなら書紀も全き史書である。虚妄の書といわれるのは、その紀年、とくに継体ないし雄略以前の紀年に巨大な引き延ばしがあり、それが一縷の整合性をももたぬように見えるからである。
 曖昧でない態度というものは、論理的にこれを全否定するかあるいは論理的にその理由をみつけてこれを肯定するかのどちらかである。
 否定するのは簡単である。とりあえず肯定してみよう。つまり書紀にあってこの虚妄の紀年の引き延ばしは、基本的かつ重要な編纂方針であったと、まず認めてしまおう。そしてさらに一つ、時の書紀の編者にしてこの引きのばしをする際に原典とした正確な紀年があったと仮定しよう。
 この議論はどこにいきつくだろうか。これがこの節の課題である。
 七、八世紀という時代は、日本が国際化の一歩をあゆみつつ、一方で半島から孤立していくという切迫した認識があって、王化思想あるいは小中華思想にのめりこんでいる時代であった。矜持のために万世一系の大王とその始源の大王の即位を、悠久のかなたへ追いやる必要があった。
 書紀ばかりではない。十二世紀にできた朝鮮の史書三国史記(以下史記)でも、同じくその始祖王を遥かな過去へひき延ばした。その編纂の実際的な始まりは、新羅の中興の祖真興王の時代であった。六世紀後葉、日本では欽明の治世時である。それがすなわちそれぞれ時代の要請であったのだろう。書紀の紀年が不毛の紆余曲折をみたのは一にこのためであった。
 これを編纂の思想といおう。あえてそう言う。
 このとき書紀の編者がもっていた記録が何であり、どの程度のものであるかはむろんはかり知れない。しかしながら正史という位置づけでこの編纂にかかった編者たちにとって、その使命はまずもって史実の正確な年表をつくることにあった。このことに大きな重みがあることは、いまも日々に多くの企業の社史が生まれてくることを想起すればよい。
 社史の編纂の最初の仕事はまず年表の作成である。記録や事実の取材はすべて断片であって、当初は相互になんの関りももたないかにみえる。年表のなかに位置づけることによって、はじめて経緯が格別の意味をもって見えてくる。歴史の誕生である。
 このことは現在に生きている事象を記述するにあたってもそうなのであり、数百年の歴史を語るためにはいっそう自明のことであろう。
 書紀が原典とした、おそらく国家の力量であらゆる史料を一度すべて昇華させてひとつの原典としたものが存在したと思う。それが紀年において、正確を期したものであったかどうかは測り知れないが、国撰なればの膨大な史料を精査しつくし、それなりの水準を超えるにいたったものに違いない。書紀の編者はこれを編纂と記述の基礎に置いた。多くの伝承や挿話もその中に含まれていた。
 留意すべきは、このまとまった原典にとりあえず思想の入る余地はないということである。思想が歪めるのは、そこに実在するテキストなのであり、それを作為あるいは歪像し、関係を捏造また仮託するのである。テキスト以前に思想が伝承を、あるいは史実を創るという推測は穏当でない。現実的でもない。
 この辺の事情は単純に今日的問題として考えていい。日本人の生真面目さという国民的性格も健在である。古代にあっても文化の幹というものは、その本質が変わることがない。現在の感性が捉える、あるものを見る姿勢・態度というものは、ほとんど古代人のそれと変わらないであろう。時代と場所を超えてなお編者や執筆者が事実を歪めることはない。それは個人に拠ってたつ責務感に由来する。その責務のよってたつところが国家であれば、なおさらのことであろう。
 歪めるのは事実の解釈であって、また過去にする願望の投影であって、本筋ではない。ましてや先に創作があって、これを史実にとりこむようなことは起こり得ない。
 われわれはだから、この種の書紀の原典の存在を前提として、この記事と不審な係年もまたどこかで合理的な、あるいは後世の人間がこれを復元できる痕跡をのこしたかも知れないという可能性を考えるべきだと思う。犯罪がままその痕跡を残すのは、不可知的な理由によるのではなく、発見せられるのを望んでそうするのである。
 さて本題である。
 書紀と古事記を通読すると、まずいくつかの基本的なフィルターが、ここにかかっていることが見えてくる。真っ先に感じることは、むろん紀年の引き延ばしにほかならないが、たとえば紀年を引き延ばしたのは、大王ばかりでなくたぶん編纂時にあって朝廷に重きのあった一部の豪族たちの紀年も、それなりにひきのばされたらしいことである。またひきのばすにあたっては、書紀・古事記とも記事に互換性があり、なにかそれに先立ち、そういうスタイルの影響をうけた、より旧き編纂史書があったらしいことである。
 後者の点については、そもそもひきのばす方法に、書紀・古事記とも、共通の方法・手段をもちいたように見えるからである。有体にいえば、大王の紀年の、特にその即位元年を前王、前々王へと統一的に仮託していったと思う。これが事実であれば、これだけでも編纂方法に、もともとひとつの確とした方向性があったことを意味することになる。
 共通の方向・手段ということの意味を具体的に説明しよう。書紀と古事記の没年干支がその典型である。

