第二章 倭王武の時代β

第三節 義煕九年の倭使β

高句麗長寿王β

 高句麗の長寿王は広開土王の嫡子であった。一代の英雄広開土王の没(四一二年)にともない践祚、翌西紀四一三年に即位するとともにこの年を治世元年とした。
 通常践祚元年であるべき三国史記の記録にあって、踰年元年をとったのは、新羅の味鄒王とこの長寿王の二人だけである。
 長寿王だけが踰年元年である理由は、想像の域をでないが、高句麗建国の王鄒牟に次ぐ巨人であった広開土王の盛大な葬儀と、これにともなう長寿王の即位式のためとすれば、そう的はずれではなかろう。
 辛卯の年(西紀三九一)以来、倭・百済にとって不倶戴天の的であった広開土王にくらべて、長寿王は父に似ない沈着・温厚な現実派であったようである。その六〇年におよぶ長大な治世を通じて、東夷の高句麗を広大な領域を支配する東海の雄国に育てあげた。将来を臨む眼とともに、行動に制御ある人物であった。
 後、長寿王一五年(四二七)には平壌に移都、半島に根をおろしてその後の高句麗の繁栄のスタートをきった。状況的に追い詰められた形跡はないから、これも理念があって行なったことであろう。
 さて長寿王は盛大な葬儀または即位の式にあたって、近隣諸国にくまなく参列を求めた筈である。南方の国家についてはまず友好国である新羅に告使を遣ったであろう。百済とその先の倭は敵対国であるから想像の域をでないが、当否は一に長寿王の人となりにかかわる問題ということになる。
 長寿王は平壌遷都の四二七年には、遷都の宣言のために倭にまで使臣を派遣したとみられる証拠がある。倭との国交が改善されていた事実はないから、これは長寿王の度量の発揮か、あるいは偶々政策転換を試みたのかどちらかであろう。これも想像の域をでない。
 長寿王即位時はその一四年前にあたるから、麗倭事情は最悪の状態にあり倭への発遣は考えられない。ただ百済に対しては敵対するといっても「元は是属国」とみなしていたのである。百済に対する発遣は起こり得る事情があった。
 確かなことは、地理的に接する百済にとって敵対する高句麗の代替わりは歓迎すべきことであった。招待があればむろんず然るべき名代を高句麗に派遣するであろう。
 そこで一つの想像がわく。別件でたまたま百済にあった倭使が、この時長寿王の即位式を知った。あるいは承知していたとしても偶々現場に出くわしたことになる。そして百済が使臣を高句麗使に発遣するとき、倭使はおそらく多大な関心を抱いてこれに同行することを求めたのである。
 根拠はないが、時に百済にこの倭使が滞在べき理由があれば、この想像になんらか整合性がでてくることになる。
 後の経過からすれば、この倭人は高句麗に入ったばかりでなく、長寿王に歓待され、あまつさえ高句麗が践祚宣言の正使を中国へ派遣するに当たって同伴を誘われることすら起った。
 広開土王の没と長寿王の践祚が、一時代を画す出来事であったことはいうまでもない。状況の一瞬の変化が、百済と高句麗に倭人を誘うという行為を生み、誘われてためらわない行動的な倭人を生んだ。
 かくして貢物に高句麗の産物をもつ非公式な倭使が、義煕九年中国に至った。倭国が正規に発遣したのでなく、ひたすら偶然の機会と私的な好奇心で大陸まで行った。
 倭使が公式であって、かつ贈物を失ない途次で調達したという見解は、もとより成立しない。正使たるものの行動の範疇に入らない。ひるがえって正使でないこの倭人は、倭の朝廷の官僚的存在とみることも杜撰である。
 朝廷の内側にいながら半島に権益をもち、つねに列島と半島を行き来する近畿の豪族の一人であろう。政治的にも独断専行、朝貢物さえ現地で調達する破格な意志と行動力をもつこの人物は、時の倭国の歴史にも残って然るべき人物でもある。
 義煕九年(四一三)に東晋に入ったこの倭人を、書紀・古事記のなかで特定することは可能であろうか。
 無理な話にみえる。が、この倭人の出発地であった百済、時に任務を抱えて百済にいた倭人なら捜しようがある。

