おもしろそう紀β

第一部 謎の四世紀β

終わりの呟β

大和のまほろばβ

 地名辞典をのぞくと一目瞭然だが、列島にくまなく同一の地名というものが存在する。  この理由について、地名がおおく地勢に由来すれば、地勢的条件が似ていれば、地名も類似する道理である。茶臼山の名称が全国に分布するのはこれによる。もっぱら古墳跡である。
 そうでない地名がある。ある中心地とみられる場所から、全国に同心円状にあるいは交通路上に分布する地名などは、これを担う氏族の移動が想定される。フロンティアである。
 地名の由来は他にもいくつか考えられるが、ここに限られた地域圏が二つあって、しかも互いに隔たっていながら、地域内の地名がそれぞれ際立って似ているという場合があれば、これはどういう理由によるであろうか。
 一〇ヶ所に及ぶ地名が、その方位・距離の関係も含めて類似するのである。いわばセットされている。大和盆地と北九州筑後川流域の甘木がそれである。
 これについては安本美典氏が詳細な報告をしている。一見してその類似の度合の大きさに驚かされるが、こうしたことが起こる確率は統計上偶然のレベルを超える。氏はこれをもって邪馬臺国の所在地を甘木に比定し、その大和盆地への東遷を主張する。
 筆者はその見解に直ちにには組みしないが、甘木にあった勢力が東遷したらしい事実は、これを可能性のあるものと諒解したい。
 ただ邪馬臺国そのものでなく、その前身たる国家をささえた国であったと思う。投馬国である。

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 日本神話は天忍穂耳が天上から、南は日向の地に降臨したことを記録する。瓊々杵が存在しなかったことは、第二章で述べた。またこの降臨がおそらく逃亡・南下であったことも説明したと思う。すると忍穂耳という人物の名称が、問題の焦点になる。
 耳なる語は単なる美称ではない。おそらく魏志倭人伝に投馬国の官・副官として記録される彌々・彌々奈利こそそれであろう。忍穂耳が邪馬臺国など由緒ある王族の一人であれば、その名に耳なる語根をもつのは、すなわちその母たる出自が投馬国にあったからだと思う。
 つまり投馬国は邪馬臺国の姻族であったとみたい。邪馬臺国の前身であっても文脈はかわらない。
 忍穂耳の妃は豊玉姫・玉依姫であった。この語根は玉であろう。思うにこの姉妹の出自は不彌国であろう。その官は多模といった。よって忍穂耳の降臨時には、すでに三人の王子があった。五瀬・稲飯・三毛入野である。
 忍穂耳は、その母の出自たる投馬、すなわち本居の地の一族に担がれて、妃の出自たる不彌の一族も糾合して、邪馬臺国などの国家から逃亡南下した。
 その邪馬臺国あるいは前身国家に正系の嫡子が存在していれば、忍穂耳はむろん庶流・傍流ということになる。もしその滅亡と後裔の散逸が同時ともなっていたとすれば、その残存勢力の錦旗としてその正統を奉じ、本居の勢力を糾合して新天地を目差したことになる。
 投馬は「つま」の音訳であろう。「妻」である。姻族の意そのものの名称であると思う。「つま」はまた音韻的に「とも(乙類)」と交代する。友である。
 書紀・古事記が記す大伴氏こそそれであろう。

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 忍穂耳降臨時から大伴氏が伴髄していたことは、伝承に明示されるが、その由来が忍穂耳の母方の氏族であれば、文脈は論理的に一貫する。忍穂耳はその引き連れた大多数を甘木出身の大伴氏の一族で占めて南遷したのである。その後日向の地で一世代を費やした。この期間の出来事については、書紀・古事記ともつまびらかである。
 忍穂耳は、現地の大久米氏の一族から阿田津姫を迎えて后妃とした。そこに神武・綏靖、そしてたぶん吾田津姫の妹から手研耳が生まれた。三子である。先の豊玉姫・玉依姫の子、五瀬・稲飯・三毛入野の三子があるから、忍穂耳の子はあわせて六人となる。
 この第二世代、とくに五瀬が成人に達した時、この一族は関係する全氏族を糾合して東征した。趨勢からすると、大伴氏の氏族と大久米の氏族の東征といってもいい。
 ひるがえって大和の地名の、筑紫甘木周辺の地名との著しい類似は、その東征軍の主体的な多数を担ったのが、甘木出身の大伴氏であったからであろう。

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 大伴氏は大和朝廷の軍事をもっぱらにした。匈奴の単于は一族の王子を左翼と羽翼におき、これに軍事を司らせたが、大和の大王氏は始祖の姻族としてこれにあたったのである。その後物部氏もこれに当てたが、大伴氏が左翼軍事とすれば物部氏は右翼軍事を管掌した。
 物部氏は姻族の出ではない。その始祖は饒速日で神武に先立って大和盆地に降臨していた。後に瓊々杵として忍穂耳の子に編入させたが、その出自は瓊々杵・饒速日に共通する語根、「爾支」であろう。爾支は伊都国の官であた。王かも知れない。
 大王氏とは出自を異にしながら、あえてこれを天孫と認め、王統に組み込みながら右翼軍事を委ねた。正統の概念からしてなお、その出自は大王氏に次ぐ高貴さを保持していたたためであろう。物部氏の勢威がそれをさらに高めたかもしれない。
 大伴氏がその始祖王忍穂耳の母系の出自であるという格式は、たぶん大久米氏のそれよりも高かった。それでも大久米氏が神武にとっては身近な軍事の存在であったことは、神武が磯城の七媛女との見合いに伴髄して、なお比売多多良伊須気余理比売(古事記)に大久米が口伝えしていることで分かる。大久米の首長は、神吾田津姫の兄弟、つまり神武の伯父であろう。

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 姻族の法則というものがこれで氷解する。
 大王氏は侵入した大地の勢威ある首長を姻族とするのである。そしてかっての姻族はこれを大王氏の右左翼の将軍とするのである。
 神武は、大伴氏と大久米という二氏の姻族とともに、磯城の地に入り、磯城氏をあらたな姻族として、王権を創始した。
 大和のまほろばである。  

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