古事記の没年干支β

  古事記には、のべ一五ヶ所に大王の没年干支が記録されている。書紀のように編年体で書かれていないために、古事記で年代を推定するのは、この干支しかない。書紀の干支と単純に比較すると、一見書紀ほどひきのばされていないように見える。
 この古事記の没年干支は、従来これを正確あるいはほぼ正確とみられてきたという経緯がある。定説といっていい。ひろく敷衍していて、中国の四世紀の同時代史料として価値の高い宋書の紀年と比較されるのは、たいていこの干支である。これはしかしまったくの誤解だと思う。
 あらかじめ留意しておくべきことであるが、この説のとおり古事記の紀年がほぼ正確で、書紀のそれがひとり大幅にひきのばされているとすれば、逆に書紀と古事記はある程度の類似以上の互換性ないし補完性をもたない。そのみなもとに、統一したひとつの方向性をもたず、参照した同一の旧き編纂史書などももたない。ひいては同一の王化思想ないし小中華主義などをもたない。
 編纂物というものは、もともとそういうものである。
 そうでなかったら、書紀と古事記はそれぞれ孤高を保ち、輪郭も細部の文脈の類似ももたず、むろんその編者の王統にかかわる記述態度も必ず隠されたままであろう。実際はそうではない。書紀と古事記は要するによく似ていて、いわば相互に互換性・補完性をもつ。その似ている程度もかなり高度で、つまりは編纂の始まった時期が近接するからというような事情によるのでなく、参照した同一史料の編纂方針を遵守するという基本的な性格によるのだと思う。
 書紀と大きな違いがあるという古事記の大王没年干支も、どう見えようと、要は記載された王名の前王・前々王のそれなのであり、このいわば先験的な前提のもとで、書紀とはわずかに手法を変えて援用した結果なのだと思う。古事記が書紀ほどひきのばされていないというのは、決して正確な話ではない。
 書紀と古事記のそれを対照しながら、この証拠を見てみよう。


     <書紀・古事記係年比較表>                     
     ===============================================
           |  書紀                      |  古事記   
     -----------------------------------------------
     大王  |  即位西暦 |  係年 干支西暦 |  干支西暦 
           |  元年     |  没年 没年     |  没年     
     ===============================================
     神武  |  辛酉 301 |    76 丙子 316 |*          
     綏靖  |  庚申 320 |    33 壬子 352 |           
     安寧  |  癸丑 353 |    38 庚寅 330 |           
     愨徳  |  辛卯 331 |    34 乙丑 304 |           
     考昭  |  丙寅 306 |    83 戊子 328 |*          
     考安  |  己丑 329 |   102 庚午 370 |           
     考霊  |  辛未 311 |    76 丙戌 326 |           
     考元  |  丁亥 327 |    57 癸未 323 |           
     開化  |  甲申 324 |    60 癸未 323 |           
     崇神  |  甲申 324 |    68 辛卯 331 |  戊寅 318 
     垂仁  |  壬辰 332 |    99 庚午 370 |*          
     景行  |  辛未 371 |    60 庚午 370 |           
     成務  |  壬未 371 |    60 庚午 370 |  乙卯 355 
     仲哀  |  壬申 372 |     9 庚辰 380 |  壬戌 362 
     神功  |  辛巳 321 |    69 己丑 389 |           
     応神  |  庚寅 390 |    41 庚午 430 |* 甲午 394 
     仁徳  |  癸酉 433 |    87 己亥 399 |  丁卯 427 
     履中  |  庚子 400 |     6 乙巳 405 |  壬申 432 
     反正  |  丙午 406 |     5 庚戌 410 |  丁丑 437 
     允恭  |  壬子 412 |    42 癸巳 453 |  甲午 454 
     安康  |  甲午 454 |     3 丙申 456 |           
     雄略  |  丁酉 457 |    23 己未 479 |* 己巳 489 
     ===============================================