たった一人の倭使β

 書紀・古事記からこの時期の半島との交渉記事を捜してみたい。書紀では神功紀・応神紀が対応する。
 ところが捜すまでもなく、西紀四一三年に相当する書紀の記事は唯一条しかない。神功紀一三年のいわゆる「応神の敦賀参拝」記事である。武内宿禰がつれそった。  

   十三年の春二月の丁巳の朔甲子(八日)に、武内宿禰に命せて、太子に従ひて角鹿の笥飯大神を拜みまつらしむ。癸酉(一七日)に、太子、角鹿より至りたまふ。
 是の日に、皇太后、太子に大殿に宴したまふ。皇太后、觴を挙げて太子に寿したまふ。因りて歌して曰はく、
 「この御酒は、吾が御酒ならず、神酒の司、常世に坐す、いはたたす、少御神の豊寿き、寿じ廻ひし、神寿き、寿き狂ほし、奉り来し御酒そ。あさず飲せ、ささ」
   武内宿禰、太子の為に答歌して曰さく、
   「此の御酒を、醸みけむ人は、その鼓、臼に立てて、歌ひつつ、醸みけめかも、此の御酒の、あやに、うた楽しさ、さ」

   この挿話についてはいくつも不可解な点がある。なぜ敦賀なのか、目的はなにか、応神と名を代えたという笥飯大神が去来紗別というのはどういう訳か、そこから帰った応神を迎えて神功がなぜあれほど歓待したのかなどである。名を代えたという点については、書紀ですら書きながら疑問を呈している。
 ともあれ神功紀一三年のこの記事は、まぎれもなく実神功紀一三年、すなわち四〇一年を元年とする一三年、西紀四一三年である。倭の東晋への一五〇年ぶりの朝貢の年、すなわち高句麗長寿王の即位年でもある。
 あまりに漠然とした書紀のこの記事からは、東晋や高句麗とのかかわりを解きほどく片鱗さえみつけられない。
 別の線からみてみよう。そもそも仲哀が敦賀に出たのは、そこが北九州ならびに半島を臨む前線基地であったからである。成務が近江高穴穂宮に出たのも半島出兵を指揮するためであった。成務元年は西紀三九〇年、その二年が辛卯の年三九一年であった。
 この文脈からすると、応神が武内宿禰を従えて敦賀へ行ったという記事も、やはり半島と何らかの関りがあったのではないかという想像がわく。それが直接高句麗の長寿王の即位にからんでいた筈はない。まして東晋への使者派遣が企図されたのでもない。それらはあくまで偶然であったにちがいない。その偶然が起こる前に倭と半島との間に然るべき事件があったのである。
 百済とかかわる事件であった。百済第一九代の王、久爾辛の送還である。
 久爾辛は腆支の嫡子である。史記には三二〇年即位、三二七年薨とある。書紀の記事は延べ二条しかないが、その一条は、応神二五年条の「直支王没、久爾辛王立」という記事である。成務紀に仮託した応神紀では、素のままで西紀四一四年にあたる。百済紀などから援用した係年は、基本的には素のままで挿入され、年代の基準とする倣いであった。
 この記事だけはそれと異なるようである。素のままでなく通常の大王紀年の扱いらしく、応神紀の二〇年代すなわち実神功紀二〇年代とみられる。応神紀(神功)二五年(四二五)である。
 「腆支没、久爾辛立」が四二五年、確実とみられる眦有の践祚は四二七年だから、この間は三年、すなわち久爾辛は四二五年践祚、四二七年没、治世僅か三年ということになる。
 史記の記事を否定することになるが、かならずしもそうはならない。先の書紀のオリジナル西紀四一四年という年は、百済第八代の古爾王の即位の干支と合致している。この事実は古爾王が久爾辛王の過去に遡った仮託であることを示唆する。肖古王が近肖古王の、仇首王が近仇首王の仮託であるのと同様である。
 しかも古爾王の倭関係記事、博士王仁・衣縫工女記事は、係年上書紀応神紀の記録とぴたりと一致する。伝承の骨子として、王仁や衣縫工女を送った百済の主が久爾辛であったことを指示するのである。
 腆支の時代であるから、太子としての久爾辛が行なったことになる。
 書紀には今一つ、間接的な久爾辛記事がある。雄略紀二五年条のそれで、百済の木満致が「久爾辛の母后と相奸けて」、国政を傾けたという主旨の記事である。これは事実も時代も違う。木羅斤資の子という木満致は、雄略朝の人物にほかならないが、久爾辛とその母后は、一世代あるいは二世代前の時代の人物なのである。「王の母と奸」という伝承は木満致の時代のものであろうが、「久爾辛の母と奸」という伝承は木満致でなく、その父木羅斤資のそれではなかったかと思う。