 この<書紀・古事記係年比較表>は雄略から神武にいたる二二王の、書紀と古事記の没年を、特に干支を基本として並べたものである。
 単純な認識として(仮定といってもいい)、書紀の雄略没年(四七九)、応神没年(四三〇)はこれを正しいとする。もしかして正しいかも知れないものとして、垂仁没年(三七〇)、考昭没年(三二八)、神武没年(三一六)をとる。
 その他の書紀の大王紀年については、その記述する干支の絶対年代はこれを無視する(この後も無視する)。ある時代においては、一代の大王にのみ係年はこれを通年とし、その余は穏当な年代にあてはめて考えて差しつかえない。なにより簡便である。
 すなわちこの没年干支の西暦表示は、書紀の雄略没年以下二王から五王の係年をとりあえずベースとして、おおまかに穏当と思われる係年をあてはめた。むろん書紀の記述上のそれとは合致しない。異同が起こりうるのは六〇年単位であるので、決定的には間違わない筈である。
 こうしてみると、書紀と古事記の紀年は確かに一見かけ離れているように見えるが、これは次のように論理的な修正が容易にできる。大王紀年がひきのばされている、という前提に立てば、あたりまえの結論ともいえる。
 修正を説明しやすいように<古事記修正>比較表を参照する。
 修正の論理的根拠は単純である。
 書紀の応神紀は事実上成務・仲哀・神功・応神の四王の治世をカバーしていると思う。そして書紀はその没年を応神のものとして正確に記述し、即位年をおなじく成務のそれに仮託した。
 古事記も同じくその即位年を成務に仮託したが、編纂上その没年しか記述することがなかったために、応神の没年もまた成務に仮託した。
 これだけである。


<書紀・古事記係年比較表>古事記修正                      
===========================================================
     |  書紀                      |  古事記               
-----------------------------------------------------------
大王 |  即位西暦 |  係年 干支西暦 |  干支西暦 |  修正西暦 
     |  元年     |  没年 没年     |  没年     |  没年     
===========================================================
神武 |  辛酉 301 |    76 丙子 316 |*          |  戊寅 318 
綏靖 |           |                |           |           
安寧 |           |                |           |           
愨徳 |           |                |           |           
考昭 |  丙寅 306 |    83 戊子 328 |*          |           
考安 |  己丑 329 |   102 庚午 370 |           |           
考霊 |           |                |           |           
考元 |           |                |           |           
開化 |           |                |           |  乙卯 355 
崇神 |           |                |  戊寅 318 |  壬戌 362 
垂仁 |  壬辰 332 |    99 庚午 370 |*          |           
景行 |  辛未 371 |                |           |           
成務 |           |                |  乙卯 355 |  甲午 394 
仲哀 |           |                |  壬戌 362 |           
神功 |           |    69 己丑 389 |           |  丁卯 427 
応神 |  庚寅 390 |    41 庚午 430 |* 甲午 394 |  壬申 432 
仁徳 |  癸酉 433 |                |  丁卯 427 |  丁丑 437 
履中 |           |                |  壬申 432 |           
反正 |           |                |  丁丑 437 |           
允恭 |           |                |  甲午 454 |  甲午 454 
安康 |           |     3 丙申 456 |           |           
雄略 |  丁酉 457 |    23 己未 479 |* 己巳 489 |  己巳 489 
===========================================================

 細部の説明をしよう。
 典型的な紀年が応神のそれである。
 その元年は、書紀によれば三九〇年、書紀の文脈を詳細に辿ると、景行の没年とみなされる、神功没年六九年(三八九年)ならびに景行五六年(おなじく三八九年)の翌年、すなわち成務元年であろう。成務の没年は、治世四年後の垂仁紀(書紀の記載は景行紀)六〇年(三九三年)である。
 この辺の説明はあえてさらりといくことにする。この章を通じて明らかにしていくということで了解されたい。ひとつだけ言っておけば、書紀の景行の治世六〇年のうち、最後の四年間は、実は成務のそれであった。書紀は近江の高穴穂宮と書き、成務の宮を記していないが、古事記は高穴穂宮の治世は成務のものであったと記録している。書紀の意図的な作為であり、そうするにあたっては、それなりの理由があった。
 いずれにせよ書紀と古事記が、どういう視点で大王紀年をあつかったのかがここに明らかになる。すなわち応神紀は事実上、その治世四一年を成務・仲哀・神功・応神の四王を通じ四三〇年に没している。古事記も同じくこれを成務元年に仮託した。ただ前述のようにそれと同時に応神の没年も成務治世四年没に仮託した。
 没年干支しか記さなかった古事記には、そうする以外ほかに方法はない。その結果が古事記の応神没甲午(三九四)であったと思う。書紀で算出するとこれは三九三年になり、両書の記述は事実上一年異なる。
 雄略没年については、書紀(四七九)と古事記(四八九)で一〇年違う。しかし書紀が雄略元年とする丁酉(四五七)は、安康没年に仮託した允恭の没年である丙申(四五六)の翌年をいうのであろう。するとそこに即位したのは木梨である。
 以下木梨・安康・市辺とつづき、雄略は四六五年に即位した。雄略紀ものべ四王からできている。雄略紀にある、呉の使いを接待する記事は雄略一四年であり、これは文脈からして雄略没年の前年の記事である。したがって古事記はその元年を事実上の雄略元年としてこれを記述した。伝承は治世二三年であったから、そこから起算して、没年己巳(四八九)を記録したのであろう。実際はその二三年は四八七年になる。二年の差は允恭の没年に書紀と二年の差があることと関係するであろう。
 ちなみに後述する、立太子没年(立太子年の翌年が当王没年)という仮定をここに援用すると、事態はさらに明らかになる。すなわち允恭紀による木梨の立太子は二三年、允恭没年はその二四年であり、この允恭の立太子没年を西紀四五六年とする允恭元年は四三三年である。
 <立太子没年修正>を参照してほしい。