 さて、その久爾辛の母后の名は「八須夫人」といった。詳密な記録をもつ三国史記においてなお、久爾辛は即位と没との二条しか記事をもたないという特殊な王であった。これほど影のうすい王は他に類をみない。二条以外に関係するわずかな記事が、この母の名「八須夫人」である。
 直感的な話をしよう。八須は「安」に通じる。八須夫人は倭人の出身ではなかったかと思う。
 そもそも久爾辛の父腆支(腆支)は、三九六年、高句麗に国土を蹂躪された百済が、翌三九七年、高句麗への報復を誓って倭に援軍を要請する時、人質として倭に送られたものである。
 八年を経た西紀四〇五年、父阿花王が没したため、腆支は倭国から帰って王位を継いだ。倭国は嬉々として育ての王子腆支を送還したのである。
 つまり腆支は倭で育った。若い時代の九年もの間、倭にいて時のくるのを待っていたのである。
 この間に腆支が娶ったのが八須夫人であったと思う。八須夫人は倭にあって腆支とのあいだに一子久爾辛を生んだ。そしてたとえば腆支が百済へ帰還した四〇五年の後も、なお幼なき子をかかえて倭に残っていた。
 四一三年、応神と武内宿禰が敦賀へ出向いた目的は、成長した久爾辛を百済に帰還させるためであったと思う。久爾辛が三九八年頃生まれていれば、応神よりすこし年嵩の一六歳くらいの年格好であった。
 結局この送還の年をもって、倭の記録はすなわち久爾辛即位の年とする作為をを試みた。この試みはある程度成功し、三国史記が古爾王に仮託していく手段にもなっていった。
 それでも三国史記が久爾辛を記事にすることなく抹殺したのは、「腆支の庶子」と書かれる、第二〇代百済王眦有の存在のためであろう。眦有は久爾辛の嫡子と書かれ、一に腆支の庶子ともいうというが、文脈からしてむろん腆支の庶子が正しい。
 再び倭使の話に戻る。
 この時期、人質の送還はつねに不測の事態が予想された。四〇五年の腆支の送還には、兵を擁する将軍が送還使であった。直接は語られないが、文脈からこの将軍は葛城襲津彦とみられる。
 久爾辛においても同様であろう。彼我の記録のどこにも書かれることのないこの無名の送還使は、西紀四一三年、久爾辛とともに百済に入ったのである
。  そして職務を終えたこの倭使は、そこで高句麗広開土王の没と長寿王の即位を聞くことになる。
 そこから先は、この倭使の特異な主体性というべきものであろう。百済が派遣する賀使に同行して高句麗に行き、関心を示した長寿王を籠絡して東晋への遣使に同行、ついに南朝中国に到着したのである。
 南朝東晋の記録は、「義煕九年、是歳、高句麗・倭国並びに方物を献ず」、「倭国貂の皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う」、というものであった。
 東晋の記録はこの両者の朝貢のニュアンスを伝えない。ただ朝貢があったとだけ記録する。高句麗使と倭使が一緒であったとも、異なる時であったとも言っていない。
 それでも偶然ではないと思われる示唆が、倭使の献じた高句麗の方物である。好奇心と冒険心で行動しているこの「たった一人の倭使」は、いったいどんな人物であったであろうか。推測する余地は皆無といっていいが、書紀に記録の残るこの時期の人物のなかから、絞りこんでみたい。
 西紀四一〇年代に活躍したであろう人物、久爾辛の送還にあたった武人である人物、いくつかヒントになりうる記事がある。
 たとえば腆支(直支)の時の送還使は、葛城襲津彦であった。書紀がそう記録するのではない。書紀はその名を書いていない。それでもこの西紀四〇五年条の腆支送還は、丁度四〇五年から四〇七年にかけての三年間、倭と半島との間を行き来していた葛城襲津彦の行状に合うのである。
 偶々、この世紀四〇五年に、新羅の人質未斯欣の逃亡もあったが、この追跡の将軍も襲津彦であったから、襲津彦が送還使であれば、この時期の半島関係は、葛城襲津彦が一手に引き受けていたことになる。
 西紀四一三年あたりでとくに半島にかかわった人物を捜してみよう。