<書紀・古事記係年比較表>立太子没年修正                
===========================================================
     |  書紀                      |  古事記               
-----------------------------------------------------------
大王 |  即位西暦 |  係年 干支西暦 |  干支西暦 |  修正西暦 
     |  元年     |  没年 没年     |  没年     |  没年     
===========================================================
応神 |  庚寅 390 |    41 庚午 430 |* 甲午 394 |  壬申 432 
仁徳 |  癸酉 433 |                |  丁卯 427 |  丁丑 437 
履中 |           |                |  壬申 432 |           
反正 |           |                |  丁丑 437 |           
允恭 |      *433 |   *24      456 |  甲午 454 |  甲午 454 
安康 |           |     3 丙申 456 |           |           
雄略 |  丁酉 457 |    23 己未 479 |* 己巳 489 |  己巳 489 
===========================================================
                     *立太子没年

 ここで允恭元年という四三三年は応神の没四三〇年の三年後(没年からは四年後)であり、これは応神の没後に「三年の空位」があったという書紀の記述からして、允恭でなく仁徳の元年に違いない。すなわち允恭の治世は、仁徳、履中、反正、允恭の四王からなっている。四王というのは、応神、雄略の場合とおなじである。
 神武紀もまた書紀と古事記の紀年を表のように適当に当てはめた結果を、そのまま理解すればよい。神武の即位が紀元前六六〇年辛酉と信ずる人はいないと思うが、古事記の崇神没年干支のために、二世紀末から三世紀初頭にかけて存在したと思う人はいるだろう。しかし古事記のそれも要するに崇神でなく、書紀とおなじく神武没年の仮託なのである。書紀の神武没年は三一六年、古事記では三一八年である。二年違う。
 ところで神武の没年がその十六年(三一六)なら、即位は辛酉(三〇一)になる。辛酉はいわゆる讖緯思想の「革命」によって神武元年をそれになぞらえた。したがってこの三〇一年は、その前後三〇年以内からそこへもってきた筈である。。三〇一年以降の可能性は、書紀の王代をとりあえず遵守する限りはあり得ないから、神武の即位は二七一年から三〇一年の間にあると思っていい。  この点、安本美典氏はその著「神武東遷」において、数理文献学を援用した大王の治世年数を割りだして一定の解決をみている。飛鳥・奈良時代の二〇代で平均治世が一〇.三三年、敏達から雄略の九代で一〇.四四年であるから、安康から神武にいたる二〇代は永くて一〇年、おそらく一〇年をきるだろうという。
 これに関係して、そもそも応神以前の大王位の継承がすべて父子間に限るという記述に、まずもって無理がある。氏の計算では、三二代用明から現在までの父子継承率は四五.九パーセントである。応神以前神武までの父子継承は、すくなくともその半ば程度は兄弟継承でなければならない。
 そこで氏の結論は、神武の即位を三世紀の二八〇年代においた。きわめて適切な主張であると思う。ついでにいうなら、この点で考昭の没年も同様である。書紀における考昭元年とされる三〇六年は、係年の見当からはかってたぶん綏靖の即位元年であろう。垂仁のそれも考霊元年への仮託に違いない。
 書紀と古事記は、編纂にあたって結局同じ種類の史料、特に編纂物を参照している。係年は基本的に同一の手法に負っていて、ただ微妙にその試算の視点が異なるだけなのだろう。

天皇記・国記等の影響β

 この対照表で、書紀と古事記とにどの大王代でも数年の差がある。これについては今後の確実を期すために、触れておかなければならない。
 そもそも古事記には、王代の起算において異同があった。「<書紀・古事記係年比較表>古事記修正」で応神(記載は履中)の没を、古事記は四三二年としているが、書紀では四三〇年である。二年違う。書紀における四三二年は菟道稚朗子の没年であり、古事記はおそらく、その翌年の仁徳元年の指示のために、この没年をもってきたのであろう。允恭の没も四五四年とするが、書紀(修正)では四五六年である。雄略については前に言った。
 理由はしかしこうした起算の異同のためだけでもない。大王の元年の設定という概念がそもそも異なっていた可能性もある。踰年元年制(前王没年践祚、翌元年)と没年称元制(前王没年即位元年、これは三国史記が遵守している)の差異である。  書紀は基本的に踰年元年を遵守している。事実上崩れる場合も係年を変更してまでこれに対処しているらしい。これに対して、古事記はかならずしもこれに従ってはいず、没年称元制を基本とし、一部に踰年元年制を用いているように思う。異同の原因はおおむね書紀のほうにあるようである。
 ちなみに書紀においては、基本とする踰年元年制が崩れやすかった。特殊例というにはほど遠く、譲位や弑逆あるいは纂奪などいくつかのケースで没年称元制を余儀なくされた筈である。
 ところでこの二制は、言葉として分かりにくく説明上混乱のもとになりそうである。どの場合も践祚年に年号をかえるのだから、これを祚年元年として統一しておこう。踰年(改元)は即位年元年すなわち践祚翌年、祚年(改元)は践祚年元年という区別である。
 さてこうした微妙な異同を除いては、書紀と古事記は、基本的に同一の思想のみならず、同一の方法ないし手段をもって記述した。この場合、その史料となったのは、帝紀、旧辞、諸氏の古記、地方の伝記、その他の記録、縁起そして百済の史書(百済記、百済新撰、百済本記)などであるが、問題の編纂方法の根幹史料となったのは、曽我馬子と聖徳とが編集したという「天皇記及び国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記(天皇記・国記等)」であったでろう。
 「天皇記・国記等」は、推古二八年(六二八年)制作の記事があるが、これは古事記の完成といわれる和銅七年(七一二年)、書紀の完成とする養老四年(七二〇年)のおよそ一世紀弱の前である。
 ちなみにこの時代こそ、日本が世界、少なくとも環中国大陸国家世界の一員としての立場を自他ともに認識し、かつこれを小帝国主義にまで昇華した時代であり、先のふたりは、その先駆者であったのだと思う。
 このことが大きな意味をもつ。冒頭に述べたように、書紀も古事記もともにその編纂を天武朝に始めた。「大王は神にしあれば」といった天武の勅令である。大和の過去三〇〇年以上の歴史のなかで、絶対の権威を築きあげた最初の大王であり、こと編纂にあったってもその意向は絶大なものがあったに違いない。しかし結果としてその影響は小さなものであったと思う。
 書紀を通読すると、特に天武ついで持統の影響をうけたと思われるいくつかの筋だてが見える。しかしそれ以上でも以下でもない。「現人神」たる天武にあってなお、書紀や古事記の編纂についてはさほど強い圧力を行使しなかった。すくなくとも編纂方針に口を出さなかった。その根拠がある。
 書紀・古事記の基本的な編纂方針の最たるものは、ほかならぬ大王紀年の引き延ばしであった。うちその典型としてつとに指摘されるのは、むろん神武の建国紀元年辛酉である。これは那珈通世氏以来、推古九年辛酉(六〇一)の一蔀一二六〇年をさかのぼる、西紀前六六〇年とされていた。
 代表的な論客として大和岩雄氏をあげれば、氏はこれを批判し、一〇世紀の文章博士三善清行の「革命勘文」を引用し、一蔀を一三二〇年として、斉明七年辛酉(六六一)すなわち天智称制元年を起点とする、その一三二〇年前(前六六〇)を建国紀元とした。この議論は讖緯論としてまったく正当だが、書紀を検証するという立場では決してそうではない。
 議論の骨子は、一に「革命」というべき重要事件が、この斉明七年にあって推古九年にはないという事実である。その通りで、斉明七年は、斉明が新羅侵攻途中の七月に筑紫に没し天智が事実上この後を襲った年である。形式上の天智即位はその六年後である。神武の建国元年革命の年を算出する起点とするには、うってつけの事件であった。うってつけの事件であることが作為的でもある。
 推古九年には、特別な記事はなにもない。聖徳が斑鳩に宮を興てたとあるばかりである。ただし一〇年には、来目王子を新羅征討将軍とし筑紫に至った、とある。ついでこういう記事もある。  

   冬一〇月、百済の僧観勒来けり。仍りて暦本及び天文地理の書、并せて遁甲方術の書を貢る。是の時に、書生三、四人選びて観勒に学び習わしむ。陽胡史の祖玉陳暦法を習う。大友村主高聡天文遁甲を学ぶ。山背臣日立方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ

    「皆学びて業をなしつ」という、この推古一〇年の記事を率直に評価すべきだと思う。暦は六世紀の欽明の時代にすでに入っていた。もっというなら五世紀のたぶん雄略の時代にすでにその根幹が伝わっていた。しかし、それは暦博士という人を導入したのであって、暦の運用もその人に任せたのである。
 観勒はそれとは違い、暦の技術ついで思想を大和に伝えた。推古という漢風謚を改めてみなおさなければならない。豊御食屋姫という和風謚をもつこの大王は、その多様な事績にかかわらず推古と謚されたのである。これが聖徳と曽我馬子の編んだという天皇記・国記等と関係していないはずはない。
 思うにそのとき玉陳が習得した暦法は技術に習得の比重があって、讖緯の思想は形骸的かあるいは簡略なものであった。聖徳と曽我馬子はこれを概要において援用し、大和の暦法実施の年を起点に、一二六〇年さかのぼった神武建国元年辛酉を算出したに違いない。これが素直な考えかたである。
 大王紀年を悠久のかなたへ追いやったのも、建国元年を前六六〇年にさかのぼらせたのも、要するに天皇記・国記等の編者であったと思う。書紀と古事記はこの方針を基本的に遵守した。建国元年の設定は、そもそも大王紀年のひきのばしと密接な関係があった。いわば編纂方針そのものであるといっていい。それでなお、書紀および古事記の基本的骨格は、推古の時代の天皇記・国記等に拠っているのである。
 天皇記・国記等は逸文すら残らないから、むろんこのことは確実に証明することはできない。だから、われわれはやはり書紀と古事記をもって、この話をつづけるしかない。ただその編纂方針において、そうした過去の史書に決定的な影響を受けたことを認識しつつあらためて検討をつづければよい。
 話をもとに戻そう。
 書記からその紀年を復元する手掛かりは、なおはっきりしない。しかし本来途方もなく複雑な筈もない。いくつかの根拠のありそうな記事と、根拠のない記事とをつきあわせて、意図的に仮託されているかも知れない文脈をとりあえず挙げてみる。その上でこれらの文脈がどれだけ体系的につかわれているかを調べてみる。こういう作業のくり返しで、たぶんそうかも知れないという書記の編者の意図したスタイルがいくつか想定できるであろう。
 スタイルのうちで、この後の記述のために、ここでとりあえずいくつかの仮定を提起しておきたい。以下の記述はこれらの仮定のうえになりたつが、そのために、再構成されたそれはつまるところ、古代史の結構壮大な虚構ともなり得ることをあらかじめ注意しておきたい。

立太子没年・立后元年・斎宮元年という仮定β

仮定はまず、つぎの三項目である。

         ===============================================
      立太子没年  | 立太子記事の翌年を当王没年とする
      立后元年 | 立后記事の前年を当王元年とする
      斎宮元年 | 斎宮記事の翌年を当王元年とする
                   *斎宮記事の当年は斎宮践祚年
     ===============================================

        次いでサブ的な援用仮定である。         

     
      ==============================================
      遷宮元年 | 遷宮記事の当年を当王元年とする
      陵葬元年 | 陵葬記事の翌年を当王元年とする
          ==============================================

 簡単に意味だけ述べておくことにしたい。それがなぜそうなのかという理由については、この種の仮定の成りたちからして、繁雑でもあり省略したい。仮定とその検証は当然その相互の対照のくり返しによるので、以下のすべての記述がいわばこの理由の拠って立つところである。
 立太子没年とは、書記の立太子記事のあらわれた年が、その記事を通じている大王の事実上の没年であり、没年と記録されている紀年はその紀年の延長線上にあり、該当する後代の大王(例えば四代後の大王)の没年である。
 ちなみに雄略と応神はこの立太子没年と没年が一致する。垂仁は一年違いでおおまかに一致する。先に述べた大王紀年の基本的な構造が、たとえば四代以上前の大王の元年から当王没年までを通ずるなら、その際のこれを記録する手法もある程度想像できる。他の重要項目で事実上の没年等を仮託するのである。立太子没年という概念はなかでももっとも穏当な手法に違いない。
 立后元年とは、立后記事のあらわれた年がすなわち当王の二年であり、したがって当王の即位元年はその前年である。雄略から神武にいたる二二王のかなりの大王は二年立后としている。
 斎宮というのは、書紀の基本的な観念のなかで、大王の践祚(即位のことであるが書紀の扱いのなかでは、即位はこれを元年一月などとして、践祚と区別している)の儀礼のひとつである。したがって斎宮の記事のあらわれた年が当王践祚の年であり、翌年が元年である。斎宮記事は雄略以前において、次の四条がある。

 
 
       =================================================
    崇神六年   | 豊鍬入姫を斎宮に
    垂仁二五年  | 倭姫を斎宮に(豊鍬に替え)
    景行二十年  | 五百野皇女を斎宮に(倭姫替らず)
    雄略三年   | 斎宮の栲幡皇女自刃
       =================================================