豪族たちの活躍年代β

 神功紀から允恭紀までの書紀のなかで、紀(木)氏・木羅氏・上毛野氏の活躍年代を整理してみよう。  

 神功四九年(369)     斯摩宿禰 新羅・加羅征討
           (429)     木羅斤資 沙沙奴跪 荒田別 鹿我別 

 神功六二年(391)     襲津彦新羅
            (442)     木羅斤資 沙至比跪 

 応神(応神)三年      (百済阿花王立)
           (424)     宿禰 羽田矢代 石川 木莵
               
 応神(某王)一五年    王仁来朝
           (424)     荒田別 巫別
               
 応神(某王)一六年    襲津彦援助
           (425)     木莵 戸田
               

 仁徳(応神)一二年    高麗使
           (433)     的戸田
               
 仁徳(応神)一七年    新羅不朝
           (438)     的戸田、新羅問責
               
 仁徳(仲哀)四一年    百済酒君
           (434)     紀角
               
 仁徳(倭建)五三年    新羅不朝
           (434)     竹葉瀬 田道
               
 履中元年            即位                       
           (438)    木莵           

 ざっと四二〇年代中葉から、四三〇年代中葉である。
 ここに一運(六〇年)を降る神功紀四九年(四二九)の、木羅斤資・沙沙奴跪・荒田別・鹿我別が入る。一運を降らない(四六九)本来の登場人物は斯摩宿禰である。
 神功紀六二年の、木羅斤資・沙至比跪は四四〇年代に降るが、成務六二年(三九一)に仮託する、本来の登場人物は葛城襲津彦にほかならない。
 斯摩宿禰(武内宿禰)の活躍年代が、三六〇年代後半から始まり、その子葛城襲津彦のそれが、三九〇年代から四〇〇年代であるから、四二〇年代から四三〇・四四〇年代に活躍する木羅斤資以下、木角・平群木莵・荒田別・鹿我別・沙沙奴跪(沙至比跪)・的戸田・羽田矢代・曽我石川・竹葉瀬・田道は、すべて同世代で、葛城襲津彦の子の世代ということになる。
 武内宿禰後裔氏族といわれるこれらの氏族は、要するに武内宿禰の孫の世代にあたり、活躍年代は応神・仁徳の治世下と履中・反正・允恭の治世初期に該当する。
 四一〇年代は中途半端な年代であるが、どの世代に該当するであろうか。葛城襲津彦の時代であると思う。これは登場の時期が二〇歳前後とみることで了解できる。斯摩宿禰(武内宿禰)の初出が三六六年であれば、その後二〇年から三〇年、三六〇年代から三九〇年代にかけてが活躍の中心である。葛城襲津彦の登場は三九一年であるから、三九〇年代から三一〇年代から三二〇年代が主たる活躍年代である。
 紀角・木莵・木羅氏の活躍年代は、四二〇年代から、四四〇年代・四五〇年代までということになる。
 四一三年すなわち四一〇年代に活躍した武内宿禰の後裔は、誰であろうか。
 葛城襲津彦である。
 もう一人いる。甘美内宿禰である。
 甘美内は武内宿禰の弟と記録されるが、実は武内宿禰の子、襲津彦の弟であると思う。
 ちなみに武内宿禰は長命の人であった。書紀は、景行・成務・仲哀・神功・応神・仁徳の六王に仕え、三〇〇歳を全うしたといい、古事記も、成務・仲哀・応神・仁徳の四王に仕えたという。
 武内宿禰は成務紀三年に大臣となる時、「天皇、大臣と同日に生れませり」という記事がある。これは同年同日の意味にほかならないが、成務とでなく景行と同年同日生れであったとみられる。
 景行とともに気長氏の系統から出た武内宿禰は、たぶんその出自のかかわりがあって、景行の西征に随った。時に景行は男具那であったらしいから、一五、六歳であったであろう。
 景行紀(崇神)一二年、西紀三六三年である。
 武内宿禰が同年齢であると、この時おなじく一五、六歳。神功新羅征討の歳、西紀四〇〇年には、五二、三歳。応神即位年(四二二)には、七四、五歳。仁徳即位年(四三三)には八五、六歳ということになる。
 古代にあっては恐るべき長寿には違いないが、むろん非現実的な話ではない。
 さて時の半島への重要な任務は、余人でなく武内宿禰の一族の管掌するところであるなら、西紀四一三年に久爾辛送還使として百済にわたった倭人の候補は、武内宿禰の子の世代に絞られる。
 武内宿禰後裔氏族は、いまだ広く展開してはいず、葛城襲津彦と、その弟である甘美内宿禰の二人だけであった。
 ひるがえって、この倭使が王命すら差し置いて、自らの好奇心と冒険心を思うままに発揮しつつ大陸にまで遠征を試みたのだから、大和を産土としたものではない。韓子であろう。半島に育ったいわば混血児の国際的な視点が、この倭使の本来の身上ではなかったかと思う。
 葛城襲津彦は武内宿禰と加羅の女から生まれた。甘美内宿禰もまたその加羅の女あるいは別の類縁の女から生まれた。正嫡ではないが、襲津彦が武内宿禰の父方の権威(斯摩)を継承したとすれば、甘美内は同じくその母方のそれ(山城内)を継承したのである。古事記が「山代内臣の祖」と書く由縁である。
 義煕九年の倭使は、甘美内宿禰であろう。
 書紀は敦賀参拝に応神と武内宿禰の二人が同伴したと書く。ここにさらに久爾辛がいるとしたら、久爾辛と甘美内宿禰が同伴していたという文脈はいかにも考えやすい。
 単に想像ではないが、甘美内の子の一人がおそらく半島に土着した木羅斤資であった。いま一人の子が大和に居座った紀角宿禰、また平群木莵宿禰であった。
 甘美内宿禰の記事が極端に捨象された理由は、ひとえに木羅斤資とその事績を、葛城襲津彦のみならず斯摩宿禰・武内宿禰の時代まで、遡らせ、もって始祖の栄光を武内宿禰と同等までたかめることにあった。
 木羅斤資が、書紀・古事記に先立つ最古の史書、天皇記・国記等を編纂した曽我氏の直接の祖であったからである。
 ちなみに書紀がこの辺りのみならず、武内宿禰以来の半島との交渉を、具体的にでなく間接的・示唆的にしか書かなかった理由もここにある。
 曽我氏の像を巨大化するために、その祖たる武内宿禰の像すら矮小化してしまったのでる。その正嫡とみられる葛城氏の滅んでしまったことも、家伝として残るべき正当な史料の散逸してしまった理由であろう。雄略即位前紀年(四六二年)、雄略が葛城宗家円大臣を討ち滅ぼして、その屋敷を焼き払った時である。
 ちなみに木羅斤資の斤資は「こにしき」の意で、おそらく百済語でいう「国主」のことである。久爾辛もまた「こにしき」の転であろう。  百済第一九代王の久爾辛は「王」という名の王であった。産土の地大和でそう呼ばれていたのである。