   雄略三年の記事は特殊だが、栲幡を伊勢に派遣した大王また王子が罪を得て没し、これに連座して自刃したように読める。雄略紀が木梨軽元年から始まるために、これは木梨の廃嫡にともなう事件であろう。
 景行二十年の記事は景行がその皇女を斎宮として派遣した記事であるが、前王垂仁の派遣した倭姫を罷免していない。罷免は原則として派遣の主の没また罪にともなうもので、ここではそうではないから、垂仁の没によるのでなくほかの事情がある。  垂仁の倭姫は異論のない践祚事例で、かつ伊勢斎宮の嚆矢であった。二五年には大和に次いで忍坂さらに適地を辿って二六年に伊勢に至った。
 崇神の豊鍬は斎宮記事の初出で、当初は磯城瑞垣宮の宮城のなかにあった。次いで笠縫邑に祀った。
 つづいてサブ的な仮定とした遷宮元年は、書紀によればほぼ即位元年とともに宮をたてるとあるから、基本的には元年の記事である。践祚年(即位元年の前年)の場合もある。特殊な例としては崇神三年の磯城瑞垣宮遷宮がある。
 同じく陵葬元年も編者の観念として、没年の翌年をその年とする記事が一般的である。陵墓の築造に期間を要したことをいうのであろう。またこの場合、陵葬の記事は即位した当王にかかわるから、当王元年を意味することとなるが、実際は没年がすなわち陵葬の年であったであろう。
 これらの仮定に加えて、さらにひとつの派生的な仮定を述べておかなければならない。先に述べたように、紀年を特定するにあたっては、書紀にあっていくつか本来の踰年元年にもとると見られる記事がある。一見隠されていて、そのつど混乱するが、見過ごすわけにはいかない。
 たとえば敏達元年四月即位の記事などはその典型である。


    <雄略〜推古紀年表>
     ==================================================
           |  書紀                      |  古事記      
     -----------------------------------------------
     大王  |  即位西暦 |  係年 干支西暦 |  干支西暦 
           |  元年     |  没年 没年     |           
     ===============================================
     雄略  |  丁酉 457 |    23 己未 479 |  己巳 489 
     清寧  |  庚申 480 |     5 甲子 484 |           
     顕宗  |  乙丑 485 |     3 丁卯 487 |           
     仁賢  |  戊辰 488 |    11 戊辰 498 |           
     武烈  |  己卯 499 |     8 己卯 506 |           
     継体  |  丁亥 507 |    25 辛亥 531 |  丁未 527 
     安閑  |  甲寅 534 |     2 乙卯 535 |* 乙卯 535 
     宣化  |  丙辰 536 |     4 己未 539 |           
     欽明  |  庚申 540 |    32 辛卯 571 |           
     敏達  |  壬辰 572 |    14 乙巳 585 |  甲辰 584 
     用明  |  丙午 586 |     2 丁未 587 |* 丁未 587 
     祟峻  |  戊申 588 |     5 壬子 592 |* 壬子 592 
     推古  |  癸丑 593 |    36 戊子 628 |* 戊子 628 
     ===============================================

 まず敏達の没年が書紀では乙巳(五八五)、古事記では甲辰(五八四)であることに注意したい。
 書紀によれば、敏達は壬辰(五七二)四月に即位し、その五月の条に、高麗使はいま何処にいるかと曽我馬子に訊ねている。その記事に注して、この高麗使は前年越の国に漂着したとあるが、欽明紀にはこの漂着はその三一年とありその二年前である。したがって、敏達元年のこの記事は、前年の欽明三二年(五七一)、すなわち欽明没年のそれとみれば文脈が通る。欽明没年の三二年こそ敏達元年であったと思う。つまり壬辰(五七二)でなく辛卯(五七一)である。敏達の即位が例外的に四月であると述べているのも、これを示唆しているように見える。
 ちなみに書紀には、欽明がその死に先だって敏達に譲位したかのような記事もある。
 しかし書紀はその基本的見解から践祚元年をとらなかった。敏達が乙巳(五八五)に没しているなら、その治世は一五年だが、踰年元年を遵守したため、その治世は一四年であった。すると古事記がこれをどう処理したかが分かる。践祚元年すなわち辛卯(五七一)を敏達元年としたのである。ただし治世はこれを書紀と同じく一四年とした。
 これが書紀が敏達没を乙巳(五八五)とし、古事記が甲辰(五八四)とした理由であった。したがって結果に一年の異同があるのは古事記の方が粗雑であったためである。しかし即位の背景を記録する姿勢においては、古事記がより適切であろう。
 とにかく敏達においては、受禅による祚年元年の伝承が確としてあった。それでなお、治世年だけは両書に共通にして重い伝承であったとすれば、係年に冠する今後の検討に、ひとつの材料があたえられたことになる。
 ちなみに古事記は、即位元年は統一的にこれを記さない。没年を書くばかりである。しかし即位元年を記録するとすれば、ここに用明即位元年を書紀と同じく丙午(五八六)と書いたと思う。敏達没年の二年後である。事実と異なる二年後の即位という、この不規則な記述の仕方は、践祚元年を扱う書紀・古事記の編纂方針の一つであったと思う理由がある。
 古事記は検証しようがないが、書紀にはこの時代を除く前代の大王の記録に多くこの記述法がみられる。
 もともと受禅をはじめとする祚年元年制は、以外にも弑逆あるいは女王の退位などいくつかの理由で行われた。これがつねに書紀と古事記の対照で解かれれば問題はないが、古事記の没年干支は記載例があまりに乏しい。書紀の記述の背後にかくれているこの記述法を、あらかじめ整理しておかなければならない。
 これを仮に、特殊月即位ならびに特殊年即位ということにする。書紀全編を通じて、この特殊月即位・特殊年即位とみられる記述は一二条ある。 