倭王の五世紀β

 五世紀が倭王の時代というのは、むろん宋書に記述される「倭の五王」が客観的な存在として佇立するからである。比定しうる書紀・古事記の大王についても、武(雄略)・興(安康)・済(允恭)などは見解の一致をみている。珍(仁徳)と讃(応神)については異論があるが、筆者の思うところでは、すでに議論の余地はない。宋書が「讃死して弟珍立つ」とする記述も、正鵠をつくものであった。
 以下その点について述べていくが、いわゆる倭の五王の時代について、蛇足をひとつ加えておく必要がある。
 中国の正史のなかでも、同時代史料として価値の高い宋書がいう倭王という存在は、当然のことながら列島の全域を版図とする王を指す。厳密には版図でなく、列島のすみずみまで影響を与えつづける佇立した高政治文化ないし勢威をいうであろう。
 その意味では三世紀、魏志倭人伝が邪馬臺国の主宰者を倭王と呼んだのも同一の見解による。列島をくまなく洗っていく時の圧倒的な高政治文化の頂点にあったからにほかならない。
 このことが単なる修辞でないという点が、ともすれば見逃されやすい。書紀の文脈ではあきらかだが、これを客観的に補完する考古学的な遺跡がすくなく、ましてや干支をもつ金石文の類の出土が寡少である。
 ちなみに昭和四三年に発掘され、同五三年に保存処理の作業中に発見・解読された「稲荷山鉄剣」は、その寡少な出土例の特例のひとつである。製作者とみられる「乎獲居臣」が、「獲加多支鹵大王」を「斯鬼宮」で杖刀人として左治したという。記録する年は「辛亥年」、すなわち四七一年である。
 獲加多支鹵大王は大泊瀬稚武という雄略にほかならないから、出土地である埼玉県行田市さきたま古墳群に眠る乎獲居臣ならびに在地の豪族が、すなわち大和の勢威下にあったことは明らかである。あえて版図とは言わない。
 またこれにより、すでに明治六年に、熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土していた鉄刀の銘文も、あらためて「治天下獲加多支鹵大王」と読解でき、大和の権威がすくなくとも関東武蔵から九州肥後まで浸透していたことがわかる。
 奥羽がいまだ蝦夷の国であった時代に、関東から九州にいたる勢威はすなわち列島の全域に等しいから、雄略の時代の倭王は文字通りの倭王であった。
 この点についてはなお補足が必要であろう。多くの議論は大和の列島支配をいまだはるか後世におく。その理由は中央集権的あるいは封建的な支配が、この時代にはまだなかったという見解にもとづく。つまり統一国家にほど遠いという指摘なのである。
 しかし本質は統一国家である必要は少しもない。国家が国家として佇立するためには、行政的な一元化が不可欠なのではなく、文化的・経済的求心力があって、かつその円心のなかにこれに代りうる別の焦点がないことで十分である。それが名実ともに成立するために、さらに一つ国際的な認知が必要であった。
 大和が倭国そのものとなったのは、七世紀のことではない。六世紀でも五世紀でもない。四世紀後葉、大和と半島の新羅・百済との交流が始った時、すでに大和が倭国であった。これに先立って東国と西国に派遣した軍兵は、むろんそれらの地在の領土を制覇はしなかった。それでも他者が抗しきれない大和の高政治文化は、おしなべて認識されたのである。征討というのはかならずしも相手を撃破るべきことを意味しない。
 ちなみに大和の王権が、筑紫の王権と対峙していたとみられるぎりぎりの状況は、崇神の時代であった。四世紀中葉、都怒我阿羅斯等が「穴門に到る時、其の国に人有り。名は伊都都比古、謂りて曰はく『吾は是の国の王なり。吾を除きて復二の王無き』といふ」と語る。王権は国家に唯一のものであるという観念がここにはある。
 大和の朝廷はその創始の時からこの観念をもっていた。おそらく正統的な王権の由来に対する信念があった。そしてその王権は姻族と一系の思想をもともなっていた。崇神朝からの継続的な膨張は、そうした原動力のほとばしりにほかならない。
 ひるがえって雄略の時代にすでに列島にくまなく浸透していた大和の王権は、名目的には先の四世紀後葉、実質的には四世紀末葉には確立していたと思う。仲哀による儺の県の制覇、すなわち九州の伝統的勢威を伐ち、そのまま新羅へ攻入った勢いこそ、倭国王たる存在を天下に認知せしめることであった。
 五世紀前葉から起こる、応神や仁徳の巨大な前方後円墳の発生は、倭国王たることの立場の、いわば余剰のエネルギーの発散といえるであろう。
 いくども述べるが、朝廷にとって直接版図は必要ではなかった。もともと大王氏が自らまた王族として宰領する土地すら、豪族のそれに劣っていた。各大王が置いた屯倉や名代は各地に点在するが、決して大規模のものではない。君臨するのはすべての天下の宗主権であって、この宗主権を奉ずるとくに近畿の豪族たちの連合体が、国家を経営をするのである。
 近畿を外れる辺境の豪族も、もとより朝廷に租税の類を納め、軍兵を差だすというものではない。それは七西紀の中央集権思想によるものである。恒常的な産物の提供(調)と国人の舎人としての就労を行うばかりである。
 これは半島における「附庸」という概念にちかい。かって新羅(金氏)は百済に附庸していたが、百済を伐って加羅に附庸したという。この実際的な意味は、百済がその宗主国を百済から加羅に代えたということである。宗主国に対する基本的な行為が「調」にほかならない。
 大和の王権は、対峙することがあった筑紫の勢力を取込むことによって、列島唯一の王権となった。同時に半島との交渉窓口を一本化することによって、国家の体をなした。
 これが王化と化外という言葉の真の意味である。
 六世紀の継体の時代に筑紫君磐井が騒いだ時、それはいまだまつろわぬ化外の族が立上がったのではない。王化の下にあった豪族が大和の政策の変更で、自己の利益が損なわれたという経緯から行動を起したのである。発端は新羅が磐井を誘い、近江毛野の兵を襲わせ半島から大和へ貢ぐものを略奪させたという。
 ちなみに筑紫君磐井は、使者に立った近江毛野に、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき」と語っている。これは磐井が若き頃、舎人として朝廷に仕えた経緯をいう。むろん調も贈っていたのである。大和の宗主を認めかつ列島唯一の王権を奉じていたのである。大和と対峙する独立国家などではない、筑紫八女の一豪族なのである。
 磐井に新羅との連携や、朝貢船の略奪という挿話が記録されるのをみると、大和との不和の発端は、半島との交易上の衝突とみるべきであろう。調と舎人、この二つの義務からすれば、本来外国貿易は大和の黙認するところであったと思う。たとえばそこで交易についても現実的な宗主権を、大和が突然主張するとすれば、早晩衝突がおこるであろう。新羅との独自の交易をとくに嫌ったかもしれない。
 五世紀の大和の王権は、かくして宋書が確信をもって記述するように、まぎれもなく列島唯一の王権を保持する倭王であった。四世紀末葉以来その王化の版図は、列島のすみずみまでくまなく覆っていた。

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