特殊月即位と特殊年即位についてβ

 まず一覧しよう。

       ================================================
    綏靖元年 |一月即位     |特殊年即位(三年)
    愨徳元年 |二月特殊月即位   |
    考昭元年 |一月即位     |特殊年即位(二年)
    景行元年 |七月特殊月即位   |
    仲哀元年 |一月即位     |特殊年即位(二年)
    仁徳元年 |一月即位     |特殊年即位(三年)
    履中元年 |二月特殊月即位   |
    允恭元年 |十二月特殊月即位 |特殊年即位(二年)
    安閑元年 |一月即位     |特殊年即位(三年)
    敏達元年 |四月特殊月即位   |
    考徳元年 |六月特殊月即位   | 
    天武二年 |二月特殊月即位  |特殊年即位(二年)
    ================================================
  

    簡単な説明を加える。
 天武は前年に践祚し翌年を踰年元年としている。通常とおなじである。ここに即位というのは事実条即位式であるから、天武をもってはじめて即位と即位儀礼を分けたのである。したがってこれは特殊な表記ではあるが、異常な記事ではない。また考徳は己巳の変(太化の改新)の起きた、その六月に皇極の譲位をうけて即位したのであるから、明確な受禅による祚年改元である。書紀もこれまで踰年元年制を当てはめたりしない。
 敏達は先述した。安閑もその経緯からして継体の譲位であり、その趣旨の記事もある。特殊年即位として操作がしてあるであろう。係年の修正が必要である。
 允恭は病のため即位が遅れたといい異常はない。履中は敏達と同じく、その元年の記事が即位前期のそれと重複が見られるから、理由は分からないが祚年改元なのであろう。これも修正を要する。
 仁徳は菟道王子と位を譲りあい、即位前の空位には然るべき理由があった。
 仲哀・考昭・綏靖には然るべき説明がないが、景行はその即位にあたって「年号を変える」と明記されているから、先述のようにこれは譲位など祚年改元にあたると思う。纂奪かも知れない。
 さて、ここでは特殊月即位のあった大王の次王また次々王にあって、かならず特殊年即位が起こっていることに留意したい。敏達の例とおなじく、治世の年数に確とした伝承があってなおこれを没年称元とすれば、当王の没年は一年遡ることになり、次王等の即位は前王没年の翌々年つまりここに一年の差違を生ずることになる。
 敏達の没年を、書紀が乙巳(五八五年)、古事記が甲辰(五八四年)としているのは、先述のようにこの理由によるであろう。  ちなみに推古の治世を書紀が三六年とし、他の上宮聖徳関係記事(法王帝説など)が三七年として、ともに没年は戊子(六二八年)としているのもこのためかも知れない。つまりは前王崇峻が弑逆によったために、例外的に祚年改元を宣したという可能性がある。
 書紀は結局譲位はこれを除いて、ともかくも全編を通じて踰年元年の制を遵守しているように見える。(古事記はこの点微妙な揺れがある)したがって書紀においては、ここに見られるいくつかの譲位等の修正を勘案するとすれば、特殊月即位はこれを祚年改元および元年とし、特殊年即位の紀年もまたその一年を遡って復元しなければならないと思う。
 以上が書紀をして、紀年の復元をする基本的仮定の概要である。そう複雑でもない。
 さて歴史は一国の歴史ではない。他の国家とのかかわりがあって成立する。記録の存在しない歴史がありえないように、歴史は記録という意識と概念のもとに誕生するであろう。本題をさらに進める前に、列島に間断なく影響を与えつづけた大陸と半島の情勢をみておかなければならない。 

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